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2019年11月15日 (金)

□字ック「掬う」シアタートラム

<2019年11月14日(木)夜>

父親が入院しており、ライターの娘が夫と離れて実家に泊まりこんで病院に通っている。母親はすでに離婚して家にはいないが、回復を祈願する母の奇行に巻込まれた兄夫婦はうんざりしている。叔母は介護に奮闘しているが、その娘の従妹はアイドルのコンサートのチケットが取れないことを気に病んでいる。みんな病院から引上げてはこの家に来て介護の愚痴をこぼす。そんなある日、父の知合いだという女子高生と高校時代の友人が転がり込んでくる。

劇団初見。声や音響にこだわりがありそうな印象だが、ちょっと疲れた状態で観に行ってしまったのでそれが裏目に。騒がしい場面のテンションの高さや場面転換中の音響が身体に堪える。そんな中でもこのテンションなら観られるという線を維持していたのは叔母役の千葉雅子や兄嫁役の馬渕英里何。

唐突にやってきた女子高生や友人を泊めてしまうところは演劇的な展開として受入れるとしても、家族の話といいつつ主人公の話からあまり飛ばないところが残念だし、その主人公を含めて登場人物の生活感が希薄。主人公からしてライター(小説家だったか?)の仕事をしている気配がない。何より登場人物の感情の描き方がしつこい。深いのでもなく濃いのでもなく、くどい。シアタートラムでこの値段を取るからには、より的確な台詞と適切な情報の出し方で磨き上げられた脚本を望む。

松竹製作「連獅子」「市松小僧の女」歌舞伎座

<2019年11月13日(水)夜>

長い毛を振る有名なアレ「連獅子」。母の死をきっかけに剣術修行にのめりこみ男の風体でごろつきもあしらう裕福な商家の娘が、後妻の娘との跡継ぎ問題に嫌気がさして乳母を頼って家出した先で見かけた乱暴者「市松小僧の女」。

「連獅子」は有名だけど初見。霊山を舞台に、獅子は子を千尋の谷に突き落とす、というのを模した踊りらしい。その突き落とした後に、霊山の頂上を目指す修行僧の軽いコメディが挟まって、獅子の精になった親子が舞って長い毛を振る、と調べると一応舞台設定があった。幸四郎と染五郎を目当てにきた客の、萬太郎と亀鶴演じる修行僧が出てきたときの誰だお前感がすごかった。自分もそうだった。毛振りを観るのが目当てだからしょうがない。でもそこからちゃんと笑いを取って馴染んでいた。最後は遠めにも綺麗な毛を激しく振ったのが観られて満足。染五郎が赤で幸四郎が白。踊りは染五郎も上手だったと思うけど、並んで踊ると幸四郎の動作に余裕と安定があるのがわかって、勉強になる。

「市松小僧の女」は池波正太郎脚本ということで見物。それにしては展開がぶつ切りで滑らかでなく、起承転結というより起転転転という印象。物語よりは役者へのあて書きがメインだったか。その目で観れば役に似合う役者が演じていた。ただ、道場の兄弟子である同心は、このぶつ切りな脚本の中でも前振りも少なく短い時間で振舞いが変わる役で、演じていた芝翫も苦しんだか、若干浮いていた。

2019年11月11日 (月)

KAAT神奈川芸術劇場プロデュース「ドクター・ホフマンのサナトリウム」神奈川芸術劇場ホール

<2019年11月10日(土)夜>

軍に入隊した婚約者と列車で旅行中の女性はうたた寝で見た夢の内容を話しているが、途中駅で止まって食事を買いに降りた婚約者を残して列車が出発してしまい、周囲の乗客が自分の見た夢の続きを話し出す・・・という出だしで始まるカフカの未発表遺稿を見つけた男。祖母はなくなった人形のことを慰めるためにカフカから手紙をもらっていたという。借金で首が回らない男は出版社と交渉しているが、道に迷って遅刻する。なぜか道に迷いやすくなってしまったらしい。

カフカは試しに手にとっても受付けないので全然読んだことがない。なので「カフカズ・ディック」とか「世田谷カフカ」とか、KERAの芝居で観た印象しかない。という前提で、訳のわからないことが起きてはそのまま話が進む、カフカっぽい芝居。大雑把には、渡辺いっけいと大倉孝二がメインの未発表遺稿発見からの話と、多部未華子がメインの遺稿内の話とに分かれて、どちらも不条理な展開が満載。比べると遺稿内の話のほうがより不気味で、それはラスト場面でより鮮明となる。

役者は誰を見ても外れなし。多部未華子もよかったけど、誇張してやっているはずなのに普通に見える渡辺いっけいの演技の謎。そして他の誰よりも格が違うと思わせた麻美れいは、「」のときよりさらに思いっきり上下に広い年齢の役をこなして、しかも奥様役の貫禄の圧巻。スタッフワークはもう素晴らしいの一言で、役者がまずいと逆に損するくらいだけど、役者もきっちりそろえてスタッフワークと相乗効果を出せる役者ばかり。

