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2011年10月30日 (日)

2011年11月公演のメモ

あいかわらず年末が多すぎて忙しい。東京公演初日順に。

 

・文学座「岸田國士傑作短編集」2011/11/04 - 11/13@紀伊国屋サザンシアター:縁あって観てみたいところだけど日程微妙

 

・ホリプロ企画制作「炎の人」2011/11/04 - 11/13@天王洲銀河劇場:役者に惹かれるものがある、本当は3月に観たかったんですけどいたしかたない

 

・ナイロン100℃「ノーアート・ノーライフ」2011/11/05 - 11/27@下北沢本多劇場:初演は観たけど全然覚えていない再演モノで、タイトルに何か込めるものがあるのかないのか

 

・世田谷パブリックシアター企画制作「往転」2011/11/06 - 11/20@シアタートラム:最近乗っている桑原裕子の脚本を青木豪演出で、高田聖子が出ている

 

・イキウメ「太陽」2011/11/10 - 11/27@青山円形劇場(11/10はプレビュー公演):脚本演出に心配はしていないけど、役者は成長したんだろうか、観るなら後半

 

・東宝・キューブ企画製作「ヴィラ・グランデ青山」2011/11/11 - 11/27@シアタークリエ:生瀬勝久と竹中直人を相手に倉持裕がどこまで戦えるか

 

・新国立劇場演劇研修所制作「ゼブラ」2011/11/11 - 11/13@新国立劇場小劇場:鈴木裕美演出にこの演目を持ってくるセンス

 

・キューブpresents「有毒少年」2011/11/15 - 11/26@CBGKシブゲキ:以前、制作がぐだぐだだったという話を取上げていますが、芝居の内容に限れば評判はよさそうな末満健一の再演モノ

 

・パラドックス定数「戦場晩餐」2011/11/19 - 11/23@渋谷 SPACE EDGE:まだ1回しか観られていない、いつも日程の相性が悪いパラドックス定数

 

・メジャーリーグ・ジェイ.クリップ企画製作「おやすみ、かあさん」2011/11/26 - 12/04@あうるすぽっと:白石加代子と中嶋朋子の2人芝居

 

・第三舞台「深呼吸する惑星」2011/11/26 - 12/18@紀伊国屋ホール:自分の中でまったく評価の定まらない鴻上尚史をまじめに観るならホーム劇団でとおもいきや解散公演、他に年内に横浜(KAAT)、年明けに東京(サンシャイン劇場)あり

 

全部は当然無理。

 

<2011年11月1日追記>

 

「有毒少年」と「ゼブラ」を追加。初演の「ゼブラ」を観た人としては久しぶりにすごい観たいところに、今回は珍しく演劇研修所公演が土日上演の誘い込み。

2011年10月29日 (土)

TBS・サンライズプロモーション東京主催・制作「志の輔落語 in ACT」赤坂ACTシアター

<2011年10月28日(金)夜>

ろくに人が集まらないマンションの自治会で防犯対策を話し合っていたはずが脱線に脱線して「異議なし!」。なぜか無理や無茶を言う客ばかりが並んでしまったある日の「みどりの窓口」。質屋の旦那が浪人を招いて碁に興じていたら行方のわからなくなった50両、番頭が浪人を問詰めたら工面して返すと言い出した「柳田格之進」。

1本目はかなり無理やり、2本目で調子を戻して、3本目で本領発揮。3本目はよかったし満足したけど、今まで5、6回観た(聴いた)中では一番出来の悪い回だった。

ただ1本目の無理やりも理由はあって、スポーツの話、経済の話、年金の話、天気や交通の話、などなどの枕で客席の様子を探っていたのだけど、今日の客席はなんとなくばらばらで、全員のベクトルが揃う方向が見つかっていなかった。話の内容に賛成反対ならいいんだろうけど、興味がなくて予備知識がないのであればそもそも何のことだかわからない。自分の例だと、スポーツの話でプロ野球のドラフトと相撲の昇進が話題に挙がっていたけど、どっちも興味がなくてチェックしていないのでものすごくどうでもよかった。場所柄、官公庁勤めの人がいたら経済や年金の話は茶化されるどころの話じゃないだろうし。前回が成立していたのがすごくて、1300人もいれば揃わなくても不思議ないというのは今日初めて気がついた。会場選びは主催側の責任なのだけど、規模だけでなく客層の傾向も含めたパルコのよさがよくわかった。あと、枕に苦労する気持ちもようやくわかった。

枕の最中に、「昔はみんなまともだったから噺家が少し馬鹿を言えばみんな馬鹿を聴きに来た気分になれた、今は世間がおかしすぎて噺家がまともに見えるから噺家がまともな話をして客はしゃんとして帰る」というのがあって、これはいい線をついていると思った。

なんか噺の感想が全然ないけど、柳田格之進はよかったとしか書けない。本日はここまで。

死ぬほど働くものじゃない

全部自分で時間と仕事内容をコントロールしてならともかく、不規則な外部対応で100時間越えはきつい。表に出ただけまだまし。気をつけられたし。「【井上ひさしさん死去前後の激務で精神疾患】過労自殺の「こまつ座」社員に労災認定」より。

