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2011年8月27日 (土)

スタニスラフスキーではないどこかへ

この前観て面白かった勢いで谷賢一のブログを読んだらあんなことこんなことが書いてあった。詳しくは読んでもらうとしてひとつ抜出すと

役作りは演出家の仕事じゃないし、戯曲を解釈して決め打ちすることも演出家の仕事じゃない。数ある選択肢の中から、一つを選びとること、方向を指し示すこと、それが究極的には演出家の仕事だ。そう考えると具体的な文言をできるだけ避けたいのだが、しかし具体的に伝えた方が意思疎通は早くイメージも簡単に伝わる。完成も早い。そして俺は舞台を掌握し、支配できる。

しかし、今考えていることは、演出家が舞台を支配しちゃいけないんじゃないか、というようなことなんだ。世界の中心にはいるけれど、自分では思いつかないあれこれを見出すこと、それは俳優やスタッフの力を待たなければならないし、演技やテクニカルマターに関しては、俳優やスタッフの方がプロフェッショナルであるはずだ。だからなるべく決めたくないと思っている。

さらに同じようなことは観損ねたパラドックス定数の野木萌葱もここここで書いていたのを思い出した。

さて、稽古の様子を少し。
みんな、自分の刀を自分の得意な方法でしか振り回してないなあ、と。
あなた達が、そう演じるであろうことは残念ながらもう知っているんだな、私は。
なまじ間違っていないだけあって始末が悪い。

出演者に何をやってほしいか、もっと緻密な言葉にしないとな。
でも、私のやってほしいことしかやらない出演者なんてな。

つまらん。

これってこの前のオープンスクールで勉強した、演劇研修所が目指していたいい役者、いい芝居の理想像と同じですよね。

ところで、このオープンスクールの後に何を血迷ったかスタニスラフスキーの本なんて3巻まとめて買って、まだ1巻の途中を読んでいる最中なんですけど、読んだ端からオープンスクールの講義のあれこれや今まで観た芝居のいろいろが連想されて、結局スタニスラフスキーの目指すところがこの人たちの理想とする役者なんだと自分は理解しました。そして自分が気になるところの「正直な声」の正体は、この路線を極めたときに出てくる声だとも気がつきました(あるいは偶然、瞬間最大風速でその域にかすった場合の声)。そう考えると、今でも本が読まれているこの路線を言語化しようとしたスタニスラフスキーはすごいです。すごいんだけど。

この路線を生み出した欧米がこの方法で役者を育てるのはわかるし、それがいいと思った日本人が採用するのも構わない。でも、この路線を日本でスタンダードにするべきかと言われると、迷う。

自分が芝居を観始めたのは惑星ピスタチオが最初で、新感線は「ドラゴンロック2」が出会いで、松尾スズキは「キレイ」初演で、野田秀樹は野田地図の「半神」で、まあ初見の出会いには恵まれているほうです。で、こういう1980年代から1990年代小劇場の流れの最後のほうを少しくらい味わった身としては、こっちのほうが歌舞伎の流れを汲んだ、日本の芝居の路線じゃないのかという疑問が消えません。野田秀樹がいうところの「省略と誇張」であっているかな。

それは演出家の個性であって役者の個性ではないといえばその通りなのですが、その個性を体現するような役者がスタニスラフスキーの路線で生み出せるかというと、それはよくわからない。あるいは、スタニスラフスキー路線で鍛えて、あとはモードの切替で対応できると反論されると、こちらとしては再反論の根拠が見つからない。人によっては、あの手の芝居は本来サブカルチャーに区分されるべきであって、あれがメインストリームに出てくるのはスタンダードな理論がないからだ、スタンダードの確立にスタニスラフスキー路線を利用するべきだと言うかもしれないけど、それはようわからん。役者・宮藤官九朗は大人計画だけどスタニスラフスキー路線に観えるし、野田地図にもよく出ている渡辺いっけいは「毎回新鮮にやるほうの役者」って山崎努は書いていたし(あれ、「俳優のノート」って今は絶版?)。

それでも、あの手の芝居に一定数の観客動員実績があったことを考えると、20世紀後半小劇場路線というのは、もっと突詰めると世界に冠たる路線を確立できるんじゃないのか、スタニスラフスキーに対抗できる路線の確立について数少ない可能性を持つ国が日本の文化と芝居なんじゃないのか、という願望のような期待のような根拠のない確信のようなものがなくならないんですよね。平成中村座みたいな歌舞伎そのまんまではなく。

教えることはできても育てることはできないと書いたのには3つの意味を込めていて、一つ目は研修所で3年学んでもスタニスラフスキー路線の演技が身につくかわからないこと、二つ目は演技が身についてもそれで世に出られるかどうかはそれ以外の要因が無視できないくらい大きいこと、そして三つ目はこの路線の演技が身につくほど20世紀後半小劇場路線が出来なくなる可能性がありそう、というものです。もちろん、スタニスラフスキー路線自体の価値は変わりませんし、この路線が自分には合っていると感じている人を否定するつもりもありませんし、短い人生で演技の路線をひとつでも身に付けようと考えるならそれなりに教育環境の揃った路線を選択するのもありだと思います(その場合、演劇研修所は有力候補になると思います)。

