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2011年4月 4日 (月)

パルコプロデュース「国民の映画」PARCO劇場

<2011年4月2日(土)夜>

1942年のドイツ。映画への肩入れ著しい宣伝相ゲッペルスは、ひとつの企画を胸に、有名な映画関係者を招いたパーティーを催す。次々と現れる招待客だったが、招かれざる客が含まれる。微妙な緊張感の中で進むパーティーの行方は。

3月はいろいろ難しかったので千秋楽直前に行ってきました。ほとんど実在の人物で構成した舞台だったのでリアリティの担保はしやすかったかもしれないけど、それを差引いても今の現実に負けない芝居。地震があっても公演続行しただけのことはある。商売を抜きにしても、これを公演中止にするには惜しすぎる仕上がり。

主要人物を演じる小日向文世、段田安則、白井晃の3人の対比がすごい。特に白井晃にあんなはじけた演技を付けた演出は目の付け所が違う。他の役者が抑えるところは抑えて演技していたこともあるけど、風間杜夫すら霞む。

脚本なんて、ほぼすべての台詞が、登場人物の内面を想像させるか、またはそのための伏線になっている。それを芸術論や映画論を軸に、実に面白く、無理のない物語で展開させている。それが最後に、三谷幸喜らしからぬエンディングに集約される手際は圧倒的。そして美しいピアノに、最初どうなっているかわからなかった美術。

惜しむらくは、どうしても女性陣が脇に回るというか、本筋を引きたてる脇のストーリーの盛上げ役に回ってしまうこと。話や舞台設定を考えるとしょうがないのだけど、色気に欠けるのは三谷幸喜の数少ない弱点が今回も出たと言える。でもこの仕上がりなら許す。昔、松尾スズキが「有頂天ホテル」を観て、もう三谷幸喜は有頂天になっていい、と評したのを思い出した。

でもなあ、芸術論で走るのは「コンフィダント」でもあったことで、むしろいいことなんだけど、喜劇作家を任じる人がどうしてあのエンディングに着地したのがわからない。年をとって感動大作で名声をほしくなったとか、たまに黒い話を書いて吐きださないともたないとか、今後海外展開して稼げる脚本を狙ったとか、いろいろ理由は考えたけど、ひょっとして「演劇は時代を先取りする」の言い伝え通り、日本の不穏な時代の到来を予感してしまったんだろうか。そうでないことを願いたい。

見損ねた人は横浜公演を見逃すな、って書こうとしたけど、原発が段々それどころじゃなくなってきているので、無理するな、と書換えておく。

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