観てそれなりに面白かった。ただ長い。いろいろ不気味さが加速していく後半と比べて前半は間延びした感あり。前半といっても2時間弱とほぼ1本の芝居の長さで、それでまだ前振り段階の感触だったらそれは間延びも感じる。あとラスト。最近のKERAのインタビューや作風からはわからないでもないけど、あのPAはメッセージが強すぎて、この展開には入れてほしくなかった。

あと製作陣の問題ではないけど、この劇場はなんかスカスカして密度が高まりにくい。改装前の東京芸術劇場中劇場(現プレイハウス)を思い出させる。舞台と客席の距離はそんなに遠くないはずだけど、天井が高すぎるのか、客席の椅子が広すぎるのか、舞台のプロセニアムアーチがなくて上が広すぎるのか。

2019年11月 8日 (金)

北村明子の直球インタビュー

北村明子といえばこんな人ですが、林真理子が北村明子にインタビューしたAERA dot.の記事を見つけました。この分量に読みどころが詰まっているのがすごいので、前半と後半の見所をご紹介。まずは前半。

林:たとえば吉田鋼太郎さんみたいに、シェイクスピアの舞台をやっていた方がNHKの朝ドラに出てすごい人気者になりましたけど、ああいうコースもできあがっていて、それと同時に、映像育ちの人気者も舞台をやりたがりますよね。

北村:それは甘いんですけどね。もちろん映像育ちでうまい人もいますけど、映像で「うまい」って言われるのは編集の美学なんですよ。だってネコでも私たちを泣かすでしょ(笑)。ネコはただ「ニャン」と鳴いてるだけなのに、編集すれば「あー、可哀想に」って思うでしょ。極端に言えば、ものすごくヘタクソな役者でも、編集でうまく見せることができるんです。でも、舞台の上に立たされて「何かやれ」と言われたら、歩くこともできないでしょう。

林:できないと思います。

北村:それが舞台なんですよ。映像ですごい人気者になったから「舞台で主役でお願いします」みたいなことを言われても、「ちょっとカンベンして」って話よね。時間をかけて、ノーギャラででもやるという意欲を持って舞台に入ってくる若い子がいたら素晴らしいんだけど、そうじゃない。映像で人気者になって、「僕も舞台をやりたい」って事務所に言って、マネジャーが売り込みに来るところたくさんありますけど、私は主役じゃ使いたくないから、「一から始めるんだから、このへんの役でもいいですか?」って言うんです。「いや、それはちょっと」と言って出ない人が多いですよ。舞台をやったこともないし、実力もないのに、なんで主役にしなきゃならないんですか。

次は後半。

北村:つまんないときは、私は寝ないで出ますね。途中で。

林:北村さんが途中で出ていったらコワ~い(笑)。

北村:前にうちの高橋克実の劇団の公演を見に行って、それが桟敷席なんですよ。でも、あまりにもおもしろくないから、15分ぐらいたって、まだ克実は出てないのに席を立ったんです。そしたら「おまえのところの社長、帰ったぞ。おまえが出る前に」って劇団員がソデで大騒ぎしてたらしい(笑)。

林:そりゃあショックだったと思いますよ。

北村:でも、見るのが耐えられない。出たほうが正直でしょ?

キレッキレですね。なお嬉しい情報を見つけたので最後にこれもご紹介。

北村:そんなことないですよ。来年の春にチェーホフの最後の作品「桜の園」をやるんですけど、杉咲花ちゃんに初舞台で出てもらうんです。もちろん主役じゃないですよ。事務所の人が「杉咲を舞台デビューさせたいので、何かありましたら」って来たんです。彼女うまいから、このへんだったらできると思って「この役どうですか」って言ったら、「ぜんぜん大丈夫です」って。それを言えるマネジャーは偉いんですよ。

これはKERAとのチェーホフ四大悲劇企画の最後の1本ですね。期待しています。

ちなみに写真ではおっとり見えますが、シス・カンパニーの公演で劇場で見かけたときはもっと現役バリバリな印象を受けました。いやバリバリってこともないんですが、背筋の伸びが違う。物理的に。人があふれるロビーでも見た瞬間に、あ、この人がこの場所の責任者だ、とわかります。シス・カンパニーの公演を観に行く人はロビーできょろきょろしてみてください。

2019年11月 7日 (木)

キャスティングが大変な世界の演劇事情

主役の渡辺直美を全面に出して宣伝が始まったミュージカルの「ヘアスプレー」ですが、脚本家のメッセージがなかなか考えさせられます。

観客の皆様へ

 『ヘアスプレー』のクリエイターである私たちが、高校やコミュニティシアターにこの作品の上演許可を出すようになったころ、黒人である登場人物をアフリカ系アメリカ人以外が演じるためメイクアップを行うことをめぐり、一部の人から質問を受けました。

