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2019年8月17日 (土)

DULL-COLORED POP「第三部:2011年 語られたがる言葉たち」東京芸術劇場シアターイースト

<2019年8月16日(金)夜>

大津波と原発事故が起きた2011年の年末。地元テレビ局の報道スタッフは仮設住宅に避難している住人に取材を試みるが上手くいかない。報道局長は双葉町の町長の弟だが、町長は神経を病んで入院しており、取材できる状態ではない。取材が進まない中、年末の特番を控えて、復興を後押しする報道をしたいスタッフと、視聴率がほしいスタッフとで意見が割れる。

福島三部作の第三部は第一部とも第二部とも打って変わって、原発よりも住人に焦点を当てたドキュメンタリー調。原発を取上げるよりも復興をテーマに据えた未来志向とも言える。仮設住宅の住人のエピソードも、テレビ局のいろいろも、何か取材元があるんだろうなということが観ながら想像できて、重かった。

トークディスカッションの回にまた当たって、そこで話された内容によれば、やっぱりこの第三部はいろいろ取材で聞きこんだ情報を盛込んだとのこと。力作ではあるけど、事実が重すぎて観る側の想像力の入る余地が少ない。ここが前2作と大きく違うところ。

トークディスカッションのメモを覚えている限りで。客席の質問に答えるQ&Aのスタイル。はてなまでが質問、そのあとが回答。間違っていたら文責はこのブログにあり。

・津波の被害と原発の被害は分けて描くべきだったのでは? 自分が東北3県を取材した限りでは津波に対する意見もそれなりに多かったので、自分の中で消化した結果、津波に関する話もそれなりに多くなった。

・劇中で福島放送を実名でネガティブな要素も含めて描いており、しかもロゴに本物を使っていたが、タイアップしているのか(私は気がつかなかったが、カメラに貼ったステッカーや封筒などに記載されていた模様)? 劇中でのロゴの使用を申請したが断られた、脚本を提示したわけではない(ので検閲ではなく単に許可がもらえなかった)、制作と相談して実物を使うことにした、福島放送のエピソードは多少脚色しているが取材した内容に基づいており表現の自由の範囲と信じている、先方の法務部門から訴えられたら対応する。

・この話題を演劇で描くことについてと、この話題に対する距離の取り方についてどう気をつけたか? ギリシャ悲劇の昔から演劇は違う意見の対立を描くものだというのが自分が演劇の脚本を勉強した理解、なので今回の内容はむしろ演劇向き、距離の取り方は難しく特に第三部はエピソードを聞いた人の顔が思い浮かんで自分で演出しながら泣きそうになった、演出家の仕事は冷静に距離を取ることなので将来改めて振り返りたい。

・ネットでの評判だと第二部だけ毛色が違うと言われているが、三部作を執筆した順序や時期に違いがあるか? 書いたのは順番通り、前の作品を書き終わってから次の作品を書いた、第二部は町長に興味があって描きたかったが、三部中でもっとも資料の入手しづらい箇所でもあったので、数少ないインタビューと書籍を参考に脚本家の想像で補った部分が最も多い作品となった、そのためそういう評判になったのではないか。

自分が三部を全部観た感想だと、第二部が一番考えさせられたのだけど、事実より想像が多い作品の方が観ていて想像力をかきたてられたというのは、貴重な経験だった。

あとロゴの話は微妙。むしろ悪行を告発するような芝居で実物を使うのならまだわかるけど、今回はそうとは限っていない。取材に基づいたエピソードを実名で描くのは表現の自由だけど、ロゴの使用は商標権の話(気が付かなかったけどこれこれか)。表現の自由で商標権に挑戦しない方がいいというのが個人的な意見。この芝居の価値はそこではない。せっかくの力作にそういう細かいところでケチをつけられないように、自作のロゴに改めるのが吉。

<2019年8月17日(土)追記>

書くのを忘れていた。報道局長の「資本主義と真面目な報道は相性が悪い、民主主義と真面目な報道は相性が悪い」というインパクトの強い台詞があったけど、これは間違っている。テレビ業界は時間の制約が絶対なので、その分お金をかけるか報道内容を絞るかしないと品質を保てない、さらに大規模な報道内容に挑むならお金をかけないといけないけど、そこまでできない、というのが正しい。もっと身近な例なら、取材に3年かけたというこの三部作自体が報道に近い内容を含むけど、それを1か月でやれと言われてできたか、と考えればよい。

プロジェクトで品質を維持するための時間と費用と範囲のトレードオフ」は報道を含むあらゆる分野に通用する内容で、資本主義でなくても民主主義でなくても事情は同じ。そういう自覚を業界で、少なくともその局で持っていないから無茶な要求がまかり通って報道が荒れていく、というなら話は分かる。あるいは最終的な品質の評価を視聴率でしか行なわないから時間と費用と範囲のトレードオフが正しく判断されないというのでも話は分かる(視聴率に関する台詞は少しあった)。台詞の強さ、発するまでの展開とシチュエーション、役者の演技力、すべて揃って説得させられそうになるけど、そこは違う視点でも考えられるべき。

