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2012年7月 2日 (月)

2012年上半期決算

ちょっと時間が経つのが早すぎやしないかと思うようになってきました。

(1)PARCO PRESENTS「志の輔らくご in PARCO 2012」PARCO劇場

(2)DULL-COLORERD POP「くろねこちゃんとベージュねこちゃん」アトリエ春風舎

(3)シス・カンパニー企画製作「ガラスの動物園」Bunkamuraシアターコクーン

(4)C.I.C.T./ブッフ・デュ・ノール劇場製作総指揮「魔笛」彩の国さいたま芸術劇場大ホール

(5)森田オフィス/イッセー尾形・ら企画製作「イッセー尾形のこれからの生活2012 GW in クエスト」原宿クエストホール

(6)ロンドン・ヤングヴィック劇場「カフカの猿」シアタートラム

(7)ナイロン100℃「百年の秘密」下北沢本多劇場

(8)パルコ企画製作「三谷版『桜の園』」PARCO劇場

(9)こまつ座/世田谷パブリックシアター 企画製作「藪原検校」世田谷パブリックシアター

(10)俳優座劇場プロデュース「東京原子核クラブ」俳優座劇場

以上10本、隠し観劇なし、チケットはすべて公式ルートで購入した結果、

  • チケット総額は53500円
  • 1本あたりの単価は5350円

となりました。去年と変わらないペースです。もっと減らしてもよかったとも思いますけど(ならばどれを切るのかというと悩ましいですが)、ストレス逃避に5月6月のペースが上がってしまいました。読書感想文も何冊か溜めた上に、積読もある。これは追々すすめていきたいと思います。

読返してみて、観た時期によって感想は違っているにしても満足そうな文章が多い。その割に覚えているものが少ないというのはどういうことなのかというと、嘘が多い。別につまらないものを面白いと書いたわけではなくて、日常の忙しさに芝居どころではない状態に追込まれて、それを無理矢理芝居(とか他の事)で戻そうとして、観るのも書くのも集中力に欠けていた。心身ともに余裕のない時期を久しぶりに経験したけど、余裕がないとさらに余裕がないところに追込まれるこの悪循環には、はまらないように気をつけないといけない。

突然ですけど、10年前と今とで何か芝居が変わったかというと、芝居自体はあんまり変わっていない。でも10年前の劇団(役者、脚本、演出などなど)が見かけなくなり、代わりに新しい劇団が出てきた。演技を習うのなんて海外くらいと思っていたら日本にも習う場所ができた。新作一辺倒から再演も以前よりは増えた気がする。劇団中心からプロデュース制作が増えてきた。いろんな分野をまたいだコラボレーションも進みつつある。芸術監督の肩書きを持つ人が増えた。劇場法も成立した。芝居関係だけでもこのくらいはすぐに思いつくくらい変わっている。それ以上に世の中も変わっている。芝居については、この10年は地ならしで、次の10年で大きく変わっていると思う。地ならしを利用して、ここから10年間の変化を起こした人たちが、20年後の特集で取上げられる人たちになる。別に根拠はないけど、世の中の変化はもっと激しいはずで、あるいはその変化を早めて、あるいはその変化の影響を緩和して、あるいはその変化に立向かうための希望をみせるような、そんな動きを芸術が担えるのかどうかはやっぱり興味がある。そして芝居がその一端を担うのであれば、それは誰なんだろう。今活躍している誰かなのか、これから出てくる誰かなのか。それを遠目で眺められればいいと思っています。

引続き、細く長くのお付合いをよろしくお願いします。

2012年6月30日 (土)

俳優座劇場プロデュース「東京原子核クラブ」俳優座劇場

<2012年6月30日(土)昼>

食事が粗末な代わりに家賃も安い、昭和戦前の東京のある下宿屋。理化学研究所に勤める研究者の他に、様々な人たちが下宿している。やがて戦争を開始する世の中に翻弄される下宿人たちを、物理学の研究の発展を中心に描く。

一回観て、もう一回観たくてしょうがなかったんですが、ようやく願いがかないました。ただ前半がやけに大味で、思い出補正を考慮しても劣化した感が拭えなかったんですが、休憩を挟んで後半になったら見違えるようによくなるという、今まであまり観たことのない仕上がりでした。前半と後半で別の人が演出したような。

