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2011年11月30日 (水)

第三舞台「深呼吸する惑星」紀伊国屋ホール(ネタばれあり)

<2011年11月29日(火)夜>

地球から遠く離れた惑星にある、地球と友好関係にある国だが、軍事的に地球に依存しているために独立活動を行なっている者がいる。ここに地球から配置された兵士の自殺率の高いことを気にして科学者が調査にやってくる。どうやら幻覚をみることで精神的な影響を受けるらしい。

ちょうど予定がついたので観てきました初にして最後の第三舞台。感想はいまいちで、少なくとも今回、第一舞台と第二舞台との間に、第三舞台は現れなかった、これだけ役者を揃えていまいちって点に大いに不満ありという結果。以下ネタばれでこのいまいちの中身を考える。これから観に行く人は後で読むべし。

ダンスが多いとか、年齢をだしにするとか、そういうネタはあまり気にしない。解散公演だし。長野里美の着ぐるみが定番らしいというのははじめて知った(ちなみにこれが一番盛上った)。

役者からいうと、見所満載の女性陣にたいして、それでいいのか男性陣という感想。長野里美の存在感がすごいよくて、筒井真理子と山下裕子もキャラを立てて応戦する。男性陣で一番上手いと思ったのは高橋一生で、きちんと会話していた。だけど小須田康人と大高洋夫はおとなしくて見所がわからない。そして筧利夫がやばい、声の大きさとテンションだけで勝負するって、それも手段のひとつだろうけど、自分には駄目だった。筧利夫の出番が多かっただけに、これがかなりの悪印象になったのがひとつ。

で、脚本演出の話。なんでこんな感想になったかを考えたけど、脚本が悪いんだと思う。ひとつは本来脚本に書かれていないといけない、設定(というのか状況というのか場面というのか環境というのか)が設定になっていない。推測するに、初めに登場人物がこうなるという案が先にあって、その案を実現するために、人物造詣とか人物の歴史とかではなく、必要な「機能」を設定に持たせることで解決しようとしている、あるいはそれ以上設定を練っていない、だから設定が設定として生き生きしていない。たとえば科学者の身の回りの世話を命じられる、その科学者から調査の依頼手続きを受けたりする、だけど普段の立場は園芸員で、花の架空購入で横領しているって、なんか変でしょう。あるいはかつて3年前まで保護した男と一緒に暮らしていたのに、その後整形して結婚詐欺で宇宙指名手配されるくらいの大物詐欺師になったって、ないとはいえないけどかなり極端でしょう。総理大臣が毎日墓参りにくる墓の宿舎の裏手で栽培禁止の花が栽培されているとか、もっと早く気がついてほしいでしょう。前作では矛盾が気になったけど、矛盾しているかどうかではなく、ご都合主義かどうかでもなく、状況や人物描写について本来脚本にあってほしいものが欠けている。表現が正しいかどうかわからないけど。

脚本でもうひとつ、地球とこの星との関係が、なんか日米の関係を冷やかしているような意図を感じる。軍事の設定しかり、文化依存の設定しかり。だとしたら、冷戦はもう終わったんだよ、新しい地政学が始まっているんだよ、中国は日本だけでなく世界の脅威だよ、といいたい。文化依存にしても、むしろ今は世界が日本に興味津々な時期で、日本は積極的に世界にアピールするべきで、その文化の一端を担う芝居としてあなたはどうなんですか、この芝居で世界に日本や日本文化をアピールできるんですか、といいたい。元々政治的な芝居が嫌いなのもあるけど、なんだろう、惑星という設定に総理大臣まで登場させているのに、このスケールの小ささは。

たぶんその印象は、鴻上尚史の脚本は、登場人物より真理より鴻上尚史自身のメッセージを伝えるところに重きを置かれていて、鴻上尚史の演出は、そのメッセージをいかに効果的に伝えるかを強調しようとしている、というところからくるのではないだろうか。だから人物を立体的に描くとか人物間の関係のいろいろとか状況を深く掘り下げるとか、そういう方面を期待している自分と全然合わなくて、逆にメッセージに敏感に反応した人たちは、熱烈な支持をする。だとすると納得がいく。今回で言うと、「絶望する人は行動する、あきらめる人は行動しない、みんなあきらめる(大意)」とか、そういうの。あと芝居のメインの話が、48歳と21歳との「ありがとう」で、書いたものが将来も残るかどうかってあたりで、自分たちの話、もっといえば鴻上尚史の書き手としての心配事みたいな印象を受ける。そのつもりがあったかどうかは別として。そうすると、第三舞台初の自分にはどうでもいいことになる。

メッセージに反応しないのはお前がおっさんだからだよ、と言われれば、それは否定できないけど、でも8400円の芝居で誰をターゲットにしたんだ。学生か。今まで10年間上演していないって、今の学生は観たことないってことで、それに8400円払う学生がそんなにいるのか。どう考えても全盛期のファンで、今はおっさんおばさんになった人たちがターゲットだろう。

なので今回は、全盛期をリアルタイムで観たファンが、盛大なお見送りをするためのイベントだと認識するのが正しい。熱烈だったファンは、これを観て、時間は過ぎて戻らないことを認識して、心置きなく縁が切れるような儀式にすればいい。あれだけ役者を輩出しただけでもすばらしいことだし、そのくらい輩出するだけの個性があふれる劇団が長続きしたほうが奇跡なのだから、惜しむには当たらない。

<2011年12月3日(土)追記>

ひょっとして、この芝居って劇団である第三舞台の関係者間で起きたプライベートないろいろを元ネタにしているのかな。だとすると、スケールの小ささにもなっとくだし、男性陣の控えめだったり棒読みだったりする演技は今更こんなネタ蒸し返すなよという脚本演出家への抗議と読取れなくもない(たくましい女性陣はそんなものものともしない、とか)。

いや、いくらなんでも筧利夫のあれはないよな、ってのがずっと引っかかっていたんだけど、一人客演に招かれた高橋一生が、他より若いのも含めて、早くに亡くなった看板俳優の代役なのか、と考えたら、そこから全部ネタなんじゃないかと妄想してしまった。生きていれば喧嘩別れするのが世の常なんですけどね、早く死んだ人はいい思い出ばかりが残るのも世の常で。

2011年11月28日 (月)

ふるさと雇用再生特別基金事業の委託金を不正適用

fringeで見つけたのですけど、ヘッドラインだと流れてしまうので、地元の日本海新聞より。11月3日6日の記事が見つかったけど、まずは3日付から。

がいなは、東京都内の舞台制作会社の代表者が中心となって昨年8月に設立。県中部を拠点に日中韓の劇団で環日本海を題材にした舞台事業を約2800万円で連合から受託した。

連合の調査報告によると、劇団側は虚偽の領収書を用意するなどして韓国、中国への出張旅費263万円余を架空請求し、県中部で稼働実態がない車両リース契約で75万円(4台分)、雇用者以外の携帯電話の端末機と電話代で約7万4400円を支出。その他燃料費(37万円)やパソコン賃借料(35万円)など一部事務費も委託外業務に充当していた。

今度は6日付から。

がいな側は連合から概算払いを受けた委託金約1300万円のうち約1143万円を執行。連合事務局の調査で、執行額のうち、がいな側は委託外業務に762万8千円、都内の関連会社が355万7千円を使用しており、委託金のほとんどが委託事業に使われていないことが分かった。

連合事務局は同日の全協で、架空の海外出張費263万円や県中部で稼働実態のない車両リース料75万円などに加え、雇用者4人の人件費約644万円(1人当たり月額給料約25万円)の支出に関しても「雇用実態はあるものの委託外業務や関連会社(東京都内)の業務に従事し、連合の委託事業が主な業務ではなかった」と説明。人件費やその他事務費も「不適切な支出」と報告した。
(中略)
今回の問題をめぐり連合は1日付でがいなとの事業委託契約を解除。がいな側は10月27日に概算払い金を連合に全額返還した。

