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2012年5月27日 (日)

演出家と演技指導

こんなブログを読みました。

演出家が一番エネルギーを注がなければいけない、俳優の演技指導がほとんどできていませんでした。そのためベルナルダを演じた安奈淳以外の役者の演技が薄っぺらく、観ていて辛かった・・・。喜んだり怒ったりだとかの感情を台詞や表情に込めようとするあまり、肝心の役者の台詞と動きの意味内容が舞台上で成立していません。今回は、母親に抑圧された5人の姉妹に男を巡る諍いが起き、姉妹の一人が非業の死を遂げる―というシンプルな筋立てだったから観ていて物語を理解できました。しかし仮に複雑な作りの作品だった場合、こういう芝居をされると観客が物語を理解できないまま舞台上で「出し物」が進んでいく、とい う悲惨なことになります。他にも不必要な舌打ちを頻発させたり、本来静止するべきと思われる箇所で役者がだらりと動くなど、プロフェッショナルではない部分が目に付いたのは残念です。

自分はその芝居を観ていないので引用した意見がどの程度妥当かについてはまったく判断しません。だから観ていない芝居をつまらないと書いているとか、そういう的外れなツッコミはなしで。

その上で、引用先の人が怒った箇所は「演技指導」というカテゴリーなのかというと、違う見方もある気がする。後半のだらりと動くあたりは演技指導の範疇かもしれないですけど、

ある場面で登場人物が怒るのが適切だと判断して、それをどうやって表現するのが効果的かというのは、役者と演出家の試行錯誤なんじゃないのかな。もちろん、役者の技量とか演出家のスタイルとか稽古の制限なんかに影響されると思いますけど。もっと言えば、その怒りが何に由来しているか、なぜそこで怒るのかも、選択肢だけなら無限にある。それを、芝居の進行と、場面ごとの登場人物ごとの関係とで、全体を見通して最終ジャッジするのは演出家の権限というか責任。

でもそういう試行錯誤を促すような環境を用意するのも演出家の技量のうちなのかな。だとするとそれを演技指導と呼ぶのも間違っていないように思えてきた。

ちょうどさっきピーター・ブルックの本を読終って、そういうことが書いてあったので、受売りが書きたかったんだな。でも、芝居がつまらない責任は演出家でいいと思うけど、演技が下手ならそれは役者の責任にしたほうがいいと思う。そしてそういう区別は、観ていてもわからないことがあるから難しい。下手な役者しかいなくて演出何もできなかったぞという演出家と、馬鹿な演出家のせいで芝居がめちゃくちゃになったという役者とが、お互い愚痴を並べてくれると、そういう仕事の分担がはっきりしていいのにと外野は気楽に考えます。でも、一流は愚痴の前に、自分で何とかなるところはせめてまともにしようって行動するのかな。

何を書いているのかわからなくなってきたのでここまで。

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コメント

初めまして。ブログ記事を引用していただいた者です。
いつもよりアクセス数が多かったので辿ってみたところ、ここに行き着きました。

私は20代の頃、プロの演出家が主宰する演劇学校で2年程、俳優になる訓練を受けていたことがあります。芝居作りにおける演出家と俳優の関係性は本当に様々でしょうが、どういう過程で舞台作品が作られるのかを、一応は体験しています。今回の感想も、それを踏まえて書いています。

おっしゃる通り、本番で役者がどういう芝居をするかは、演出家と俳優の共同作業の結果です。しかし、例えば一人ひとりの演技について演出と役者が綿密にディスカッションして決めていく、という稽古の仕方を取るかどうか自体は演出家が決めることです。「オレが今からやるのと寸分違わずに動いてしゃべってくれ」という「演技指導」をする演出方法もあります。演出家は稽古で俳優がチャレンジした表現をジャッジして芝居を練り上げていきますが、その稽古のルール作りを握っている存在なのです。
私が「演技指導」という言葉を使ったのは、俳優がどういう芝居を作っていくかの大きな流れを決める部分で手綱を締めることができていない、言い換えると実のある稽古をする環境が作れていないまま本番を迎えてしまったと思ったからです。

後半に書かれている、芝居がつまらない責任は誰かという点について一言。ある芝居がつまらない「原因」については演出なり役者なり特定のポジションに見い出すことができるかもしれません。しかし「責任」については、それはその舞台の制作に関わる全体なのだと思います。今回観た芝居については、戯曲の意味内容を俳優の芝居によってきちんと観客に届けるという最低限守るべきラインを演出家が引くことができなかったと思い、こういう書き方をしました。もちろん、演出家が堅固な枠組みを作ることに成功しているにもかかわらず、それに乗り切れていない役者を見ることもあります。今回はそうではなかったですね。

今後ともブログを読んでいただけたら幸いです。引用されたり記事に触れていただく際は、一言お伝えいたけると嬉しいです。

>johnnyさん

どうも。トラックバックもコメントも自分からはしないほうがいいと最近は考えているので、お伝えまで至らずに失礼しました。

演出家が稽古のルール作りを握っているというのはその通りだと思います。その上で、「俳優がどういう芝居を作っていくかの大きな流れを決める部分」に演技指導という言葉を当てはめるのは、コメントを拝見してもやはり自分にとって新鮮でした。

演出家の責任については、「堅固な枠組みを作る」というのは「脚本が求める適切な世界観と人物関係を構築する」という意味でも正しいでしょうか。であればご意見に賛成です。

芝居本を何冊か本を読んでみても、同じことを目指すのにいろいろな方法があり、同じことを指すのに別々の言葉を使い、でとても混乱します。演技というはっきり定義できないものを表すのに有名な人たちが四苦八苦しているのだけはよくわかります。同じ芝居を観て、そのどこに注目して、それをどういう言葉で表現するか、一度いろんな人たちが集まってやってみたら面白いだろうなとコメントを拝見しながら考えました。

確かに「演技指導」という言葉を素直に解釈すると、稽古中に役者がする具体的な演技のいちいちについて間違いを直していく、という意味になります。でも、どんな演出家であれ稽古の全てを通して俳優をディレクションしているんですよね。精緻な批評を書くのなら補足説明が必要かなとも思いますが、言葉の使い方は間違っていないと自分では思っています。

「演出家の責任については、「堅固な枠組みを作る」というのは「脚本が求める適切な世界観と人物関係を構築する」という意味でも正しいでしょうか。であればご意見に賛成です。」

→おっしゃる意味で正しいです。噛み砕いていただきどうもありがとうございます。

>johnnyさん

どうも。

>言葉の使い方は間違っていないと自分では思っています。

私は間違っているとは思っておらず、いろいろな言葉の使い方があるな、と感じただけです。念のため。

>おっしゃる意味で正しいです。

ありがとうございます。

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