 世界中のすべてのコミュニティが『ヘアスプレー』の脚本通りにキャスティングができるような、見事にバランスのとれた民族構成にはなっていない(駄洒落で失礼します)ことは理解していますが、当然ながら出演者の顔に色を塗ることなど(たとえそれが敬意をもって、控えめに行われるものだとしても)許可できませんでした。というのも、やはりそれは結局のところブラックフェイス(黒塗りメイク)の一種であり、いうまでもなく本作品が反対の立場を取っている、アメリカの人種にまつわる歴史の一ページだからです。

 また、肌の色を理由として、俳優がある役を演じる機会を否定することは、たとえそれが “ポリティカリーコレクト(政治的に公平・公正)”であるとしても、それ自体が人種差別になることにも気づきました。

 ですから、本日(注1)ご覧になる『ヘアスプレー』の公演に(エドナ役を代々、男性が演じてきたように)本人の肌の色とは異なる役を演じている出演者がいるとしても、 “不信の一時的停止”(注2)という、いつの世も変わらぬ演劇的概念にのっとり、出演者の人種的な背景(あるいはジェンダー)を見るのではなくストーリーを味わっていただきたいと考えています。そもそもこのミュージカルのテーマは、物事を外見では判断しないことなのですから! 演出やキャストが優れていれば(そうであることを期待しています!)、そういったメッセージは明確に伝わるでしょう。そして観客の皆様には、楽しみながらそのメッセージを受け取っていただけましたら幸いです。

 感謝をこめて。

マーク、スコット、マーク、トム&ジョン

*注1:本メッセージは観劇当日に読んでいただく事を想定して書かれています。
*注2:小説や演劇等における虚構の世界を真実として受け入れること。

野木萌葱が芝居の当日パンフに「赤毛芝居」が好きだ、とを書いていました。昔、西洋の芝居が日本に入ってきたばかりのころに、カツラや付け鼻をつけて西洋の役を演じた芝居のことです。爾来100年以上、それを疑うような芝居がついに日本の商業演劇でも上演されるようになりました。

なお人種ではなく格差に関する似たような似ていないような話はこちら

2019年11月 2日 (土)

世田谷パブリックシアター/エッチビイ企画制作「終わりのない」世田谷パブリックシアター

<2019年11月1日(金)夜>

中学生時代の「事件」から立直れず高校受験に失敗して以来、引きこもりになってしまっている悠理。両親と幼馴染と一緒に湖近くのキャンプに来たが、全員から立て続けに今後の進路を知らされて、気晴らしに湖で泳いだところを溺れてしまった、はずなのだが、目が覚めた場所はまったく見知らぬ場所だった。

オデュッセイアを原典にしたSFと言われて読んだこともないのに身構えていたけれど、終わってみればびっくりするほど直球のメッセージ。まったく見知らぬ場所に飛ばされる以上のイベントがあまりなくて、展開に緩急強弱が少なく、物語が淡々と進む。あと一応前振りはあったけど、飛ばされる設定の説明が後半に、しかも解説調で来てしまったので、若干言い訳がましく聞こえる。それで最後にメッセージが直球で来てしまうので、個人的には厳しかった。このくらい直球でないと今時は駄目なんだろうか。カーテンコールの拍手は刺さった人2に役者のファンで拍手している人3に戸惑った人5くらいの感触。

そこを役者でカバーするかというと、イキウメメンバーは抑え目、特に安井順平のくすぐりを封印して臨み、出ずっぱりの主役とその相手役に舞台経験の少ない若手を当てて、仲村トオルもバイプレーヤーになるという挑戦だらけのキャスティング。結果は村岡希美が孤軍奮闘の感。これがシアタートラムだったらまた印象は違っていたはずだけど、世田谷パブリックシアターの規模ではちょっと届いていないところが目立つ。スタッフワークが、とくに美術、照明、音響がよかっただけに、落差が目立つ。せめて演出でテンポだけでも上げられなかったか。

2019年10月31日 (木)

ジョーク集を添削する別役実

デイリーポータルZという老舗ネタサイトの中でも更新されていたらつい見てしまうのはべつやくれいの記事だけど、別役実の娘だと知ったのは内田洋一による「風の評伝」という別役実評伝を読んだから。別役実が満州生まれなのも驚いたけど、よく考えたらまだ今ならぎりぎりそういう人がいる時代なのですよね。この本の中にべつやくれいもちらりと登場するけど、面白い。

その観察眼は「父はたぶん自分のこと、天災だと思ってるよね」と言わしめる。五十歳になったとき「まだ死なないなあ」とすごく残念そうだったのは、天災なら早死にするはずだという気持ちがあったからではないか。家の中では、いつも上の空、クロスワードパズルかなにかをしている。資料のたぐいはあまり買わず、推理小説のようなものばかり読んでいる。家のなかでは面倒くさくない父親なのに、頭のなかでは面倒くさいことばかり考えている・・・。

そのあとに続く「ネット上のサイトでイラストやエッセイを発表している」というのがデイリーポータルZと思われますが、そこに最近掲載されたのが「引っ越しと両親の話」。引っ越しで別役実が取っておきたかった蔵書が売られてしまって、買戻せるものは慌てて買戻した顛末が載っています。そこにジョーク集が混ざっている。