で、これがどんな劇団だったかというと、こちらのブログによると、

座・がいな ですな。

とあるので調べたら、読売ではプロデューサーが、朝日で代表が、それぞれひっかかった。それなりに活動実績はあったようで、感想ブログなど他にもいくつか引っかかったけど、刑事じゃないので載せるのはやめておく。ちなみにこの間2分。Google怖いよGoogle。

韓国語や中国語で公演して大陸から観客誘致とか東京でもハードル高すぎだと思うんですが、それができるように思えてしまったんでしょうか。字幕でいいじゃん。それを差し置いても、旅行者として海外旅行するなら無理矢理外国語上演されたものよりは、現地のものに生で触れたいとか考えなかったのかな。タイ旅行でニューハーフショーを観たときに演歌が流れてげんなりしたのを思い出した。あれはバブルのころに人生初の海外旅行をしたじいちゃんばあちゃん達がターゲットだったころの名残だったんだろう。今は知らないけど。関係ないですね、はい。

閑話休題。この話で思い出したのが以前の不正受給の話。今の補助金申請がどうなっているか知らないけど、活動実績以外に資格は問われないんだろうと思われる。「演劇は仕事になるのか?」では、イギリスの話として、助成団体はNPO(それは今回も同じらしいけど)で会計公開だとか、所定の協会組織に加盟してその契約を守っているのがプロの資格だとか、いろいろ載っていたけど、やっぱり何か資格が必要だと思う。

いや、自分でも働いていて、何をもってプロって名乗れるのかがよくわかっていないんですよ。とりあえず雇われて給料をもらっていますけど、会社にどれだけの収支をもたらしているのかは会社の仕組みにも依存しますので、クビになれば職業・無職で、じゃあ自分個人はプロなのかアマなのか、プロアマは単に状態を表すだけなのか。そんな自分から見ても、劇団員なんて自称プロの職業の代表じゃないかと思うので、何をもってプロとするのかは決めたほうがいい。それが助成金受給とかの根拠にもなるような。

そこに公的資格で認定試験とかやって認定ビジネスうはうはとかやっては駄目なのはわかる。じゃあどうすればいいのかの意見がまだわからない。上演乱立は観る側からするとわけがわからなくて困るのですが、供給側の裾野を広げる一端を担っている面もあるので、むやみやたらと資格で規制すればいいというものではない。

難しい問題はわかるような別の形に置換えることが、大きすぎる問題は手がつけられる大きさまで分解することが必要なのだけど、そもそも問題の定義がまだできない。何を自分は問題と考えているんだろうか。目的によって問題の表現も変わるはずなんだけど、それも絞込めない。芝居分野に限らない、身の回りの出来事に基づいた前提条件というか問題意識もあるんだけど、そういうのをひっくるめて、どういう問題を定義すれば話を進められるんだろうか。この前読んだ本ではちょっと問題に近づけたような気がしたんだけど、また離れてしまった。うーん。

ただひとついえるのは、今回の事件を知った人なら、先のブログに載っていたような反応を引起すであろうこと。自分も最初の反応はそうだった。

劇しながら、金をクスネル団体のようですな。NPOって美味しいですなw
返せば良いんです。バレタラ、謝れば良いんですよ。劇をしたってことにして、酒飲んで飯食って、
4人お友達雇ってw

今回の運営団体がNPOかどうかはソースが見つからないのでわからないのだけど、組織形態だけでは不十分なことはわかった。伝統芸能でも、西洋芸能でもだめ。どうすりゃいいんでしょうね。

2011年11月27日 (日)

福岡都市圏の活動劇団数は約80

今日の昼までコメント欄でやり取りを続けていたのですが、fringe経由で見つけたので記録のために引用。毎日新聞より。

 福岡都市圏で活動する劇団はプロからアマチュア、サークルなども含め約80。そのうち定期公演をしているのは30~40だといい「人口比では、他の政令市と比べても上位に入る。公演数や芝居の品質をみても、福岡の地域演劇は活性化している」(高崎さん)。

別にだから助成が云々といいたいのではなくて、いい悪い多い少ないそれ以外にも芝居環境全般について自分が話すときの、自分の意見をどこかで一度整理したい。相手を論破したいのではなくて、自分の立ち位置を自分で確認したい。

そのためにまずは読んだ本のまとめエントリーを書きたいのですけど、書かないといけないんですけど、別に誰も止めやしないんだけど、書けよ俺。

2011年12月公演のメモ

あっという間に年末だ。

 

・世田谷パブリックシアター企画制作「狂言劇場 その七」2011/12/01 - 12/08@世田谷パブリックシアター:AプロBプロあるけど、両方すごい観たい、萬斎じゃなくて万作が観たい、日程短いよ
・ままごと「あゆみ」2011/12/01 - 12/04@森下スタジオ Cスタジオ、2011/12/07 - 12/09@横浜赤レンガ倉庫1号館:これも一度観てみたいけど変則日程すぎて
・シス・カンパニー企画製作「その妹」2011/12/02 - 12/26@シアタートラム:メンバーは豪華だけどどうしたものか
・パルコプロデュース「90ミニッツ」2011/12/03 - 12/30(12/03-04はプレビュー公演)@PARCO劇場:年末もっとも激戦の芝居は、即日完売御礼で2月にやっぱりPARCO劇場で追加公演あり
・さいたまゴールドシアター「ルート99」2011/12/06 - 12/20@彩の国さいたま芸術劇場小ホール:観たいけど遠いけど観たいけど遠いけど観たい今回は岩松了2回目の脚本提供
・乞局「乞局」2011/12/08 - 12/13@王子小劇場:最近ごぶさたの乞局が劇団名の芝居で
・M&O playプロデュース「アイドル、かくの如し」2011/12/08 - 12/29@下北沢本多劇場:こっちは岩松了が脚本演出出演もする宮藤官九郎主演
・パルコPresents「ロッキー・ホラー・ショー」2011/12/09 - 12/25@神奈川芸術劇場ホール:いのうえひでのり演出に古田新太主演で、どんなもんだか一度くらいは観てみたい
・Quaras主催企画製作「8人の女たち」2011/12/09 - 12/25@ル・テアトル銀座:2度目はありえない豪華キャスティングになんだこりゃと思ったらQuarasはフジ系列、客席から舞台が遠いいんだよなこの劇場と敬遠していたら今回は舞台の位置も変更するそうです
・アトリエ春風舎/(有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場企画制作「高校生演劇サミット2011」2011/12/15 - 12/18@アトリエ春風舎:この前取上げたらすばやい対応をされた、のはいいとして、この年末ラインナップと対抗して未来の有名人を発掘しにいくだけの元気と時間が残っているかどうか
・TPT「プライド」2011/12/15 - 12/25@d-倉庫:TPT、最近突然出てきた演出家、馬渕英俚可
・チェルフィッチュ「三月の5日間」2011/12/16 - 12/23@神奈川芸術劇場中スタジオ:今観たらひょっとして違う感想を持てるかもと考えて
・新国立劇場演劇研修所「牛山ホテル」2011/12/22 - 12/24@新国立劇場小劇場:正直なところ期待値は高くないのですが、研修所と研修生への興味で
・時間堂「星の結び目」2011/12/22 - 2012/01/02@こまばアゴラ劇場:黒澤世莉の名前をちらちら見かけるのでちょっと気になる

 

ここに青年団をどうするかとか第三舞台をどうするかとか入ってくる。無理です。

 

あと世田谷パブリックシアターのスケジュールページがなんか変わった気がする。劇場主催公演と貸館公演って一緒に並んでいたっけ。気のせいかな。1ページでスクロールして読めてわかりやすい。

 

<2011年12月1日(木)追記>

 

ままごととTPTを追加。どうせ観られないだろうけど。

2011年11月25日 (金)

