(ワークショップ)新国立劇場演劇研修所「NNTドラマスタジオ オープンスクール(2日目)」新国立劇場内稽古場
読む際の注意事項は目次をご覧ください。
<1限目「演技を考える」西川信廣>
- ストレッチから。ジャンプは重心を上に放り投げるように。背中を叩く前と後とで前屈の伸びが違う。
- 芝居を構成する具体的な要素は何か(劇場、演出家、役者、美術、観客、照明、、、)。その中でなくてもいいものは何か。
- 最後に残るのは役者と観客。役者は芝居になくてはならない重要な役割。観客もいないといけない。観客がいないところで上演しても上演にならない。
- 役者に求められるものは何か。集中力と解放。集中力は自分の内部ではなく外部に向ける集中力のこと。解放は無意識のうちにガードしがちな自分を解放すること。
- 他にコミュニケーション能力、イマジネーション能力が求められている。
- それらを総称して、「反応力が求められている」と定義する。
- ゲーム。数字の伝言ゲーム、007、小さなちょうちんと大きなちょうちん(?)、動物の伝言ゲーム。
- ゆっくりやれば間違えないがつまらない。他の人が流れを作ったらそれに乗る。あるいは自分で流れを作って乗る。そこで難しそう間違えそうと思って流れをパスしたらいけない。間違えを恐れずに乗る。スピードを早くするのは手っ取り早く流れを作るひとつの方法。
- 芝居は脚本があるので、自分の番の台詞だけ話していてもなんとなく話は進む。(いつ自分が指名されるかわからないような)ゲームでは常に周りに注意を払わないといけない。でもそれは芝居も同じ。
- 前の人が大声を出しても次の人が小声にすると、その次の人が大声に戻すのには大きなエネルギーがいる。そこで落としてはいけない。
- 中途半端な声や動作で次の人を指名してはいけない。相手に伝えたい何かを声や動作に込めないといけない。別の言い方をすると、相手をどう動かしたいか。自分でどう表現するかではなく、相手にどうしてほしいか。
- そうやると、相手が追込まれて、追込まれた相手の返しにこちらも追込まれて、ぎりぎりの勝負になる。そのぎりぎりの線を追求することが芝居の質を上げる。
- 追込まれた結果、失敗することもあるが、その失敗が頭で考えた演技を超えたいい結果であることもある。ただし失敗のための失敗を狙ってもいい結果は出てこない。稽古のときから、ぎりぎりの線を狙ってたくさん失敗することも必要。
- 動作の演技で相手に伝えるためには、伝えたい内容を、正確にイメージして演技をしないと伝わらない。
- 脚本の台詞は変えられなくても、相手に何かを伝えるための「間」と「(感情の)強弱」は役者に任されている。手取り足取り教える演出家もいるけど、自分は役者を通した反応の流れを大事にしたい。その流れが最初から最後まで上手くつながったときに、観客もその流れに乗れて空間を共有でき、いい芝居になる。
- いい芝居は、「観た」よりも「触れた」と形容したい。視覚はだましやすい。同じ空間で同じ空気に触れて過ごしたのだからこちらの表現のほうが好き。
ストレッチの小技で驚かしてから、トーク、ゲームと非常に上手な進行。そしてゲームを行ないながら、芝居の演出で何を狙うのかを的確な言葉で指摘されて、ゆるかったゲームが緊張感を持つようになる一瞬を観ることができました。関係者にはとても初歩的な内容かもしれませんが、芝居を観る側として、自分が考えるよい芝居を構成する基本のパーツをわかりやすく提示してもらい、とても参考になりました。
西川信廣演出芝居にはまだ縁がないのですが、いずれ観たいと思います。
<2限目「声と演技」池内美奈子>
- 初日のように体の確認。気持ちいい箇所を見つけて、その気持ちよさに乗る。気持ちよさはセーフティーネットなので、それを無視して体の動きを試すと怪我をするので注意。確認の一環で目をつぶってもいいが、これは最終的に演技に還元されるので、目をつぶらないとできないということがないように。
- 動くとき(走るとき)。眉間の奥を緩める。あごを緩めて口を指1本分くらい開ける。呼吸を止めない。
- 歩きながら読む(1行読む、歩いて止まる、次の1行を読む)、座って読む、歩きながら読む(1行中のスペースがある箇所でターンを入れる)、また座って読む。歩きながら読んだ場合と、座りながら読んだ場合とで、文章の意味の理解にどれだけの違いを感じるか自分の声を聴きながら文章を理解しようとした場合はどうか。
- 台詞は常に芝居中のその瞬間の気持ちで話す。脚本の台詞は、その場面の台詞の言い回しのためにあるのではなく、その役がその場面でそのような思考、気持ちになることを理解して役作りするためにある。