「あのジョーク集はさ、添削してあるんだ」
知っている。父は載っているジョークに赤ペンで添削していたのだ。
大きく書き換えられているものもあれば、「この修正いる?」って思うくらい細かい部分の添削もあった。子どものころは疑問に思ってなかったが、物心ついてからは自分の本じゃないのになんで添削してるの・・・、と思っていた。

「だから、よりおもしろいんだ」
完全にいいことをしたと思ってる発言だった。
父はこういう、常識と違う世界に生きているときがある。

たとえそのジョーク集がより面白くなっていたとしても、古本屋で売るものとしては迷惑だと思うので引き取れてよかった。

たしかに、よいと思った文章を写して勉強をするのは思いつくけど、添削するというのは思いつかない。そこに写真で載っている実例が「銃殺」というジョーク。添削前はこう。

土砂降りのなかを、イアネインとシェイマスは捕らえた地主を銃殺しようと連れだした。
「こんな日に銃殺するなんて、ひどいとは思わんか」と犠牲者は泣き声をあげた。
「おれたちの身にもなってみろ」とシェイマスは憤然と怒鳴った。
「お前は、この土砂降りのなかを帰っていく必要はないんだからいいさ」

これが添削されると最後の台詞がこうなる。

土砂降りのなかを、イアネインとシェイマスは捕らえた地主を銃殺しようと連れだした。
「こんな日に銃殺するなんて、ひどいとは思わんか」と犠牲者は泣き声をあげた。
「おれたちの身にもなってみろ」とシェイマスは憤然と怒鳴った。
「お前はともかく、おれたちはこの土砂降りのなかをもう一度帰ってこなければいけないんだからな」

読むより演じられたほうが面白いジョークだけど、それはさておき添削後のほうが、視点も口調も統一されて笑いどころがつかみやすい。「完全にいいことをしたと思ってる発言」と言っているけど、想像するに、ちょっと手を入れれば面白くなる文章を直さずにはいられなかったのではないか。

そして「風の評伝」はKERAを別役実の継承者とも書いている。「ちょっと、まってください」は別役実の芝居を多分に取り入れた芝居だったそうな。観る人が観るとわかるようなのだけど、私は観てもわからなかった。なぜわからなかったかというと、一度も別役実芝居を観たことがないから。

だから一度くらい別役実を観なければと、先日の「この道はいつか来た道」を候補に入れていたのに、台風で飛んでしまった(正確には、観に行くチャンスはあったけど野田地図を優先させた、です)。あちこちで上演されているけど、うかつな座組で観ると悪い印象を持ちそうで観るチャンスをひそかにうかがって、長年経つ。難しい。観られるのはいつになることやら。

それにしても、べつやくれいの記事は文章も手書きで、この文字が非常に見やすく親しみやすい。私にとっては近藤聡乃と並ぶ二大「フォント希望」作家です。

2019年10月20日 (日)

いろいろ小さくて目立たないフェスティバル/トーキョー19のパンフレット

芝居を観にいったら配っているチラシ束は持ち帰るようにしていますけど、その中にフェスティバル/トーキョー19のパンフレットがありました。冊子というほうが正しいでしょうか、ちょっと呼び方は分かりませんが、A5サイズで、表紙裏表紙を除いて38ページで、演目の紹介や地図やカレンダーなどを、ほぼすべてに英語情報も併記して載せています。

これを見つけたときに2つ疑問が湧きました。ひとつは、この大きさで宣伝になるのかということ。以前のフェスティバル/トーキョーは、折ってA4のものを配り、拡げるとA2かそれ以上、という一枚の紙でチラシを作って、表紙には大きくF/T XXと書いていたと記憶しています。東京の演劇のチラシは、今はほとんどがA4です。たまにA6のチラシとかファンクラブ向けに送付した公演案内ハガキとか、小さいものを折りこむ劇団があるのですが、A4全盛期にあれは負けているなと思っています。B5がせいぜいで、そこにA5が混ざるのは、冊子だとしても弱い。宣伝には損ではないかと思います。

そして大きさにも絡むのですがもうひとつ、非常に小さいサイズのフォントで印刷されています。中身は英語も併記する都合でフォントサイズが小さくなるのはわかるのですが、表紙もそれに合せて、上品なデザインと上品なフォントを使っています。上品過ぎてぱっと見て何の宣伝だかわかりません。

おそらくこのデザインを提案、採用した人は、宣伝ではなく、フェスティバルを観る当日に持ち歩くことを想定したのだと推測します。それであればこの大きさはハンドバッグにも入るし、ジャケットのボケットに折って入れてもそこまで膨らみが目立たない、ちょうどいい大きさになります。この大きさにしたくなる気持ちは私にもわかって、芝居に行くときにチラシをできるだけ折らないで持ち帰りたいため、かばんのサイズがA4以上になってしまうのをいつも残念に思っています。

ただ、宣伝するという目的から考えると、この大きさこのデザインはあまり有効ではないように思います。ひょっとしたら過去数年の企画でアンケートした結果、観に来る人はチラシの宣伝に関係なく観に来るという結果が出ていて、最初から宣伝の意図が薄かったのかもしれません。

