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2011年12月30日 (金)

2011年下半期決算

決算です。

(1)キャラメルボックス・アナザーフェース「ナツヤスミ語辞典」新国立劇場小劇場

(2)虚構の劇団「天使は瞳を閉じて」シアターグリーン BIG TREE THEATER

(3)Project Nyx「伯爵令嬢小鷹狩掬子の七つの大罪」ザ・スズナリ

(4)DULL-COLORED POP「Caesiumberry Jam」シアターグリーンBox in Box

(5)劇団☆新感線「髑髏城の七人」青山劇場

(6)維新派「風景画」西武池袋本店4階まつりの広場

(7)新国立劇場主催「イロアセル」新国立劇場小劇場

(8)TBS・サンライズプロモーション東京主催・制作「志の輔落語 in ACT」赤坂ACTシアター

(9)松竹主催「美女はつらいの」大阪松竹座

(10)文学座「岸田國士傑作短編集」紀伊国屋サザンシアター

(11)ホリプロ主催「炎の人」天王洲銀河劇場

(12)新国立劇場演劇研修所「ゼブラ」新国立劇場小劇場

(13)キューブプレゼンツ「有毒少年」CBGKシブゲキ!!

(14)第三舞台「深呼吸する惑星」紀伊国屋ホール

(15)世田谷パブリックシアター企画制作「狂言劇場 その七 Bプロ」世田谷パブリックシアター

(16)ままごと「あゆみ」横浜赤レンガ倉庫1号館

(17)M&O playsプロデュース「アイドル、かくの如し」下北沢本多劇場

(18)PARCO主催「90ミニッツ」PARCO劇場

(19)パルコ企画製作「ロッキー・ホラー・ショー」神奈川芸術劇場ホール

(20)さいたまゴールドシアター「ルート99」彩の国さいたま芸術劇場小ホール

以上20本ですが、隠し観劇が1本あって21本、チケットはすべて公式ルートで購入した結果、

  • チケット総額は118050円
  • 1本あたりの単価は5621円

となりました。上半期の10本とあわせて

  • チケット総額は177130円
  • 1本あたりの単価は5714円

です。後半に無理矢理詰込んだら30本に乗ってしまった。もっと減らさないといけないのに。

下半期の筆頭イベントはやはり新国立劇場演劇研修所のオープンスクール参加。あれはいろいろ刺激になった。ただ、神経の変なところを刺激されたようで、受講時に消化しきれなかったのはしょうがないにしても、年末になっても妙にひっかかっている。受講直後はためになったと思ったからこそあの5部作の長文エントリーを書いたけど、本当に受けたことがよかったことなのか、今になって迷う。いまさら受けない昔に戻る選択肢はないので、迷ってもしょうがないけど。

そこから展開していつにない読書。スタニスラフスキーを読んで、そのアメリカの末裔たちを読んで、日本の近代芝居の歴史を読んで、それを発展させた人の話を読んで。オープンスクールで受けた情報をとっかかりにして読めたので頭に入る情報量が違う。これも一度に読みすぎて消化に時間がかかった感はあるけど、どれも読んでよかった本。他に読んだ本、積読の本もあるけど、それは来年に持越し。

そして公共性の話。助成金の配分とか、文化庁の案とか、大阪の美術館とか、開演時間の話であれこれやとか、不正受給あれこれやとか。ありすぎてどうでもよくなる勢い。これ、自分の場合は公共性とか考えないで、まず観客として何を望むのかをはっきりしたほうがいい。

ようやく芝居。芝居については、11月に大空振り月間があって、12月はだいぶ持ち直した。ただ下半期の1本は8月のDULL-COLORED POP「Caesiumberry Jam」。後でまったく関係ない件で脚本演出家とやり取りしたけど、それとは無関係にこれ。通年だと、三谷幸喜の「国民の映画」も候補なんだけど、あれは本当に時期が悪かった。見逃したほうだと、青年団の「ソウル市民5部作」をあの長期公演期間で見逃したのは悔やまれる。他に(9)で初の関西遠征もあったけど、勢いだけで遠征するものじゃない。

3月の地震の後で芝居の趣味は変わって、その目でいろいろ観てきたけど、こうやって決算で改めて並べてみて、わざわざ観なくてもよかった芝居の多さに我ながら頭を抱えたくなる。玉石混合はライブパフォーマンスの常だし、芸能ごとは石のほうが多いのも常だけど、それにしても石のほうが多かったし、ひどい石もたくさんあった。なんでこんな結果なのかと考えたけど、玉を出せる人が関わっていない芝居では玉にならない、石が玉に化ける錬金術はない、鍵となるポジションにそもそも玉を作れる人がいないと駄目、というのが仮説。どこが鍵なのかはまだ確信がないけど、たぶん演出家。それが必ず当たりにつながるわけではないけど、駄目な演出家の芝居は何をどうやっても駄目なんじゃないのか。昔は脚本7割と考えていたんだけど、脚本がどれだけよくても、その良さを引出せないと宝の持ち腐れになるし、複数人の役者が登場する芝居で1人、2人だけいい役者がいても、いい演技が浮いたらよくない演技に見えるので意味がないので、全体を調整して高い水準に持っていけないといけない。もちろん舞台で演じているのは役者だけど、いい役者が揃っても駄目な場合は駄目なのも事実。