遺族代理人らによると、渡辺さんは昨年6月1日、劇団事務所が入居する都内のビルから飛び降り自殺を図った。昨年4月の井上さんの死去の前後から時間外労 働が月100時間を超えるほどの激務となり、精神疾患を引き起こしたとみられる。渡辺さんは、井上さんのスケジュール管理など、秘書的な役割もこなしてお り、当時はマスコミ対応などに追われていた。

2011年10月25日 (火)

スタニスラフスキー「俳優の仕事」とベネディティ「スタニスラフスキー入門」を読んだ

「俳優の仕事」は3冊組み(一部二部三部)で、「スタニスラフスキー入門」は1冊。読んだ直後はわからなかったけど、しばらくしたら何となくまとまったので書いてみる。題名どおり、元々は役者のために書かれたものだけど、自分が観客として理解しやすい形に直している。全体に、一度読んでから、内容を後半から前半にさかのぼると理解しやすい。

(1)前提

この本の内容にはいくつか前提があって、

  • ストレートプレイが対象(客席がない前提のリアリズム芝居を提唱した人ですし)
  • すでに完成した脚本だけを対象にしている、あるいは新作でも稽古開始時点で必ず脚本が最後まで出来上がっている
  • 役者は劇場付きで、すでに上演されている芝居に出演しながら、新しい芝居の稽古期間が10ヶ月取れる
  • 時期によって書いていることが違って、初期ほど心理面に重点を置いて、後期ほど行動面に重点を置いている(訳者あとがきでも注意されていたので、途中で本屋で探して「スタニスラフスキー入門」も買った)

あたりを承知していないと、疑問が出てくる箇所がある。

(2)全体構成

まず芝居は次のような構成でできている。

 

  • 究極課題
    1. 状況A
      1. 課題a
        1. 台詞1
        2. 台詞2
        3. 台詞3
        4. ...
      2. 課題b
      3. 課題c
      4. ...
    2. 状況B
    3. 状況C
    4. ...

テーマと言っても何と呼んでもいいけど、芝居には表現したい究極の課題がある。それを構成するためにいくつかの状況が絡み合って用意されている。そして状況はいくつかの課題から構成されていて、その課題を実現するために台詞やト書きが用意されている。大きさとしては、ひとつの場面にひとつまたは複数の課題が含まれるイメージ。

状況や課題が順番に並んでいるように書いたけど、実際にはもっと大小後先が絡まっていたり、複数の状況が課題を決めたりすることもある。文字で書く便宜上、こうやって書いた。あと、場所の都合で台詞と書いたけど、より正確にはには「台詞・ト書き」。あと、台詞は脚本次第だけど、究極課題は演出次第。だから脚本の範囲でいかようにも変わりうる(あるいは強弱をつけ得る)。

で、それに対応する役の構成がある。

  • 役作り
    1. 背景A
      1. 動機a
        1. 行動1
        2. 行動2
        3. 行動3
        4. ...
      2. 動機b
      3. 動機c
      4. ...
    2. 背景B
    3. 背景C
    4. ...

行動というのが、しゃべったり、動いたり、考えたり、何かしら肉体的または心理的に演じること。その背後にはそういう行動をとった動機がある。で、役の人物がそういう動機に至った背景がある。それらをひっくるめて、役作りになる。

行動は、ひとつの動機に基づいてひとつの行動になることも、複数の行動になることもある。あと、「直前の行動」が「直後の動機」になって「直後の行動」を引起すという関係にもなる。背景は、劇中のイベントや人間関係だけでなく、その役の人物がそれまで生きてきた人生とか、その時代背景とか、いろいろな背景がある。だからA、B、...と書いた背景には、いろいろな種類の背景の断片が含まれる。

これらを対応づけるとこんな感じになる。この対応付けが役者の数だけある。もっと言えばスタッフの数もあるけど、この本ではあまり言及していないので割愛。でも同じ理屈で説明できる。

  • 究極課題 <-------------------> 役作り
    1. 状況A <----------------> 背景A
      1. 課題a <---------> 動機a
        1. 台詞1 <-> 行動1
        2. 台詞2 <-> 行動2
        3. 台詞3 <-> 行動3
        4. ...
      2. 課題b <---------> 動機b
      3. 課題c <---------> 動機c
      4. ...
    2. 状況B <----------------> 背景B
    3. 状況C <----------------> 背景C
    4. ...