2019年8月11日 (日)

DULL-COLORED POP「1986年:メビウスの輪」東京芸術劇場シアターイースト(ネタばれあり)

<2019年8月9日(金)夜>

双葉町に原発が建ってから15年。税収が街を潤し、原発反対を声高に訴える人が少なくなった中、原発反対を訴えて県議会に立候補しては落選を繰返していた男がいた。飼犬が亡くなった晩、家族からの反対もあってもう政治には関わらないと決めていたが、町長の不正によって対立政党から出馬依頼を受ける。建ってしまった原発が安全に運営されるために監視する人が必要という説得に負けて立候補、無事に当選が決まるが、その翌年にチェルノブイリの原発事故が発生する。

第一部に続いて福島三部作の第二部はほぼ会話劇。立候補することを決めるまでの前半と、町長になってチェルノブイリ事故が発生してどう対応するかを問われる後半。粗筋だけならほぼ上記で言尽くしているけど、この芝居の価値はそのプロセスを描く会話劇、説得劇の箇所にある。あのときのあの立場で関係者がどう振舞うのかが正解かなんて、現在進行形で答えられる人なんていなかったことがよくわかる。そこに寡黙な妻を用意しておいたのは数少ない脚本の救い。亡くなった犬を、狂言回しではなく、生者を見つめる死者に位置づけることで、変わらざるを得なかった運命の皮肉が強調される。

一番上手いのは、対立政党の政治家の秘書に典型的な悪人要素も描きつつ、その実が日本人の振舞や反応を代表させる構造。極論を求めるその態度だけ取上げたら、原発自体が日本人には向いていなかった技術、過ぎた技術と見える。この秘書がどう見えるかが、その観客の芝居への反応を体現することになる。どの程度意識して描いたのか気になる。

知らずに観に行ったら脚本演出家と観客のトークアンドディスカッション(だったか?)を実施している回だった。父が電力会社の技術者、母が原発の近所出身、昔は原発を素直にすごいと思っていたけど今は反対、などの情報はあった。

ただ、原発反対している人たちは、反対なのはわかるけど、止めた後の話を言っている人がいない。ただ止めるのか、節電を進めて原発不要なところまで目指すのか、代替エネルギーを探すのか、そこの意見がわからない。原発の建設を決定した人たちは、想定されうる事故の対策検討に目をつぶって原発を推進した人たちとして扱われていたけど(うろ覚え、トークアンドディスカッションだったかも)、止めた後のことは知らないけど止めろという人たちといったい何が違うのだろう。シンプルに考えるといっても、せめてもう一言、その後についての意見があってしかるべきではないのか。

みたいなことを、その場で質問できたら良かったのだろうけど、帰りの電車から数日かけて感想をまとめるタイプの人間にはそういうやり取りは難しいし、何より直接芝居と関係ない。第三部を観てからまた考える。

2019年8月10日 (土)

東京芸術劇場主催「お気に召すまま」東京芸術劇場プレイハウス

<2019年8月9日(金)昼>

兄である元領主が弟である現領主に追放された領地。娘の願いで姪だけは除名して館に住まわせていたが、開催したレスリング大会で兄の忠臣の息子が優勝し、その戦いを見物していた姪と互いに一目惚れする。現領主は男の出自を知り殺そうとするが召使いの機転で脱出し、追放を命じた姪は男装して娘と道化と一緒に領地を去る。2組が目指すのは元領主が命を永らえているというアーデンの森。

粗筋を書くと格好よさそうだけど、森の出来事は男同士の乱交騒ぎといった趣で、シェークスピアの中でも強引な展開による喜劇。演出もそれを強調して格調とは縁がない。ただ、シェイクスピアは役者のキャラで客席狙いするようなところが多々あって、四大悲劇のほうが例外的というか、十六世紀の芝居はそっちが標準ではないかと最近考えている。だから客席も多用した今回の演出は何となくオリジナルに近づけることを目指したのではという印象を受けた。

という前提で、それにしては正統派の役者を集めたなあ、そして正統派の役者も結構はっちゃけるんだなあ、と余計なことを考えながら観ていた。とりあえずシェイクスピアなら中嶋朋子出しとけ、という理由で呼んだのではないことは「おそるべき親たち」以来の縁だろうからわかるけど硬軟使い分けていたし、山路和弘や小林勝也や久保酎吉のベテラン勢も結構ノってみせていた。むしろ道化役の温水洋一がちゃんとした喜劇を目指そうとして遊びが足りなかったし、広岡由里子は出番が少なくてもったいなかった。

ヒロインの姪役の満島ひかりが、一言で言えば華があった。言い方が難しいけど、演技で言えば観られるけどそこまで上手ではない。ただ、一番伸びやかに演技していた。ニンに合った演出だったのか、観客を信用していたか、自分がしゃべれば客は納得するだろうという売れっ子の自信かはわからないけど、あれは主役にふさわしい態度だった。これまでよさそうな芝居に出ているみたいだから、そろそろ劇団☆新感線とか登場しそう。相手役の坂口健太郎はちょっと真面目すぎ、満島真之介は出番が少ないのがもったいない王道演技だった。

