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2011年8月12日 (金)

虚構の劇団「天使は瞳を閉じて」シアターグリーン BIG TREE THEATER

<2011年8月11日(木)昼>

原発事故で放射能汚染が懸念されるある地域。様々な理由でその地域に入りこんだ、あるいは避難し損ねた人たちが、大きな透明のドームで内部に閉じ込められる。そこから外に出られないことに観念した人たちはやがて町を作り、生活を始める。それからしばらくして、放射能で人類が絶滅した世界の監視に飽きていた天使たちが、このドーム内で暮らす人間に興味を持つ。そしてそのうちの一人はうらやましさが高じて人間になると言い出す。

鴻上尚史の代表作とのことで、一度くらいは観ておきたいと思ったので当日券を買ったのですが。結論は、観なければよかった。いくつか感想を読む限りそこまで悪くはないので、観た回の出来が悪かったのかもしれませんが、グダグダでした。

まずオープニングが駄目。今の原発事故に合せて書換えたと思うのですが、それをあの気の抜けた芝居でやられても困る。今の内容に書換えるなら、実際に避難生活中の人が観にくるかもしれない、くらいの緊張感を持ってやってもらわないと困る。せめて福島県出身の友達が観に来る、くらいの想像力はなかったのか。

そこからしばらく緩い芝居が続いて、いろいろ変化の出てくる後半に少し持ち直すのですが、それが続かない。なんかムラっ気のある芝居になるので、個々のエピソードでいい感じの場面はいくつかあるのですけど、それがまとまってひとつの話にならない。それぞれの役が唐突に行動して勝手に終わる感じ。だから観終わってから、これが本当に代表作なのか、と疑問に思いました。役者が駄目でも脚本がしっかりしていればもう少し観られるものになると思うのですが、役者や演出に依存しないと良さが出せない脚本なのではないでしょうか。

他には設定。テレビもある、というのはいいのですが、ソーシャルメディアもある、となった時点で設定としてはアウト。ソーシャルメディアといったらインターネットが前提で、それなら外部の人間が絶滅していることを誰も知らない、少なくともその可能性を疑わないのはおかしい。あと、天使から人間になった時点で記憶が残っているのが前提の台詞はいくつかありましたが、それなら外部の人類が絶滅しているのは知っているはずで、それでいて後半の周りの行動に対するアクション不足は納得がいかない。

あと選曲。歌詞のある曲をかけるのは勇気のいる行為だと思うのですが、結果としてくどいし、古臭い印象を残しました。

その中で、ちょっとキャストを確認しわすれたのですが(こちら参照)、天使は小沢道成、人間になった元天使は大杉さほりであっていますでしょうか。天使役の人は終始安定していて、あるいはたまに引込まれました。あと元天使役の人は、明るい声がいい感じでアクセントになって、逸れそうになる注意を舞台に戻してくれました。正直、この2人がいなかったらブログに書くのもためらった。あと、舞台装置や衣装は同クラスの舞台と比べると手間がかかっていて、それは料金に見合ったいいことだと思います。

ただ、いいところを挙げても、大前提としての不満は消えない。これが2000円の芝居なら学生上がりの芝居として見逃せましたが、4000円(昼間で割引の回)では見逃せない。値段が2倍になったら質は2乗倍(4倍)になっていないといけない。鴻上尚史がロンドンで演出するので手を抜いた、鴻上尚史に演出家としての能力はないがそれでも通用するほどロンドンのレベルが低い、この役者陣は優秀な演出家がついてもそれに応えられる能力が足りない、のどれか(または複数)だと思います。

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コメント

あまりにも独善的で自己に対する批判・懐疑がなさすぎるので書きます。作品では、「未来、または平行世界で」と繰り返し出てきたはずです。福島の問題を直接描くのが目的ではないでしょう。「冷温停止」しかところから始まる物語だったはずです。また、テレビが外部を映さないことが不自然でないように、町の中でソーシャルメディアが完結していることも、町の人たちには不思議ではないと思います。あなたの定義するソーシャルメディアが、外部が必要不可欠だと言うのなら、テレビもまた地球規模で映されてことは不自然だと思いませんか?そして、テレビどソーシャルメディアをしたり顔で区別して揶揄するあなたが分かりません。
また、元天使が外部のことを知っているからこそ、マスターは止めたのだと思います。