芝居本の寄付先とか誰か知らないか

なぜ本は読んでもいないのに増えるのだ。ということで処分する本を選別しているのだけど、芝居関係の制作者本を数冊処分することにした。だって場所がないから。

どうせ売っても二束三文にしかならないのが本の宿命だけど、みんなどうしているんだろう。芝居本を寄付するような先って誰か知っていたら教えてください。

<2011年11月28日追記>

今回は立候補者に引取ってもらいました。あと、内部資料や貴重な資料なら寄贈先があることもわかったのは収穫です。でも貴重な資料なんてもっていないから、今後の処分が必要になった場合はどうしたものか。そのときはそのとき。

2011年11月24日 (木)

今度は文化庁が「劇場,音楽堂等の制度的な在り方に関する中間まとめ(案)」

fringeでいきなり2本のエントリー(こちらこちら)。文化庁のPDFはこちら。fringeのエントリーの片方を書いた高崎氏と、先月のエントリーで地味にやり取りもしていて、取急ぎ読んで、取急ぎのコメント。

文化庁のPDFを読んだ第一印象は2つ。観客としての国民とか市民はどこにいるんだろう、というものと、どんだけ田中角栄思想が強いんだ、というもの。

まず観客としての国民とか市民の話し。全部で10ページのうち、たぶんこの3箇所だけ。番号を打って抜出し。

(1)音楽,舞踊,演劇,伝統芸能,大衆芸能等の文化芸術は,人々の心の豊かさをはぐくむとともに,人々が共に生きる絆と社会基盤を形成するものであり,国民全体の社会的財産である。

(2)より多くの国民に対して,様々な文化芸術活動に触れる機会が提供され,我が国の文化芸術の水準が高まるようにしなければならない。

(3)鑑賞者を拡大させるためには,地域において音楽,舞踊,演劇,伝統芸能,大衆芸能等の文化芸術に親しむ環境を醸成するため,劇場,音楽堂等において教育普及活動を実施し,これらの文化芸術が地域社会に根付づくようにすることが求められる。

(1)は、舞台芸術は民間主導でやってきた財産であり、政治が関わった場合にろくなことになっていないというのが今の自分の認識。だから財産だとしても国が突っ込んでいいとはまだ思えない。(2)は、文字通り様々な文化芸術があるので、その中で特に舞台芸術に入れこむ理由が分からないし、今の日本の文化芸術の水準が低いとも思えない。(3)は、社会的財産と書いた(1)と矛盾する。なんか、芝居の観られない地域に芝居を観てもらって野蛮人を文明人にしてさしあげます、といったら大げさだけど、よくいっても啓蒙主義、悪く言えば上から目線を感じる。大きなお世話だろ。

それ以外は関係者をどうするこうするで、予算の取りっこにしか見えない。予算がほしいのは自分だって(会社の業務で)同じだけど、せめて元の理由をもう少しましなものにできないのか。

で、田中角栄思想。「国土の均衡ある発展」って本当に呪縛の強い魔法の言葉ですよね。PDFの隅々に、全国津々浦々で舞台芸術が同じように観られないといけないっていう思想が透けて見える。古い。個人的には反対。10年後は自治体ごとに特色を競って住民と税金を奪いあう時代。芸術に力を入れる自治体もでてくれば、教育、医療、観光、農林水産、その他いろいろに力を入れる自治体もでてくる。それで存亡が賭かっていれば、助成結果のフォローも含めて、本気になる。芸術団体も劇場も、国が成果をフォローするには小さすぎる(あるいは、国は支援元として大きすぎる)。国 - 都道府県 - 区市町村 - 住民の階層は遠い。自治体住民、その自治体、その自治体から助成を受ける団体、の直接接する三者で、階層がない三角形の間でPDCAサイクルが回るとよい。

だいたい、「国土の均衡ある発展」思想なんて、そもそもやる余裕がないでしょう。支援を劇場にするのがいいか悪いかは別として、拠点劇場が乱立したら法律が破綻すると荻野氏が書いているのは本当にその通り。法律で済めばいいけど、下手をしたら法律どころか国が破綻する。

自分の話になるけど、先週と今週で平田オリザの「『リアル』だけが生き延びる」と、米屋尚子の「演劇は仕事になるのか?」を読んだばかり。細かい感想はあらためて書くとして、多様な価値観の提示とか、アーツカウンシルでの支援団体の資格とか、そういう問題がたくさん整理されていた。支援行為が現行の法律だと引っかかるので、法律の整備が必要だとも載っていた。でもそういういろいろな問題や目的意識が今回のPDFに反映されているようには見えない。

官僚のプロレスにのるのもあり」と以前書いたこともあるけど、今回のものには乗れない。目的が違っても結論が同じならいいじゃないかというのが20世紀の日本。21世紀の日本はいかに正しく目的を設定できるかが大事。こんな目的はそもそも仕分けされたんじゃないのか。

じゃあ誰が目的を設定すべきかというと、それは支援される団体や劇場でしょう。平田オリザはそれを今まで自分でせっせとやってきた。イギリスではまず団体がそういうことをできるような教育支援から始まった。だから地域の住民がありがたがって拝見する舞台を作るために助成するくらいなら、めぼしい団体を平田オリザくらいまで鍛えるための助成予算を確保するほうがいいんじゃないか。

えーと、だから、取急ぎ何がいいたかったかというと、税金なら使い道は「国民(市民)がどんな価値を受取れるのか」を明確に説明してほしいということです。もらう側の話ばかり書かれても困ります。芝居の数が増えるだけなら業界ばらまきと同じなので別にそんな法律いりません。

追加で2つ。一つ目。資格を設けるくだりがあるけど、国の資格ビジネスにならないようにしてください。二つ目。コメント募集手段に郵送やFAXがあるけど、そんなもの真面目に募集しないで、Webに募集ページを用意して窓口一括で絞っていいです。そのほうがあとで集計するのも公開するのも楽でしょう。いまどきWebから書込みもできないやつらに発言権はない、とか煽ってみてはいかがでしょうか。

2011年11月19日 (土)

あいかわらずタイムテーブルをめぐる攻防

なんか19時半開演を望む声が挙がっていた。アメリカの事情はこちらで考察されている。デジャブ

2011年11月18日 (金)

高校生演劇サミット2011だって

芸術監督が考えたのか、ディレクターが考えて持込んだのかはわからないけど、何か面白そう。なのはいいんだけど、CoRich!には公式ページで確認しろとしか書かれていなくて、公式ページは上のディレクターのページで、じゃあ劇場のページはというとこれも日にちまでしか記載されていない。さらに上演時間はおろか、料金も不明。1ヶ月切ってこれでどうしろと。ひょっとして一般公開ではないのかな。

話は変わって、こういうものに積極的に参加する(できる)高校生としない(できない)高校生とでその後に思いっきり差がつくんだろうな。

キューブプレゼンツ「有毒少年」CBGKシブゲキ!!