でも雨の晩に下宿に西田教授が人を訪ねてくる場面からラストまでの、あの流れはやはりたまらないものがありました。ぐっとくるとはこういう事だ。満足しました。

私が前回観たのは俳優座劇場初演の2006年版で、そのときと役者はほとんど変わっていませんが、印象はだいぶ変わりました。今回は実験屋の田中美央と、海軍軍人の渡辺聡がとてもよかった。

満足したので感想はここまで。俳優座劇場プロデュースは今回(この後ツアー)で最後らしいので、宮田慶子演出版に代わって今度はマキノノゾミ演出版で別キャストでも観てみたい。ほんといい脚本です。

2012年6月24日 (日)

こまつ座/世田谷パブリックシアター 企画製作「藪原検校」世田谷パブリックシアター

<2012年6月23日(土)夜>

江戸時代、東北は塩釜で生まれつき盲目の子供は、幼いうちから座頭の弟子に出される。杉の市と名前を得た男はそこで頭角を現し、悪事を犯して江戸に逃げ、座頭の最高位である検校を目指す。後の藪原検校である。

立見まで出る人気の公演は、悪事を悪事と思わない男に染まっていく主人公を野村萬斎が演じる3時間の大作。面白くもあり、もっと面白くできるだろうという思いもあり、トータルでは満足。

井上ひさしは初期のほうが目茶苦茶で面白いと思うのだけど、これはそういう1本。盲が目明きとやり合うために悪事を働いて何が悪い、と主人公の悪を肯定しつつ、目明きは盲を哀れで汚いものと思っているんだよと世間の偽善を非難する合間に、コミカルかつリズミカルなエロ描写と、いかにも井上ひさしという雰囲気が堪能できる。説教くさい井上ひさしは嫌いだけど、こういう脚本は好きです。

演出は偽善を偽善と描写するところに重点を置いていたのか、悪人賛歌だけに偏らない仕上がり。それが芝居の厚みとしてはいい方向に働いたけど、悪事をためらわない主人公の爽快感みたいなものはもうひとつ。悪事に目覚めてからの中盤以降から俄然面白くなってくる。

主人公を演じた野村萬斎よりも、狂言回しの盲太夫が圧倒的な台詞量をこなしたり、藪原検校のライバル兼友人の検校(役名失念)が屈折した共感を藪原検校(実際には検校になる前)に示すあたりが気になって、何この人たち上手い誰だろう、と思って終演後にチラシを確認したら浅野和之と小日向文世だったと気がつくのが遅くてごめんなさいごめんなさいそりゃ上手いはずだと反省した。この2人のおかげで確実に舞台のレベルが一段上がっていた。

これだけやれば普通は大満足の芝居になるはずで、実際面白かった。けど、もっといけるというのが感想。これはひとえに脚本の器が大きいため。下手な人がやると脚本負けするところなので、ここまで仕上がっただけでもすいごいんですけど。以前シアターコクーンで藪原検校を演じた古田新太がインタビューで「つまらない芝居を面白くするのは簡単だけど、面白い芝居を面白く立上げるのは至難の業」と話していたのももっともなことだと実感させられる。何がいいたいかというと浅野和之と小日向文世がもっと観たかったということです。

2012年6月10日 (日)

パルコ企画製作「三谷版『桜の園』」PARCO劇場(ネタばれあり)

<2012年6月9日(土)夜>

帝政末期のロシア。先祖代々の資産を食潰しながら、なお贅沢な暮らしを続ける未亡人の貴族。借金の抵当となっている自宅の城と、その周りの広大な桜の園。現実を直視できない当主の未亡人と、その娘姉妹、抵当の競売流れを防ぐために骨を折る元使用人たちをめぐる、人と時代の物語。

三谷版だの喜劇だのこれぞチェーホフだのとさんざん宣伝で煽っていた本作ですが、観終わった感想はよくも悪くも王道の演出という印象。以前一度だけ、確か蜷川演出で観たけどほとんど覚えていない、という程度の事前知識で原作をわかっていないネタばれ感想は以下。