話を元に戻して、地震の後の目で観て、芝居という表現分野のポテンシャルは実感したけれど、そのポテンシャルを使いこなせる関係者の少なさも実感した。自分は「芝居ファン以上、芝居マニア未満」と自分を位置づけているけど、そんな自分は、迷った芝居は観に行かないという態度でちょうどいいというのが結論。面白い芝居は面白くても、そんなに面白い芝居はめったにない。もっと意図的に時間と費用を減らさないといけない。去年の目標が実行されていないのは反省材料。月1日2本、年間最大で12日24本という同じ目標を継続。本数より時間優先で縛ったほうがいいかも。実際、仕事でいろいろ変化があって、趣味にうつつを抜かしている間に仕事がよくない状態になってしまった。これを切抜けることが最優先で、芝居は観たくても我慢するくらいでちょうどいい。

最後にブログのエントリーについて。この決算を書くために読み返したら、長文が増えている(そもそもこの決算も長文だ)。しかも文章として破綻しているものもある。自分の理想は簡にして要を得た短文だし、そもそも文章がおかしいのはもってのほか。なのに、これが自分でいうのもなんだけど、面白かった。たぶん、自分で考えて、考えた結果が書きたいことになって、それを考えたなりに書いたため。他人が読んだら意味不明な文章でも、自分のためにはとてもよい結果だった。初代ブログから中断をはさんで8年目、誰に頼まれたものでもない自分のためのブログは、ひょっとしていいものかもしれない、と初めて思えた。

この11月、12月の更新頻度と長文とが異常で、今後はもっとそっけないブログに戻るかもしれませんが、むしろそれが本来のこのブログです。引続き細く長くのお付合いをよろしくお願いします。

2011年12月18日 (日)

さいたまゴールドシアター「ルート99」彩の国さいたま芸術劇場小ホール

<2011年12月17日(土)昼>

日本国内で、外国の軍隊の駐屯基地のある島。基地の隣を、かつて基地と併せて整備された国道99号線が走る。基地の敷地内には、土地の貸借を拒否して住み続ける「巫女」の老女と、その弟子である若い姉妹が住んでいる。基地が10日間だけ外部公開されたタイミングで、軍の飛行機目当ての撮影者、本土から公演のために来た劇団、そして前日に起きた問題を相談したい地元の人たちが老女の住まいに集まる。前日に起きた問題とは、地元の名物であるまんじゅうを、国道99号線にばらまいたとして、トラックの若い運転手が逮捕されたという事件だった。

1日つぶれるのを覚悟で出かけたさいたまゴールドシアター。どう観ても沖縄が舞台なんですが、架空の国道だったり、最後まで沖縄という言葉を一度も使わなかったりした脚本の努力は尊重したい。そして面白くて楽しんだ。でもちょっとひねくれた楽しみ方です。岩松了の悪意と天才を堪能した。先週の岩松芝居よりももう少し露骨な感じがするのは脚本のせいか演出のせいか、それとも役者のせいか。

ゴールドシアターなので冒頭から登場するのは老人ばかりなのですが、もう日本人の悪い面のいろいろな特徴が台詞の端々に出ている役ばかり。オープニングから「そいつら全員(高所アクティングエリアから)突き落とせ」「そこの銃(舞台に置いてあった)をよこせ」とか心の中で突っ込みを入れながら観ていました。

この心境が変わったのが、途中でさいたまネクストシアターから参加の姉妹役が出てきてから。特に、請われていきなり劇団に参加させられたのに文句を言われて、そこから劇団のメンバーが言い合いを始めるその後ろで、ものすごい嫌そうなどうでもよさそうな白けた感じで言い合いが終わるのを待っている表情。さらに細かいですけど、その場面で劇団のメンバーはお茶を飲んでいるところに、姉妹役は水(ペットボトルと水筒)を飲んでいるのを観た瞬間、何でかわからないけどもう「2人ともこいつら全員ぶんなぐっていいぞ、俺が許す」と感情移入してしまった。物語に心奪われることはあっても、役に感情移入しながら観たのは久しぶりだ。いやまあそりゃ炭酸飲んでのどに刺激を与えるわけにはいかないという上演上の都合もありますけどね。後で出てくるトラック運転手の男性役もいい感じで、後半どんどんよくなっていく。

