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2011年11月16日 (水)

兵頭裕己「演じられた近代」を読んだ

この本です。我ながら昨今は芝居勉強に熱心なので、読書が増えている。それと最近いろいろあって、やっぱり歴史を学んでおかないと次に進めないなと感じることが多い。そこでめぐり合ったこの1冊。読み終った感想は、手ごわいけれども避けては通れない1冊。読み終わって寝かせていたけれども、これ以上は消化されないので書いてまとめを試みる。長いよ。

盆踊りを遡ることはるか昔から、世の中が変遷するタイミングで日本ではある種のリズムをもった掛け声(XX節など)に乗った踊りが流行る特徴がある、この衝動を契機として新しいパフォーマンスが生み出されていく、観客はその演者のリズムと踊りとリズムに自分の衝動を共振させるところに熱中する、というのが出だしの解説。この末裔として歌舞伎がある。歌舞伎は歌謡と舞踏を主体とし、さらに三味線音楽の間と呼吸で様式化されたパフォーマンスであり、その例として江戸末期から明治にかけて当たりに当たった黙阿弥の戯作を取上げる。七五調のリズム(4拍子、またはゆっくりとした2拍子)の台詞を語った役者が型を決める、その瞬間に共振したい、観る-観られるという関係ですらなく一体化したい、それが目当てで観客は芝居小屋に来る、ストーリーはおまけでつじつまがあっていなくてもかまわない、そこが歌舞伎の魅力。ではこの七五調のリズムの気持ちよさははたして先祖伝来の感覚か。

このころ文明開化による明治政府の欧化政策が始まる。ひとつは音楽教育と体操教育。軍隊と(明治の)近代経済に必要と政府に認識されて、西洋に学んだ文部省の官僚によって導入された。音楽はヨーロッパの曲のうち、日本に親しみやすいヨナ抜き音階(ドレミソラの5音階)の曲を選んで、七五調の日本語歌詞をつけて紹介した。そして体操は行進行軍の練習を行なう隊列運動が導入された。この隊列運動と曲が合わさって、日本の七五調と海外の4拍子(2拍子)が結びついた。これが学校教育で全国で行なわれた。七五調のリズムと拍子が結びついたのは近代のこと。

もうひとつの欧化政策が芝居公認。それまで悪所扱いだった芝居が、外国との社交場に適当と認知されたため。これを契機として九世市川団十郎が学者たちと一緒に、台詞回しを普通にして衣装や化粧を写実化した活歴ものに挑戦する。それに坪内逍遥が写実よりも戯曲(による人間心理を描くこと)最優先説を唱える。団十郎の活歴ものは評判が悪く、それにもめげずに続けていたが、日清戦争の芝居の出来があまりに悪く、歌舞伎は現代劇になれないことが決まって、団十郎は旧歌舞伎路線に戻る。政府の人員交代もあって、芝居と政府は(検閲などは残るが)一度離れる。

この時期、民権運動や地方没落農民の江戸流入によって、江戸町人と意識が異なる「国民」意識が生まれる。また民権運動の活発化が「国民」相手の政治演説を行なう弁士を増やし、政府の取締りも誘発する。この取締りを避けるために、講談師の鑑札を取得して(役者の鑑札で芝居を行なう場合は脚本の事前検閲が入るので講談師)俄か芝居(即興寸劇)と銘打って即興を行なう弁士が出てくる。その一人が川上音二郎で、やがて本業に転じて、「新演劇を作る」と称して弁士なみに口が立つメンバーを募集して一座を作り、興行を本格化させる。最初は欧化政策を批判するオッペケペー節で、国民の中でも貧しい「大衆」の人気を集め、やがて日清戦争をネタにした芝居で大当たりする。これは外国との戦争ということで地域や階級の差異や差別を打消して、「国民」が一体化できるパフォーマンスとして人気を集める。その人気に乗って興行を繰返すうちに、川上音二郎一座、あるいはそこから脱退した役者が旗揚げした様々な一座の演技の型が洗練されてくる。そして「金色夜叉」の上演を契機にこれら一座は「新派劇」という呼称が定着する。これが新派で、当時は旧派と見られていた歌舞伎に対抗する芝居として認知された。しまいにはシェークスピアの日本初演まで行なったが、主たる支持層である「大衆」への受けを狙って原作を大幅に改作したため、学者の間では評判が悪かった。