これがまずひとつ。

(3)役作り

役作りについては、一貫性が重視される。こういう究極課題で、こういう状況が用意されていて、こういう課題の中であれば、こういう背景の下で、こういう動機になるだろうから、こういう行動になる、という原理で出てくる行動が、役ごとに芝居の最初から最後まで一貫していないといけない。別の言い方をすると、(2)の対応付けを全部埋めることになる。

このときの対応付けの埋め方については、時期によって違う。第三部の2章、5章、6章でそれぞれ、

  • 背景を把握してから動機に至って行動に降りていく
  • 課題を把握してから動機を探って行動に降りていく
  • 行動しながら課題を探って動機を決定する

について書いている。第三部の7章では最後のパターンについて説明している。つまり、どんな順番でもいいからやりやすい方法で対応付けを埋めること。

で、このときの「正解」を決定する基準として役者の「総体的な自己感覚」を採用している。それは次で。

(4)演技

第二部の13章に図がある。これだけ役作りの話があるけど、本当によい演技(行動)は無意識の領域から来るとしている。スタニスラフスキー・システムはその無意識の領域のものを、意識の領域に浮かび上がらせるための予備作業という位置づけ。それらは

  • 知性、意思、感情

あるいは

  • 観念、判断、意思-感情

の3つの働きを組合せることで実現できる。これは同じ内容の分類を少し変えたもので、その人の好みでどちらを採用してもよい。

この「知性、意思、感情」あるいは「観念、判断、意思-感情」の3つにどうやって刺激を与えて働かせるか、それが注意だったりテンポだったり交流だったり(以下略、第二部12章までに書かれたいろいろな項目)だが、大まかにまとめると「内的(心理的)な感覚」への刺激と「外的(肉体的)な感覚」への刺激になる。これらを総称して「総体的な自己感覚」としている。

このときに注意しないといけないのは、無意識からの行動をよしとしつつも、「役になりきる」という状態を戒めていること。役としての主観と、その役を演じる役者としての客観を両方もたないといけない。役はその時点での演技でも、役者は芝居の最後まで見通してその場面の課題にふさわしい演技(行動)をすることが求められる。あくまでも、役者本人がその役の役作りの前提に置かれて場面で行動することになったときに、どういう行動をするかが問われる。

技術については、その必要性を認めている。たとえば具体的には発声とか。でも型にはまった演技、紋切り型の職人芸、ある感情を決まった肉体的行動で表現することをとても嫌う。何度演じても、程度の差はあれ、そのつど新鮮な感覚がないといけない、その新鮮な感覚を呼びおこすための、いろいろな刺激方法も説明している。

その新鮮な感覚のいろいろ(行動と動機の詳細)について、おもに第一部で説明している。

(5)感想
「芝居の面白さをもっと分析的にわかるようになりたい」というのが読んだ動機だけど、おかげで「どこが面白いのか」が何となくわかるようになった、と思う。ここから先は雑感。

  • 役者のことを書いても、結果として脚本や演出にも言及することになる。つまり全体を把握しないといけない。それは正しいと思う。
  • この路線を突き詰めた場合、どれだけ役作りが優れていても、演技については「その人自身が魅力的かどうか」ですべて決まってしまうのではないか。でもそれは、案外正しい気もする。
  • ないわけではないけど、役と役(役者と役者)とのインタラクションに関する記述が少ない気がする。それは演出の範囲と言ってしまえばそうかもしれないけど、でも具体的には役者の領分だと思う。「聴く」とか。それに脚本全体の読み解きに関する内容も、役作りに比べて少ない。だから役者を目指す人が読む場合は、書かれていることだけでなく、書かれていないこともたくさんあるという注意が必要。これは、第三部の訳者あとがきに書かれている、役者としては優秀でも演出家としては優秀ではなかったというスタニスラフスキーの限界なんだろう。
  • 役作りの、対応付けの埋め方を決めたのがメソッドなんだろうと想像する。理想論を言えば課題、動機、行動の順番で進めたほうがいいと思う。なぜなら脚本に基づいて進められるので共通の基準を対象に議論できるから。でもそれは脚本が完成していて議論できるだけの稽古期間が取れる場合の理想論か。
  • 日本の小劇場でそんな細やかな稽古が行なわれているとは思われないのに、それでも魅力的な役者が出てくるのはなぜかというのも疑問のひとつだったけど、今回わかった。お互いに付合いの長い脚本家兼演出家と役者とが、その付合いで育まれた「相手の性格に対するあて書き、あて演出」「相手の性格や言葉遣いから求められていることを察する理解力」が、対応付けの大部分を埋められることがあるからだ。それが繰返しはまった場合に、脚本に書かないといけないこと、演出が決めないといけないこと、役者がやらないといけないことが、なんとなく会得されて、育つんだ。
  • 見巧者は、観ながらリアルタイムでこの対応付けを構築しつつ良し悪しを判定できる人。(よい)批評家は、この対応付けを構築した上で、どこがよくて、悪いところはどう直せばよいかを指摘できる人。少なくとも、そうとも定義できる。
  • 観客は芝居の粗を探すが役者は芝居のよいところを探さなければならない、って書かれていた箇所は苦笑いした。俺のことか。でも総合的に観てつまらないと思えばその感想に正直に従うのは観客の「義務」だと思う。無理にありがたがって、つまらないという感想を持ったものを面白いと思い込むのはよくない。
  • 芸術は復讐すると何度も書かれていて、これは面白い考えだったので、いつか掘下げたい。