日本人の悪い面の特徴と書いたけど、それは(別に日本以外にも)いろいろあるけど、今回一番ひっかかった悪い面が「区別がない」こと。特に、自分の考えは他人が賛同して当然、自分の目標は他人も目標、という間違った集団意識。他人には他人の考え方があるから自分の考え方をおしつけることはできないという前提意識の欠如。これが、小は家族の不和から、大は基地問題まで、いろんな考え方をこじらせている。そのしわ寄せがいろいろな形で若者に回ってくる。姉役の時々鼻血が出る設定は、怒りを我慢して限界に達した場合の現象と解釈しました。あんな年寄りばっかりだったら腹が立って当然だと自分は思う。

別に役者の個人攻撃ではないですよ。役作りが上手かったということで、"Don't take it personally."です。今回はほとんどの役者が自分の名前と同じ役名を割振られているので、誤解されないように念のために書いておきます。そういう「悪い面」は岩松了の脚本の力で、だから、岩松了がどうやってこの脚本を書いたのかが知りたい。そして当日パンフで蜷川幸雄が「若い人への違和」と書いていたけど、違和についてどこまで意識的な演出をやったんだろう。すごい興味がある。

断絶したまま終わらないように、橋渡しに演出家だったり劇中劇だったりを用意して、特に劇中劇と劇を混ぜて思いっきり清算する巧みさには、救われます。

そういうわけもあって、今回はゴールドシアター以上にネクストシアターの3人が気になった。できれば「ハムレット」を観に行きたい。深谷美歩、周本えりか、川口覚の3人の名前は覚えておく。姉役の深谷美歩と妹役の周本えりかは、こんな発声の人が若手でいたのかと思って調べたら、深谷美歩は新国立劇場演劇研修所出身者だった。

<2011年12月18日追記>

2つ追記。その1。悪い面のもうひとつの代表的なものが真面目教。どちらかというと真面目ではなくて正直教で、日本の場合はこちらのほうが問題が根深い。その2。オープニングで何か変だと思っていてわからなかったけど、あれはカメラがおかしかったのが原因だと気がついた。芝居の進行上一部の人はあれだけど、飛行機撮影に来るほどのマニアなら原則として、全員プロ並の装備をさせてほしいところ。いまどきフィルム撮影を自分で現像するならなおのこと。近所の公園を朝通るときに鳥屋の爺様たちが持ってきているフルサイズのカメラにでかいレンズにごつい三脚の組合せを見るたびに、どんだけ金持ちなんだとうらやましくなる。

2011年12月11日 (日)

パルコ企画製作「ロッキー・ホラー・ショー」神奈川芸術劇場ホール

<2011年12月11日(日)昼>

婚約したブラッドとジャネットが2人で旅行の途中、森の中で車が故障する。ちょうど近くにあった城に助けを求めて中に入れてもらうと、なにやら城の主人の特別な日だという。現れた主人が2人を実験室に誘うとそこにあったのは・・・。

なんていうんでしょうねB級SFホラーコメディーロックミュージカルっていうんでしょうかこういうの。劇団☆新感線のおポンチ公演と言われてもまったく違和感がない。「俺たちの聖典」というのも案外本当だったみたい。こんなアホバカ舞台が1973年初演って、イギリス人もアホバカだったんですね(ほめ言葉)。

それじゃあアホバカで作っているかというと、むしろアホバカこそ全力を尽くして臨界点を超えるという意思と決意がにじみ出る超大作。手抜き一切なし。さすがにところどころで笑ってしまった。心得ている客がライト振ったりしていたけど、これは公演が進むと増えるのかな。米を投げるって何のことかと思ったらそういうものらしいけど、禁止だそうです。

古田新太(役名までフルター博士だ)のオカマ主人を始めとして、役者のはじけっぷりが楽しい。開幕したばかりというのもあるけど、登場人物ののどの調子がすこぶるよくて、高い声も低い声も伸びる声もよく出ている。カーテンコールの盛上げも堂に入ったもの。客席ノリノリ。

ひとつだけ残念だったのは、盛上げるための大音量で、特に歌の部分で歌詞が聴き取りづらかったこと。飽和するくらいの音量でないとこのテンションが成立しないのはわかるんだけど、もったいなかった。「はじめは右にジャンプ」とか、部分的に聴き取った感じでは、かなり日本語に馴染みそうな歌詞だったんじゃないかと想像したんだけど、まあわからなくても楽しめる。

あと、いつも配役表を配らないパルコ企画製作芝居ですが、今回はチラシがすでに配役表になっていて、ありがたいです。こういうのは継続されることを願って褒めておきます。

東京からの距離が祟ったのか、12月は平日がまだまだ余裕だそうで、トークショーまで企画されていて、カーテンコールでもお願いしている状態。あと自分が観た回の感触だと、週末でも席を選ばなければ大丈夫じゃないかと思う。より狭い劇場で観たい気分もわかりますが、東京公演より若干安いし、劇場の場所は風光明媚なので、スケジュールの空いている人は、中華街かみなとみらいで食事して、港近辺を散歩して、それを台無しにするようなB級ミュージカル見物とかいかがでしょうか。