<2011年11月17日(木)夜>

旅をする読書家と1人(?)の幽霊しか残っていない世界で、2人が語り合う15年前の話。そのころ残っていた人間たちが集っていた最大の都市ヘブンズパレス。ある日突然、すべての住人が名前を忘れ、奇形となり、子供が生まれなくなった都市で、当時その現象を免れた大公の娘と、生まれて以来地下で育って毒性のない環境に耐えられない有毒少年の、2人をめぐる物語。

吉祥寺に行こうか迷って、懐かしい名前と新しい劇場見たさに選んだ芝居ですが、駄目って言ってもいいでしょうこの出来では。これだけ役者が揃ってどうしてこうなった。

脚本は後藤ひろひとの「ダブリンの鐘つきカビ人間」を彷彿とさせるもので、インスパイア兼オマージュ兼リスペクトくらいの設定。起承転々結くらいの展開で、そんなに悪くない。主人公を演じた2人が何か嫌な予感がして、案の定下手だったけど、主人公の割に出番が少ないから他の場面が悪い理由にならない。2人だけで会話を進める読書家(三倉茉奈)と幽霊(六角慎司)の場面が全編を通して比較的安定していて、ノーマークだった三倉茉奈がちょっと気になる演技をしていたのは収穫。主役級の役者が惑星ピスタチオ調の演技で、やや大げさでも個人単位で見れば別に悪くないんだけど、それが勢いや流れにつながらない。それとは別にストレートな演技をする役者もいて、統一感にも欠ける。やっぱり演出なのかな。芝居の最中ほとんど寝っぱなしの客が1人いて、いびきが迷惑なことこの上なかったんですが、それを差引いてもあの出来では集中できない。

照明は惑星ピスタチオと同じ人でしたね。細い線と太い線の組合せだったり、床から手前向きに並べたり、懐かしかったです。

噂の制作部門ですが、上演時間情報がわからない、当日券販売の予定が載っていない、並ぼうとしても劇場前に並ぶ場所の紙1枚も案内がないのでどこに並んでいいかわからないなど、あまりフレンドリーとは言えない。ちなみに、当日券は1時間前から販売開始、並ぶ場所に迷ったらできるだけ劇場入口近くに陣取ること、休憩挟んで2時間40分、6300円です。

劇場は、200人強のキャパで非常にコンパクトにまとまって、客席の傾斜も含めて観やすい。その分、椅子の前後のスペースが詰まっているので、真ん中よりの席の人は開演してからだと入りづらいので注意。椅子はふかふかで背もたれ高め、ただし座面は低め。あと音響がよかったのは劇場設備のおかげなのか、高音低音とも好みな響き。立地のよさはやはり特筆もので、繁盛してくれることを願っております。

2011年11月16日 (水)

降板するとかしないとか

日韓交流プロジェクトで、柿喰う客が韓国の役者を迎えての芝居を予定していたところ、開幕前日に2名降板したそうな。柿喰う客のサイトと、こまばアゴラ劇場。だけど記録を残すためにこちらを引用しておく。

劇作家・演出家の中屋敷法仁氏率いる劇団「柿喰う客」(本拠地:東京)は11日、翌日開幕(プレビュー公演)となる公演「日韓交流プロジェクト2011『検察官』」に出演予定だったコロ氏と右手愛美氏(いずれも劇団員)の降板を急遽発表した。

降板の理由について劇団公式サイトには、「劇団内の事情により、俳優の意見を尊重した結果、コロ、右手愛美は『検察官』を降板いたします」と記されているものの、詳細は不明。

もともと観にいくつもりがあったわけでなし、別に喧嘩して衝突して不参加とか小劇場だと珍しくないと思うし、役者ならそのくらい思い切りがいいほうが大成するくらいの割引をして「へー」ってなもんで。いや詳細は知りませんよ。

ただ、この公演に「助成:芸術文化振興基金」って付いているんですけど、助成のページを調べても見つからない。見落としているかな。

もし助成金を入れた交流プロジェクトならせめて「体調不良により」って書いてほしい。「意見を尊重して」って、降板理由が、説明できない理由だったり、載せたら芝居が興ざめな理由だったりしても、それはしょうがない。そこまで求めないけど、せめて体裁は整えてほしい。助成金を政府出資金に戻せとは言いませんから。「交流しようとしたけど成功失敗以前に交流できませんでした、それがわかったのが成果でした」って、個人にとっては成果でも企画としては企画倒れでしょう。まあ残りのメンバーで公演が続行できれば成功といえなくもないけど。失敗なら失敗で、失敗の理由を公開して共有して次に生かせないものか。

助成は、成功失敗いい悪いよりなにより、何をもって成功失敗企画逸脱かを判定する基準がない(あるいは公開されていない)のが嫌だ。あと思いついたんですけど、助成時に契約義務ってないんでしょうか。体調は尊重しても意見は尊重しません、って書いた契約書を交わしましょう。

兵頭裕己「演じられた近代」を読んだ

この本です。我ながら昨今は芝居勉強に熱心なので、読書が増えている。それと最近いろいろあって、やっぱり歴史を学んでおかないと次に進めないなと感じることが多い。そこでめぐり合ったこの1冊。読み終った感想は、手ごわいけれども避けては通れない1冊。読み終わって寝かせていたけれども、これ以上は消化されないので書いてまとめを試みる。長いよ。

盆踊りを遡ることはるか昔から、世の中が変遷するタイミングで日本ではある種のリズムをもった掛け声(XX節など)に乗った踊りが流行る特徴がある、この衝動を契機として新しいパフォーマンスが生み出されていく、観客はその演者のリズムと踊りとリズムに自分の衝動を共振させるところに熱中する、というのが出だしの解説。この末裔として歌舞伎がある。歌舞伎は歌謡と舞踏を主体とし、さらに三味線音楽の間と呼吸で様式化されたパフォーマンスであり、その例として江戸末期から明治にかけて当たりに当たった黙阿弥の戯作を取上げる。七五調のリズム(4拍子、またはゆっくりとした2拍子)の台詞を語った役者が型を決める、その瞬間に共振したい、観る-観られるという関係ですらなく一体化したい、それが目当てで観客は芝居小屋に来る、ストーリーはおまけでつじつまがあっていなくてもかまわない、そこが歌舞伎の魅力。ではこの七五調のリズムの気持ちよさははたして先祖伝来の感覚か。

このころ文明開化による明治政府の欧化政策が始まる。ひとつは音楽教育と体操教育。軍隊と(明治の)近代経済に必要と政府に認識されて、西洋に学んだ文部省の官僚によって導入された。音楽はヨーロッパの曲のうち、日本に親しみやすいヨナ抜き音階(ドレミソラの5音階)の曲を選んで、七五調の日本語歌詞をつけて紹介した。そして体操は行進行軍の練習を行なう隊列運動が導入された。この隊列運動と曲が合わさって、日本の七五調と海外の4拍子(2拍子)が結びついた。これが学校教育で全国で行なわれた。七五調のリズムと拍子が結びついたのは近代のこと。

もうひとつの欧化政策が芝居公認。それまで悪所扱いだった芝居が、外国との社交場に適当と認知されたため。これを契機として九世市川団十郎が学者たちと一緒に、台詞回しを普通にして衣装や化粧を写実化した活歴ものに挑戦する。それに坪内逍遥が写実よりも戯曲(による人間心理を描くこと)最優先説を唱える。団十郎の活歴ものは評判が悪く、それにもめげずに続けていたが、日清戦争の芝居の出来があまりに悪く、歌舞伎は現代劇になれないことが決まって、団十郎は旧歌舞伎路線に戻る。政府の人員交代もあって、芝居と政府は(検閲などは残るが)一度離れる。

この時期、民権運動や地方没落農民の江戸流入によって、江戸町人と意識が異なる「国民」意識が生まれる。また民権運動の活発化が「国民」相手の政治演説を行なう弁士を増やし、政府の取締りも誘発する。この取締りを避けるために、講談師の鑑札を取得して(役者の鑑札で芝居を行なう場合は脚本の事前検閲が入るので講談師)俄か芝居(即興寸劇)と銘打って即興を行なう弁士が出てくる。その一人が川上音二郎で、やがて本業に転じて、「新演劇を作る」と称して弁士なみに口が立つメンバーを募集して一座を作り、興行を本格化させる。最初は欧化政策を批判するオッペケペー節で、国民の中でも貧しい「大衆」の人気を集め、やがて日清戦争をネタにした芝居で大当たりする。これは外国との戦争ということで地域や階級の差異や差別を打消して、「国民」が一体化できるパフォーマンスとして人気を集める。その人気に乗って興行を繰返すうちに、川上音二郎一座、あるいはそこから脱退した役者が旗揚げした様々な一座の演技の型が洗練されてくる。そして「金色夜叉」の上演を契機にこれら一座は「新派劇」という呼称が定着する。これが新派で、当時は旧派と見られていた歌舞伎に対抗する芝居として認知された。しまいにはシェークスピアの日本初演まで行なったが、主たる支持層である「大衆」への受けを狙って原作を大幅に改作したため、学者の間では評判が悪かった。