(6)おまけ:考えられる失敗
対応付けがどこまでできているかが芝居の厚みを決定付けると思うんだけど、あの対応付けに基づいて、失敗するパターンもいくつか分類できると思う。以下に思いついた失敗パターンを挙げてみる。

まずは役者。

  • 大根:演技(行動)が下手なこと
  • 一貫性の欠如:その役のやっていることが支離滅裂に見えて同一人物とは思えないこと
  • 過ぎたる、及ばざる:動機に対して過剰または過少な演技(行動)で動機が伝わらないこと
  • 場違い:その場で求められる課題に応えていないこと
  • 独りよがり:他の役とのインタラクションを無視して浮いた演技(行動)をとること

次に演出家。

  • 意味不明:究極課題が曖昧で何がやりたいのかよくわからないこと
  • 設定ミス:脚本からはありえない究極課題を設定してしまうこと
  • 分割ミス:間違った状況の分割をした演出プランを立ててしまうこと
  • スター主義:特定の役者を引立てようとして脚本の構成を歪ませること
  • 間延び:役者の演技(行動)や役者同士のインタラクションをコントロールできずに流れや勢いを作れないこと
  • 読み違い:必要とされる役者の役作りを見誤ること

ついでに脚本家。

  • 背景不足、背景過剰:役者や演出家が想像するための背景情報が不足していること、または盛りこめないほど過剰なこと
  • 動機不足:一貫性の欠如と同じ
  • 関連不足:状況や課題の対応付けがきれいに分かれすぎていて芝居の奥行きに欠ける(たぶん対応付けが混乱するほど多い分には構わないはず)

とりあえずこのくらい。

(7)改めて感想

書いたらすっきりした。あとはこの枠組みを更新していくことで面白さの分析もできるようになることを期待。

2011年10月23日 (日)

「通訳大事」

「通訳大事」というまとめを見つけたので引用しておきます。

だから、通訳というのは、異なる物語背景を持つふたつをつなげる、融合言語、融合物語を操れる人である、とも言い換えられると思います。とても、貴重な人です。

芸術というか表現一般というか、仮に芸術といっておくと、芸術は言語化しにくい、よくわからない価値を、その人なりの表現方法を通じて「あーなるほど」と鑑賞側に言ってもらうものという側面がある。側面ね。それがすべてじゃない。あと「なるほど」じゃなくても「それは違う」でもいい。違うと言ってもらえるのは伝えたいものがある程度は伝わったことだから。

で、批評とか評論というのは、その分野の物語なり背景なりを理解した上で、それを一般人にもわかる言葉で説明することなんじゃないかと。観客が「面白かった」「感動した」「あの役の人がよかった」という以上のものを提供するにはそこが重要。

そして、批評とか評論とかに説明してもらわないとわからない芸術っていうのは、芸術としては負けなんじゃないかと思う。そもそも芸術は、よくわからない価値を鑑賞者に伝える側面があるから。

だからもし「表現したい」よりも「伝えたい」が前面に出る場合で、かつ伝えたい内容の価値が(少なくとも創る側には)はっきりしている場合、表現の方法は媚びてもいいんじゃないかと思う。「媚びる」っていうと悪い印象になるのでもっといい言葉がないかと思うんだけど、「面白おかしくわかりやすく」っていうと大事な要素が抜けそうなので、あえて「媚びる」といっておく。自分がやりたい、やりやすい方法ではなく、伝わりやすい最適な方法を適宜選んで採用する、というような意味。

何がいいたいかというと、芸術は誰のためのものかという話。この話はいつか自分なりの着地点を見つけたいのだけどまだ見つからない。芝居についていえば、観客として「面白かった」「感動した」以上の適当な言葉を見つけるのが目標。探せば昔からいろんな人たちが議論しているのはわかるけど、まだ探したくない。だからとりあえず今はこんなもんで。

2011年10月21日 (金)

新国立劇場主催「イロアセル」新国立劇場小劇場(ネタばれあり)

<2011年10月20日(木)夜>

ある国の、本土から遠く離れた島。そこの住民は話す声や書く文章に色が付いて見えるという他にない特色を持つ。またその色を捕捉して表示する科学技術が発達しており、住民はその小型装置を持ち歩くことで、お互いがどこにいても誰が何を話したかを確認できる。ある日、島の丘の上に檻が建設される。本土からの囚人を収監するためだという。物珍しさで見物に来た住人たちは、その丘の上だけは囚人にも、自分にも、話し声に色が付かないことを発見する。やがて囚人を相手に打明け話をする住人が増えていく。

なんとなく勘が働いて観に行ったものの、見所もそれなりにありつつ、ポテンシャルの高さと、パートごとのミスマッチがもったいない仕上がり。以下、何がもったいなかったかについての解説を試みるエントリー。