と、書いても、あなたの批評は天才的ですから、無意味ですか。コウカミの才能とは比べ物にならないのですね。失礼しました。

>匿名さん

オープニング、ソーシャルメディアの設定、元天使の設定の3つの指摘についての返答です。

オープニングについて言えば、この話が書かれたのはもっと昔とはいえ、それを今上演すれば、いくら「未来、または平行世界」と書いても観る側が現実を連想するのは自然なことだと思います(たとえば、他の芝居で「総理大臣」という登場人物が出てきたら、今なら管総理をまっさきに想像します)。すべて舞台上の設定をそのまま観客に受取るように強制するのは無理な話です。そして、仮に現実抜きで舞台上の設定をそのまま受入れたとしても、私の観た回は、オープニング場面の気の抜けた芝居は、下手としか思えませんでした。これは主観によるものなので何を持って上手下手かと問われると困るのですが、私が観た回が特にひどかったかもしれないので、匿名さんの観たステージが何日のものなのかも教えていただけるとありがたいです。

ソーシャルメディアの設定についていえば、テレビは取材する人が取材した場所の情報しか撮影できないので、壁があることを知っている町の住人たちにしてみれば、壁の外の情報を放送しないのは自然です。でもソーシャルメディアと言った場合、観客の私はインターネットを想像し、それは海外ともやり取りできるものだろう、でも壁の外の情報がない(あるいは更新されない)ことを町の住人は誰も疑問に思わないのか、不自然に感じました。一般論として、現実の日本にはYahoo!-楽天-Mixi派とGoogle-Amazon-Facebook派がいて、前者は国内ですべて完結しているので海外の情報は何も気にしないというのは知っているのですが、経済が回る程度の数の住人がいて、すべてが前者というのは、設定としては強引だと思います。平行世界とはいえども海外も存在しているのは劇中のナレーションにも出ていたので海外が存在しないということはありませんし。

元天使について言えば、マスターの台詞がまさにそうで、それならテンコはなぜ積極的に壁を壊すことを防ぐような行動を、せめて身近な人たちにだけでも取らなかったのか、そこの説明がなかったので、この違いは観終わっても疑問のままです。

その上で、それよりなにより、私が観た回は全体に演技演出が下手だと思いました。繰返しになりますが、これは観た人の主観によりますし、私はまだ上手下手を言葉で説明できませんので、申し訳ありませんが議論しません。ご了承ください。

以前「東京原子核クラブ」が観たい、とコメントさせていただいた者です。私は六角形さまより前に観劇しましたが、同じような「観なければ良かった」的な感想を持ちました。自分のブログにも書きませんでした。戯曲を現在にアップデイトするにしては中途半端、それくらいなら冒頭はなかったほうが、と思いました(下手に想像させてしまうからです)。また初演時のメディア環境(電通+テレビが牛耳っている時代)から、20年経ちこれらがオールドメディア化している中でメディア権力の押し出し方も時代的なずれを感じて仕方ありませんでした。むしろ、80年代の「時代劇」として出していただいたほうがよかったと思っています(チェルノブイリがあったんですから)。それこそ、このお芝居を面白いと思っている人はたくさんいるわけで単に自分には合わなかったのかもしれませんが「有名な戯曲だからってありがたがるものではない」は同意です。こうやって「つまらないよ」って言ってくれたほうが「ああ、私以外にもつまらないって思った人がいたんだね」と思ってもらえる。少なくとも私はそうでした。率直に書いてくれてありがたいです。

壁の内側で新たに作り出されたインターネットをどうやって壁の外とつなげるのですか?

>らっかせいさん

どうも。80年代の時代劇でもチェルノブイリがあったのだから、というくだりに賛成です。それだとまた印象が変わったかも知れません。

>匿名さん(2011年8月16日 (火) 11時44分)

最初のコメントと同じ方でしょうか。同じであれば何かしら適当な名前を入れてもらえると助かります。違う方でしたら初めまして。

返答ですが、そこは特に劇中に答えはありませんでしたので、私にも正解はわかりません。ただ、新しく壁の中に構築するのは相当の人力と資材が必要だと思いますので、すでにある通信網をそのまま活用していたのだと考えていました。あと、今どきなら無線はありだと思います。で、それが外界と切断されたとは考えていませんでした。

こういう点、芝居の勢いがある臨界点を超えると「細かいことはどうでもいい」と思えるようになるものですが、そこに届かないと、逆に気になってしょうがないものです。

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