どこらへんが三谷版で喜劇かというと、家庭教師や小間使いなどの周辺人物によるやり取りのコミカル化、および小ネタの追加がメイン。あと舞踏会(が開かれているときに別室でやりとり)の場面がちょっと変わっていたりするのかな? 筋はほとんどそのままだと思う(これは自信がないので詳しい人が調べてほしい)。通常は恋愛沙汰を強調して描いて、たまに金絡みの話に戻るような感じで、観やすさとしてはとてもバランスがよい。それは三谷幸喜の手柄。脇で笑わせる分だけ未亡人の場面で締めるようになっていて、未亡人役の浅岡ルリ子では遊びが少なかったけど、それでも大学生役の藤井隆を問詰めるような余裕もあり。

青木さやかが前説をやったんだけど、その中で「登場人物の名前が誰が誰だかわからない」というくだりがあって、みんな同じなんだと笑った。それかどうかはしらないけど、登場人物のビジュアルに大幅に差をつけて、名前がわからないでも筋の把握に困らないようになっていた。これも三谷幸喜の手柄。

適度に笑わせてきっちり締めて、脚本負けしていないレベルの仕上がりは、演出家の手腕だなと思う。そしてそもそもこの脚本をこの時代に取上げるところがやっぱりセンスなんだと思う。新旧上下の逆転の悲喜劇ほど今の時代に、特に日本に適したテーマはなかなかないから。その点でも三谷幸喜はさすがだと思う。

じゃあ絶賛モノかというと、まだそこまでは行っていない。桜の園を取上げて新旧上下の逆転は避けて通れないと思うのだけど、それが弱い。なんでだろうと考えたんだけど、新旧の差はあっても、上下の差が希薄。浅岡ルリ子だけが上っぽさを表していて、他の上っぽさ、下っぽさが足りない。そういう時代なんだとしても、市川しんぺーの成金商人は元使用人の屈折感がないと、桜の園を買収したときの絶頂感とか、長女に結婚を申込めないいじらしさが引立たない。それができる役者だと信じているので、あと10倍がんばってほしい。大和田美帆は新しいことに期待する次女として他のベテランを差置いてすでに完成レベルの仕上がり。

公演後半になるほどよくなる気配は感じたので、観るなら後半がよかったかも。と思いつつ、こういう生意気なことが書けるのは今回のチェーホフがわかりやすかったからで、その点では三谷幸喜に感謝と拍手。新しいことに何でも手が出せる才能と地位がある人なんだけど、観客としては、一時のKERAみたいに演出に専念するような時期があったら面白いだろうな、けど新しいことに手を出して道を作ってほしいな、という両方の期待を勝手にしてしまいます。

2012年5月21日 (月)

ナイロン100℃「百年の秘密」下北沢本多劇場(若干ネタばれあり)

<2012年5月18日(金)夜>

樹齢もわからない大木を中心に立てられたベイカー家の屋敷。この屋敷の家族として生まれたティルダと、12歳で転校してきていらいの友人コナをめぐる、ベイカー家の百年に渡る歴史と、そこで起きた秘密について。

シリアスなのは覚悟の上でとチラシに書いていたけど、シリアスというよりはある家族をめぐる壮大な歴史モノ。少な目ながらも残っている笑いの種類とか、大木の反応とか、いろいろ手癖は残っていても、たぶん「わが闇」以降のKERA新路線の完成形。

先にスタッフワークを褒めておくと、あの無茶な構成で成立たせた美術に、いつになく美しい照明、耳に残るテーマ曲、ナレーションに合せたオープニングの振付、すっきりした衣装やもはや芸術の域の映像など。長くナイロン100℃やKERAとやっていた人たちの阿吽の呼吸を感じる。このスタッフワークがあってこそ、ここまで完成したのだと思う。

その分脚本演出に注力したのかしないのかはわからないけど、脚本のネタはシリアス寄り。いろいろな人物のいろいろな秘密が出てくるけど、直接間接に「死」を感じさせる秘密がとても多い。それが芝居っ気抜きに(っていうのも変だけど)展開するので、観ていて気が抜けない。時間が行き来して、先に結果をばらしてから後で秘密が生まれた瞬間に戻るんだけど、これがよりシリアスさを濃くしている。主人公の両親の秘密が薄かったけど、それは必要なら再演時に修正すればいい。多少の笑いはあっても、自分で書いたものでも、緊張感を保って最後まで演出しきったこの手腕は本物。そしてその中心を担った犬山イヌコと峯村リエの2人も本物。この2人の実力を最大限に輝かせるための芝居だったんじゃないかと思う。