脚本だけを追えば、そもそもの設定に無理があることを含めて、素直に小劇場のノリ、適度な笑いを含めたメリハリとテンポのよさを前面に出して仕上げればよかった内容。ただしそれだと80点には届いても100点越えは無理。そこを演出家は、笑いを意図的に殺して、暗転を多用した舞台転換でテンポを悪くしてまで、登場人物を全力で引っ張りだすストレートプレイの演出に挑戦した。実際、場面の厚みを感じることも何度かあったので、ある程度までは成功していた。

ただここで問題になるのが脚本で、「声に色が付く」ことに起源を持つ登場人物の葛藤を中心にした物語重視で仕上げる方向だけでなく、囚人自体の背景を描かないことで囚人とそれぞれの登場人物との間の会話を中心に寓話っぽく仕上げることも狙えるような内容になっていた。で、舞台装置や衣装から推測するに、演出は寓話路線の仕上げを狙った。

ところが寓話路線には罠があって、脚本に邪魔な場面がいくつかできてしまうのがひとつ。そして寓話を寓話せしめる要の囚人役に、「たくさんの台詞を話させつつ島の住人が思わず打明け話をしたくなると観客に納得させる」ような技量が求められるのがもうひとつ。前者はごまかすにしても、後者は役者依存となる(ちなみに物語路線だと、囚人以外の登場人物も含めて人物背景が少ない分、役者と演出家で作らないといけない部分が多くなる)。

で、囚人役を演じた藤井隆がコケた。言っている事はそれなりにいいことでも、まじめに聞いたら鬱陶しさが先にたつような正論台詞を大量に話すので、そこをできるだけフラットに処理して人間くささを消しつつ、巫女っぽいところが必要だった役に、普通の人間の役を作ってしまった。それでいて人物背景を全然描かないので、非常に薄っぺらい造詣になった。いくら島の住人が打明け話をしやすい環境だとしても、あの囚人にぺらぺら話すのは口が軽いと観ていて思ってしまったし、実際に芝居中でも口が軽い展開で描かれている。そしてこの要がこけたために、もともと無理のある設定が消化されないで進み、全体にご都合主義な芝居に感じられてしまった。もったいない。

他の役では、「声に色が付いていることに対する生きていく態度」を適切に押さえるのが役どころとして肝心。そこを押さえて、あとはやりたいようにやって上手いこと位置を見つけたのがベンガル、木下浩之、小嶋尚樹、花王おさむ。そこを押さえて、演出上求められる要素と折合いを上手くつけたのが松角洋平。そこを押さえられたけど、演技の基礎技術があと一歩だったのが高尾祥子。そこを押さえられなかったけど、なんとかごまかしたのが剣幸。そこを押さえて、演出との折合いもつけたけど他の役との折合いをつけるのに間に合わなかったのが島田歌穂。加藤貴子がすごい判断が難しくて、最後の登場場面を際立たせるための一点賭けの役作りのようにも思えたけど、脚本に囚われて負けたような印象も受けた(魅力も感じられたので丸っきり間違いということはないですが)。

以上、ミスマッチの解説を試みたエントリー。全部、単なる印象なので、まったくの的外れと言われればそれまでです。ただ、別キャストで観たかったというのはあります。

あと本編とはまったく関係ないことで、ホームページに脚本演出以外のスタッフ名を載せない(リンク先のチラシのPDFには載っている)のはよくない。結構な大物もいるのに載せないで問題にならないのはちょっとすごいぞ新国立劇場。

<10月21日追記>

あー違う、巫女っぽさよりはどんどんエスカレートする悪魔っぽさを強調したほうがあの蛇足と思えたラストが生きるんだ。そうすると難易度がもっと上がる役だ。

あと加藤貴子の判断が難しかったのは、仮にも人前で発表するスポーツ(またはショー)の元世界チャンピオンが、いろいろあるとはいえ、あんなに表面的に内気なところに違和感を感じたんだ。やっと気がついた。あの最後の登場場面を強調することを考えても、高尾祥子との差を出すことを考慮しつつも、もう少し積極的な要素が出てきたほうがよかったんじゃないか。

そういえば名前が色なことにも今気がついた。色と設定の結びつきはあったけど、色と性格の結びつきって脚本で何か考えていたのかな。そこはわからない。

2011年10月17日 (月)

国は国を支援し、地域は地域を支援するってのが単位として釣合うんじゃないかと

こんなエントリーを見つけました。タイトルが「国のお金を東京ばかりに落とすのはやめて欲しい、ホント・・・(新進芸術家育成)」なので、国の助成の話です。

まず、1.これまでより採択件数が減っている。2.これまでより東京で開催される企画にばかりお金が落ちて中央一極集中の度合いが増えている。
の2点である(演劇分野しかみてません)。
(中略)
しかし大つかみで言えば、例外の範囲であって、ほぼ東京を対象とした採択結果の度合いを強めたと言えると思う。