PARCO主催「90ミニッツ」PARCO劇場(ネタばれあり)

<2011年12月10日(土)夜>

ある事件が発生し、猶予が90分しかない状態で、異なる立場のため対立し結論が出せない男2人のやりとり。

「笑の大学」は観たことがないけど、そのときの2人による90分の芝居。役者の熱演は認めるけど、自分の個人的な意見が脚本の中心と対立して自分には駄目だった不幸な1本。人によることですが、以下オチまでネタばれで書きますので、まだ観ていない人は観てからどうぞ。

この話は実話を元にしているけど誹謗中傷嘲笑の意図はない、みたいな字幕がオープニングで出るのは、エホバの証人の輸血拒否事件を基にした芝居のため。田舎から出かけてきて、一緒だった息子が交通事故で怪我をした、今手術をすれば助かるが手術には輸血が必要、法律で子供の手術には親による手術同意書へのサインが必要、だけど地域の長年の習慣で輸血は認めていない、医者の西村雅彦と父親の近藤正臣の対立が続くが命が助かるまでの猶予は90分、というのが粗筋。話の元ネタがそれだということ自体は別に字幕をいれなくてもいいと自分は思うのだけど、興行上のエクスキューズとしては必要なんだろう。それより、それ以外の大小いろいろなところで引っかかって、自分には駄目だった。

細かいところから言うと、息子が危ないのになかなかサインをしない父親の初期の態度の緊張感のなさと、医者が父親の同意を取付けようとする最初の横柄な態度。前者は知識不足を表現しようとしたのかもしれないけど、後者はある程度事情を把握しているはずなのにあんな態度でファーストコンタクトするなんて駄目すぎる。まあ実際にいるかもしれない点では否定しきれないけど。

もっと細かいところでは、ベジタリアンの話で「輸血は駄目でも牛乳は大丈夫」というのを笑いのネタに使っていたところ(少なくとも客席の一部が笑うような演技だった)。卵はだめで牛乳は大丈夫というベジタリアンが知合いにいるので、別にそれは驚くところじゃないだろと心の中で突っ込んだ。そういう知合いがひとりいるだけで世界は違って見えるんだと気がついた。

そういうのは細かいところだから置いておいて、問題は大きいところ。手術同意書にサインを求める医者が、最初は「医者は裁判が怖い」と言っていて、それは職業的によい立場と思ったら、最後には「裁判沙汰になったら教授昇進がパーになる」という個人的な小さい立場になったこと。これが駄目だった。

なぜ駄目かというと、医療については、真面目に手術したのに逮捕、起訴されるという事件が実際に福島県で起こっている。これは結局無罪になったのだけど、当時はネットで医者や医療を心配する人たちが、こんなことじゃ医者なんかやってられないと結構話題になっていた。他に奈良県の話もある。こっちはもともと産婦人科が手薄だった奈良県南部で分娩可能な病院がなくなるという事態にもなった。医学は万能ではないので(それは芝居中でも当初の父親の誤解(現代医学なら輸血なしで手術ませんか)にもあった)、どれだけ一生懸命やっても救えない命はあるのに、手がけて失敗したら訴訟というならやってられないと思うのが普通。

それに、実際に裁判が始まったら、こんな対応こんな対応が必要になりうる。芝居中では西村雅彦が責任を取るかどうかに焦点が当たっているけど、実際に裁判になったら、電話の向こうで待機や手術をした医者も看護婦も裁判所に呼ばれる。救急搬送した隊員も呼ばれる可能性がある。それでたとえ無罪になったとしても、命を助けて訴えられたらそれだけで医者や看護婦は逃げる。

だから、医者や病院は裁判沙汰を避けるのが当たり前で、インフォームド・コンセントも輸血拒否事件が一般化の契機のひとつになったくらい。しかも芝居中では、父親は助けるために輸血してほしい、だけど後で訴訟を起こすとモンスター・ペアレントな発言を堂々としている。だから部長不在の副部長の立場だったら「現代の医学でも無理なものは無理、そんなことをされたら職員の時間取られるし場合によっては辞めてしまう、そうすれば今後助けられるはずだった多くの命も助けられなくなる、息子さんの心のケアも大事だが他の大勢の患者のために職員の無事と心のケアのほうが自分にはもっと大事である」と、少なくとも表面上は最悪見殺しになるのを覚悟するような立場を取ってほしかった。そうすれば、職業倫理と文化倫理との対立の構図に持っていけた。あるいは現代社会の矛盾を表現できた。

