スタニスラフスキー「俳優の仕事」とベネディティ「スタニスラフスキー入門」を読んだ
「俳優の仕事」は3冊組み(一部、二部、三部)で、「スタニスラフスキー入門」は1冊。読んだ直後はわからなかったけど、しばらくしたら何となくまとまったので書いてみる。題名どおり、元々は役者のために書かれたものだけど、自分が観客として理解しやすい形に直している。全体に、一度読んでから、内容を後半から前半にさかのぼると理解しやすい。
(1)前提
この本の内容にはいくつか前提があって、
- ストレートプレイが対象(客席がない前提のリアリズム芝居を提唱した人ですし)
- すでに完成した脚本だけを対象にしている、あるいは新作でも稽古開始時点で必ず脚本が最後まで出来上がっている
- 役者は劇場付きで、すでに上演されている芝居に出演しながら、新しい芝居の稽古期間が10ヶ月取れる
- 時期によって書いていることが違って、初期ほど心理面に重点を置いて、後期ほど行動面に重点を置いている(訳者あとがきでも注意されていたので、途中で本屋で探して「スタニスラフスキー入門」も買った)
あたりを承知していないと、疑問が出てくる箇所がある。
(2)全体構成
まず芝居は次のような構成でできている。
- 究極課題
- 状況A
- 課題a
- 台詞1
- 台詞2
- 台詞3
- ...
- 課題b
- 課題c
- ...
- 課題a
- 状況B
- 状況C
- ...
- 状況A
テーマと言っても何と呼んでもいいけど、芝居には表現したい究極の課題がある。それを構成するためにいくつかの状況が絡み合って用意されている。そして状況はいくつかの課題から構成されていて、その課題を実現するために台詞やト書きが用意されている。大きさとしては、ひとつの場面にひとつまたは複数の課題が含まれるイメージ。
状況や課題が順番に並んでいるように書いたけど、実際にはもっと大小後先が絡まっていたり、複数の状況が課題を決めたりすることもある。文字で書く便宜上、こうやって書いた。あと、場所の都合で台詞と書いたけど、より正確にはには「台詞・ト書き」。あと、台詞は脚本次第だけど、究極課題は演出次第。だから脚本の範囲でいかようにも変わりうる(あるいは強弱をつけ得る)。
で、それに対応する役の構成がある。
- 役作り
- 背景A
- 動機a
- 行動1
- 行動2
- 行動3
- ...
- 動機b
- 動機c
- ...
- 動機a
- 背景B
- 背景C
- ...
- 背景A
行動というのが、しゃべったり、動いたり、考えたり、何かしら肉体的または心理的に演じること。その背後にはそういう行動をとった動機がある。で、役の人物がそういう動機に至った背景がある。それらをひっくるめて、役作りになる。
行動は、ひとつの動機に基づいてひとつの行動になることも、複数の行動になることもある。あと、「直前の行動」が「直後の動機」になって「直後の行動」を引起すという関係にもなる。背景は、劇中のイベントや人間関係だけでなく、その役の人物がそれまで生きてきた人生とか、その時代背景とか、いろいろな背景がある。だからA、B、...と書いた背景には、いろいろな種類の背景の断片が含まれる。
これらを対応づけるとこんな感じになる。この対応付けが役者の数だけある。もっと言えばスタッフの数もあるけど、この本ではあまり言及していないので割愛。でも同じ理屈で説明できる。
- 究極課題 <-------------------> 役作り
- 状況A <----------------> 背景A
- 課題a <---------> 動機a
- 台詞1 <-> 行動1
- 台詞2 <-> 行動2
- 台詞3 <-> 行動3
- ...
- 課題b <---------> 動機b
- 課題c <---------> 動機c
- ...
- 課題a <---------> 動機a
- 状況B <----------------> 背景B
- 状況C <----------------> 背景C
- ...