予算が減り、採択できる件数が減ったのは、まぁ仕方ないとして、採択事業をすべて並べてみたときの地域バランスは考えて欲しい・・・
ほんと、まじで・・・

芝居を芸術に分類するとして、芸術で地域を振興する、あるいは全国の芸術を底上げするために国が予算を割振るってのもひとつの考え方だと思う。でもここで、国が全国全地域の面倒を見るのが適切かどうかという視点を導入したい。

なんでこんな視点を導入するかというと、まったく私事で申し訳ないけど、会社の仕事で誰が何をするのがいいかと以前考え込んでしまったこと。仕事は全体を見ることと実務を担うことの両方が必要で、全体を見る人と実務を担う人とは、仕事を把握する単位が違う。仕事の規模が小さければ兼務することは可能だけど、規模が大きいと無理。その場合、迷ったり悩んだりする問題の大きさが人によって違いすぎて、そこを把握しておかないと、本人たちには深刻なことでも、お互いに「細かすぎて何を言っているのかわからない」「抽象的過ぎてまったく役に立たない」となってしまう。なので、規模が大きい場合は、職種だけでなく扱う問題の大小でも分業しないと仕事は上手く回らない、同じ大きさの問題は同じ大きさの問題を扱う人たちで解決するのがいい、扱う問題の大きさが違う人と話す場合は相手の問題の大きさに合せて話し方を変えたほうがいい、というのがそのとき得た結論。

話を元に戻すと、国が全国津々浦々の面倒を見るのは実務上無理だというのが私の意見。引用先の管理人の例だと、「福岡で地域演劇を支援する」と紹介文に書いているので福岡の人なのでしょう。なので、その場合は福岡市、福岡県庁が助成をするのが理想だと思います。なんだかんだいっても規模も場所も、日本の芸術の筆頭は東京だと思うので、国の対象が東京に集まるのはしょうがない。

その代わり、もし道州制が導入されて九州が芸術助成を行なうとしたら、福岡県はその筆頭候補になって集中助成されてもいいと思います。その場合に佐賀県の人に「九州は福岡ばっかり贔屓にしやがって」と文句を言われたときに、「じゃあ9分の1ずつ分けよう」とするのが適切か。一番でかい福岡が総取りして「ほしかったら福岡を拠点に活動しろ」と言い切っても私はいいと思います。その場合、佐賀の芸術支援は佐賀県や佐賀県の中の市町村が釣合った単位となります(九州の芝居事情は知らないので佐賀県に他意はありません、あくまで人口差による例ということで)。

あるいはもし福岡が年がら年中たくさんの芝居を上演して、フェスティバルで内外の団体を大勢呼んでいて、それを目当ての旅行客がエジンバラフェスティバルみたいに 集まって、「西の舞台芸術なら福岡」って普段芝居を観ない一般人にまで認知されれば、予算をぶんどるために名乗りをあげてもいいと思います。

ここまでが単位についての考え方。煽っているつもりはなく、助成金とは直接関係のない観客の立場から一般論で考えて、今だと「しょうがない」って感想で。

そうすると「地域を見るような階層の組織を作って目を配ればいい」って言う人がいると思います。ただ実際問題として、予算が余っているならともかく、削られています。国の税収も落ちているし、それでいて出て行く予算は増える一方なのは、日本に住んでいる日本人が国の助成を考える場合の基本要素だと考えています。年金つぶして芸術に回せとか、医療費削って芸術に突っ込めとか、詳しければいろいろいえると思いますが、そのためには相応の勉強が必要で、今の私にその資格はないので、助成金が減っているのは前提で考えます。

予算が少ないなら、それを分散投資するのは戦力の逐次投入と同じで、固く戒めないといけません。その少ない予算を集中投下してすこしでも効果や効率を上げたいと思うなら、一番規模の大きい東京が対象になるのは、やっぱりしょうがないと思います。

今回の予算額を把握しておらず、さらに九州の芝居事情にまったく疎い観客として私の質問なのですが、今回の東京の団体に渡ったのと同じくらいの金額が丸ごと福岡なり九州なりに「毎年」渡されたとして、消化できるだけの魅力的な企画を、単年度でなく、毎年用意できるんでしょうか。単年度ならたぶんお祭りでできる、でも毎年だと上演するほうも観るほうも続かないのではないかと想像します。これも煽りではなく、「規模の差」って何だと質問されたときの私なりの回答です。

国が助成を行なうなら、せめて助成の結果がどんどん複利で大きくなることを狙って使ってほしいと納税者の一人として願っています。そのためには継続が必要、そのためには規模が重要、だから東京集中というのは、それなりに筋が通った使い方だと思います。

2011年10月14日 (金)

チケット転売防止システム

一度は観たいのにまだ観られていないイッセー尾形の一人芝居の話。正確には防止じゃないんだけど、たとえチケットが転売されても改めて必ず受付で定価を払わないといけないという点で、買う側が売る側に払うチケットの価格を抑えたくなり、売る側は売上げ額が小さくなることで、チケット転売抑制になっている。それを狙ったものじゃないかと思う。買ったからには見に来ることが見込めるだけの人気と実力がないと成立しない方法だし、支払受付を時間内に大量に処理するだけのスタッフも必要だけど。こちらより。

