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2008年5月25日 (日)

本谷有希子のパルコ劇場進出

そういえばこの秋に初登場だ。「劇団外、本谷有希子」ってそのままの名前を衒いなく出してくるのがいいな。

以前エントリを書きましたけど、やっぱり売れてくるとチェックが入って制作者?からお誘いがかかるんですね。

本谷有希子はもともと独り劇団というかユニット(今は吉本菜穂子が欠かせない役者だけど、所属ではない)だからこうやって誘われるのはよいことなんでしょう。

別に渋谷で上演するから偉いってことはないけど、お客さんが入りやすい劇場で、宣伝は全部やってくれて、実力のある役者と一流のスタッフと仕事ができるなら、有名になるってことも悪くはないんだろうなと思う。

次にお誘いがかかるのは誰かな。最近は芝居を発掘する時間がなくて疎いから、ちょっと思いつかない。

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2008年5月19日 (月)

阿佐ヶ谷スパイダース「失われた時間を求めて」ベニサン・ピット(ネタばれありあり)

<2008年5月18日(日)昼>

名前もわからない3人とひとりが、何かを探すものがたり。

これ以上あらすじを書きようのない芝居。不条理劇の定義がわからないけど、不条理劇というらしい。個人的には興味を持って最後まで観られたけど、いつもの阿佐ヶ谷スパイダースを期待すると空振りします。壁の使い方も含めて美しい舞台が、らしくなさをいっそう強調します。ただし、中山祐一朗や伊達暁はいつもと違う路線の役が結構板についていたし、あの役はたしかに奥菜恵が演じることで魅力的になっていました。

当日券は補助席+キャンセル待ちのみ。キャンセル待ち後半はきついかも。座席案内がもたついて開演が遅れたので改善希望。

シアターガイドによれば、長塚圭史は今年の後半から1年間海外に行くそうで、それが脚本に影響をおよぼしている気配があります。後で当日パンフを読んで気がついたけど、ひょっとして有料パンフレットに何か種明かしが書いてありそう。でも読んでいないので以下推測混じりで全力でネタばらしまくり。観る前に読むな。






長塚圭史の葛藤を舞台化したもので、登場人物はそれぞれ芸術家としての長塚圭史(中山祐一朗)と、男女関係の男としての長塚圭史(本人)と、思索する長塚圭史(伊達暁)と、現実世界で他人に巻きこまれがちな長塚圭史(奥菜恵)。

芸術家は自意識と商業的成功とのギャップに、男は女に対する弱気に、現実世界の本人は退屈さにそれぞれ死にそうなほど苦しんでいるが、思索家と現実世界の本人とが出会ったのを期に、それぞれの苦しみの理由を発見する。

悩んでいる3人は今を夜だと思い、悩んでいない1人は夜ではないという。だれも正確な時間がわからないが、現実世界ではあっという間に進んでいる時間も、思索家にとってはほんのちょっとの時間。

芸術家は、過去は過ぎさったもので、現在はまっさらだと考えていたが、現在とは過去の延長で構成されているものだという認識を得てしまい、混乱する。そこへ、必要な過去はそのまま、いらない過去は忘れてしまえばいいという解決策が提示される。やがて全員が合流して、過去(落葉)の片づけが始まる。失われた時間と思っていたが、別に失ったわけではない。

というほどの話(多分)。早稲田の劇研関係の劇団がたまに多重人格者の内面をネタに上演しているけど、その手の教科書に書かれているような典型パターンではなく、ずっと誠実に自分の内面を脚本にしている。

以前KERAが「晩年に突入した」と当日パンフに書いていた。これだけ自分で自分の内面を抽象化できた長塚圭史は、今回と次の芝居とで青年を卒業して、壮年に入るんだろうな。壮年を卒業することになるころには「失われた時間」という認識も消えているだろうし、「今の自分」を扱った今回の芝居はもう再演しないだろうから、「積重ねた時間を求めて」とか別の芝居を作ってほしい。

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2008年5月12日 (月)

Bunkamura企画・製作「わが魂は輝く水なり-源平北越流誌-」Bunkamuraシアターコクーン(ネタばれあり)

<2008年5月10日(土)夜>

平安末期の源平合戦。木曽義仲軍と戦って敗れた平家の武将である斎藤実盛は、息子の五郎も失ってしまう。が、五郎は父にのみ見える幽霊として父に付添う。そんな状態で故郷に逃延びた実盛だが、そこでは出兵を避けていた息子の六郎が、義仲軍に出奔してしまう。かつて縁あって実盛と五郎が過ごした木曽の軍勢にあこがれての行動だったが、出奔先で六郎が見た現実は、想像とはまったく違ったものだった。