それを嘆いたのが戯曲最優先主義の一環としてシェークスピアを研究していた逍遥。イギリスやドイツに留学していた門下の島村抱月を立てて、文芸協会を発足した。またほぼ同時期にそれに先駆けて、ヨーロッパのリアリズム演劇を小さな劇場で伝える小劇場運動の影響を受けた小山内薫が「自由劇場(劇場と名前はついているが当初は活動名だけで劇場はない)」を開始する。この人たちの系譜の芝居が後に「新劇」と呼ばれることになる。

文芸協会は、思うような芝居をできる役者がいないとして、まず演劇研修所を作って2年間の養成を行ない、卒業公演で「ハムレット」を、その後初回公演で「人形の家」その他を上演した(第2回公演でも「人形の家」を上演)。これが松井須磨子の現代演技と、主人公ノラの女性自立物語と相まって絶賛と反響を呼ぶ。その後の公演で文芸協会の活動が軌道に乗り始めた矢先、島村抱月(妻子あり)と松井須磨子の不倫が表面化、並行して上演演目が芸術的か通俗的かでもめて、文芸協会は解散、島村抱月と松井須磨子は芸術座を旗揚げする。芸術座も当初は芸術最優先で公演していたが、経済上の都合から興行を優先する「妥協路線」に進む。その「妥協」の一環として、島村抱月の書生だった中山晋平に作曲させた劇中歌「カチューシャの唄(カチューシャかわいや、別れのつらさ・・・)」や「ゴンドラの唄(いのち短し、恋せよおとめ・・・)」などがヨナ抜きで作曲され、全国的流行歌となり、芸術座は日本どころか海外公演まで行なう。その過程で松井須磨子中心のスター主義となり、また松井須磨子の演技も型が目立つようになり、新派との違いがわからなくなる。やがて島村抱月が病死し、その後追い心中のように松井須磨子も死ぬまでがひとつの区切りとなる。

自由劇場は小山内薫が、新派の座付脚本家時代に勝手な改作をされた経験や、ロシアでスタニスラフスキーの影響を受けたことから、やはり戯曲最優先のリアリズム芸術を目指していたが、「カチューシャの唄」をセンチメンタリズムと呼んで友人(山田耕作)の「どぶ泥の匂をかぐような気がした」という意見に賛同する、そういう明治日本の気配を拒否するだけの「センス」を持っていたので、上演ためには日本的なリズム感や身体感覚の「型」から自由な役者の身体を求めた。ここで文芸協会とは違って、歌舞伎役者を「素人」の役者に鍛えなおすというアプローチをとった。またそういう芝居(芸術的な上に、このころはまだ実験的で未完成)に興味がある観客が限られることから会員制とした。もともと「大衆」の「低級趣味」を向上させたいという一種の啓蒙主義をもっていた小山内薫の方針もあり、これが知識エリート向けのサロンのような位置づけを獲得する。この自由劇場は一定の成果をもって終了する。

ここまでで、小山内薫に代表される少数向けに芸術を追求する第一種の芸術劇、川上音二郎に代表される大勢向けの通俗的な第二種の通俗劇、島村抱月に代表されるその折衷を目指した第三種の中間劇と分類され(島村抱月がそのように分類しているいる)、どれがいいのか悪いのかと盛上がる。

そこを東京大震災が襲って、芝居小屋がことごとく被災して芝居興行が壊滅したとき、小山内薫は土方与志をかついで築地小劇場を建築し、そこを拠点に活動を再開する。今度はもう少し徹底していて、初期は翻訳ものばかりを上演して、日本の型から離れるための準備とした。ただし時代が変わり、ヨーロッパからのスタニスラフスキーより新しい芸術活動の紹介、知識エリートの大衆化、政府によって創立された国民文芸会による「民衆化させた演劇を利用した民衆の啓蒙」というプレッシャー、共産主義的なプロレタリア芸術運動などが重なる。そこで築地小劇場は「民衆のため」の「芝居小屋」と宣言し、知識人のサロンでなく啓蒙活動を重視し、「民衆の手を引いて、階段を一歩一歩。我々の『殿堂』に連れて来なければならない」という、ある意味傲慢と言われてもしょうがない方針で活動した。ただしどこへ行っても客層が変わらないことに悩み、しかも路線は変更しないという苦労の中、イデオロギー先行の芝居を生み出してゆくことになる。やがて小山内薫が亡くなると築地小劇場は分裂するが、その分裂した一派の影響でプロレタリア演劇が全盛を迎える。

その後は概略。徐々に弾圧が厳しくなる。大政翼賛会の文化部長に岸田國士が就任して政府の監視下に入る。敗戦後は弾圧されていた新劇関係者が活動を再開して、それはイデオロギーを含んでいたが、興行が成功するにしたがって逆にイデオロギー性が風化。そのころに新劇を批判するアングラ演劇が台頭して、戯曲優先主義(脚本、演出、役者、観客のヒエラルキー)が否定される。唐十郎は役者の身体を重視し、鈴木忠志は様々な芝居の脚本をつなぎ合わせた実験的な芝居を作り、寺山修二は脚本なしの口立てで集団創作した。新劇批判をしたアングラ演劇では、新劇以前の、歌舞伎のころの前近代的な芝居作りの方法が採用されたことになる。一般社会では安保活動が盛んだったが、シュプレヒコールの様々な掛声は2拍子系4拍子(「アンポーハンタイ、キョートーショーリ」など)で、「世の中が変遷するタイミングで日本ではある種のリズムをもった掛け声に乗った(一種の)踊り」が「明治政府の導入した日本の七五調と海外の4拍子(2拍子)」で展開されていた。結局、芝居も日本人一般も、明治の時期にアレンジされた「近代」を乗越えられていない。21世紀になってからは「声に出して読みたい日本語」や「ナンバ走り」が一般に親炙するような状態。この「近代」を乗越えるような、明治にアレンジされたリズムと身体に代わる、新しい身体を創造することが現代の芝居にできるか。

ここまででまとめ終わり。すごい着眼点ですよね。

読みながら最初に思ったのは、「リズムと型(身体)に共振したい=一体化したい」の指摘。自分も芝居を観ていてそういう楽しみ方を覚えるのだけど、自分はこれを物語の喜怒哀楽の感情に共感したのだと思っていた。でも喜怒哀楽と思っていたものが実は「リズムと型」と言われると、そのほうが近い気がする。そこから話は飛んで、同じものへの一体化を目指すのが娯楽で、対立を目指すのが芸術なのか。あるいは違うように見えたもの同士から共通点を見つけるのが近代で、違うもの同士でも共存できることを示すのが現代に求められることなのか。仮でもいいからこれに自分なりの解答を出せると今後が楽になる。ここら辺はまた平田オリザの本の感想で書く。でもこういう文脈を知っていると、チェルフィッチュがあんなに「珍重」される理由がわかる。

それと合せて思ったのは、ここに書かれた明治大正の芝居のハードルがほとんど今と変わらないこと。売れて分裂とか、主催者と看板女優の不倫とか(笑)。それは冗談として、
・型やリズムから脱出したリアリズム演技の実現やそのための役者育成
・西洋的なリアリズム芸術(三一致、行為と時間と場所が一貫性と合理性をもったもの)に適してかつ自然な日本語口語体の創出
・芸術性と興行との両立
・政治を通さない芝居と社会との関係構築
などなど。他に歌舞伎役者の現代劇挑戦なんてのもある。全部あるいは一部を実現している関係者はいても、これが当たり前という状況ではない。だからスタンダードを確立したいという欲求を持つ関係者がいるんだ、とこれも腑に落ちた。