なのに単なる個人のエゴと個人のエゴとの対立に矮小化してしまった。さらに悪いことに、医者側が妥協してサインなしの手術にゴーサインを出すオチにして、なんとなく美しい精神論でめでたしめでたしにしてしまった。自分ひとりだけでなく他のスタッフにも裁判確実、最悪逮捕という影響が及ぶのが確実なのにこんな決断をする人間を美談に仕上げてはいけない。徹頭徹尾コメディでやってくれるなら「作り話だね」でいいけど、演技も演出も美術も照明も、シリアスなオチに向かっていたのでそうもいえない。現実がはるか先に進んでいるのに精神論の美談仕立てにした点で、この芝居は害悪と呼んでもいいと私は思う。そしてこれらの悪い点は全部脚本に由来しているので、これは三谷幸喜の失敗だと思う。もっとも、こういう議論を呼ぶための壮大な釣り針だという可能性もあるけど。

余談。私の勤務先(病院ではない)では毎年倫理教育というものが実施されて、その中の定番問題に「上司から不正とわかる指示をされた場合に従いますか(従いません、という回答を期待)」というものがある。この芝居は人命を巡って一時を争う芝居だからしょうがない面もあるけど、電話で「俺が責任を取るから手術しろ」と指示されたら、それはイコール法律違反が明白なわけで、指示された側は拒否してもいいと思う。自分の仕事なら「とりあえずメールでください」といって証拠をもらってからしかるべき人に相談する(幸いにしてそんな事態はまだない)。それに自分みたいな下っ端でも守らないといけない法律がいくつかあって、そのための仕事が増えたりするけど、法律はそれなりの理由があって成立したものだと思っているので、明白な理由がない(わからない)限りは、面倒でもとりあえずは従うほうがいいと考えている。

芝居の医者の立場を例に取れば、あとでもめないために一筆もらうことをルール化したわけで、それを拒否してしかも訴えるといわれるのであれば見殺しになっても訴訟はしない、というのを法律で明文化したほうがいいと思った。それがヒポクラテスの誓いとどの程度一致するかの問題はある。でも、助ける側のリスクが大きすぎたら誰もやらなくなるから、それは必要だと思う。

2011年12月10日 (土)

M&O playsプロデュース「アイドル、かくの如し」下北沢本多劇場

<2011年12月10日(土)昼>

元女優とそのマネージャーだった夫が経営する芸能事務所。夫は事務員と浮気をしており、マネージャー同士はあまり仲がよくないが、人気上昇中のアイドルを抱え経営は順調。ある日、そのアイドルの仕事で付合いのあった音楽会社の社員が逮捕される。

岩松了の作演出による新作ですが、ときどき起こるイベントの重大度に比べれば淡々と進むのに、目が離せなくなる芝居でした。

いい役者が揃っていたけど、やっぱり宮藤官九郎がよい。もてて頼りになるけど駄目男の役で、真面目に読んだら格好いい台詞をまったく格好よくなく話して、でも全体として格好いいという不思議。それを受ける伊勢志摩も、ださいのに格好いいという不思議。この2人が前半最後に繰広げるやり取りがおかしくてたまらない。夏川結衣の声のトーンとか、津田寛治の独り言場面とか、見所だくさんで満足。ついでにいうと、岩松了の身のこなしが妙に軽くて目を引く。

でも、役者が上手いのはわかるとして、脚本も面白さに一役買っているはずなのに、何が面白いのかわからない。事務所の活動や劇中のイベントを通して、登場人物のすれ違いや対立が浮かび上がるというのが一般論だと思うのだけど、誰の何がどう絡む構造でこれだけ面白くなったのか、甘えというキーワードはあったけど、でも1回観ただけではわからなかった。勉強不足。

劇場に入った瞬間に期待できると思わせてくれた舞台美術(伊藤雅子)だったけど、これは当初予定の磯沼陽子が急逝したピンチヒッターとのこと。ピンチヒッターでよくこれだけ出来たものだと感心。で、磯沼陽子は「人形の家」の囲み舞台も担当した人。「ゴドーを待ちながら」は観られなかった。これからという年齢で亡くなったようで、合掌。

2011年12月 9日 (金)

ままごと「あゆみ」横浜赤レンガ倉庫1号館

<2011年12月8日(木)夜>

主人公・あゆみが、生まれてはじめの一歩を踏出してから、最後の一歩を刻むまでを描く。

評判だったので観ましたけど、「わが星」よりもこっちのほうが面白い。

今にして思えば「わが星」はいろいろな人物が出てくるわりに脚本で人物が描かれていなくて不満だった。今回はひとりの人物に焦点が当たって、それこそ一生を描いていたので、そういう不満はない。そうすると、周りの人物の情報が少なくても、主人公経由で想像力が働いて、いろんな人物が立上がった。他の役経由の想像力というのは面白い発見だった。