理由が何であれ、宣伝チラシとして折りこむなら表紙だけでももう少し目を引くデザインにしたほうがよかったと思います。

2019年11月12月のメモ

毎年恒例の年末ラッシュなので、どのくらい入るか見るためにいつもより早めにわかるところから掲載します。なお松竹、国立劇場の両歌舞伎と神奈川芸術劇場がぎりぎりを越えて崖から飛ぶ勢いで攻めています。

・松竹製作「連獅子」2019/11/01-11/25@歌舞伎座:幸四郎と染五郎で踊るらしいのでここで観ておきたい

・国立劇場主催「孤高勇士嬢景清」2019/11/02-11/25@国立劇場大劇場:日向嶋に他の芝居も加えて通しに直したものを吉右衛門主演で

・KAAT神奈川芸術劇場プロデュース「ドクター・ホフマンのサナトリウム」2019/11/07-11/24@神奈川芸術劇場ホール:KERAの新作はこれひょっとしたら桜の園をやるつもりだったんじゃないのかというくらいのメンバーで

・□字ック「掬う」2019/11/09-11/17@シアタートラム:10周年らしいので一度くらい観られるとよい

・ホリプロ主催「カリギュラ」2019/11/09-11/24@新国立劇場中劇場:栗山民也演出菅田将暉主演

・新国立劇場主催「あの出来事」2019/11/13-11/26@新国立劇場小劇場:銃乱射事件を元にした2人芝居を瀬戸山美咲演出で

・鳥公園「終わりにする、一人と一人が丘」2019/11/21-11/24@東京芸術劇場シアターイースト:西尾佳織の脚本演出最終公演らしいから観たいけど、入るかな

・KAAT神奈川芸術劇場/KUNIO共同製作「グリークス」2019/11/21-11/30@神奈川芸術劇場大スタジオ:毎日1部から3部まで上演するマラソン上演だけど休演日注意

・小松台東「ツマガリク~ン」2019/11/28-12/08@三鷹市芸術文化センター星のホール:一度くらい観たいと思ってもなかなか遠い

・有限会社quinada企画製作「inseparable 変半身」2019/11/29-12/11@シアターイースト:村田沙耶香の原案を松井周が脚本演出務めるという企画

・二兎社「私たちは何も知らない」2019/11/29-12/22@東京芸術劇場シアターウエスト:最近観られていない二兎社

・新国立劇場主催「タージマハルの衛兵」2019/12/02-12/23@新国立劇場小劇場(2019/12/02-12/03プレビュー):小川絵梨子演出で成河と亀田佳明の2人芝居

・Bunkamura/大人計画企画製作「キレイ」2019/12/04-12/29@Bunkamuraシアターコクーン:意地でも観ないといけない4演目

・悪い芝居「ミー・アット・ザ・ズー」2019/12/04-12/08@シアタートラム:最近上演機会が多い悪い芝居も観るならここかと思うけど入るか

・国立劇場主催「近江源氏先陣館」2019/12/04-12/26@国立劇場大劇場:盛綱陣屋を白鸚で通し上演

・国立劇場主催「蝙蝠の安さん」」2019/12/06、12/13、12/20、12/24、12/25@国立劇場大劇場:チャップリンの「街の灯」を歌舞伎にしたものを幸四郎主演で昭和初期の初演以来となる上演

・松竹製作「風の谷のナウシカ」2019/12/06-12/25@新橋演舞場:菊之助ナウシカで昼夜使っての通し公演なので時間とチケット代に注意

・KAAT神奈川芸術劇場プロデュース「常陸坊海尊」2019/12/07-12/22@神奈川芸術劇場ホール:秋元松代の脚本を長塚圭史演出で白石加代子を迎えて

・青☆組「Butterflies in my stomach」2019/12/08-12/17@アトリエ春風舎:観られていない組のひとつだけど遠い

・DULL-COLORED POP「マクベス」2019/12/12-12/22@神奈川芸術劇場大スタジオ:福島芝居3部作から一転、まさかのシェイクスピア

・月刊「根本宗子」「今、出来る、精一杯」2019/12/13-12/19@新国立劇場中劇場:自作を音楽劇で再演、まではいいけど、まさかの新国立劇場でしかも中劇場

・テレビ朝日/インプレッション製作「正しいオトナたち」2019/12/13-12/24@東京グローブ座:ヤスミナ・レザが流行っているのか、上村聡史演出で芸達者な4人の芝居

・イマシバシノアヤウサ「モジョ ミキボー」2019/12/14-12/21@シアタートラム:鵜山仁演出に浅野雅博と石橋徹郎の2人芝居企画で、これは3演目

・フジテレビジョン/サンケイホールブリーゼ/パルコ主催「志の輔らくご」2019/12/19-12/22@東京建物BrilliaHALL:こけら落としだそうです

・ルックアップ企画製作「虹のかけら」2019/12/19-12/25@スパイラルホール:三谷幸喜による戸田恵子一人芝居の2回目の再演

他に新国立劇場のギャラリー・プロジェクトは照明家編が11/15(金)19:00で平日。繰越が、世田谷パブリックシアター/エッチビイ企画制作「終わりのない」2019/10/29-11/17@世田谷パブリックシアター、吉本興業主催「ハケンアニメ!」2019/10/31-11/14@紀伊國屋ホール、松竹製作「新版オグリ」2019/10/06-11/25@新橋演舞場の3本。