もうちょっとだけキャスティングを入替えて、演出方針を徹底できていたら、もっと面白くなっていたはずだけど、惜しい。

あいちトリエンナーレ「表現の不自由展、その後」のメモと芸術監督の仕事について

これは美術展示だったけど、芝居の分野で似たことが起きたときに参考にするかもしれないのでいくつかメモ。もともとまったく興味もなければ開催もしらないイベントだったけど、話題を目にした瞬間に直感と偏見で「展示側が不手際をやらかした」と思ったので解説が出てくるのを待っていたら、出てきた。

その1。いきなり長いけど、伊東乾がJBPressに書いた「『慰安婦』トリエンナーレが踏みにじった人道と文化」。この人は音楽関係で芸術監督経験者。長いけどいつまで残る記事かわからないので適宜引用。掲載ページへのリンクは省略。

 報道やネットのリアクションには「政治家や公権力の<表現の自由>への介入」といった切り口があふれ、また、展示を中止された人々からも、何の説明もなくいきなり中止を通告されたと怒りを露わにする抗議文が公表されています。
 しかし、こんな事態にしてしまったのは、芸術監督の判断と行動に原因があることで、明確にそれを指摘しておく必要があるでしょう。
 というより、こうしたことを収拾するために、プロフェッショナルのキュレーターや職業人としての芸術監督という職掌が存在しているのにほかなりません。
 アマチュアが間違った椅子に座り、面白半分で打つべき対策を打たずに徒手していれば、人災を招いて当然です。
 では、本来プロフェッショナルの芸術監督であれば何をしておくべきだったのでしょうか?
 もし私がその任にあったとしたら、

1 展示コンテンツ事前告知の徹底
2 国際情勢の緊迫を念頭に、公聴会の開催、ないしパブリック・コメントの募集と検討
3 8月1日以降の事態急変に際しては、あらゆる関係者と対面での綿密な打ち合わせ(足を運んでの調整)。
 調整不能の場合は引責辞任と、残余期間案分相当の報酬返納、それによる危機管理プロフェッショナルの雇用の申し出など

 これらを必ず行っていたと思います。またこの3点とも、いまのところ十全に行った報道を目にしません。

(中略)

 今回の経緯、こんな事態に炎上・発展してしまった段階で「セキュリティの観点から」大村知事が「中止」と判断を下されても、職掌に照らして妥当なことです。
 さらに大村知事は、名古屋市長からのコンテンツ内容に関する指摘に「憲法違反の疑い」という、極めてピシッとした折り目で対処しており、プロフェッショナルの措置として、まずもって完璧です。
 大きなリスクがある。だから留保する。以上。
 芸術サイドに返す言葉は本来ないというのが、一芸術人として常識的に考えるところです。むしろ、そこまで徒手していた監督サイドの瑕疵を指摘し、今後は決してこうしたことの再発がないよう、努めるべきと思います。

(中略)

 十分な事前告知を行わず、パブリック・コメントなど官費執行に関する手続きも踏まぬまま、「隠し玉」炎上狙いの素人了見で8月1日に蓋を開け、現下の国際緊張状態のなか、アルコールランプと思っていたら、ガソリンにマッチを投じてしまった。アマチュアの浅い考えです。
 実際に「大炎上」してから、つまり保守系の政治家がクレームをつけたり、襲撃予告と解釈できる(といっても多くは愉快犯で、本当のリスクは別のところにあると思いますが)匿名連絡があったりすれば、国家公務員出身の政治家・知事の「実行委員会」委員長としては、憲法にも照らして状況を精査のうえ、純然と安全性の観点から中止という判断を下さないわけにはいかない。
 当たり前のことです。この段に至って「表現の自由」などというのは、トリエンナーレが人道と文化、平和の芸術五輪である原点を考えるとき、議論にならないことがお分かりいただけるかと思います。
 さて、その渦中で芸術監督は何をしたか?
 一緒になって「中止」する側に回ってしまった。これが最低最悪と思います。察するに、公務員としても政治家としてもプロの大村知事の盤石の説明の前で「納得」させられ、うなづいて帰ってきたのではないかと思います。
 それでは、ただの坊やにすぎません。芸術監督が守るべき一線は別に厳然と存在したわけですが・・・。
 さらに、その「決定」に際して、芸術監督であるはずの津田大介氏は、作品「平和の少女像」の作者、彫刻家のキム・ソギョン、キム・ウンソン夫妻と、直接対話して納得を得るプロセスを経ていない、と報道されています。事実なら、あり得ません。
 彫刻家本人はもとより「表現の不自由展その後」の当事者とも、十分な話し合いがなされていないように報じられています。
 一方で、愛知県の大村知事と津田大介さんは直接対面して確認をとったとの報道も目にしました。
 もし、これらがすべて事実であるとするならば、さらに加えて津田さんは芸術監督の任ではないと言わねばなりません。
 芸術監督にとっては、コンテンツの総体そのものが「作品」として彼・彼女の見識と品位を問われます。出たとこ勝負で出したりひっこめたりする、じゃんけんの掌のようなものではありません。
 一つひとつの作品には作家があり、五輪同様に、海外からの参加には最大の尊重と敬意を払う必要があります。
 前回稿の冒頭にも記しましたが、もし展示作品を、自分自身がそれを依頼し、決定した作家や関係者に確認を取らず、「展示中止」つまり「撤去」などということをしてしまったら、それは芸術監督でもなんでもない。子供がおもちゃを弄っているのと変わりません。