全員全役の芝居はすごい久しぶりに観たけど上手。女性8人がいろんな場面のいろんなあゆみ(とそれ以外の役)を交代に演じて、いい意味でほとんど差がないのに驚き。どうやって揃えたのか興味がある(余談。こういう芝居で、役者ごとに演じた役に差があるのとないのと、どちらのほうが演出としてよくなるのか。やっぱり差があると混乱するのか)。ユニゾンとか周ったりの演出は2回目にしてすでに驚かなかったことに我ながら驚き。

あと会場。会場がどこでやってもこの面白さは出たと思うけど、でもこの会場のおかげで絶対に雰囲気がよくなっている。微妙に声が反響していたけど、それがまた演出効果につながっていた。演出家が一目ぼれしたのも納得。東京公演は観ていないけど、絶対こっちのほうが好みと断言できる。歴史があるのに手が入ってきれいになっていて、素舞台でやるような芝居なら一度は挑戦してみたい空間。

2011年12月 8日 (木)

世田谷パブリックシアター企画制作「狂言劇場 その七 Bプロ」世田谷パブリックシアター

<2011年12月8日(木)昼>

土産の柑子を太郎冠者に預けていた主人が持って来いと命じたら「柑子」。源平合戦八島の浦の戦いで、海上の平家方から扇を掲げられて挑発された源氏方で選ばれたのは若干20歳の若者「奈須与市語」。哲学の問いに悩む沙悟浄が教えを請うて旅に出る中島敦原作「悟浄出世」。

他愛もない話になごみながら、なんでも語って話が進むのはシェイクスピアに似ているとぼんやり考えた1本目。ひとり語りや弓引きの迫力はすごいけど途中で呼吸が荒くなって大丈夫か万作と心配した2本目。挑戦精神は買うけど退屈で萬斎は演出やらないで別に演出家を立てたほうがいいと確信した3本目。1本目+2本目で30分強で、休憩はさんで3本目が2時間弱とバランス悪い。トータルの満足度は低いです。

会場ではAプロのボレロがすごかったという声があちらこちらで聞かれたけど、観ていないものはしょうがない。

短めですけど。

2011年11月30日 (水)

第三舞台「深呼吸する惑星」紀伊国屋ホール(ネタばれあり)

<2011年11月29日(火)夜>

地球から遠く離れた惑星にある、地球と友好関係にある国だが、軍事的に地球に依存しているために独立活動を行なっている者がいる。ここに地球から配置された兵士の自殺率の高いことを気にして科学者が調査にやってくる。どうやら幻覚をみることで精神的な影響を受けるらしい。

ちょうど予定がついたので観てきました初にして最後の第三舞台。感想はいまいちで、少なくとも今回、第一舞台と第二舞台との間に、第三舞台は現れなかった、これだけ役者を揃えていまいちって点に大いに不満ありという結果。以下ネタばれでこのいまいちの中身を考える。これから観に行く人は後で読むべし。

ダンスが多いとか、年齢をだしにするとか、そういうネタはあまり気にしない。解散公演だし。長野里美の着ぐるみが定番らしいというのははじめて知った(ちなみにこれが一番盛上った)。

役者からいうと、見所満載の女性陣にたいして、それでいいのか男性陣という感想。長野里美の存在感がすごいよくて、筒井真理子と山下裕子もキャラを立てて応戦する。男性陣で一番上手いと思ったのは高橋一生で、きちんと会話していた。だけど小須田康人と大高洋夫はおとなしくて見所がわからない。そして筧利夫がやばい、声の大きさとテンションだけで勝負するって、それも手段のひとつだろうけど、自分には駄目だった。筧利夫の出番が多かっただけに、これがかなりの悪印象になったのがひとつ。

で、脚本演出の話。なんでこんな感想になったかを考えたけど、脚本が悪いんだと思う。ひとつは本来脚本に書かれていないといけない、設定(というのか状況というのか場面というのか環境というのか)が設定になっていない。推測するに、初めに登場人物がこうなるという案が先にあって、その案を実現するために、人物造詣とか人物の歴史とかではなく、必要な「機能」を設定に持たせることで解決しようとしている、あるいはそれ以上設定を練っていない、だから設定が設定として生き生きしていない。たとえば科学者の身の回りの世話を命じられる、その科学者から調査の依頼手続きを受けたりする、だけど普段の立場は園芸員で、花の架空購入で横領しているって、なんか変でしょう。あるいはかつて3年前まで保護した男と一緒に暮らしていたのに、その後整形して結婚詐欺で宇宙指名手配されるくらいの大物詐欺師になったって、ないとはいえないけどかなり極端でしょう。総理大臣が毎日墓参りにくる墓の宿舎の裏手で栽培禁止の花が栽培されているとか、もっと早く気がついてほしいでしょう。前作では矛盾が気になったけど、矛盾しているかどうかではなく、ご都合主義かどうかでもなく、状況や人物描写について本来脚本にあってほしいものが欠けている。表現が正しいかどうかわからないけど。