そして、本物なんだけど、本物だからこそ今まで見えなかったものが見えてしまった。役者が追いついていない。この脚本演出の水準に見合っていたのが、上の2人と、松永玲子、客演だと山西惇くらい。廣川三憲が終盤の一瞬だけいい感じだったけど、大倉孝二とか村岡希美とかみのすけとか、いつも通りの演技をいつも通り観せられた感じ。ナイロン100℃自体がもともと小劇場というかサブカルチャーというか、リアリズムど真ん中って感じではないし、この芝居の何箇所かではそういう演技のほうがよかったとは思うけど、でもリアリズムで責めたほうがいい場面で責めなかったのは、あれは演出なのか。リアリズムっていうのも違うな、うーん、これが正しい言葉なのか自信がないけど、もっと「生っぽい」ものに「触らせて」ほしかった。大倉孝二が親と口論する場面とか、村岡希美が取立に来て犬山イヌコと口論になる場面とか、あれは観ている側が登場人物の核に触れられる機会だけど、なんか中途半端に終わってしまった感じがする。これはたまたまどっちも口論の場面だけど、普段の場面からもっといけるはず。他の人も含めて、超もったいない。

なんだけど、とてもよい芝居なのは間違いないので、これからツアーで観る人はお楽しみに。観るかどうか迷っているなら迷わずチケットを手配。首都圏だと横浜がもう1日だけあります。笑ってすっきりする芝居ではないですし、休憩をはさんで3時間35分とか長いですけど、観ている間はそんなの気になりませんから。

2012年5月 5日 (土)

ロンドン・ヤングヴィック劇場「カフカの猿」シアタートラム

<2012年5月4日(金)昼>

学会で自分の体験を披露することになった猿。アフリカで密猟者にとらわれ、輸送中の船で人間の真似をするようになり、見世物小屋での学習を通じて言葉を覚えるようになるまでの5年間の経緯。

どうして昼夜でやっていないんだと恨みながら渋谷から田園都市線か井の頭線かものすごい迷って、一人芝居連続ってネタで選んだカフカ原作のキャサリン・ハンターの一人芝居。カフカ未読で臨んで、すごいよくできていたのだけど、ちょっと入りきれなかった。入りきれなかった原因は、一に自分の心持で、どうも最近調子がわるいのだけど、そればかりではなくて。

アフタートークによれば原作にないエピソードをひとつだけ足している他は原作に忠実で、移民の多いロンドンでは移民の話として受止める人が多かったらし い。自分は最初、野田秀樹の「赤鬼」を連想したけど、観ているうちにこれは「ガリバー旅行記」だと思った。馬の国の人間嫌いの話。いろんなエピソードの方向がそっちに向かっている。

前宣伝ではキャサリン・ハンターは猿の見て動きを覚えたという点が強調されていて、それは確かにすごかった。なかなか真似のできない動きをしながら台詞をしゃべって1時間出ずっぱり。あれを毎日昼夜やったら身体がもたないから普段は1公演で当然だ。あと猿の鳴声も、あれは何を思って出しているんだろう、あまりにも似ていて素直に感心した。

で、入りこめいと感じた理由のひとつが、キャサリン・ハンターが猿を上手に演じすぎたこと。この脚本はもっと抑えて演じても十分面白い、いっそ美術の演台(途中で脇によけられる)を残したままリーディングに近い形でもよかったと思うけど、猿の動きで見せてこそ効果的な場面は一部で、全体では1足す1にしか思えず、脚本との相乗効果があまりない、過剰演出に感じてしまったのがひとつ。

もうひとつが、なんか台詞が劇場に充ちないで、きっちり舞台の向こう半分にしか想像の世界がないような気がしたこと。アドリブあったし、客席にも来たし、日本語も話したし、展開の一部に客を組込む度胸はすばらしいの一言だけど、台詞が後ろに飛んでいる感じ。いままで英語で音響のほとんどない芝居を観たことがなかったけど、英語の台詞回しってあれが普通なのかな。一人芝居とはいえ、観客が学会の聴衆という設定にしては違和感。