- 状況A <----------------> 背景A
これがまずひとつ。
(3)役作り
役作りについては、一貫性が重視される。こういう究極課題で、こういう状況が用意されていて、こういう課題の中であれば、こういう背景の下で、こういう動機になるだろうから、こういう行動になる、という原理で出てくる行動が、役ごとに芝居の最初から最後まで一貫していないといけない。別の言い方をすると、(2)の対応付けを全部埋めることになる。
このときの対応付けの埋め方については、時期によって違う。第三部の2章、5章、6章でそれぞれ、
- 背景を把握してから動機に至って行動に降りていく
- 課題を把握してから動機を探って行動に降りていく
- 行動しながら課題を探って動機を決定する
について書いている。第三部の7章では最後のパターンについて説明している。つまり、どんな順番でもいいからやりやすい方法で対応付けを埋めること。
で、このときの「正解」を決定する基準として役者の「総体的な自己感覚」を採用している。それは次で。
(4)演技
第二部の13章に図がある。これだけ役作りの話があるけど、本当によい演技(行動)は無意識の領域から来るとしている。スタニスラフスキー・システムはその無意識の領域のものを、意識の領域に浮かび上がらせるための予備作業という位置づけ。それらは
- 知性、意思、感情
あるいは
- 観念、判断、意思-感情
の3つの働きを組合せることで実現できる。これは同じ内容の分類を少し変えたもので、その人の好みでどちらを採用してもよい。
この「知性、意思、感情」あるいは「観念、判断、意思-感情」の3つにどうやって刺激を与えて働かせるか、それが注意だったりテンポだったり交流だったり(以下略、第二部12章までに書かれたいろいろな項目)だが、大まかにまとめると「内的(心理的)な感覚」への刺激と「外的(肉体的)な感覚」への刺激になる。これらを総称して「総体的な自己感覚」としている。
このときに注意しないといけないのは、無意識からの行動をよしとしつつも、「役になりきる」という状態を戒めていること。役としての主観と、その役を演じる役者としての客観を両方もたないといけない。役はその時点での演技でも、役者は芝居の最後まで見通してその場面の課題にふさわしい演技(行動)をすることが求められる。あくまでも、役者本人がその役の役作りの前提に置かれて場面で行動することになったときに、どういう行動をするかが問われる。
技術については、その必要性を認めている。たとえば具体的には発声とか。でも型にはまった演技、紋切り型の職人芸、ある感情を決まった肉体的行動で表現することをとても嫌う。何度演じても、程度の差はあれ、そのつど新鮮な感覚がないといけない、その新鮮な感覚を呼びおこすための、いろいろな刺激方法も説明している。
その新鮮な感覚のいろいろ(行動と動機の詳細)について、おもに第一部で説明している。
(5)感想
「芝居の面白さをもっと分析的にわかるようになりたい」というのが読んだ動機だけど、おかげで「どこが面白いのか」が何となくわかるようになった、と思う。ここから先は雑感。
- 役者のことを書いても、結果として脚本や演出にも言及することになる。つまり全体を把握しないといけない。それは正しいと思う。
- この路線を突き詰めた場合、どれだけ役作りが優れていても、演技については「その人自身が魅力的かどうか」ですべて決まってしまうのではないか。でもそれは、案外正しい気もする。
- ないわけではないけど、役と役(役者と役者)とのインタラクションに関する記述が少ない気がする。それは演出の範囲と言ってしまえばそうかもしれないけど、でも具体的には役者の領分だと思う。「聴く」とか。それに脚本全体の読み解きに関する内容も、役作りに比べて少ない。だから役者を目指す人が読む場合は、書かれていることだけでなく、書かれていないこともたくさんあるという注意が必要。これは、第三部の訳者あとがきに書かれている、役者としては優秀でも演出家としては優秀ではなかったというスタニスラフスキーの限界なんだろう。
- 役作りの、対応付けの埋め方を決めたのがメソッドなんだろうと想像する。理想論を言えば課題、動機、行動の順番で進めたほうがいいと思う。なぜなら脚本に基づいて進められるので共通の基準を対象に議論できるから。でもそれは脚本が完成していて議論できるだけの稽古期間が取れる場合の理想論か。
- 日本の小劇場でそんな細やかな稽古が行なわれているとは思われないのに、それでも魅力的な役者が出てくるのはなぜかというのも疑問のひとつだったけど、今回わかった。お互いに付合いの長い脚本家兼演出家と役者とが、その付合いで育まれた「相手の性格に対するあて書き、あて演出」「相手の性格や言葉遣いから求められていることを察する理解力」が、対応付けの大部分を埋められることがあるからだ。それが繰返しはまった場合に、脚本に書かないといけないこと、演出が決めないといけないこと、役者がやらないといけないことが、なんとなく会得されて、育つんだ。