最初に挙げたものだけでもどうみても入りきりません。悩ましい。

<2019年10月31日(木)追記>

2本追加。

2019年10月19日 (土)

芸術の鑑賞ルールなんて教わったことがない

あいちトリエンナーレ「表現の不自由展、その後」のその後、以前のエントリーの続きのような話です。

愛知県で検証委員会の資料が公開されたのを読んで(動画は観ていません)非常に勉強になったのだけど、1ヶ月経っても考えがまとまりません。ちなみに第2回の会議に掲載されている資料はどれも非常に勉強になるので興味のある人は読んでみるとよいです。お金の話も載っています。

たとえば太下義之「トリエンナーレ(アート・プロジェクト)におけるアームズ・レングスの原則について」なんかを読むと、アーツカウンシルとアームズレングスの話、私も昔いろいろ書いて結局消化不良でしたけど、結局

いわゆる「政府はお金を出しても口は出さない」という考え方のこと。

だそうです。専門家はわかりやすいですね。

で、トリエンナーレの話です。検証委員会の資料を読む限りでは、展示側はあれだけ体制が整っていてなぜそんなイレギュラーな契約、スケジュールで展示を決めたのか。キュレーターチームからパネルでと提案されても強行して、結局はキュレーターチームとは独自の責任でやるものと切り分けになった。他の展示とは異色かつ爆弾な展示の提案がボスの芸術監督から出てきて、キュレーターチーム側としては切り分けまでが精一杯のところだったのだろうとサラリーマンの私は想像する。その後で知事に上がったら知事も止めてくれと提案したけど芸術監督(と契約先)が強行な態度で、それで止めたら本当に検閲になりかねないから対策しかできなかったんだろうと推測する。もし私がこの件を芝居にするなら一番翻弄されたであろうキュレーターチームの誰かを主役に選びたい。

最大限好意的に解釈すれば、展示だけでなく展示プロセス自体でも問われるのが表現の不自由だった、と言えなくもないけど、芸術監督に偏見を持っている私の感想は、芸術監督は炎上を商売に変える錬金術師ではあっても、炎上させないようにする守護神ではなかったのだろうな、炎上を商売に変えるのに不適切な場所で同じ事をやったら大火事になったのは必然だったんだろうな、となる。

そこから政府の交付金停止(一応体裁は文化庁による停止)まで派生して、最初は政府がなんでこんな悪手を取るかと思ったけど、その後の世論調査で交付金停止賛成が反対を上回って、なんと世論の機を見るに敏だとびっくりしました。どこまで正確に世論を読めたと確信があったのかまではわかりませんが。この件は、県知事はぜひ訴えて、アームズレングスの原則確立に尽力してほしいです。政治家が確立するってのも妙ですが。

そこまでは展示側の話。それとは別に観客側の話があります。検証委員会の資料が端的にまとまっていて、たとえば岩渕潤子「表現の自由に関して世界で起きていること」を読むといろいろな事例が載っており、

国際芸術展、美術館など文化施設において、出展作品の解釈を巡って作家やキュレー
ターと来場者(政治家を含む)の意見が対立することは、特に表現の自由が保証されてい
る先進的民主国家においては、珍しくない。

ということが説明されています。この観客側の話、それはそうなんだけど、もっと個人レベル、基本レベルの話が知りたいと思ったら、「『あいトリ』騒動は『芸術は自由に見ていい』教育の末路かもしれない」という文章が出てきました。まずはここ。

私の専門とする芸術哲学の分野では、「解釈に正解はない」とか「解釈は自由」といった考え方は、実のところ必ずしもすべての論者が同意するものではないのだが、本稿ではその問題にはふみこまない。私が本稿でまず指摘したいのは、たとえ「解釈に正解はない」とか「解釈は自由」などと言えるとしても、だからといって「あなたの見方が常に正解」ということにはならない、という点だ。

たしかに芸術の分野には、多様な解釈を許容する風潮がある。芸術作品とは、科学論文や事故報告書などとは違って、様々な仕方で「読み解かれる」ものだ。いったん公開された作品は、作者の手を離れ、世間の中で「読み解き」の対象となる。作者側は「どう見られるかわからない」という思いで作品を手放すのだ。

しかしだからといって、作品解釈が「何でもあり」になるわけではない。解釈には、作品全体を整合的に読み解けるものであるべきだ、とか、より良い作品理解を目指すものであるべきだ、といった基本的なルールがある。作品の一部だけを取り出して自分勝手な妄想を繰り広げても、それは恣意的な解釈にしかならない。