それを嘆いたのが戯曲最優先主義の一環としてシェークスピアを研究していた逍遥。イギリスやドイツに留学していた門下の島村抱月を立てて、文芸協会を発足した。またほぼ同時期にそれに先駆けて、ヨーロッパのリアリズム演劇を小さな劇場で伝える小劇場運動の影響を受けた小山内薫が「自由劇場(劇場と名前はついているが当初は活動名だけで劇場はない)」を開始する。この人たちの系譜の芝居が後に「新劇」と呼ばれることになる。

文芸協会は、思うような芝居をできる役者がいないとして、まず演劇研修所を作って2年間の養成を行ない、卒業公演で「ハムレット」を、その後初回公演で「人形の家」その他を上演した(第2回公演でも「人形の家」を上演)。これが松井須磨子の現代演技と、主人公ノラの女性自立物語と相まって絶賛と反響を呼ぶ。その後の公演で文芸協会の活動が軌道に乗り始めた矢先、島村抱月(妻子あり)と松井須磨子の不倫が表面化、並行して上演演目が芸術的か通俗的かでもめて、文芸協会は解散、島村抱月と松井須磨子は芸術座を旗揚げする。芸術座も当初は芸術最優先で公演していたが、経済上の都合から興行を優先する「妥協路線」に進む。その「妥協」の一環として、島村抱月の書生だった中山晋平に作曲させた劇中歌「カチューシャの唄(カチューシャかわいや、別れのつらさ・・・)」や「ゴンドラの唄(いのち短し、恋せよおとめ・・・)」などがヨナ抜きで作曲され、全国的流行歌となり、芸術座は日本どころか海外公演まで行なう。その過程で松井須磨子中心のスター主義となり、また松井須磨子の演技も型が目立つようになり、新派との違いがわからなくなる。やがて島村抱月が病死し、その後追い心中のように松井須磨子も死ぬまでがひとつの区切りとなる。

自由劇場は小山内薫が、新派の座付脚本家時代に勝手な改作をされた経験や、ロシアでスタニスラフスキーの影響を受けたことから、やはり戯曲最優先のリアリズム芸術を目指していたが、「カチューシャの唄」をセンチメンタリズムと呼んで友人(山田耕作)の「どぶ泥の匂をかぐような気がした」という意見に賛同する、そういう明治日本の気配を拒否するだけの「センス」を持っていたので、上演ためには日本的なリズム感や身体感覚の「型」から自由な役者の身体を求めた。ここで文芸協会とは違って、歌舞伎役者を「素人」の役者に鍛えなおすというアプローチをとった。またそういう芝居(芸術的な上に、このころはまだ実験的で未完成)に興味がある観客が限られることから会員制とした。もともと「大衆」の「低級趣味」を向上させたいという一種の啓蒙主義をもっていた小山内薫の方針もあり、これが知識エリート向けのサロンのような位置づけを獲得する。この自由劇場は一定の成果をもって終了する。

ここまでで、小山内薫に代表される少数向けに芸術を追求する第一種の芸術劇、川上音二郎に代表される大勢向けの通俗的な第二種の通俗劇、島村抱月に代表されるその折衷を目指した第三種の中間劇と分類され(島村抱月がそのように分類しているいる)、どれがいいのか悪いのかと盛上がる。

そこを東京大震災が襲って、芝居小屋がことごとく被災して芝居興行が壊滅したとき、小山内薫は土方与志をかついで築地小劇場を建築し、そこを拠点に活動を再開する。今度はもう少し徹底していて、初期は翻訳ものばかりを上演して、日本の型から離れるための準備とした。ただし時代が変わり、ヨーロッパからのスタニスラフスキーより新しい芸術活動の紹介、知識エリートの大衆化、政府によって創立された国民文芸会による「民衆化させた演劇を利用した民衆の啓蒙」というプレッシャー、共産主義的なプロレタリア芸術運動などが重なる。そこで築地小劇場は「民衆のため」の「芝居小屋」と宣言し、知識人のサロンでなく啓蒙活動を重視し、「民衆の手を引いて、階段を一歩一歩。我々の『殿堂』に連れて来なければならない」という、ある意味傲慢と言われてもしょうがない方針で活動した。ただしどこへ行っても客層が変わらないことに悩み、しかも路線は変更しないという苦労の中、イデオロギー先行の芝居を生み出してゆくことになる。やがて小山内薫が亡くなると築地小劇場は分裂するが、その分裂した一派の影響でプロレタリア演劇が全盛を迎える。