(中略)

 私が全面否定するのは「プロの職責に素人が紛れ込んで引き起こされる、必然の失敗」セキュリティー・ホールそのもので、個人には興味がありません。
 アート側の人間は訥弁の人が多い。いまだ多くの意見が出て来ていないと思いますが、「平和の少女像」という個別作品への意見の是非とは別に、本質的に作家と作品を愚弄する行為であるという点では、意見は一致すると思います。
 これ以上、出たところ勝負の民間療法で、傷口を広げないようにというのが、落ち着いた分別から投げてあげられる「タオル」と思います。
 あまりに作家や作品、いや「芸術」というもの、ビエンナーレ・トリエンナーレの理想そのものに対して、失礼です。

この次の「トリエンナーレ『計画変更』は財務会計チェックから」も有益。

 先に「芸術監督」は「予算」「進行」と「リスク」を<管理>する、と書きましたが、別の表現を採るなら

Ⅰ 芸術的な観点から「予算の配分の権限を持つ」立場であり
Ⅱ 芸術的な観点から「制作進行決定の権限を持つ」立場であり、かつ
Ⅲ 芸術的な観点から「リスクに対処する権限を持つ」立場である

 ことにほかなりません。
 このうちⅢ、つまり危機管理に関しては、今回全くその職能を全うせず、そのため今回の事態を出来している。
 関係自治体、議会や地域納税者は、いったい何が起きていたのか、正体不明の水かけ論ではなく、数字とともに厳密なチェックを行うのが筋道です。
 これは企業でもどこでも同じ、当たり前のことで「芸術」だからと言っておかしな雲や霧で覆うことは許されません。

(中略)

 さて、報道に目を向けると、「企画展中止」に対していろいろ主観的な意見は出てくるのですが、官費で運営されるトリエンナーレの計画変更に当たって、マネジメントを帳簿からチェックし直すという一番シリアスな指摘はほとんど目にしない。
 数字がないまま「税金」がどうした、と文字だけ躍っても意味ありません。さらに「税金で<こんな作品を展示して>」などと言っても、それが<良い>とも<悪い>とも、白黒は決してつきません。

(中略)

 逆に、ただちにはっきり出るのが数字、財務です。今回、計画を変更したわけで、関連して明らかに(「電話」だけでも事務がパンクしてしまった様子などは報じられましたし、もし追加の警備などがあれば当然出費が伴うわけで)お金の動きがあるはずです。一般にこうしたコストは(余剰人件費であることが多く)決してバカになりません。
 さらに「襲撃予告」などが風評被害を生んでしまい、ファックスを送った犯人は逮捕されても、ことはこれでは終わらない。
 いや、逆で、京都アニメーション放火殺人事件で「方法」が周知されてしまった「ガソリン携行缶テロ」という手口の模倣犯が、仮に言葉だけの脅迫であっても出て来る可能性が現実になってしまった。
 パンドラの箱はすでに開いており、愛知県内の小中高等学校にガソリン放火との脅迫メールの事実も報道されています。すでに、全く洒落では済まない状況になっている。
 言うまでもなくトリエンナーレ全体の来場者数にも変化が出かねず、その場合は露骨に収支に直結するでしょう。

(中略)

 以下、イベントの「途中変更」がお金の観点で何を意味するか、分かりやすいと思うので、具体的に書いてみます。
 あるリハーサルでアンサンブルが<下手っぴー>なところが出てきたとしましょう。普通にあることです。
 そこで「追加練習を組む」という芸術上の決定を指揮台の上で下すとします。これが「計画の変更」。
 仕事の現場では「変更」は同時に、必要なリハーサル室の室料からアーチスト謝金の追加、場合により伴奏ピアニストの手配やその謝金、事務局の管理経費などすべて「出費の追加」を意味します。
 当然ながら財務会計チェックに相当するソロバンを頭の中で弾かねばなりません。「芸術監督」の<お金の管理>という仕事の分かりやすい一例を記してみました。
 あらゆる「変更」は「財政破綻につながるリスク」日々用心、備えよ常に、が芸術監督業の要諦です。
 これが仮に「客演指揮者」であれば、ギャラを貰って1回の本番があっておしまい、という仕事で、練習の追加発注の権限などは持っていません。
 あらゆる「変更」の折は、直ちに事務局とのシリアスな話し合いが始まります。プロフェッショナル同士の、値引きのない駆け引きの場です。

