「正直な声」について
「正直な声」にいつから興味を持つようになったのかは覚えていない。それを意識したのもそういう呼び方をするようになったのも芝居を観るようになってからだいぶ後のこと。だけど昔テレビでカラオケ上達講座の番組を観たときに、講師の歌が、声はきれいなのにまったく心に響かなくて、「きれいな声と魅力的な声は別物で、プロの歌手というのはやっぱり違うものなのだ」と思ったことは強く印象に残っている。視力が悪いうえにあまり前の席で芝居を観る機会がなかったから、表情より声で役者を区別するようになって、そのうち声の好みが役者の好みのかなりの割合を占めるようになったということもある。
興味が講じてオープンスクールに応募するに至ったけど、その場ではこの疑問は解消されなかった。そのとき他の参加者から、正直な声ってどういう声ですかと聞かれて、それが答えられたら苦労はないと思いつつとっさに捻りだした返事が、大人計画で阿部サダヲと宮藤官九郎を比べて、宮藤官九郎は正直な声だというもの。どちらもよい役者なのはいうまでもない。あくまで声の種類を分類したときの話。
それが、先日のエントリーを書くため久しぶりに松尾スズキの対談本を読んだら、突然わかった。「声に志が出る」というのは松尾スズキ一流の表現だけど、いろんなところに少しずつ書いてあった。
柄本明の場合は
(前略)でも思うんだけど、自分の不幸にちゃんと気付いている人は、声に対して注意深い気がするんですよ。自分が出した声に対して、きちんと正直に反応しているというか、「この声はお客に渡す声じゃない」っていうことに気付いているというか。それに最初に気付いている人の声は、やっぱりお客にもちゃんと聞こえて来るんだよね。ところが、だいたいの役者はお客に渡そうとするから、発声練習しちゃうってことでしょ。やたらに「お客に渡さなくちゃ」って。
野田秀樹の場合は
たとえば相手役が芝居をしているときに、こっちでむやみにハァハァ言ってるヤツ。いるんだよ、そうやって息をだらしな~く吐いてるヤツって。で、そういうヤツっていうのは、足音にも意識がほとんどない。音に対して意識がないってことだよね。
(中略)
足音もそうだけど、自分の中から発せられるものは、音も含めて全部自分の肉体なわけじゃない? 足音も自分の肉体を使って出している音なんだから、本当はそこまでちゃんと責任とらにゃあいかんよね。
大竹しのぶの場合は
でも逆に、大きな劇場でお芝居をしているときに、声が持ってる音だとか、響きで「いいな」って思うときもありますよね。ある程度大きなところでやるときは、それなりに声を出さないと届かないじゃないですか。その「届かせたい」っていう思いが声に乗ったときに、気持ちいいなと感じて。しかも、押しつけがましいのとは、また違うんですよ。私のは押しつけがましいんですけどね(苦笑)。
(松尾スズキの「そんなことないですよ」に)
ううん、そんなことあるの。お芝居しながら、「私、今これ感じてるの~」みたいな感じがあるな、って自分で思うことがあるから。
これを自分なりに書き直すと、
- 自分の出している声を聴いていて
- 自分が相手に伝えようと思った意味なり目的なりを自覚していて
- 声を出しているときの自分の気持ちを把握していて
- 声を出しているときの自分の体の状態というか震えというか使い方を把握していて
- 自分が出した声と、(2)-(4)とを照らし合わせて声が間違っている場合に、自分で自分にフィードバックして(2)-(4)を調整して声に反映させることを、意識的にでも無意識的にでもいいから技術的にできる人
の声が自分の考えていた「正直な声」の正体だ。
自分でも少し試してみたけど、これは難しい。自分の声を聴こうとすると相手に対する集中が削がれるし、意味や目的を明確に自覚するにはエネルギーがいるし、自分の気持ちを調整しようとしたときにはもう話終わっているし、体の使い方に意識を向けると言葉が出てこない。とりあえず体の話をすると、緊張しているときの声は駄目で、肚から声が出ていないのもやっぱり駄目だった。というか、昔から言われている有名どころを思い出しながら気がついた。自分の体の癖も含めて、もっといろいろ気がつかないといけない。
それを試しながら、他の人の声を聴いていると、適当なことを言っている割に正直っぽく聞こえる人もいる。これはなぜかと考えたら、体の使い方だけを徹底的に鍛えて、それらしく聞こえるように話す自覚さえあれば、かなりの程度まではもっともらしく聞こえる声が出せるということに思い至った。だから「正直な声」と自分は呼んでいたけど、それは本人の「感情」の正直さとは必ずしも一致しない。日常生活では感情と声の一致は別の意味で重要だけど、技術として身に付けるには、伝えようと思った意味なり目的なりが重要で、それも厳密にはたぶん表現が間違っていて、「自分がどのような目的を達成するために相手にどのような反応を期待するかの自覚」が大事なんだと思う。だから例えば、憎い敵に復讐する場面で相手を油断させる目的で朗らかな声を出すことはこの自覚とは矛盾しない。もっと言えば、役者が早く飲みに行きたいと思いながら真面目な芝居をするのも矛盾しない。場合によってはそのほうが自分の出している声を聴く余裕があって好ましいかもしれない。
そしていろいろな場面で、どの路線の声で攻めるかの正解はひとつではない。日常生活なら時と場合と相手によるだろうし、芝居なら脚本の要求と演出の方針と役者の個性のバランスになる。あと、目的にかなうような声が出るように体を鍛えることは必要だけど、ここに滑舌や声の大きさは入ってこない。滑舌や声の大きさが求められる場面もあるけど、それは次の段階で求められるもの。だから体は、意図した声が出せるように「鍛える」だけでなく、意図した声が出せるように「躾ける」必要がある。ダンサーは筋トレや柔軟体操で体を鍛えるだけでなく思ったとおりに体を動かしたり止めたりできるようでないといけない、ということの声バージョン。この区別はもう少し掘下げたい。
興味のない人は何を力説しているのかと思うところだけど、これを文章化できたということは、自分にとっては長年の疑問が解消しただけでなく、それを自分が身に付ける可能性も見えたということになるので、書きながら少し興奮している。ただ、ここまで文章で説明できたのはいいとして、これを身に付けるための道程の長さには、めげそうになる。いわゆる「正直な声」が自然に使いこなせる人はうらやましい。
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>匿名さん
どうも。情報ありがとうございます。
このエントリーに書いた内容、今になって考えてみたら以前に受けた新国立劇場のオープンスクールで受けた内容に近いことに気がつきました(そのときのエントリーはセミナー・ワークショップから)。あと、マイズナー・テクニックも似ているかもしれません。
そういう話や本に影響を受けてこんなエントリーを書いたのかもしれませんが、それならそれで勉強の成果です。でも、話を聴いたり本を読んだりしているその場では即座にはなかなかわからないもので、消化吸収には時間が必要です。
投稿: 六角形(管理人) | 2013年2月15日 (金) 01時28分
>匿名希望?さん
コメントありがとうございます。このエントリーの内容をもう少し誤解の余地がないように書けるようになるといいな、と思っていますので、反応していただいてうれしいです。
御武運を、というのも変ですが、いただいたコメントからは何となくこれが適当な気がしますので、御武運をお祈りしています。
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投稿: 六角形(管理人) | 2013年4月 1日 (月) 23時19分