ストレッチは最初目をつぶってやっていたのがちと失敗でもったいない。声を出したのは2日目からで、動くことが読むことに影響を与えることが発見。これは3日目にもっと面白くなる。
<3限目「西洋演劇における舞台での立ち方の変遷」河合祥一郎>
- 芝居を続けるためには自分の中にコアがないといけない。コアがないと流される。コアとは知識。その一環で舞台上の立ち位置の変遷を説明する。
- 小さな劇場で作った芝居をそのまま大きな劇場に持っていっても合わない。逆も同じ。空間によって求められる芝居は違う。
- 最初の演劇はギリシャ。アポロンが知性の、ディオニュソスが感性の神様で、演劇は後者に属した。当時の劇場は1万4000人収容という規模。
- 当時は手前の広場でコロスが歌いながら踊り、舞台で台詞を話す役者はひとりだけ、仮面をかぶって、場面ごとに取替えて、演じられていた。それが役者が2人、3人と増えて、それにつれてコロスの人数が減り、今に至る。
- そのころの舞台をプロセニアムと呼んだ。役者は仮面をつけて台詞を話すだけで、演技しないし動かない。だから当時の舞台は細長く、役者が立てるほどの幅しかない。仮面をつけるのが前提の場合、前が見辛いので、動くのは危なく、声でしか勝負できないという事情もあった。仮面は声がよく通るように口元が大きく開いていた。
- コロスが歌い踊っていた円形のスペースをオーケストラという。ギリシャでは円形、ローマでは半円形、やがてオーケストラピットになる。
- ここでシェークスピア。台詞で意味だけを伝えればいいというのは間違いという話。
- 西洋の場合、「ライム(押韻):文章の末尾の発音が同じもの、偉い役の台詞という位置づけ」「リズム(韻律):文章の強弱のリズムが同じもの、庶民役の台詞という位置づけ」の2種類の韻がある。韻文という場合、日本人はライムだけをイメージしがちだが、リズムだけでも韻文という。リズムの例は、シェークスピアが好んだ弱強5歩格など(参考)。
- イギリスでは、シェークスピアの時代のような形の小さい劇場を小指を動かしただけの演技でも伝わるという意味で「Little Place(?)」、プロセニアムアーチがあるような大きい劇場を「Main House」と呼んで区別することがある。立ち位置によって客席から演技が見えないMain Houseを嫌い、客席から舞台が近く感じられ、どこからでも舞台がよく見えるLittle Placeを好む役者も多い。
- シェークスピアは1564-1616(「人殺し」の芝居を「いろいろ」書いた)の人。この時代の劇場はプロセニアムアーチのない張出し舞台で、3面が客席になるような台形。シェークスピアの死後、1618年に初めてプロセニアムアーチがついた劇場が立てられた。
- テント型の小屋や、街頭の簡易舞台(?)でもよく上演されており、その場合の構成は昔の劇場と似ている。「舞台はLocus(ロクス):正式な役者が韻文を話す場所」「舞台前の円形スペースはPlatea(プラテア):道化が散文を話しながら客とコミュニケーションをとる場所」がセット。道化は客を呼止めるのが役目。
- その後、スタニスラフスキーがプロセニアムアーチに「第4の壁(プロセニアムアーチのあちらとこちらで違う世界というリアリズム)」という理論を提供することになる(1902年)。それまでは、目の前に観客がいるのは舞台上の役者も承知の上で演じるのが前提。ちなみに、客電を落としたのはワーグナーが最初(1876年)。どちらも結構新しい。
- シェイクスピアシアターと能舞台は似ている。それは目の前に客がいることを前提に演じ、舞台装置がなく、台詞一言で場面転換をしていた時代(この時代の舞台の構成は世界中で似ている)。プロセニアムアーチはリアリズムを目指し、幕を閉じて開いたら別の美術に変わる。
- 独自の分類では、「シェイクスピアや能、歌舞伎のように、観客に向かって演技をし、時空を観客と共有するのが役者」「近代劇のように、戯曲の虚構の中で自分の中にリアルを作って演技をするのが俳優」。どちらがいい悪いではなく、現代の役者は脚本や上演空間によってモードを切替えて両方ができて一人前。スタニスラフスキー・システムは「俳優」のためのものにとりあえず区分。
- スタニスラフスキーの本で前半で挫折した人がいるかもしれない。あれは前半は非常に読みづらいが、後半に台詞を届けることなど、大事なことがたくさん書かれている。読むなら後半まで読んだほうがいい。