(中略)

 いま、はっきり言って素人が選んだ今回のトリエンナーレで、もっぱら安全性の観点から、「その継続のために、いったいいくらの警備費を上乗せすることが妥当か?」は、作品への好悪などと無関係に冷静に検討すべき財務のイシューです。
 赤字が出たらどうします?
 というかアクションすれば出費は100%増えます。名古屋市民や愛知県民の税金で追加補填するのですか?
 私は慎重であるべきと思います。芸術家の立場から、良心をもって断言します。警備の強化などを含む、あらゆる対策経費を念頭におく財務チェックを直ちに行う必要があるでしょう。
 それが芸術監督、芸術ガバナンスに携わる立場から第一になすべきこと、異論の余地などあり得ません。
「無い袖」は振れない。これはシビアな職業的経営判断です。お金の見通しの立たないこうした計画変更は、税金を原資とする官費投入の現場で許されることではありません。

ちなみに県知事の判断は朝日新聞の記事にも載っている。申し訳ないけど全文引用。

 愛知県で開かれている国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」(津田大介芸術監督)の実行委員会が企画展「表現の不自由展・その後」を中止したことを受け、実行委会長の大村秀章・愛知県知事は5日の定例会見で、展示の中止を求めた河村たかし名古屋市長らを「憲法違反の疑いが濃厚と思う」と批判した。

 企画展は1日に始まり、慰安婦を表現した少女像や、昭和天皇を含む肖像群が燃える映像作品など、各地の美術展で撤去されるなどした二十数点を展示。河村氏は2日、「日本国民の心を踏みにじる行為」などとして、展示の中止を求める抗議文を大村氏に提出した。また、日本維新の会の杉本和巳衆院議員(比例東海)も「公的な施設が公的支援に支えられて行う催事として極めて不適切」として、展示の中止を求める要望書を出していた。

 大村氏は5日の会見で、こうした行為について「憲法21条で禁止された『検閲』ととられても仕方がない」と指摘。「行政や役所など公的セクターこそ表現の自由を守らなければいけないのではないか。自分の気に入らない表現でも、表現は表現として受け入れるべきだ」と述べた。企画展の費用は420万円で、全額寄付で対応するとした。

 また大村氏は、中止を判断した理由について「安全安心を第一に考えた」と説明。5日朝にも「ガソリンを散布します」などと書かれた脅迫メールが県に届いたことを明らかにした。警察と協議するという。

日本の「議論」でよく見かける悪いパターンに「敵の敵を味方扱いしてかばう(無視する)」があって、今回だと市長(政治家)が検閲に類する発言をしたから非難して、その大元になった芸術監督の不手際を問わない人が多い。けど、両方とも駄目ということも成立つし実際に両方とも駄目。個人的にはこれを機会に隙を与えない運営方法が芸術側に広く共有されてほしい。

あと、有名ブログの極東ブログで「あいちトリエンナーレ『表現の不自由展、その後』展示雑感」があったのでそこからも引用。

 もちろん、そういう私の感性が、芸術の価値を決めるものではない。およそ、芸術というのは、個々人が「これが芸術だといえば芸術だ」といった単純なものではない。その芸術作品が複数の人々に与えるインパクトに加え、批評家による批評、キュレーターによる考察などが加わり公の議論を誘うことで、その作品が、公的に芸術であることが問われていく、というものである。そうでなければ、街のギャラリーなどで自由に展示すればいい。
 なので、あいちトリエンナーレ『表現の不自由展、その後』展示について、私がまず関心を向けたのは、キュレーターであり、学芸員である。日本の場合、学芸員には、養成の専門講座を設置している大学か専門学校で所定科目を履修して取得するか、文部科学省が年1回実施している学芸員資格認定試験に合格することが求められる。彼らは、この展示をどのように考えていたか? 
 もう少し過程的に言うなら、津田大介・芸術監督が企画と方向性を決め、学芸員が個々の展示作品を決める、という手順である。別の言い方をすれば、個々の作品の選別には、津田氏は直接的には関わらないはずである。

(中略)

<金曜カフェ>ジャーナリスト・津田大介さん あいち芸術祭 監督として
北海道新聞07/08 05:00

約80組の作家選びは当初、学芸員に任せるつもりだった。ところが、上がってきたリストを見て「ピンとこない。これはまずい」と方針転換。自ら決定権を握った。「僕はそういう(人の権利を奪う)タイプの人間ではありません。でも、そうしないと『情の時代』というテーマにこだわった内容にならないと思った。仕事は5倍くらい大変になったが、その方針のおかげで(参加作家の男女比を半々とする)ジェンダー平等も達成できました」