チケットはイッセー尾形のイラスト入りで、何種類もあるらしく、自分のには名作「アトムおじさん」が描かれていた。予約すると先にチケットが送られてきて、当日受付で精算するのだ。互いの信頼がなければ成立しないシステム。

あと、何かの理由で公演中止になったときの払戻しの手間と手数料が省けるとか、入金が上演日と一致するからチケット会社経由の販売より資金繰りが楽になるとか、そういうメリットもありそう。

読んで真っ先に信頼なんてもんじゃないと思った私は薄情者ですかそうですか。

2011年10月12日 (水)

2011東京都高校演劇中央発表会

こちら経由で速報ブログなるものを知りました。2011年11月12日(土)~13日(日)、練馬文化センターだそうです。そういえば一時興味があったけど都合が合わずに行かずじまいだった。11月は豊作の気配もするし、今年の都合が合うかといわれれば微妙なんだけど。

公式サイトはこれでいいのかな。東京だとこっちに飛ぶ。ほかに情報のない県もある。サイトのデザインや情報量もさることながら、ドメイン名くらい取ってもいいと思う。でも埼玉はさいたま芸術劇場大ホールが会場だって。だったら東京は新国立劇場か東京芸術劇場か世田谷パブリックシアターか、というとそうじゃないところが面白い。

で、会場も含めて調べた感じではチケット情報は見つからないので、一般非公開みたいですね。

2011年10月10日 (月)

"Don't take it personally."

これは後で引用しそう、そして単体でもとても重要なことだと思ったので残しておきます。こちらより。

で、先生がしつこく念を押すのが、"Don't take it personally." ということ。 批評の対象となっているのはあくまでその場に出された「作品」であって つくった本人の人格に対するものではない。 「役者の場合はこの違いを認識することがとりわけ重要だ」と先生は言う。 批評の対象となっている映像には役者自身が映っているわけで。画面の 中の自分を指して「ここがまずい」と言われた時にそれをpersonallyに 取らないようにする、というのは確かに少々難しい。

この考え方が実は本当に最近になるまでわかっていなくて、「役を作って売る」ってワークショップで聞いたときに目から鱗が落ちた。これは自分にも他人にも課すべき重要な項目。

ちなみに、元ブログは最近見つけたのですけど、たまに芝居関係のことで面白いことを載せているので、興味のある人はチェックしてみてください。

九大の中国演劇コレクション

日本は何か知らないけど中国の資料がたくさんあるようで。こちらより。「劇迷」は芝居マニアのことだそうです。普段出かけても見られるんでしょうか。ちょっと気になる。

後に九大の中国文学研究室の教授となった濱一衛は、鈴木虎雄が教授を勤めていた京都帝国大学文学部支那語支那文学専攻を昭和八年に卒業した。濱の在 学当時の昭和六(1931)年、助教授の倉石武四郎が中国留学から帰国、魯迅の小説を学部の講読の授業のテクストに用いるなど、中国文学研究の新たな道を 開いた。濱は、その後、京都帝国大学派遣外務省文化事業部留学生として昭和九(1934)年〜十一(1936)年に北京に留学、劇迷であった濱は、せっせ と芝居小屋に通う一方で、関連する資料を大量に集めた。それが、九大図書館の濱文庫に収められている。劇迷が寸暇を惜しんで集めた資料が面白くないわけが ない。

 

今はなくなってしまった大小の芝居小屋の引き札、入場券や演劇・芸能関係の冊子類など、当時、北京にいなければ入手できなかった貴重な資料を始め、 劇迷濱一衛の全てが詰まったコレクションの全貌を見渡せるよう、工夫して展示がなされている。会場内では、京劇のCDも掛かっていた。

ちなみに日本の同じような資料を見たいと思ったらどこかに残っているんでしょうか。

2011年10月 9日 (日)

維新派「風景画」西武池袋本店4階まつりの広場(ネタばれかもしれないものあり)

<2011年10月9日(日)夜>

デパートの屋上から東京を借景にしたパフォーマンス。

すいません、よくわかりませんでした。多分、都会(東京)の日常について、同じ生活の繰返し、電気の無駄遣い、画一化から外れたときの行き場のなさ、それでこの先どうなるよ、ってことをやっていたんだと思います。だと思いますが、ダンスじゃないコンテンポラリーダンスに、斉唱と輪唱が混ざった台詞からは推測するのがやっとでした(ダンスによるメッセージ伝達は未だにわからない苦手分野なもので)。で、この読みが正しかったとして、それは都会ならそんなもの、そこから先のメッセージは何だ、と考えながら観ていたのですが、よくわかりませんでした。強いて推測すれば、電気に関して都会の無駄遣いから原発に対する反対意見でも含まれているのかもしれません。

