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2009年5月11日 (月)

舞台芸術における恥ずかしさについて

「赤い城 黒い砂」の感想では書きませんでしたけど、やっぱり気になるので今更だけど書いておきます。

シェイクスピア原作だからそんな台詞があるはずないんですけど、劇中の台詞で「大量破壊兵器」という言葉が使われていました。芝居の内容とあわせて判断するまでもなく「戦争は悲惨だ反対だ」という脚本家または演出家のメッセージが、素っ裸で飛びだしてくるような台詞です。役者はさておき、この言葉を聴いた瞬間に、駄目だこの芝居と耳をふさぎたくなりました。

* 以下では「戦争は悲惨だ反対だ」というメッセージの良し悪しは対象としていませんのであしからず。

舞台芸術で、メッセージをストレートに伝えるという手段を取ることも当然ありです。が、二国間の攻防と、そこに生きる登場人物の葛藤を描いている作品の中で突然そんな台詞が出てきては台無しです。なんのための二国間の攻防なのか、なんのための葛藤なのか。舞台上でそれまで展開されたこと、これから展開すること全てがおまけに見えてしまいます。

芸術は表現したい内容があってこその芸術ですが、まずは作品としての仕上がりを優先するべきです。その手段に舞台芸術を選んだのであれば、メリハリの付け方、役者への演出、伏線の扱い、スタッフワーク、それらを総動員して、遠くから、少しずつ少しずつ描いて、その結果として観客にメッセージを伝えるようにしないと、作品としての仕上がりが今ひとつとなります。それはつまり木戸銭を払って観に来ている観客に失礼だということです。

今回の件については、脚本家(蓬菜竜太)が書いてきたなら演出家が代案を提案するべきだし、演出家(栗山民也)がその言葉を使おうとしたら脚本家が全力で阻止するべき場面です。ひょっとしたら二人してこの台詞に乗り気だったのかもしれません。だとしたら、実績十分のこの人たちにしてこの感覚かとため息ものです。

そういう事態を避ける感覚というのは、スキルとか、美意識とかではなく、恥ずかしさではないかと思います。自分のメッセージが浮いてしまうのを恥ずかしいと感じる、そうならないようにあの手この手で隠す、そういう感覚を持つ人が、よい芸術家なのだと思います。

そういう意見を書いているお前はどうなんだ、という声が聞こえてきそうですが、上手下手はともかく、メッセージを全面に出すならこれくらいはっきり出すものだろう、というのがとりあえずの返答です。

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