 どうやら、作品の選定は津田大介・芸術監督の独断だったようだ。

学芸員とは職種ではなく資格なのだと、恥ずかしながら初めて知った。Wikipediaによると実情はいろいろらしいけど、でも

通常、学芸員には、それぞれ、1つまたは複数の専門の分野があり、その専門分野は、その学芸員が所属している美術館等の企画や収集と極めて密接な関係にある。

たとえば、写真が専門である学芸員がいる美術館では、通常、写真作品の収集に力を入れており、また、写真の企画がなされる可能性も高い。ときどき、「何故、あの美術館であんな写真の企画がなされるのだろうか」と不思議なケースがあるが、それは、その美術館に、写真専門の学芸員がいる、ということがその理由であることが多い。逆に写真を専門とする、または、少なくとも、副次的に写真を専門とする学芸員がいない美術館では、写真の企画はまずなされない。なぜならば、写真を扱える担当者がいない美術館に写真作品を任せられるはずがないからである。

と言われればもっともな話なので、専門家をもっと上手に活用するような芸術監督として振舞えるなら話は違ったかもしれない。あともうひとつ。寄付の話。

 愛知トリエンナーレ『表現の不自由展・その後』展示予算420万円が民間の方から寄付で全額まかなわれたというのが本当なら問題ではないか。展示方向に影響するからだ。寄付は運営を信頼し全体予算に組み込むべきだっただろう。そうでなければ、その寄付額でトリエンナーレから切り離し、民間展示にすべきだろう。

やっぱりお金の話は難しい。こういう感覚は勉強して身につくものなのか。

今回の記事を読んで、芸術監督の大変さを改めて認識した。のんきに芸術監督ウォッチとかしているのが申し訳ない。ただ、今の芝居の芸術監督は演出家出身の現場たたき上げがほとんどなので、予算の感覚は持っているだろうし、それ以上に何が上演にふさわしいかの感覚を持っていると信じられる。その点は芝居ファンとしては幸せです。

2019年8月 4日 (日)

「リアリティの処理」について

演劇関係者のインタビューを読んでいるとたまに見かけるのだけど、この言葉の定義がいまだにわからない。あれこれ考えた末に、たぶんこうではないか、とたどり着いた定義が以下になる。
・本来あり得ない設定(物語だったり、登場人物だったり、リアクションだったり)について
・そのままやったら白けたり失笑したりするところ
・演技力や前後の展開の組合せで観客に「これはアリだ」と受入れさせること

ゴーゴーボーイズ ゴーゴーヘブン」のときに松尾スズキが吹越満を評して「お笑い出身者のリアリティの処理には信頼が持てる」と言っていたのが根拠で、このときの吹越満の役が八木さんが生まれ変わった山羊だったのを観てのことだけど、それで合っているのかいまいち自信が持てない。ただ、お笑い出身の人は演技が上手な人が多いと言われる理由にもつながる。

まあ定義はそうだとして。では演技力でありえない設定にリアリティを持たせるためにはどうすればよいのか。それともリアリティという言葉が誤解を招いていて、説得力があればいいのか。そうだとしてそれはどうすればよいのか。

それが演技の秘伝と言えなくもないけど、何か参考になりそうな情報がないか探してなかなか見つからない。

2019年7月28日 (日)

五反田団「偉大なる生活の冒険」アトリエヘリコプター

<2019年7月28日(土)夜>

40歳の男は写真の仕事をしていたこともあったが今は無職で、元彼女の家にやっかいになっている。元彼女はスーパーのバイトをしながら、職場の男性と付合っているらしい。元彼女がバイトの間にゲームをやったり隣人とおしゃべりをしたりして過ごしているが、最近は昔なくなった妹の夢を見るようになった。

11年前の芝居を今のほうが切実と再演、というだけの前知識で観たら本当に切実な1本。それを、これしかないという必殺の間合いで笑いに変える役者陣の技量はさすが。その粛然とするしかない場面を笑いに変えた中に「俺もそれを見たことがある、そっち行っちゃ駄目だ」って値千金の台詞が混ぜているのは見事の一言。ゲームの扱いが巧み。10年くらい前の人を食ったような顔より今のほうが表情は若く見える前田司郎と、この芸達者な5人の中でも一段上に見える内田慈のコンビはさすが。

観終わったあとで客同士が「笑えない場面でみんな間違って笑っていましたよね」って話しているのを耳にしたけど、この話に笑いがないと悲惨の一言で終わってしまうので、笑うのは正しい。笑えないけど思わず笑ってしまうのも正しい。この範囲の中でできる限りの結末がそれか、という話なので観る前には体調をよく整えて笑えるようにのぞんでほしい。

すごい久しぶりにアトリエヘリコプターで観たけど、工場街だったはずなのに周りの建物が軒並み高層ビルやマンションになっていて、アトリエヘリコプターだけがぽつんと残っているのに時代の流れを感じた。あれだけマンションがあって休日なのに人がほとんど歩いていない、都心なのに新興住宅地で不思議な雰囲気だった。

M&Oplaysプロデュース「二度目の夏」下北沢本多劇場

<2019年7月28日(土)昼>

染織会社の2代目社長は結婚2年目。使用人のいる別荘で夫婦ともども夏休み、のはずだったが仕事が終わらず、秘書を伴って出張も含めた仕事をこなす。妻を退屈させないようにと幼馴染の後輩を遊び相手に呼寄せる。結構楽しく過ごす2人を結構なことだと言う社長をよそに、周囲の人間は口さがない。