- 良い劇場。空間について。良い劇場は客席から舞台が近く感じる。つまり舞台からも客席が近く感じる。役者はその近さに耐えられないといけない。役者はどのような空間でも演じられるように、新しい空間を見るたびに、どうやってその空間を使うか、肉体的にどう調整すればいいか、常に考えることが必要。
- 良い劇場。音響について。声がよく響くのはいい劇場。ただ、稽古場の音響がよくても、劇場の音響が悪いこともある。大勢の客が入れば(人間の体は音を吸収するので)音が悪くなることもある。台詞の意味を伝えるのにいっぱいで、声の調整まで気が回らない役者もよく見かけるが、そういうこともできないといけない。
- 同時代の劇場は形が似ている。シェークスピア時代の劇場と、中国の京劇用の舞台は似ている。日本の能舞台も似ているが、これは中国の影響では。
- 知識を得ることで何がなぜ大事なのかを再確認することができる。台詞の意味と感情とを結びつけること以外にも大事なことはたくさんある。一例。ハムレットで「Do it, England」という台詞があり、それを「殺れ、イングランド王」と訳したが、相手役に「弱い、原文の破裂音(Doの頭、itのt)の勢いがないから殺したいと思えない」といわれ、訳しかねて台詞をいう吉田鋼太郎にアドリブをやってもらったら「ぶち殺せ、イングランド王」と出てOKが出た。こういう(破裂音のような)ことにも気をつけることが大事。
劇場の推移を通じて、観客がいることを前提とした芝居と、観客がいないことになっているリアリズムの芝居との2種類に分類した名解説でした。いままで演技(演出)のタイプをどう区分すればいいのかが困っていたのですが、演技と演出のよしあしというか、相性を判断するときに、この分類が非常に役に立ちます。
<サロン「(タイトル失念)」中島しゅう>
- ロンドンでの半年の映画撮影帰り。
- 好きな劇場はベニサンピット。芝居は贅沢な仕事で、空間を選ぶ。ベニサンピットは使いにくいようで工夫次第でいろいろできて、客席まで含めた大きさも手ごろで、なくなったのが残念。
- ヨーロッパだと、昔なにかに使われた建物がそのまま残っていて、使われていたころのエネルギーも残っていることが多い。それを生かした演出を考えたりもする。
- 役者という仕事にはそれまでやってきて無駄になることがひとつもない、年齢にも関係ない。役者はそれが得。
- 劇団を辞めて役者も辞めたはずだったが、声がかかって後1本、後1本とやっているうちにここまできた。その声を毎回かけたのが栗山民也。これまで芝居を好きだと思ったことはなかったが、ロンドンで30本くらい芝居を観たらすごい面白くて、自分が芝居が好きだと初めて自覚できた。
- 劇団時代に山本嘉次郎(黒澤明の師匠)に言われて今でも覚えている言葉。「(芝居でも音楽でも絵でも)一番最高のものと一番最低なものとを知っておきなさい」。
- 芝居とは何か。まず聴くこと。きちんと聴ければ自分の台詞は自然に出る。ロンドンでリチャード三世に出ていたKevin Spaceyのリチャードがアン王女をだます場面の聴き方は観ていて笑ってしまうくらい上手かった。外国のストレートプレイを観るのは、言葉がわからない分だけ肉体の使い方を観るのに集中できる。日本の役者も、きちんと聴くことができれば、言葉の問題以外は世界中で通用する。
- 恥ずかしさには種類がある。日常の恥ずかしさと仕事の恥ずかしさがある。それが仕事であれば、日常の恥ずかしさは克服してこなす。その克服のためにいろいろな技術を習得する(ここのメモは自信なし)。
- 稽古から本番まで、1回や2回は必ず落込むような失敗をしでかす。そこからのメンタル面での回復方法はそのときどきなので定番の方法はない。ただ、芝居が好きな人は、この失敗と回復まで含めて好きだったりする。
- ひとつだけ後悔していること。若いうちに外国にいかなかったこと。借金してでも行っておくことを勧める。若ければ若いほどいい。芝居に限らず、またどちらが優れているということではなく、まったく違う文化に現地で触れることは見るもの聞くもの何でも刺激になる。
経歴の自己紹介がまた面白かったのですが、だいぶ割愛させてもらいました。聴くことを非常に強調していて、これだけキャリアが長い人でもそういう結論なのかと驚きました。
あと海外は、単なる旅行でも発見があって楽しいですよね。そこは賛成。
ここまでで2日目終了。
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