これだけ書いてようやく消化できた。今までエントリーを書いて寝かせたことはあったけど、そもそも書くのに2日かかったのは初めてで、つまりそれだけの内容が詰まっていたからなんでしょう。この本を紹介してくれた匿名希望さんにこの場を借りて感謝御礼を。そしてこの後さらに別の本を読んで、この本からつながったさらなる発見があるのだけど、それはまた改めて。

余談ですが、読んでいて思ったのは、川上音二郎のエネルギッシュな活躍と、小山内薫の嫌な感じ。特に川上音二郎の活躍を読みながら、三谷幸喜がなんで川上音二郎を芝居にしたのかを考えました。今回の登場人物の中で、もっとも芸術と興行の両立を目指していたのは、実は川上音二郎なんじゃないかと感じました。三谷幸喜もキャスティングやスポンサーの意向など興行の要求は残らず汲取って、その上で面白い芝居や映画を創ろうとして、しかも自分でコラムを書いたり宣伝に出たりしていますよね。あの精神が川上音二郎の中に共通点を見て取ったのではないでしょうか

2011年11月14日 (月)

新国立劇場の演劇研修所が8期生の募集予告

要項は近日公開ですけど、載っていました。そのうち公開されるでしょうから興味のある人は毎日ホームページを確認してください。

贅沢なワークショップを演劇研修所で体験した者としてこんなことをいうのははばかられるのですが、個人的にはやっぱり、他人に対して役者という職業を勧められない。「炎の人」ではないけれど、表現系の職業は、もうそれをやらないと駄目というくらいの情熱が必要で、その情熱がある人はそもそも他人から勧められようが否定されようが関係ないのだと思う。業界関係者が勧めるのはわかるけど、一般人が勧めるとしたら、その人は人でなしではないかとも思う。

そして演技について言えば、一つ目は研修所で3年学んでも演技が身につくかわからないこと、二つ目は演技が身についてもそれで世に出られるかどうかはそれ以外の要因が無視できないくらい大きいこと、そして三つ目は研修所の路線の演技が身につくほど他の演技が出来なくなる可能性がありそう、という問題があります。特に最初の、身につくかわからないところは注意してください。ここが一般勉強と違うところ。スポーツに近い。あと世に出るには実力と同じかそれ以上に運やめぐり合わせが必要です。同期で世に出てモノになる人が、ゼロで当たり前、1人いれば上出来、2人いればラッキー、3人いたら奇跡の世界です。

それと、研修所の演技路線があっている人にはこの上ない環境でしょうが、でも自分で目指す演技路線がはっきりしている人ってそんなにいないんじゃないでしょうか。年齢制限に余裕があるなら、暫定でもいいから目指す演技路線が決められるくらいまで勉強して待ったほうがいいと思います。

ここでいう勉強は、演じるほうと観るほうの2つ。上演機会は3年のうち最後の半年だけなので、学生サークルでもなんでもいいから舞台経験を積んで自分に何が足りないのか問題意識を持つ。そしてひたすら芝居をはしごして、何がよくて何が悪いかを区別できるようになるまで観る。年間25万円が芝居見物投資の最低ライン。首都圏以外だと地理的につらいだろうところがネックですが。

あと、情熱は必要なんですが、情熱だけでは今の世の中通用しないので、理論武装の準備もしてください。平田オリザのこの本とか、面白いですよ。もしこんなの意味がわからないと思ったら、やっぱりしばらく待って、勤め人として1年でも2年でも社会人経験積んどいたほうがいいと思います。これも今時は氷河期なのがネックですが。

これだけ書いてもあきらめない人は、宮田慶子の言葉を読んでください。10年は長くて十分と思うかもしれませんけど、10歳年上の人に訊いてみてください。あっという間ですよ。

それでもかまわないという人だけが、ぜひ挑戦してください。

<2011年11月20日(日)追記>

募集要項が発表されていた。ずいぶんタイトな募集日程だ。そういえば、今回から募集人数を減らすってオープンスクールのときに聞いたのを思い出した。16人程度から12人程度になっているので、応募する人はそれも注意。

<2011年11月21日(月)追記>

募集人員を減らしていたのは去年からだったみたいです。すいません、訂正します。

新国立劇場演劇研修所「ゼブラ」新国立劇場小劇場(若干ネタばれあり)

<2011年11月12日(土)夜>

両親が離婚し、母親の元で育てられた四人姉妹。長女と四女はすでに結婚して家を出ており、次女も間もなく結婚するため引越しの準備を進めている。が、母親が病気で入院して痴呆も進行してきたため、見舞いのために姉妹とその夫たちが集まっている中、病院から訃報が入る。

朗読でなく芝居で観たのは初めての演劇研修所公演(5期生)。すごい楽しみにしていた脚本で、鈴木裕美を演出に迎えての初舞台は、悪くはないんだけど、すごいこじんまりとまとまった印象。

観終わった今から考えても脚本のポテンシャルは高いと信じているんですが、それでこんな印象になった理由が今でもわからない。リズムが微妙にずれていたとは思うけど、2時間を切った上演時間で全体にそこまでずれていたとも思えない。葬式屋や次女の婚約者や四女の幼馴染は全体にやりすぎだけど、それは初演のときもそうだったからそれだけではない。鈴木裕美が初顔合せの役者に遠慮したか、そんな遠慮をする人間がここまで生き残っているわけがない。初演出の脚本家のノリをつかみ損ねたか、だとしたらこのレベルにも到達していないはず。

スタッフワークが原因か、むしろ秀逸。美術は初演とほとんど同じ構成なんですけど、天井の高い会場を生かして黒いすだれのかかった階段が用意されていて、回想場面で白い衣装を着た母親が階段を上って退場する場面が、照明と合わさって「ゼブラ」になる場面は白眉で(シマウマは死者が乗って天国に行くための聖なる動物、という台詞がこれより前にある)、母親が亡くなったことを表すのにあれ以上きれいな場面はない。あと最後の台詞「ばーか」の後の音楽は、何か聞き覚えがあるのに思い出せないんですけど、あの音楽なんですよね、あの音楽が合うようなラストにたどり着かないといけないと思わせる1曲。ほんと、スタッフは全力でお膳立てしていた。

だとすると役者の問題か。テンションが低い、エネルギーが足りない、迫力に欠ける、何と言ってもいいけど、おとなしすぎたんでしょうねきっと。おとなしいなりにレベルは揃っていて、だからこそ悪くはないという感想になったのでしょうけど、アンサンブルは長所をへこませるのではなくて、長所同士を合せてほしい。多少でこぼこでも、そこに長所があれば、それを拾ってアンサンブルに合せるのは演出家に任せてしまってもいいのだし。この人たちがどの程度芝居をやっていたのかは知りませんが、未経験であれだけできたら大したもの、だけど金を払いたいかと言われるとまだ。いい意味で気になる役者はひとりだけいましたけど、黙っておきます。

次回は12月に、演劇研修所副所長の西川信廣演出で岸田國士だそうです。この前文学座、16日から俳優座とただでさえ忙しい演出家ですから、時間が取れずにあの手ごわい脚本を相手にしたら惨敗するんじゃないかと心配ですが、研修生は小劇場よりむしろ新劇路線のほうが得意な可能性もあるので、判断は早まらないでおきます。

2011年11月13日 (日)

ホリプロ主催「炎の人」天王洲銀河劇場

<2011年11月12日(土)昼>

宣教師として貧しい人たちを救えないことに悩み、志を画家に転じた男、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ。絵は売れずに弟の世話になったまま、やがて心を病んでいく彼の、それでも止まない絵への情熱を、ハーグでの勉強、パリでの著名な画家との交流、アルルでのゴーギャンと同居生活を通して描く。

初演は劇団民藝で1951年に滝沢修主演とのこと。三好十郎は初なんですが、とても終戦間もない時期に書かれたとは思えないクオリティ。そして受賞作なだけのことはある仕上がり。