いろいろな関係の間にいろいろ発生するいろいろな愛の形。と言ってしまえば簡単なのだけど、上手く表せなかったり秘めていたり拗らせていたりねじ曲がっていたり、一筋縄ではいかないものばかりを集めた、岩松了風の緊張感が漂う一本。

仲野太賀が良い感じ。いつもだと女性役が色気ムンムンで動くところ、それを表になるべく出さないで溜めて出すのがやや違う。水上京香や清水葉月よりも、ネタをこなしながら押し殺した感情を目で表現する片桐はいりはむしろ怖い。終わり方も含めてじっとりとしたホラーの感触。

2019年7月25日 (木)

まだ間に合う世田谷パブリックシアターの一般向けワークショップいろいろ

世田谷パブリックシアターのワークショップはプロのスタッフ向け、というイメージが強かったので、一般向けにも開催しているとは全然気がつきませんでした。申込が終わってしまったものもありますけど、まだ間に合うものも多数あるのでご紹介です。

まずは子供向け、親子向け。

「からだであそぼう!マイムワークショップ」:今週末ですけどまだ募集中で間に合います。満4-6歳+保護者の計2名向けと、小学1年生-3年生向けと、2クラスあって、それぞれ2時間のコース。ひとり500円ペアで1000円と財布に優しい。マイムなので子供でも楽しめるでしょう。

次は中学生向け2本。

中学生のための演劇ワークショップ『演劇であの人の世界のぞいてみる?』:これは募集終了です。7月の3日間をフルに使って1500円の費用なら親御さんの財布にも安心。遠方の人にもよさそう。

『世田谷パブリックシアター演劇部 中学生の部』 第二期:まだ募集中。これは9月から10月までの土日を使って、11月の世田谷区立中学校演劇発表会で発表するという企画です。6500円の費用は期間を考えれば格安ですが、2学期の長期間、かつ応募者多数の場合は世田谷区内の中学生を優先の上で抽選、とあるので遠方の人にはやや難しいかもしれません。そうはいっても挑戦するという熱意と交通費を持った中学生なら遠方でもぜひ。劇場においては区内中学生で埋まっている場合にはその旨早めに公表して気を持たせない対応を期待したい。

さらに高校生向け。

高校生のための演劇ワークショップ 『変な角度で考える。演劇で。』:まだ募集中。8月の3日間をフルに使って1500円なのは中学生向けと同じ。タイトルだけで推測すると、中学生向けは体験が主、こちらのほうがもう少しいろいろ考えさせる内容になりそう。

そしてこれは驚いたのですが、大人を含む全員向けもあります。

2日間の「演劇&劇場」体験ワークショップ:来週開催ですけどまだ募集中。7月の平日2日間の19-21時を使ってのワークショップで、2日間1000円。もともと1日で演劇や劇場を体験するプログラムがあるらしいのですが、それを拡張した2日間コースだそうです。

最後のワークショップ、スケジュールの都合が合えば参加してみたかったのですが、気がつくのが遅かったのもあって無理で断念。

新国立劇場も中高生向けのものを企画していますけど、スタッフや歴史など座学も含む超本格過ぎるラインナップなので、こちらの世田谷パブリックシアターのほうが役者的な演劇経験をするには向いているかもしれません。参加したかったけど今年無理な人たち or 間に合わなかった人たちは、おそらく来年も同じような企画があると思うので、夏ごろになったら劇場の公式サイトを調べるなり、劇場に問合せるなり、してみてください。

ちなみに、もし新国立劇場の企画に当選した中高生がいたら、世田谷パブリックシアターの企画をはしごしてもまったく問題ない、積極的に受けたもの勝ちなので、興味があったら遠慮しないで申込んでみて、と大人らしくそそのかしておきます。

2019年7月23日 (火)

東京成人演劇部「命ギガ長ス」ザ・スズナリ

<2019年7月20日(土)夜>

親の年金で引きこもりの息子を養う、すこし認知症の始まった母。息子は酒を飲み母はパチンコに通う。それをドキュメンタリーとして取材に来た大学生の女性。きちんと映像は撮ったが収まりが良すぎると指導教授に指摘される。そこでわかったことは・・・。

生きちゃってどうすんだ」以来のスズナリで今回は二人芝居。ボケの始まった親という点で「」を想像させるけど、こちらは松尾スズキ流の、そんな収まりのいい話ではないという切取り方。扱う話題のタイムリーさ、ネタの混ぜ方、ころがす方向の意外性、あれだけ笑わせて最後にもう1回転がして元に戻るラスト。切れのある表現の台詞も多数。単純に観て笑えるし、よく考えると笑えない、でもたくましいという仕上がり。