ただ、オープンスクールで学んだ内容の価値とは別に、自分の中で湧いて言語化してしまったこのもったいない感を、どうやって処理すればいいのか、非常に困ってます。なのでブログにだらだらと長文を吐き出したりしているのですね。やっぱりこれも勉強して処理しないといけないんだろうか。

いや、オープンスクールってたったの4日間だったんですけど、すごい密度が濃かったので3日目だか4日目だかが終わったときに酔ってすこし気持ち悪くなるくらいだったんですよね。それが抜けるのに2週間かかって、抜けてくると消化が始まって、いろいろ新しい疑問も湧いてきて、見巧者の観客を目指すのも楽じゃないとか考えながら勝手に悦に浸っています。ただのバカですね。

終わる前に、冒頭で引用した2人がオープンスクールと同じ事を言っている箇所があったのでそれを引用。最初は谷賢一。

僕も演劇を初めて15年になろうという人間なので、人生で数々の「たいしたもんだ」って俳優とご一緒してきた。友人付き合いがあったり、恋人付き合いがあったりして、一緒に映画を見たりビデオを見たり芝居を見たりしたことがある。で、「たいしたもんだ」って俳優は、映画や演劇を見ながら、その場で手先や表情を動かしている場合が多々あるんだな。それはつまり、観ながら、自分にそれがやれるだろうか、自分ならどうやるだろうか、そういう稽古をしているということなのだ。

こういう勉強方法を覚えた俳優は、そりゃあ強いよな。CM観てても、TVドラマ観てても、あるいは駅のホームの喧嘩を見てても、稽古になるんだから。

宮田慶子が言っていた「映画や芝居を観客目線で観て楽しかったとか言うな。あれは商売敵だ。他の役者がどうやって表現しているのかをよく観察しろ」ですね。で、自分は物語を追うのに目移りしてしまってなかなか観察できないのですが、この「手先や表情を動かす」というのはよいTipsです。客席で本当にやっていたら迷惑ですけど、そういう感覚で観察するってことですね。昔、ギターに触っていたときに、曲を聴きながら左手でコードを押さえるような仕草をしていたことを思い出しました。

で、野木萌葱。

しかし、何だね。
人間の身体というものは面白いね。
「歩いてください」
と指示を出したら、ハンパない悲壮感と緊張感を漂わしながら歩き出した出演者六名。

すげえ。
なんだこれは。
まるで人間奴隷。

そうか、私が稽古場で「歩いてください」と指示を出したならば、彼らは「このように歩けばいいのだな」と判断して身体を動かしているのだな、と気づいて愕然とする。

ここで「普通に歩いてください」と指示を出したら、「普通じゃわかんねえよ」と眼を三角にされてしまうので。

「ええっとですね、もっとリラックスしてください。思い詰めなくて大丈夫です。歩くことを楽しんでください。歩いて前に進むことが、芝居の始まりとシンクロすればいいなあ、なんて思ってるんだぜよう。イヒヒ」
…語尾が何故か妙な具合になる演出。

これは小野寺修二が言っていた「端から端まで歩く。こういう指示を出すとたいてい不自然な歩き方になる。きれいに歩こうとすると変。ホームの向こうから歩いてきたら避けたくなるような」「ニュートラルな動きとは? 正解はない。ただ、もしそれに近い動きができるのであれば、演出する側はそこに指示を足せる。『普通に歩いて』という指示で役者に変な歩き方をされると、演出のしようがない」という、もうそのまんまですね。

4日間で身体を鍛えるのは無理にしても、演技の路線や注意事項については学ぶことが多かったですし、勘のいい役者ならあれだけで4年は戦えるんじゃないかと本気で考えています。だから、つまらない芝居を撲滅するためにも、演劇研修所は定期的にオープンスクールを実施するべきだと希望しています。あと、入所になると3年間外部の舞台を踏めなくなるのは役者としてはつらいので、1年単位だったり、毎年どこかの時期に定期的に集中講義を開いたりして、学ぶためのパスをふやせるといいとも思っています。

ついでにその結果として、スタニスラフスキー路線は自分の目指すところではないと気がついて、20世紀後半小劇場路線を確立してくれる人が出てきてくれないかとも期待します。路線は2つ以上の選択肢があったほうがいいですよ、やっぱり。

でも、スタニスラフスキー路線は、というか芸事全般は、講師の質に依存するところが大なので、そんなにいきなりは増やせないよな。予算の問題も大きいだろうし。でも、特にスタニスラフスキーは講師の質に依存する割合が高い気がする。人間の外部にアウトプットがある芸事と違って、人間の内部にもアウトプットが必要だから、何がゴールかを正しくイメージするところまでが遠い。自分もオープンスクールに参加していなかったら本を読んでもつまらん小説と切って捨てていたかもしれない。

どれだけ書いても終わらない。消化が足りない。

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