絵を描かずにはいられないゴッホの情熱がどこから来ているのかはわからないけど、そのわからない情熱が「炎の人」の所以なんでしょう。演じるには技術以前に大変なエネルギーが要求されると思うのですけど、市村正親が演じきりました。益岡徹のふてぶてしさや富田靖子のラシェルのノリなんかも、かなり惹かれるものがあります。

オープニングは老婆が反則でエンディングは台詞が圧巻なんですが、特にエンディング。今時は青空文庫で読めるので最後の男の台詞を読んでみてほしい(日本の画家のところは割愛されていましたが)。ゴッホの苦悩を散々みせられた後に、これを中嶋しゅうに淡々とした調子で語られた日には、野田秀樹のラストの長台詞もかすむ。「飛んで来て、取れ。」とか格好良すぎてしびれる。

ただ残念だったのは、劇場が大きすぎた(天井が高すぎた?)のか、空気がなかなか充満しないで、ちょっと発散気味になったところ。2階席が舞台から遠すぎたのかな。紀伊国屋ホールとか俳優座劇場だともっと圧倒されただろうし、シアターコクーンでも参ったと思う。場所が不便なのもそうなんだけど、あまり好きではないなこの劇場は。

そして貧乏は嫌だ。観ている間に何度も「金がないのは首がないのと同じ」と言った西原理恵子の名言を思い出してしまった。だからこそほとんど憎んだんだろうな三好十郎も。

余談ですけど、ゴッホについては、色覚の話とか、ティルトシフトの話とか知っていると、もう少し楽しめるかもしれません(楽日過ぎたけど)。ちょっと目が違っていたんでしょうね。

2011年11月12日 (土)

文学座「岸田國士傑作短編集」紀伊国屋サザンシアター

<2011年11月11日(金)夜>

休暇を取ってわざわざ海岸の旅館に避暑にやってきた、海で泳ぐのが初めての妻と、泳ぎを教えたくてたまらない夫、しかし雨続きの天気で夫は妻に語りだす「明日は天気」。新婚旅行で夫に不満を覚えた妻がひとりで向かったのは姉夫婦の自宅だが、不満をぶちまけるうちに誰が誰に文句を言っているのかわからなくなる「驟雨」。休暇中の別荘につれてこられた女中が泥棒を働いて暇乞いを願い出ると、言い出せない理由を問詰めて夫か息子が手を出したからではないかと疑う妻が考えた計画とは「秘密の代償」。

1回くらいは観ておく気になった文学座と岸田國士。都合をつけて観にいったものの、脚本負けの厳しい結果。

内容だけ言えば、ストレートな愛の台詞がむしろ新鮮な1本目、男女の仲を論じて今でも当てはまりそうな2本目、秘密が秘密を呼んでのどんでん返しがきれいに決まる3本目と、傑作短編集のタイトルは伊達ではない。けど、台詞を言える役者がほとんどいなかった。

最近読んでいる本(そのうち感想を書く)で、岸田國士が現代演劇ならではの文体の確立に気を配っていたと読んだのだけど、そしてそれは当時の口語体に基づいたものだったと思うのだけど、21世紀の日本人にはすでに古典の領域になっていた。だから、まともに台詞が言えたのは限られた役者だけだった。具体的には塩田朋子、菅生隆之、本山可久子。若松泰弘でもぎりぎり。他の役者の、上手い下手とは別の、今話している言葉に馴染みがありませんという雰囲気全開の台詞は、学生あがりの劇団ならともかく、文学座であれはいかん。

繰返して書くけど、脚本の内容はむしろよかった。だけどあれだけ明晰な指示をしていた演出家でさえこの結果はなぜかと考えるに、全体の流れとは別に、役者個々人の台詞術っていうのはやっぱり存在するのだと改めて確認した。今回の3本が入った脚本が売っているので、これは実物にあたって、どれだけ話すのが難しいか、自分で試してみたい。

重厚な舞台にシンプルだけど上等そうな家具を配して、特に背景に描いた絵が格好いい美術と、それを引立てる照明に、時代にあった衣装など、同規模の劇場で上演される芝居と比べてもビジュアルはとてもよかった。それだけにもったいない。

2011年11月 4日 (金)

松竹主催「美女はつらいの」大阪松竹座(ネタばれありあり)

<2011年11月3日(木)昼>

すばらしい歌唱力を持ちながらあまりに太っており、かつ病気の父親を抱えるため、歌が下手な美人歌手のゴーストシンガーを務める主人公。憧れのプロデューサーには応分の扱いをしてもらえるも、美人歌手やマネージャーからはさんざんな扱いと迫害を受ける。自殺を試みるまで思いつめた主人公は整形外科に通い大手術を受ける。美人になった主人公は別人の振りをして元のプロデューサーのオーディションを受けに行く。

ブログを書き始めてからたぶん初の遠征。もうアレがアレしてアレなんで「そうだ京都へ行こう」とか考えていたんだけど、どうせなら変わったことをしたいと考えて思いついたのが松竹著作権問題。どうせなら実物を見比べてやれ、でも「原作」の漫画はいまさら売っていないだろうから芝居だけ観てもわからないか、まあ交通費も馬鹿にならないし漫画がなかったらやめとこう・・・ジュンク堂、お前の品揃えには脱帽だよ、だったら観に行ってやるよ。

ということで原作5巻を大人買いして事前に読んだ上で、日帰りで行ってきました。以下全力でネタばれ。観に行った理由が理由だから許されたし。

まず内容「だけ」で言えば、これは裁判官が別物と判定したのもしょうがないというほどの別物。舞台が日本か韓国かは置いといて、まず漫画で言えば

  • 大学生の大学生活が中心(主人公が学生なのか、学食でバイトしていただけの若者なのかがいまいちわからない)
  • 1話目の1ページ目が整形済みの段階でスタート
  • 憧れの彼を、地味ブリッコ二股女から略奪して紆余曲折を経て付合いはじめる(2巻まで)
  • 付合いをご破算にしそうなイベント(妹にばらされそうになる、うっかり情けをかけた別のブスに振り回される、偶然会った彼の先輩にほれる)(4巻まで)
  • 同棲を始めるもお互いの欠点が目に付いて、さらに他の女から略奪の働きかけを受け、整形を白状するも、めでたしめでたし(5巻)
  • 全体に、「美女に対する誤ったイメージを実行して嫌われそうになったのを、ブス(不幸な立場一般)の気持ちがわかるためにリカバリー」というパターンのコメディ

というもの。これに対して芝居は

  • 音楽業界の歌手とマネジメント側が中心、主人公には歌唱力という能力あり
  • 主人公を誘導して(もてあそんで?)、無料で整形して、さらにサポートするのが天使という設定
  • ブスがいじめられ、さげすまれ、憧れのプロデューサーのパーティーで恥をかかされ、自殺したくなるまでが大半、加えて整形して正体を隠してオーディションに受かってデビューするまでが前半
  • 整形してデビューしたものの実は整形前にもプロデューサーが好意を寄せていたことを知って後悔する、事務所の方針で「美女らしい」振舞いを叩き込まれるが却って性格がゆがんで忙しくて会えない親の面倒を見てくれていた友人と険悪になる、主人公のデビューでクビになった美人歌手から正体を追及される、並行して事務所の契約トラブルでプロデューサーが自己嫌悪に陥る、コンサート当日に事務所が解散同然になってしかも正体がばらされてブーイングの中でステージに上がって謝罪して応援されて歌ってめでたしめでたしの後半
  • 全体に、シンデレラストーリーをベースに「ブスの悲哀」「正体を隠して美人になったための苦労と苦悩」を描いた物語