- 見巧者は、観ながらリアルタイムでこの対応付けを構築しつつ良し悪しを判定できる人。(よい)批評家は、この対応付けを構築した上で、どこがよくて、悪いところはどう直せばよいかを指摘できる人。少なくとも、そうとも定義できる。
- 観客は芝居の粗を探すが役者は芝居のよいところを探さなければならない、って書かれていた箇所は苦笑いした。俺のことか。でも総合的に観てつまらないと思えばその感想に正直に従うのは観客の「義務」だと思う。無理にありがたがって、つまらないという感想を持ったものを面白いと思い込むのはよくない。
- 芸術は復讐すると何度も書かれていて、これは面白い考えだったので、いつか掘下げたい。
(6)おまけ:考えられる失敗
対応付けがどこまでできているかが芝居の厚みを決定付けると思うんだけど、あの対応付けに基づいて、失敗するパターンもいくつか分類できると思う。以下に思いついた失敗パターンを挙げてみる。
まずは役者。
- 大根:演技(行動)が下手なこと
- 一貫性の欠如:その役のやっていることが支離滅裂に見えて同一人物とは思えないこと
- 過ぎたる、及ばざる:動機に対して過剰または過少な演技(行動)で動機が伝わらないこと
- 場違い:その場で求められる課題に応えていないこと
- 独りよがり:他の役とのインタラクションを無視して浮いた演技(行動)をとること
次に演出家。
- 意味不明:究極課題が曖昧で何がやりたいのかよくわからないこと
- 設定ミス:脚本からはありえない究極課題を設定してしまうこと
- 分割ミス:間違った状況の分割をした演出プランを立ててしまうこと
- スター主義:特定の役者を引立てようとして脚本の構成を歪ませること
- 間延び:役者の演技(行動)や役者同士のインタラクションをコントロールできずに流れや勢いを作れないこと
- 読み違い:必要とされる役者の役作りを見誤ること
ついでに脚本家。
- 背景不足、背景過剰:役者や演出家が想像するための背景情報が不足していること、または盛りこめないほど過剰なこと
- 動機不足:一貫性の欠如と同じ
- 関連不足:状況や課題の対応付けがきれいに分かれすぎていて芝居の奥行きに欠ける(たぶん対応付けが混乱するほど多い分には構わないはず)
とりあえずこのくらい。
(7)改めて感想
書いたらすっきりした。あとはこの枠組みを更新していくことで面白さの分析もできるようになることを期待。
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面白いまとめでした。スタニスラフスキーは言ってることが膨大なうえ重点の置き所が変化しているので、どの要素を見るかってところで人によって色々な読み方がありますね。
> 演技については「その人自身が魅力的かどうか」ですべて決まってしまうのではないか。
これはそうだと思いますが、では「人自身の魅力とは何か」と考えると、それはその人自身に生まれつき備わっていて変化しない属性のようなものではなく、むしろその人自身の性質が何であれ、それが「表現されること」、それによって観客がその人の魂に触れる感覚を得られること、ではないでしょうか。むろん人間の中には、見ていて好ましいものだけでなく、おぞましいものも含まれていますが、負の面がさらけ出されることもまた、魅力のひとつであるでしょうし。
> 役と役(役者と役者)とのインタラクションに関する記述が少ない気がする。
スタニスラフスキーのこの面について掘り下げて発展させたのがマイズナーテクニックだと思います。メソッドが自分の内面に重点を置いてるのに対し、マイズナーは「聴くこと」「反応すること」に徹底的にこだわれば内面は勝手についてくる、みたいな感じです。役者それぞれスタイルがありますが、私自身はマイズナーがとてもよくフィットする感じを持っています。書籍では "Sanford Meisner on Acting" がおすすめですが、邦訳はわかりません。
投稿: shiro | 2011年10月25日 (火) 02時13分
>shiroさん
コメントありがとうございます。そちらのブログからは先日引用させていただきまして、併せて御礼を。
>それが「表現されること」、それによって観客がその人の魂に触れる感覚を得られること
というのはとても面白い表現です。触ってみたら何かすごいもの触っちゃった、みたいな感触でしょうか。言われてみれば、すごくたまに、そういう気分になるような気もします。
>スタニスラフスキーのこの面について掘り下げて発展させたのがマイズナーテクニックだと思います。
実はこの本を読んでいる途中で系列の弟子?の人たちの本も本屋で手にとって見たのですが、その中で唯一興味を引かれたのがご紹介の本の邦訳でした。翻訳の調子とか活字の新旧とかいろいろあるとは思うのですが。
ただ、演技演出だけでなく、周辺事情も含めてもう少し見聞を拡げたいと思ったので買うのを控えたのですが、今Amazonを見たら売切れらしいので、本屋で見かけたら捕獲しておこうと思います。ご紹介ありがとうございます。
投稿: 六角形(管理人) | 2011年10月26日 (水) 00時30分