今回のトリエンナーレをめぐる騒動では、政治信条に引っ張られた恣意的な解釈、表面的な解釈が多数見られた。《気合100連発》に対するいくつかの批判は、その典型例といえる。以下、不適切な解釈のパターンをいくつか見てみよう。

A)部分しか見ない。
(中略)
B)制作背景を考えない。
(中略)
C)作品の狙いを考えない。
(後略)

恣意的な解釈がよくないのはそうだけど、「解釈には、作品全体を整合的に読み解けるものであるべきだ、とか、より良い作品理解を目指すものであるべきだ、といった基本的なルール」は、暗黙の了解なのか、それとも芸術系の学校では必ず教えるような常識なのか、どちらなんでしょう。私は学校でそのような鑑賞ルールを教わったことがありません。これだけの量の芝居を観てきた今なら、そういう鑑賞ルールのほうが幸せかな、と想像できますけど、同じ事を学生時代に言われてもたぶん理解できませんでした。

だから長いけど以下の部分を引用します。

とはいえ、ここで私が言いたいのは、作者の意図どおりに作品を読まねばならない、ということではない。芸術の領域では作者の意図を超えて作品を見る「解釈の自由」が、ある程度容認されている。

「お前が何を思いながら作っていようが知ったことか」「私はお前が思いつきもしなかった評価軸を勝手に当てはめ、好きなように称賛・批判するのだ」。芸術の場では、こうした暴力的な失礼さがある程度認められているのである。これはある意味で驚くべきことだ。芸術以外の場でこのような「失礼さ」がまかり通っているところはほとんどない(あるとしても、たいていは「芸術的」な見方が受け継がれている領域だ)。

だがこの失礼さの容認も、出し手と読み手、お互いの敬意の上に成立するものだということを忘れてはならない。自由に意味を読み込む、とか、作者本人には思いもよらない解釈を持ち込む、といったやり口が許されるのは、あくまでそのベースに相互理解と尊重があるからだ。

この枠から外れる、リスペクトを欠いた解釈は、悪意ある解釈にしかならない。作品や作者に最低限の敬意も払わない者は、「自由な解釈ゲーム」を始めるためのスタートラインに立てていないのである。悪意ある表面的な解釈は、たんに間違っているだけでなく、言葉どおりの意味での「失礼な」解釈として批判されねばならない。

だが今回の騒動では、悪意ある解釈をあえて採用する人たちが一定の割合でいる、という事実が明らかになった。これはつまり、芸術作品をもはや芸術の枠内で見ない人達がそれなりにいる、ということだ。

今回、作品を恣意的に読んで政治的な主張につなげた人たちは、一方では「成果物を作り手から切り離して読み解く」というふるまい(これは非常に近代芸術的と言える)をしつつ、その一方で「芸術業界の小難しいルールなんて知るか!」と文句を言い、さらに気に入らないところがあると、いったんは視界から消したはずの作者や展示者を呼び戻して攻撃している。

これは一見複雑な立場だ。ある面では、「文脈から切り離された対象を自由に読み解きましょう」という極端な芸術観を採用しているだけのようにも見えるが、その一方で、より良い解釈を目指すとか、より良い鑑賞経験を目指すといった、芸術文化を支える態度はほとんど見られない。こうした態度にはおそらく「わがままな消費者」という理解が一番ぴったりくる。だからこそ、気にくわない作品を見たときに「税金返せ」といった発言が出るのだろう。

もちろんすべての来場者に、芸術なんだから芸術鑑賞の作法で見ろ、と鑑賞態度を押し付けるのも無理な話だ。すべての人が芸術に理解あるわけではないし、市民参加を求める大規模芸術展では、普段美術館に来ないような人もたくさん来場する。

こうしたお祭りでは、芸術文化に慣れてない人を引き込む工夫・戦略が、展示側には少なからず求められるし、ゴリゴリの玄人向け表現が「場を読めてない失敗作」と批判されることもあるだろう(もっとも、こうしたケースでの批判も、「もっと工夫しろ」といった、あくまで見せ方の失敗に対する批判であるべきだが)。公的な芸術イベントでは、芸術の領域外の人々への配慮が強く求められるのである。

今回の騒動において、展示者側からの配慮がそこまで欠けていたとは私は思わない(とりわけ騒動が起こったあとでは、ボランティアやアーティストたちが、展示再開に向けてさまざまな対話の努力をしていた)。

今回の騒動を加熱させていたのは、芸術の評価軸を採用しない批判、つまり、芸術を芸術として見ようとしない者たちからの批判である。芸術として提示されたものを芸術として見る者たちと、見ない者たち。あいちトリエンナーレがつきつけたのは、この合間を本来埋めるべきであるはずの相互尊重が思いのほか断絶されていた、という点である。