というもの。共通点らしきものは「主人公が整形して美女になる」「美女らしい振舞いをしようとして失敗するエピソードがある(エピソード自体はまったく違う)」「他の女に正体を追及されてばらされそうになる(追求される理由が、身内からの追及と、クビの恨みとで違う)」「格好良くて女に困らないような男が、外見無視の性格重視で相手を選んでいる」くらい。これだけじゃさすがにどこにでもある話の設定。今回の一件を知らない人が両方を観て原作関係を指摘できるとは思えないし、指摘できたとしてもその話を聞かされた人は「でもそれってよくあるパターンじゃないの」と返事するレベル。

なので、作品面から著作権を追求するのは無理、この芝居が映画を参考にしている証拠を探すしか手段がないんじゃないか、というのが私の印象。さすがに当日パンフレットは買わなかったけど、ぱらぱらめくった感じでは映画のことすら一切触れていない。触れていないことが逆に確信犯だと思うんだけど、それは証拠にならないので、クレジットで誰か映画にかかわっている人を探すとか、韓国での上演時の資料を探すとか、韓国から舞台化の申し込みがあったときの記録を探すとか、そういう方法しか思いつかない。「原作」者と講談社におかれては大々的な調査となって面倒かもしれませんが、ここで一発かましておかないと後でもっと面倒な犠牲者が出ると思いますので、最低でも「あそこは無断でやるといろいろうるさいからパクるのはやめておこう」と知らしめる程度にはがんばってほしい、それがコンテンツ海外展開先駆者の苦悩と承知して引受けてほしい、と勝手に願っております。背中から撃つようなことをブログに書いておいて勝手に願ってんじゃねーという感想を持たれるかもしれませんが、作品面については正直に、正直に。

ここまでが騒動に対する意見。ここからが芝居の感想。

面白いといえば面白いんだけど、いくらミュージカルに単純明快はありがちと言っても、それ以上にそのご都合主義はどうなのよ、という点が散見。

  • 天使という設定を持込むことで、貧乏な主人公の大規模整形費用が無料になること(あるいは、ゴーストシンガーをやっているのに家賃を滞納するほど貧しいこと)
  • いくら性格重視の男だからって、ブスの主人公にほれるきっかけがわからない(歌唱力にほれたって設定を新曲の場面で描いたのだとは思いますが)
  • 整形や芸能界に対する台詞に違和感を感じる

とくに最後が不思議で、最初は芝居だからいじめも何事も大げさにやるのだと思っていました。けどプロデューサーの台詞に、美人歌手はダンス、XX(失念)、整形、ダイエットと努力している(大意)とあって、え、整形って努力に含まれるの? 他の役に言わせるならまだしも、ひょっとして韓国ではそれが普通? みたいなカルチャーギャップが芽生えたのがひとつ(他に、いまどきニュートラル(ナチュラルだったかも)美女なんてありえないという美人歌手の台詞もある)。あともうひとつ、事務所のトラブルに「奴隷契約」とかでてきて、あれ、ダブルキャストのもうひとりのヒロインの所属ユニットで実際に騒動になっていなかったっけ? 全部作り話と思っていたけど実はかなり現実が反映されている? だとすると他の部分、ブスへのいじめや美女は何をしても許されるという設定もかなり韓国の実情を反映しているのかも、といらぬ想像が湧いてしまったのがもうひとつ。だから、これは口パクかも、あの人はどこか整形しているのかな、このくらいのいじめは日常茶飯事なのかな、と今観ている芝居に対していろいろ考えてしまって、何かですね、素直に楽しめなかったんですよ。

役者についていえば、主人公のパ・ダは結構観られたし、聴けた。でもクライマックスの音響オペはもっと落としたほうがいいと思う。プロデューサー役のオ・マンソクは演技も歌も力不足。一番よかったのは、天使役兼整形外科役兼あといくつかを演じたキム・テギュンで、何をやるにしても余裕が感じられたし、声も出ていた。あと父親役の人がちょっと気になったけど名前不明。アンサンブルは振付はさておき、全体にもう少し揃えてほしかった。あと日本語を混ぜるのであれば謙虚さよりも面白さを追求してほしい。エンターテイメントをやっている最中に卑屈に見られたらアウト。その点でもキム・テギュンはよかった。

あと雑感。チケットは9割がた売れていてびっくり。客層は40以上の女性団体が主、もう少し若目の女性が若干、40以上の女性に連れられてきた旦那さんがごく少数、自分は希少種。拍手はプロデューサー役に一番多かったので客層は男性スター目当てだったと思われる。いわゆる韓流が最近批判されているけど、こういう人たちにそれなりの需要があるとわかったのは収穫。他の観客のおしゃべりによると、原語には言葉遊びがちらほらあってもっと笑えるらしい(韓国語と日本語を流暢に話している人だった)。あと別の観客は騒動のことを知っていて、でもシンデレラストーリー自体がよくある話だろと自分と似たような感想を話していた。大阪松竹座は3階席まである、新橋演舞場の幅を狭くしたような劇場だけど、どこから観てもわりと観やすくてよい、そのかわりロビーが狭い。かに道楽は何件もある。読み終わった漫画はどうしよう。

どうせなら京都に寄ってきたかった、1日つぶして高い交通費で日帰りで何やってんだと後悔はしきりだけど、反省はしない。それにしてもやったことはフリーのライターみたいなものだけど、事前調査に交通費に芝居にと金ばかりかかって、もっとまじめに調べるなら映画のDVDを買うとかもあるし、これは儲からん、フリーの収入3分の1則(サラリーマンの3倍もらって やっとサラリーマンと同じくらいの稼ぎになる)は本当だ、と実感した。

2011年11月 1日 (火)

最近は世田谷パブリックシアターが面白そう

こちらで見かけたんですけど、「プロデューサーの仕事」なんていう企画をやっていたんですね。全部平日だけど、今日の都合がつけば他の日も無理矢理参加できたかも。でもさすがに当日終わっていては無理。

単なるイメージだけど、世田谷パブリックシアターは他の劇場と微妙に志向が違っていて、「演者よりも制作者、スタッフの育成に重点」「芝居だけでなくダンスにも積極的」「若手・海外・複数分野を組合せることに意欲的」「芸術々々したラインをちょっとだけ客寄せ方面に振るさじ加減を工夫」みたいな面白さを感じる。初期はもっと地味だったはずだけど、その地味を経て面白企画を実現することを会得したのだなと想像する。

と書いてからよく見たら、ちゃんと一覧があった。やっぱりいろいろやっている。面白そう。

話は元に戻って、プロデューサーの肩書や経歴が面白い。チーフが大勢いるのは、別に本家チーフと元祖チーフとかではなくて、1本制作をまかされる責任者のことかな。そして今の劇場部長はNOISEの制作出身のたたき上げって感じ。NOISEには間に合わなかったのですけど、苗字から推察するに旦那さんでしょうか。組織図だけみるとすごい偉い人っぽいけど、実際偉いんでしょう。高萩宏の元の肩書のゼネラルプロデューサー相当くらい?

もうひとつ話を転がして、今は小劇場の制作で現場たたき上げの生き残った人たちがこういう劇場の責任者に散らばっていて、たぶん遅れた高度経済成長よろしく(国内では)あまり前例のない劇場の役割整備をがしがし進めているんでしょう。そして無事整備が済んで、この人たちが引退するころには、劇場出身の制作者というのが制作のキャリアパスとして確立されているのは想像に難くない。

その時代でも、小劇場出身のたたき上げで新しいことをがしがし進められるワイルドな制作者というのは存在して、適宜劇場に刺激を与えられる人材の確保に困らないのか。それとも整備しすぎて硬直化するか。いやいや劇場の制作者は劇場でがしがし鍛えられて、野良劇団出身のたたき上げ制作者なんて束になってもかなわないような育成をされるんでしょうか。別に今から余計なお世話ですけどね。

でも、ある劇場と、その劇場にかかわってきた人たちの出身団体を図にしたら、その劇場のカラーと比べて「うわーぴったり」ってならないかな。

とりとめがないにもほどがあらあなっていうエントリー。

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