シス・カンパニー企画製作「ガラスの動物園」Bunkamuraシアターコクーン
<2012年3月24日(土)夜>
1930年代のアメリカ。父は出奔し、母は女手ひとつで子供を育て、姉は極度の内気で他人との会話もままならず、弟は倉庫の仕事にうんざりしている。姉の将来を心配する母は結婚相手を探すことを弟に依頼し、ある日の夕食に仕事先の友人が招かれることになる。
題名だけしか知らないで観たら、なんと2週続けて同じような家族構成の、同じような狂気。ただし今回のほうがさすがの仕上がり。
先週のDULL-COLORED POPはものすごい情報量をいろいろなところに込めて、登場人物のいろんな思惑を立てようとしていた。そういうところが最近っぽい。だけど今回の話は、すごいシンプルな粗筋でどこまで積木を積めるかの勝負。絶対バッドエンドの話だと信じていたから最後にどう落とすかと思って観ていたら、ものすごい単純な展開で落として、いわゆる古典は何て素直な脚本なんだと妙に感心した。こういう素直な脚本は緊張感勝負で、役者同士がかみ合わなかったり、役者がひとつ嘘の演技をすると、それだけで積木が崩れる。だから演出家や役者には手ごわい。
それが成立したのは、まずは立石涼子と深津絵里の2人。男性陣もよかったけど、でも女性陣2人のほうがすごかった。母親は、もし自分が脚本を読んだら、弱くて古風なお婆さんという感じに想像したとおもうけど、立石涼子はよかれと思ってやっていることが価値観の押付けで子供を圧迫する母親にした。もっと深くてやわらかい声が出せる人なのに、嫌なおばさんのダミ声で高圧的だったり泣き落としだったり、自由自在だった。それを受ける深津絵里のおどおどした声。最初はやりすぎだと思っていたけど、これがだんだん馴染んできて、後半に男性と2人きりで話す場面で、それまでより少しだけ普通っぽく話すところの差を聴いて、応援したい気分にかられた。
これを演出したのが長塚圭史だと休憩時間に思い出したけど、見直した。ダンサーというかコロスが出てきて、場面転換をしつつ、登場人物の不安を表すことも担当していた。あれがまた観ていて不安と不快の微妙な境をついてきてこまる。音響も照明も舞台も衣装も、全体に不安と不快の混ざったようなトーンで揃っていて、ベテランの名前が多かったけど、それだけでなく明確な方針があったんだろうなと想像したくなる見事なスタッフワーク。
それにしても70年近い年月を隔てて、高圧的な母親と圧迫される子供の物語を新旧観る事になったのは、これが昔からある構図なのか、それとも時代の転換点には依存と独立が語られやすいのか。今回上演されてもまったく古さを感じない点は、いくら名作とはいえどうなんだ。長塚圭史は確かDULL-COLORED POPの今日のアフタートークに出ているはずだけど、あっちを観て、何を思って、何を話したんだろう。でも長塚圭史のほうが、構想が2回りくらい大きい印象。おまけの話しだけど、体調はまだ悪いけど、今回観終わった後にすごい心がすっきりした。すっきりしたというか、正気に戻った感覚。カーテンコール2回で終了のバッドエンドの話を観て正気が戻るというのも変な話だけど、そこに込められた着想、エネルギー、問題意識から元気をもらった。観終わって満足。
それなら無条件でプッシュするかというと、難点がひとつ。深津絵里がきれいすぎて、姉役の信憑性に若干の疑問が残った。別に汚い深津絵里なんてみたくないので、難癖と言われてもしょうがないけど。深津絵里のことを、いけてないOLを演じたら天下一品だけど、いけてないOLが自分を重ねてみるには美しすぎる女優、とかつて評した松尾スズキの慧眼を今更実感することになるとは思わなかった。
<2012年3月25日(日)追記>
DULL-COLORED POPに対して「小劇場らしいお芝居だった」というコメントがあったらしい。そうだと思う。でもその差がどこから来ているのか、佳作と名作をわけるものは何か。あの芝居に立石涼子が出ていればよかったのか、長塚圭史が演出すればよかったのか、脚本で猫がしゃべらなければよかったのか。差はほんの少しだと思うけど、決定的な差で、そこがわからないんだ。
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