狂気が正気を支配する戦国時代劇に名を借りた硬派な脚本を、予想に反して格好いい仕上がりで。

強いように見える実盛が、弱音を吐く代わりに五郎を呼び文句をつけるという設定が、終盤の実盛と巴の会話の基になる。この場面の会話がしびれさせる。「私たちの間にはなんと大勢の若者が立ちふさがるのか」「そう言うべきではない、その若者たちこそ私たちの未来ではないか」(大意)。このご時世にこの台詞が持つ意味の重さったらないです。狂気だらけの進行を一度にひっくり返す最高の場面です。

一番すごかったのは巴を演じる秋山奈津子で、強い女と弱い女の切換があざやか。それに回想場面で素直な巴を見せるのが、とても新鮮だった。観るたびに期待を上回るものを観せてくれる女優です。

珍しく笑いもそこそこ投入しつつ、前にも見かけた例の馬も出てきますが、全体としては野蛮さよりも素直さを優先させた蜷川演出が、何か遺言のように感じられます(失礼)。父と息子の確執、老いと若さの関係で、何か考えるところでもあったんでしょうか。

当日券でもコクーンシートが残っていましたので、お金を気にする人はそちらを検討しては如何。

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2008年5月 6日 (火)

阿佐ヶ谷スパイダースの失われた(中略)を求めて

THEACONが阿佐ヶ谷スパイダースと柳美里の因縁を紹介している。こんな話があったんだー、みたいな。

で読んでいて引っかかったのが、製作者(制作者?)から抗議のメールが来たくだり。阿佐ヶ谷スパイダースの制作者はビジネス感覚の優れた人だ、とかねてから私は勝手に想像しています。それなのに不躾な抗議のメールを出すことはないだろう、何か真相が隠されているのではないか、というのが以下の妄想の起点です。

よく読むと、
チケット購入の電話をしてくださった『日経エンタテインメント!』の編集者に抗議のメールが届いた
と書かれています。作家って自分でチケット買わないのね、仕事の依頼元にお願いすれば手配してもらえるんだ、うらやましいねぇ。

というやっかみはさておき、対象公演である「少女とガソリン」はスズナリで上演された芝居です。おそらく一般前売では入手できなかったでしょう。ちなみに当日券は毎回用意されており、私は当日券で観ました。

商業的に成功している劇団であれば、以前fringeで紹介されていたように、マスコミ枠、評論家枠としてチケットを毎公演用意しているでしょう。あるいは、依頼があった場合に、当日券からそちらに数枚まわすこともあるかもしれません。当然ですが、制作者は媒体で紹介してもらうことを前提として手配するでしょう。

日経の編集者も作家の機嫌を取るためにはなんとしてもチケットを入手する必要があります。そうなったら「ちょっとその日の招待枠はもう一杯で」なんて言われたくらいでめげてはいられません。「これは日経の雑誌の取材の一環でそこを何とか云々」くらいの口八丁は駆使して、チケットをもぎ取ります。制作者は日経で紹介してもらえるならと、誰かに頭を下げて(あるいは泣いてもらって)チケットを調整します。

ところが日経の媒体にはまったく載らず、柳美里の個人blogに掲載されただけ(現物は日付が古いためエントリが消えていた)。しかも単なる感想。集客効果は日経媒体と比べるべくもなく、その内容も制作、製作として参考になることがひとつもない。

そこまで妄想すると以下のメールも違った見方が出来るのではないかと思います。

「(中略)こちらから頼んで観ていただいたのならともかく、(中略)批評でも論評でもないあのような感想レベルのことを、個人的にブログに書いてしまうことに、非常に驚きました。
(中略)あの内容では配慮がなさすぎるというか。(中略)私としては看過できないことでもあり、もし差し支えなければ編集部としてのお考えをお聞かせ願いたいです」

制作者が聞きたがっているのは、柳美里の意見ではなく編集部の考えですね。で、日経の編集者が経緯を何も伝えずに「抗議のメールが来ましたアハハ」と、あるいは経緯を知らない別の編集者が誤解して「なんだこの野郎失礼な」と、メールを転送した。で柳美里が激怒。その激怒に制作者が激怒。制作者の激怒が出演者の激怒に。

つまり犯人は最初にチケットを手配した日経の編集者だ、というのが迷探偵としての推理ですが、メールの失われた中略の真相やいかに。

以上すべて妄想ですから、無粋なツッコミはなしで。

さて次の阿佐ヶ谷スパイダースですが、当日券の紹介がまだ載っていません。果たして観られるかどうか。

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