その後は概略。徐々に弾圧が厳しくなる。大政翼賛会の文化部長に岸田國士が就任して政府の監視下に入る。敗戦後は弾圧されていた新劇関係者が活動を再開して、それはイデオロギーを含んでいたが、興行が成功するにしたがって逆にイデオロギー性が風化。そのころに新劇を批判するアングラ演劇が台頭して、戯曲優先主義(脚本、演出、役者、観客のヒエラルキー)が否定される。唐十郎は役者の身体を重視し、鈴木忠志は様々な芝居の脚本をつなぎ合わせた実験的な芝居を作り、寺山修二は脚本なしの口立てで集団創作した。新劇批判をしたアングラ演劇では、新劇以前の、歌舞伎のころの前近代的な芝居作りの方法が採用されたことになる。一般社会では安保活動が盛んだったが、シュプレヒコールの様々な掛声は2拍子系4拍子(「アンポーハンタイ、キョートーショーリ」など)で、「世の中が変遷するタイミングで日本ではある種のリズムをもった掛け声に乗った(一種の)踊り」が「明治政府の導入した日本の七五調と海外の4拍子(2拍子)」で展開されていた。結局、芝居も日本人一般も、明治の時期にアレンジされた「近代」を乗越えられていない。21世紀になってからは「声に出して読みたい日本語」や「ナンバ走り」が一般に親炙するような状態。この「近代」を乗越えるような、明治にアレンジされたリズムと身体に代わる、新しい身体を創造することが現代の芝居にできるか。

ここまででまとめ終わり。すごい着眼点ですよね。

読みながら最初に思ったのは、「リズムと型(身体)に共振したい=一体化したい」の指摘。自分も芝居を観ていてそういう楽しみ方を覚えるのだけど、自分はこれを物語の喜怒哀楽の感情に共感したのだと思っていた。でも喜怒哀楽と思っていたものが実は「リズムと型」と言われると、そのほうが近い気がする。そこから話は飛んで、同じものへの一体化を目指すのが娯楽で、対立を目指すのが芸術なのか。あるいは違うように見えたもの同士から共通点を見つけるのが近代で、違うもの同士でも共存できることを示すのが現代に求められることなのか。仮でもいいからこれに自分なりの解答を出せると今後が楽になる。ここら辺はまた平田オリザの本の感想で書く。でもこういう文脈を知っていると、チェルフィッチュがあんなに「珍重」される理由がわかる。

それと合せて思ったのは、ここに書かれた明治大正の芝居のハードルがほとんど今と変わらないこと。売れて分裂とか、主催者と看板女優の不倫とか(笑)。それは冗談として、
・型やリズムから脱出したリアリズム演技の実現やそのための役者育成
・西洋的なリアリズム芸術(三一致、行為と時間と場所が一貫性と合理性をもったもの)に適してかつ自然な日本語口語体の創出
・芸術性と興行との両立
・政治を通さない芝居と社会との関係構築
などなど。他に歌舞伎役者の現代劇挑戦なんてのもある。全部あるいは一部を実現している関係者はいても、これが当たり前という状況ではない。だからスタンダードを確立したいという欲求を持つ関係者がいるんだ、とこれも腑に落ちた。

これだけ書いてようやく消化できた。今までエントリーを書いて寝かせたことはあったけど、そもそも書くのに2日かかったのは初めてで、つまりそれだけの内容が詰まっていたからなんでしょう。この本を紹介してくれた匿名希望さんにこの場を借りて感謝御礼を。そしてこの後さらに別の本を読んで、この本からつながったさらなる発見があるのだけど、それはまた改めて。

余談ですが、読んでいて思ったのは、川上音二郎のエネルギッシュな活躍と、小山内薫の嫌な感じ。特に川上音二郎の活躍を読みながら、三谷幸喜がなんで川上音二郎を芝居にしたのかを考えました。今回の登場人物の中で、もっとも芸術と興行の両立を目指していたのは、実は川上音二郎なんじゃないかと感じました。三谷幸喜もキャスティングやスポンサーの意向など興行の要求は残らず汲取って、その上で面白い芝居や映画を創ろうとして、しかも自分でコラムを書いたり宣伝に出たりしていますよね。あの精神が川上音二郎の中に共通点を見て取ったのではないでしょうか

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