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2011年10月21日 (金)

新国立劇場主催「イロアセル」新国立劇場小劇場(ネタばれあり)

<2011年10月20日(木)夜>

ある国の、本土から遠く離れた島。そこの住民は話す声や書く文章に色が付いて見えるという他にない特色を持つ。またその色を捕捉して表示する科学技術が発達しており、住民はその小型装置を持ち歩くことで、お互いがどこにいても誰が何を話したかを確認できる。ある日、島の丘の上に檻が建設される。本土からの囚人を収監するためだという。物珍しさで見物に来た住人たちは、その丘の上だけは囚人にも、自分にも、話し声に色が付かないことを発見する。やがて囚人を相手に打明け話をする住人が増えていく。

なんとなく勘が働いて観に行ったものの、見所もそれなりにありつつ、ポテンシャルの高さと、パートごとのミスマッチがもったいない仕上がり。以下、何がもったいなかったかについての解説を試みるエントリー。

脚本だけを追えば、そもそもの設定に無理があることを含めて、素直に小劇場のノリ、適度な笑いを含めたメリハリとテンポのよさを前面に出して仕上げればよかった内容。ただしそれだと80点には届いても100点越えは無理。そこを演出家は、笑いを意図的に殺して、暗転を多用した舞台転換でテンポを悪くしてまで、登場人物を全力で引っ張りだすストレートプレイの演出に挑戦した。実際、場面の厚みを感じることも何度かあったので、ある程度までは成功していた。

ただここで問題になるのが脚本で、「声に色が付く」ことに起源を持つ登場人物の葛藤を中心にした物語重視で仕上げる方向だけでなく、囚人自体の背景を描かないことで囚人とそれぞれの登場人物との間の会話を中心に寓話っぽく仕上げることも狙えるような内容になっていた。で、舞台装置や衣装から推測するに、演出は寓話路線の仕上げを狙った。

ところが寓話路線には罠があって、脚本に邪魔な場面がいくつかできてしまうのがひとつ。そして寓話を寓話せしめる要の囚人役に、「たくさんの台詞を話させつつ島の住人が思わず打明け話をしたくなると観客に納得させる」ような技量が求められるのがもうひとつ。前者はごまかすにしても、後者は役者依存となる(ちなみに物語路線だと、囚人以外の登場人物も含めて人物背景が少ない分、役者と演出家で作らないといけない部分が多くなる)。

で、囚人役を演じた藤井隆がコケた。言っている事はそれなりにいいことでも、まじめに聞いたら鬱陶しさが先にたつような正論台詞を大量に話すので、そこをできるだけフラットに処理して人間くささを消しつつ、巫女っぽいところが必要だった役に、普通の人間の役を作ってしまった。それでいて人物背景を全然描かないので、非常に薄っぺらい造詣になった。いくら島の住人が打明け話をしやすい環境だとしても、あの囚人にぺらぺら話すのは口が軽いと観ていて思ってしまったし、実際に芝居中でも口が軽い展開で描かれている。そしてこの要がこけたために、もともと無理のある設定が消化されないで進み、全体にご都合主義な芝居に感じられてしまった。もったいない。

他の役では、「声に色が付いていることに対する生きていく態度」を適切に押さえるのが役どころとして肝心。そこを押さえて、あとはやりたいようにやって上手いこと位置を見つけたのがベンガル、木下浩之、小嶋尚樹、花王おさむ。そこを押さえて、演出上求められる要素と折合いを上手くつけたのが松角洋平。そこを押さえられたけど、演技の基礎技術があと一歩だったのが高尾祥子。そこを押さえられなかったけど、なんとかごまかしたのが剣幸。そこを押さえて、演出との折合いもつけたけど他の役との折合いをつけるのに間に合わなかったのが島田歌穂。加藤貴子がすごい判断が難しくて、最後の登場場面を際立たせるための一点賭けの役作りのようにも思えたけど、脚本に囚われて負けたような印象も受けた(魅力も感じられたので丸っきり間違いということはないですが)。

以上、ミスマッチの解説を試みたエントリー。全部、単なる印象なので、まったくの的外れと言われればそれまでです。ただ、別キャストで観たかったというのはあります。

あと本編とはまったく関係ないことで、ホームページに脚本演出以外のスタッフ名を載せない(リンク先のチラシのPDFには載っている)のはよくない。結構な大物もいるのに載せないで問題にならないのはちょっとすごいぞ新国立劇場。

<10月21日追記>

あー違う、巫女っぽさよりはどんどんエスカレートする悪魔っぽさを強調したほうがあの蛇足と思えたラストが生きるんだ。そうすると難易度がもっと上がる役だ。

あと加藤貴子の判断が難しかったのは、仮にも人前で発表するスポーツ(またはショー)の元世界チャンピオンが、いろいろあるとはいえ、あんなに表面的に内気なところに違和感を感じたんだ。やっと気がついた。あの最後の登場場面を強調することを考えても、高尾祥子との差を出すことを考慮しつつも、もう少し積極的な要素が出てきたほうがよかったんじゃないか。

そういえば名前が色なことにも今気がついた。色と設定の結びつきはあったけど、色と性格の結びつきって脚本で何か考えていたのかな。そこはわからない。

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