相手役で2役を演じた安藤玉恵がまたはまっている。「男女逆転版・痴人の愛」のはじけっぷりを、今回は上手にコントロールして母親役と大学生役をきっちり演じ分け、さらにネタもこなす万能ぶり。楽しんでやっています感に、余裕に見えて結構シビアにがんばっています感が混ざって、「もっとも演劇部のイメージに近い女優」とはこれかと納得した。少し前なら片桐はいりくらいしかできる人が思いつかないような自由感の体現。

ちなみに吹越満が効果音担当で、「不倫探偵」でも試みていた漫画っぽい雰囲気を出すための試行錯誤の結果だと思うけど、贅沢かついかにもな役どころ。パチンコ屋のアナウンスとか面白いけど、効果音がだんだん人の声だということが気にならなくなってくるのが不思議。

狭い劇場で観た分の密度の高さもあるけど、その劇場選択も実力のうちと捉えられる。KERAは「わが闇」を「晩年第一作」と称していたけど、松尾スズキならこの芝居が該当すると言いたい。後期全盛期到来という印象。当日券が厳しそうだから見送ろうと思っていたけど、当日券でも案外いけると書いていてくれていた人に感謝。東京公演が終わってこれからツアーなので上演地域の人たちにはぜひお勧めしたい。こういう芝居が海外公演になるのは喜ばしい。

世田谷パブリックシアター企画制作「チック」シアタートラム(若干ネタばれあり)

<2019年7月20日(土)昼>

父は仕事が上手くいかず浮気、母がアルコール中毒で両親の諍いが絶えないマイクは、学校でも目立たず目だった友達もいない。14歳のとき、同じ学年にチックという男子が転入してきた。特に絡むこともなかったが、夏休み前の最終日にクラスメートの女子の誕生日パーティーに誘われず一緒に帰ることに。その日は母がアルコール中毒のリハビリ施設に出かけ、父が浮気相手と旅行し、2週間は一人ですごすことに。そこへチックが「借りた」車でやってきて出かけようと誘う。なぜか車に乗ってしまったマイクだが、そこからどんどん遠くへ出かけることになるひと夏の物語。

2年前の初演の評判がよくて早くも再演された一本。ドイツの元は児童文学らしいけど、日本語の児童文学という言葉よりはもう少し上の年齢層、小学校高学年から高校生くらいがストライクとみたけど、それより上下の年齢でも十分楽しめる。旅先の出会いと友情、と片付けるにはもったいない物語。面白いだけでなく厳しい要素も入っているのが特徴で、マイクの両親に厳しい設定を当てたり、旅だけで終わらずその後始末まで描くところが今っぽい。

成功の理由はたぶん3つあって、ひとつは役者に恵まれたこと。チック役に柄本時生を当てて、ここに見た目から入れたのは大きい(笑)。終盤、裁判の説明から裁判官の説教に感じ入る場面、あれはよかった。土井ケイトのイザ役もスピンアウトするのがわかる魅力的な役づくり(リーディングまでは手が回らなかったのが残念)。ただ初演組を差置いて一番はまっていたのは今回唯一の初参加となる那須佐代子。今回マイクとチックは専任で、5人のうち他の3人が複数役を演じた中で、アル中の母親の場面は暴れる中にもいろいろな暴れ方を入れて、他の役では遊べるだけ遊んで、最後に何でも放り込む場面がいい。これまで何度か観ているけど、この人はやっぱり只者ではない。

二つ目はおそらく美術。天井のパネルがいろいろ活躍して最後もいいのはわかるけど、下は中央に四角い回転舞台、あとはシアタートラムの素舞台壁沿いにいろんなものを置いていただけ。そもそも多少の傾斜と階段があるだけの舞台を回転させるのは人力。それを回転させて何が変わるのかわからないけどいい感じになるのが不思議。美術がいいのか照明がいいのか迷うことが多いけど、今回は美術の要素が強かったと思う。劇場自体が持つ雰囲気を最大限使い切った引算の美術というべきか。最近よく名前を見かける乘峯雅寛の好調な仕事。

最後に翻訳。後で思い返して翻訳っぽくなかったことに気がついた。演出家本人の翻訳とのこと。元の話がしっかりしていたとはいえ、あれは役者と翻訳とどちらの功績が大きいのかわからない。たぶん翻訳のほうが強いはず。

あと直接関係ないけど、ロビーのポスターがスタンド・バイ・ミーとかハックルベリー・フィンの冒険とか夏の思い出とか、狙っていることに休憩時間に気がついてニヤリとしてしまった。たしか世田谷パブリックシアターはずっとポスターハリスカンパニーがポスター展示をやっていたはず。タイトルだけ知っていて中身のわからないポスターもあったので、誰か有志が解説してくれると嬉しい。

休憩を挟んで2時間45分という長さを感じさせなかった中で残念だったのは、もう少し若いときに観たかったなというのがひとつ。あと年齢層の高い客層でストライク世代が全然いなかったのがもうひとつ。中学生高校生だと部活で夏の大会の直前または真っ最中かもしれないけど、見切れのない舞台で当日券はまだいけたし、U24でチケットほぼ半額になるのでぜひ。もちろん大人でもぜひ。

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