書かれていることは実にもっともでほぼ賛成ですし、「『わがままな消費者』という理解が一番ぴったりくる」という表現も的確だと思いますけど、「芸術の評価軸を採用しない批判、つまり、芸術を芸術として見ようとしない者たちからの批判である」というところだけ違和感がああります。繰返しになりますけど、鑑賞、解釈の基本的なルール、態度について、私は教わったことがありません。経験則以上のものを知りませんでした。そして一般日常生活をおくる人でいわゆる芸術に積極的に接する人はそんなに多くない、少なくともそうでない人のほうが多い。だから芸術には芸術としての鑑賞ルールがあるということすら知らない人のほうが一般ではないでしょうか。

その点は検証委員会の第1回の議事録のほうがむしろ詳しいです。2箇所引用します。最初は岩渕潤子の発言。

 美術館が特別な目的を持った公共空間であり、国際美術展も美術館に準ずると考えるわけですが、昨今、SNS、ソーシャルメディアの登場によって、以前と公共空間の認識が若干変わってきているように思います。もともとは閉ざされた空間で特別な目的を持っているという前提があるからこそ表現の自由が守られてきた美術館ですが、その空間内で、スマートフォンなどを使って写真を撮って、広く一般の人が SNS への投稿を通じて容易に表現活動をすることが可能になり、美術館の側でもそれを広報的に利用するという流れが一般的になってきました。閉ざされた特別な目的の空間だったものが、今では建物の壁を越えて、一般の公共空間にまで広がってしまっているという状況になっているように思います。
 今回、愛知で起きている問題でも、その点に触れないわけにはいかないと思っています。本来であれば趣旨を理解した人だけが観るはずの展覧会を、その文脈から外れた(アウト・オブ・コンテクスト)かたちで、悪意はなかったにしても、情報が広く流れたことによって、多くの人たちが本来の意図や経緯を理解する以前に感情的、もしくは、条件反射的に反応してしまったように見受けられます。これは極めて現代的な問題なので、これからの公共的な物、公共空間、あるいは自治体が主体となって行うイベントについて、その公共性をどうとらえるかきちんと議論する必要があると思っております。一番強く感じたのが、このことでした。

もうひとつは上山信一の発言。

 なぜ中止になったのか、中止になってしまうことの良し悪しを考えることが主体であって、作品そのものはそれとセットで鑑賞すべきものではなかったのか。しかしながら、キュレーションというか展示方法が不十分ではなかったのかと考える。
 その結果、一般の方が、トリエンナーレを楽しもうと思って準備なく見に来られると、一部にはこれは政治プロパガンダだと感じてしまわれることは否定出来ないと思う。それも、特定の考え方に偏ったものじゃないかと思われてしまうことがありうる。
 それに対して、あれはアートの表現の自由だという主張をしても議論が噛み合わない。批判する人は政治プロパガンダと思い、美術館側は特殊な空間のアートだと言っていても議論が噛み合わない。これには対話が必要であるし、対話に対話を重ねないと、なかなかアートと政治というものは、お互い分かり合えない。そしてそれ自体が、津田監督が言っている、斬新なテーマそのものに突き刺さる難しい状況なんだろうと思う。
 具体的には、例えばあの展示を見せる前に、「表現の自由」とは何か、という基本的な勉強セッションをする。あるいは、表現の自由については、各国でいろいろな議論があり、絶対的な結論がなかなか出ていないとか、時代によって表現の自由の範囲というものが、ヨーロッパでもアメリカでも少しずつ変わっているんだとか、とても悩ましいテーマだということを予告した上で、表現の自由について勉強した人を前提に作品を見せるなど。そうしたいろんな工夫をしないと、表現の自由を訴えるという目的はなかなか達成出来なかったのではないかと思う。
 これはキュレーションなのか、アートを越えた工夫なのか分からないが、何か工夫や努力をしないと、作品を持ち込んだところまではよかったが、受け手にちゃんとしたメッセージが伝わらなかったのだと思う。

今回の話は、もともと難しい話だったものが、現代になってますます難しくなって、でも日本ではおおっぴらになっていなかったところ、今回は「地雷」を壮大に踏んだ結果、日本でも世界と同じような難しい問題をはらんでいることがはっきりして、詳しい人たちがそれぞれの立場でいろいろ説明する機会になった、というのがここまでの理解です。好意的に表現すれば、日本に閉じたローカルな騒動と思っていたら、世界各国で起きているグローバルな騒動と同じ構造で、それを身近に体験できたといえなくもありませんが、少なくともトリエンナーレに閉じたレベルの問題ではなく、ましてや一個人がどうこうまとめられるレベルの問題ではありません。なので個人としては、せいぜいこれをいろいろ考える契機にするくらいしか思いつきません。

「『あいトリ』騒動は『芸術は自由に見ていい』教育の末路かもしれない」には以下の一文があって、今後芝居を観るとき、感想を書くときに、せっかくなので意識するように努めます。努力目標。

芸術作品は自然物とは違って、何らかの意図をもって提示される。だからこそ芸術は「楽しい」「美しい」といった評価軸だけでなく、「成功」「失敗」といった評価軸でも見られるのだ。「これは何をやろうとしている作品なのか」という観点は、作品を正当に評価しようとするのであれば、切っても切り離せないのである。

«野田地図「Q」@東京芸術劇場プレイハウス(若干ネタばれあり)