脚本でもうひとつ、地球とこの星との関係が、なんか日米の関係を冷やかしているような意図を感じる。軍事の設定しかり、文化依存の設定しかり。だとしたら、冷戦はもう終わったんだよ、新しい地政学が始まっているんだよ、中国は日本だけでなく世界の脅威だよ、といいたい。文化依存にしても、むしろ今は世界が日本に興味津々な時期で、日本は積極的に世界にアピールするべきで、その文化の一端を担う芝居としてあなたはどうなんですか、この芝居で世界に日本や日本文化をアピールできるんですか、といいたい。元々政治的な芝居が嫌いなのもあるけど、なんだろう、惑星という設定に総理大臣まで登場させているのに、このスケールの小ささは。

たぶんその印象は、鴻上尚史の脚本は、登場人物より真理より鴻上尚史自身のメッセージを伝えるところに重きを置かれていて、鴻上尚史の演出は、そのメッセージをいかに効果的に伝えるかを強調しようとしている、というところからくるのではないだろうか。だから人物を立体的に描くとか人物間の関係のいろいろとか状況を深く掘り下げるとか、そういう方面を期待している自分と全然合わなくて、逆にメッセージに敏感に反応した人たちは、熱烈な支持をする。だとすると納得がいく。今回で言うと、「絶望する人は行動する、あきらめる人は行動しない、みんなあきらめる(大意)」とか、そういうの。あと芝居のメインの話が、48歳と21歳との「ありがとう」で、書いたものが将来も残るかどうかってあたりで、自分たちの話、もっといえば鴻上尚史の書き手としての心配事みたいな印象を受ける。そのつもりがあったかどうかは別として。そうすると、第三舞台初の自分にはどうでもいいことになる。

メッセージに反応しないのはお前がおっさんだからだよ、と言われれば、それは否定できないけど、でも8400円の芝居で誰をターゲットにしたんだ。学生か。今まで10年間上演していないって、今の学生は観たことないってことで、それに8400円払う学生がそんなにいるのか。どう考えても全盛期のファンで、今はおっさんおばさんになった人たちがターゲットだろう。

なので今回は、全盛期をリアルタイムで観たファンが、盛大なお見送りをするためのイベントだと認識するのが正しい。熱烈だったファンは、これを観て、時間は過ぎて戻らないことを認識して、心置きなく縁が切れるような儀式にすればいい。あれだけ役者を輩出しただけでもすばらしいことだし、そのくらい輩出するだけの個性があふれる劇団が長続きしたほうが奇跡なのだから、惜しむには当たらない。

<2011年12月3日(土)追記>

ひょっとして、この芝居って劇団である第三舞台の関係者間で起きたプライベートないろいろを元ネタにしているのかな。だとすると、スケールの小ささにもなっとくだし、男性陣の控えめだったり棒読みだったりする演技は今更こんなネタ蒸し返すなよという脚本演出家への抗議と読取れなくもない(たくましい女性陣はそんなものものともしない、とか)。

いや、いくらなんでも筧利夫のあれはないよな、ってのがずっと引っかかっていたんだけど、一人客演に招かれた高橋一生が、他より若いのも含めて、早くに亡くなった看板俳優の代役なのか、と考えたら、そこから全部ネタなんじゃないかと妄想してしまった。生きていれば喧嘩別れするのが世の常なんですけどね、早く死んだ人はいい思い出ばかりが残るのも世の常で。

2011年11月18日 (金)

キューブプレゼンツ「有毒少年」CBGKシブゲキ!!

<2011年11月17日(木)夜>

旅をする読書家と1人(?)の幽霊しか残っていない世界で、2人が語り合う15年前の話。そのころ残っていた人間たちが集っていた最大の都市ヘブンズパレス。ある日突然、すべての住人が名前を忘れ、奇形となり、子供が生まれなくなった都市で、当時その現象を免れた大公の娘と、生まれて以来地下で育って毒性のない環境に耐えられない有毒少年の、2人をめぐる物語。

吉祥寺に行こうか迷って、懐かしい名前と新しい劇場見たさに選んだ芝居ですが、駄目って言ってもいいでしょうこの出来では。これだけ役者が揃ってどうしてこうなった。

脚本は後藤ひろひとの「ダブリンの鐘つきカビ人間」を彷彿とさせるもので、インスパイア兼オマージュ兼リスペクトくらいの設定。起承転々結くらいの展開で、そんなに悪くない。主人公を演じた2人が何か嫌な予感がして、案の定下手だったけど、主人公の割に出番が少ないから他の場面が悪い理由にならない。2人だけで会話を進める読書家(三倉茉奈)と幽霊(六角慎司)の場面が全編を通して比較的安定していて、ノーマークだった三倉茉奈がちょっと気になる演技をしていたのは収穫。主役級の役者が惑星ピスタチオ調の演技で、やや大げさでも個人単位で見れば別に悪くないんだけど、それが勢いや流れにつながらない。それとは別にストレートな演技をする役者もいて、統一感にも欠ける。やっぱり演出なのかな。芝居の最中ほとんど寝っぱなしの客が1人いて、いびきが迷惑なことこの上なかったんですが、それを差引いてもあの出来では集中できない。