役者はそれなりに鍛えられた人たちでした。でもああいうパフォーマンスだと個々の見所はわからない。会場の効果もあって、照明と音響はとてもよかった。コンテンポラリーダンスみたいな、台詞のないパフォーマンスが好きな人なんかはいいんじゃないでしょうか。

もう少し演劇っぽい、ギリシャ悲劇っぽい感じで台詞や物語があるのを想像していたので、これはもう完全に相性の問題。あと、かなり冷えるので暖かい格好をしておいたほうがいいです。

2011年10月 4日 (火)

松竹が著作権を無視してひどすぎる韓国ミュージカルの件

この前書いていた話の続き。ちょっとひどすぎる話に展開しているので追加。

先に読売から。

 鈴木さんは1997年、講談社から漫画「カンナさん大成功です!」を刊行。韓国では2006年、鈴木さん側の許諾で、漫画を基にした映画「美女はつらいの」が公開されたが、08年に映画をミュージカル化した際には許諾はなかった。

 鈴木さん側は「容姿の悪い女性が全身の整形手術を受け、美人に生まれ変わる設定などが同じ」と主張。大須賀裁判長は「漫画の舞台は大学だが、映画 は音楽業界が舞台で、登場人物の関係の描き方も異なる」として、ミュージカルの基となった映画は著作権は侵害しないと判断し、ミュージカルも著作権侵害に は当たらないと結論付けた。

次に朝日から。

 講談社によると、ミュージカルの原作は元々、漫画家鈴木由美子さんの作品「カンナさん大成功です!」。韓国の会社からミュージカル化に向けた許諾申請が あったが合意できず、韓国企業は講談社と契約を結ばずに韓国内で上演した。日本公演については、鈴木さんの著作権を管理する講談社が松竹と交渉してきたが 折り合いがつかず、仮処分を申し立てていた。

それとスポニチからも。

 講談社によると、1997年に発売された鈴木さんの「カンナさん大成功です!」が原作で、鈴木さんは、自分の許諾を得ていないと主張。松竹は「著作権は2008年に韓国でミュージカルを上演した韓国企業にあり、公演の許諾を得ている」と反論していた。

これらの話が間違っていない前提で総合するとこうなる。

  • 2006年に韓国側は講談社経由でわざわざ映画化の許諾権を取って映画を製作した
  • 2008年に韓国側は改めて講談社経由でミュージカル化の許諾権を申込んだが合意に至らず、それでもミュージカルを強行製作した
  • このミュージカル化の際に原作マンガとは違う設定をいくつか盛りこんでいた
  • 作者の上演差止めに対して松竹は「ミュージカルの著作権は韓国側にある」と公式に表明している
  • 判決はミュージカルの内容がオリジナルとまったく同じではないという点で差止め判決を却下している

自分は最初、よくて韓国側の用意したもっともらしい契約書っぽいものに松竹がだまされた、悪くても松竹が契約確認を口頭だけにしておざなりにした、のどちらかだと思っていた。けど、これらの記事を読む限りでは、松竹は少なくとも講談社経由で「韓国側からミュージカル化の申し出があった」「が、合意に至っていないのに強行製作された」ことを知っていたことになる。

と思って調べたら、松竹のPDFがあった。これが差止め申請時。これが今回の判決を受けたもの。今年5月に契約、6月に講談社から申入れ。だったら知っていたと判断しても間違いない。キャラクターやストーリーが異なっているからオリジナル作品って言っているけど、だったらそもそも韓国側から許諾権の申込みなんてしないだろ。

それと判決。舞台や人物関係が原作とまったく同じとは限らないのはままあることで、最近だと「コクリコ坂から」なんてのはかなり原作から書換えているけど(Wikipediaのほうがわかりやすいかも)、それじゃあ別物かというと、んなことはない。大筋の設定や登場人物、それと許諾権を申込んできた事実、ここら辺を無視してOKなら、なんでも一度韓国で製作すればオリジナルに化ける。

目端の利いた業者が韓国に会社を作って、寅さんその他をパクってちょっと設定や人物関係をいじって日本に輸入しても文句は言えないんだぞ。それで本当にいいのか松竹。

松竹はPDF内で、韓国側で上演されてから講談社サイドが3年間なんのアクションもなかったこともオリジナル判定の理由に挙げている。ここで譲ったら他のマンガ全部が被害候補になる。これは原作者の鈴木由美子と講談社は全力で上告すべき。

<2011年10月4日追記>

5月契約、6月契約なら知らずに契約の線は残っていますね。眠くて思いっきり間違えていました。

それにしても、日本最大級の舞台興行元の松竹だったら原作者に事前に一言挨拶するくらいのことは普段からやっているだろうに、なんで契約前に原作者に挨拶に行かなかったんだろう。そうすればその場で気がついたはずなのに。漫画家を一段低く見ていたか、そもそも本当に日本のマンガが原作だと知らなかったか。

<2012年1月28日(土)追記>

そういえば観に行った話のリンクをここに載せていなかった。今時は検索で飛んでくる人もいるだろうから載せておく。これを書いたときとだいぶ感想は違う。

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