芝居がつまらない
何かこの後どんな芝居を観ても
- 面白くて現実に負けていなかった
- 面白いけど現実の前ではいまいち
- 現実逃避の自己満足を見せられた
の3つの感想に集約しそうで怖い。それなりに楽しんだ柿喰う客なんか、今観たらただの馬鹿騒ぎとして片付ける。そういう気分を説明した上手い文章があったのでご紹介。日経ビジネスオンラインの人気コラムだからすでに読んだ人もいるんじゃないか。全文読んでほしいので一部だけ引用すると
でも、やっぱり、ダメなものはダメだ。私はついていけなかった。
思うに、これは一時的な気分の問題ではない。
ああいう規模の災害に遭遇すると、ものの見方の根本のところが変わってしまう。
少なくとも「娯楽」についてはそうだ。震災の前と後とでは、こちらの心構えに微妙な違いが生まれている。
「パラダイムシフト」という言葉を使うのは、大げさかもしれない。でも、震災の前までは他愛なく笑って受け止めていられた様々なものが、受容できなくなっている。ということは、やはりこれは、気分の変動というよりは、人生観の変容に近い何かが起こっているということなのだ。
たとえば、お笑い芸人のうちの幾人かは、私にとって、向こう2年ぐらいは顔を見たくない存在になってしまっている。震災前から、特に歓迎して見ていたわけではないが、それでも、これほどまでにうとましく感じてはいなかった。そう思うと、この違いは大きい。これから先、色々な分野でキャスティングが少しずつ変わってくるかもしれない。
となる。次のページではもっと直接書いている。
私は、気が向かないのに旅行に出かけ、見たくもない演劇のチケットを買って、その2枚綴りの指定席をエサに、口説きたくもない女性宛にメールを送らないといけないのだろうか? そうしないと現代人として失格なのか?
冗談じゃない。
朴念仁と言われようと、貧乏性と指弾されようと、私は自分の蟄居傾向を改めるつもりはない。劇団四季のチケットなんか買わない。オペラにも行かない。あたりまえだ。
このまま行けば、オリンピックでもワールドカップでもそうなる。少なくとも自分は、もう箱根駅伝を風物として眺めることはあっても、楽しんで観ることはない。
あえて乱暴な言い方をすれば、これをきっかけに雑魚劇団が淘汰されるのは歓迎するけど、普段から「芸術の力」と繰返し唱えていた人たちがこれからこの現実を超えられる芸術を提示できるのか、それともゲイジュツゲイジュツ詐欺だったのかが気になる。
ただの観客が偉そうにいうのもなんだけど、これから観る芝居(少なくとも今年はあと何本か芝居を観る)は芝居を観るという形を借りて、芸術の一分野である芝居の力がどこまで本物かを確かめに行くことになる。脚本に書かれたひと言、そこに立つ後姿、全体を貫く確かなビジョン、それらを支えるスタッフワーク、そういうひとつひとつが、芝居の力を確かめるための「値踏み」対象になる。
そういう世の中の状況を踏まえてなおかつ、その人たちが現実と、あるいは現実より大きい何かと、全力で向き合って作った芝居に出会えるとは、正直に書けば、信じていない。芝居の力のポテンシャルがそれだけ高かったとしても、それを引出せるだけの関係者がそんなに大勢いるとは思っていない。
ただ、心の片隅では、オリンピックやワールドカップよりも大きいなにかに到達する芝居もあるんじゃないかとも思っている。だからしばらくは、期待しないで観に行く。
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