照明は惑星ピスタチオと同じ人でしたね。細い線と太い線の組合せだったり、床から手前向きに並べたり、懐かしかったです。

噂の制作部門ですが、上演時間情報がわからない、当日券販売の予定が載っていない、並ぼうとしても劇場前に並ぶ場所の紙1枚も案内がないのでどこに並んでいいかわからないなど、あまりフレンドリーとは言えない。ちなみに、当日券は1時間前から販売開始、並ぶ場所に迷ったらできるだけ劇場入口近くに陣取ること、休憩挟んで2時間40分、6300円です。

劇場は、200人強のキャパで非常にコンパクトにまとまって、客席の傾斜も含めて観やすい。その分、椅子の前後のスペースが詰まっているので、真ん中よりの席の人は開演してからだと入りづらいので注意。椅子はふかふかで背もたれ高め、ただし座面は低め。あと音響がよかったのは劇場設備のおかげなのか、高音低音とも好みな響き。立地のよさはやはり特筆もので、繁盛してくれることを願っております。

2011年11月14日 (月)

新国立劇場演劇研修所「ゼブラ」新国立劇場小劇場(若干ネタばれあり)

<2011年11月12日(土)夜>

両親が離婚し、母親の元で育てられた四人姉妹。長女と四女はすでに結婚して家を出ており、次女も間もなく結婚するため引越しの準備を進めている。が、母親が病気で入院して痴呆も進行してきたため、見舞いのために姉妹とその夫たちが集まっている中、病院から訃報が入る。

朗読でなく芝居で観たのは初めての演劇研修所公演(5期生)。すごい楽しみにしていた脚本で、鈴木裕美を演出に迎えての初舞台は、悪くはないんだけど、すごいこじんまりとまとまった印象。

観終わった今から考えても脚本のポテンシャルは高いと信じているんですが、それでこんな印象になった理由が今でもわからない。リズムが微妙にずれていたとは思うけど、2時間を切った上演時間で全体にそこまでずれていたとも思えない。葬式屋や次女の婚約者や四女の幼馴染は全体にやりすぎだけど、それは初演のときもそうだったからそれだけではない。鈴木裕美が初顔合せの役者に遠慮したか、そんな遠慮をする人間がここまで生き残っているわけがない。初演出の脚本家のノリをつかみ損ねたか、だとしたらこのレベルにも到達していないはず。

スタッフワークが原因か、むしろ秀逸。美術は初演とほとんど同じ構成なんですけど、天井の高い会場を生かして黒いすだれのかかった階段が用意されていて、回想場面で白い衣装を着た母親が階段を上って退場する場面が、照明と合わさって「ゼブラ」になる場面は白眉で(シマウマは死者が乗って天国に行くための聖なる動物、という台詞がこれより前にある)、母親が亡くなったことを表すのにあれ以上きれいな場面はない。あと最後の台詞「ばーか」の後の音楽は、何か聞き覚えがあるのに思い出せないんですけど、あの音楽なんですよね、あの音楽が合うようなラストにたどり着かないといけないと思わせる1曲。ほんと、スタッフは全力でお膳立てしていた。

だとすると役者の問題か。テンションが低い、エネルギーが足りない、迫力に欠ける、何と言ってもいいけど、おとなしすぎたんでしょうねきっと。おとなしいなりにレベルは揃っていて、だからこそ悪くはないという感想になったのでしょうけど、アンサンブルは長所をへこませるのではなくて、長所同士を合せてほしい。多少でこぼこでも、そこに長所があれば、それを拾ってアンサンブルに合せるのは演出家に任せてしまってもいいのだし。この人たちがどの程度芝居をやっていたのかは知りませんが、未経験であれだけできたら大したもの、だけど金を払いたいかと言われるとまだ。いい意味で気になる役者はひとりだけいましたけど、黙っておきます。

次回は12月に、演劇研修所副所長の西川信廣演出で岸田國士だそうです。この前文学座、16日から俳優座とただでさえ忙しい演出家ですから、時間が取れずにあの手ごわい脚本を相手にしたら惨敗するんじゃないかと心配ですが、研修生は小劇場よりむしろ新劇路線のほうが得意な可能性もあるので、判断は早まらないでおきます。