これもアフタートークによれば(翻訳とオペレーターとアフタートークのゲストは谷賢一だ)、字幕は最小限に抑えてキャサリン・ハンターに注目がいくように狙ったらしいけど、字数の制限はあるにしても、どうも台詞を聴いていると情報量が足りなすぎる気がする。自分の語学力が足りないのが第一だけど、字数の制限を考えても削りすぎだったんじゃないのか。たとえば字幕ではあえてモンキーとエイプとチンパンジーを「猿」で統一したらしいけど、これなんか人間嫌いの意図を伝える重要なキーワードだったと思う。ついでに書くと、アドリブの多いこの芝居でのオペレーターは大変だと思うけど、ライブ感を狙いすぎて統一感のないタイミングになっていた気がする。フォントと字幕位置は見やすくてすばらしかった。直前でそこに追込みをかけた情熱は報われていたので、それは特筆しておきたい。

結論としては、英語をもっと勉強しないと世の中損するぞ俺、です。

2012年5月 3日 (木)

森田オフィス/イッセー尾形・ら企画製作「イッセー尾形のこれからの生活2012 GW in クエスト」原宿クエストホール

<2012年5月3日(木)昼>

イッセー尾形の一人芝居7本。(1)めでたい格好をしているおじさんのいる場所は (2)移動中の噂話 (3)窓口のおばさん (4)店番の女性 (5)道に迷ったおじさんたちの中心人物 (6)旅する女性 (7)どこかのギタリスト。

初めてのイッセー尾形だったけど、上手くて面白くて、さすがでした。楽しんだ。個々のタイトルが不明なのと、設定の説明をするのももったいないのですごい適当なメモになりました。これから観る人は楽しみに。

全部同じ人による作成なのだから統一感があるのは当たり前なんだけど、設定が秀逸なものと、演技が上手なものとに分かれている印象。でも導入というか構成というか、すばらしかったな。衣装と簡単な小道具はあっても、7本とも一人で観ている側を引っ張り込まないといけないところを、会話の順番だったり、出のインパクトだったり、言葉遣いだったりで、違和感なく状況を知らせて納得させるのは。落語の現代版といえなくもない。個人的には設定と展開と演技が絶妙でインパクトも強かった(1)と、説明にしてやられた(6)がよかった。(7)は、あの突飛な組合せはなんだったんだろう(笑)。

あとはロビーもすごいことになっていた。ドリンクとおつまみが無料で、これまでの衣装のフリーマーケットもやっていて、あのリラックス感はちょっと普通の芝居では見かけられない。

当日券でも観られそうなので、時間のある人は一度はイッセー尾形を観ておくべき。老若男女、誰でも楽しめる貴重な舞台です。

2012年3月26日 (月)

C.I.C.T./ブッフ・デュ・ノール劇場製作総指揮「魔笛」彩の国さいたま芸術劇場大ホール(ネタばれしてもいいよね)

<2012年3月25日(日)昼>

森に迷い込んだ王子が、夜の女王から娘の救出を依頼される。魔笛を渡された王子は、森の中で蛇に襲われたところを助けてもらった鳥刺しの若者と救出に赴く。

最初に謝っておく。オペラとか歌舞伎とか、正真正銘の古典ものは、やっぱり予習しておかないと駄目だ。ピーター・ブルックの芝居をよく知らないで、きっとスピーディーな芝居に翻案しなおしたんだろうくらいの気持ちで出かけたら、超ど真ん中のオペラだった。90分だったから普通のオペラ上演に比べればはるかにスピーディーなんだろうけど。

オペラだからネタばれしてもいいと思って書くけど、娘をさらったザラストロは、実は娘の亡き父親が信頼していたどこかの神殿の長で、夜の女王が野心家で、後にはザラストロの部下を唆してなんたらかんたら、なんだけど、よくわからない。王子が娘と結ばれるのはいいとして、パパゲーナにパパゲーノができるのがよくわからない。元々が庶民向け芝居らしいから、場面ごとの歌や盛上がりを楽しむのが吉で、考えたら負けなのかも。

元に戻ると、竹(とピアノ)しかない舞台に、普通の芝居っぽい衣装の登場人物。音楽はオーケストラの代わりにピアノ一本。小道具少々。当日パンフによると、登場人物を削ったり、楽譜を書換えたり、モーツァルトのほかの曲も使っているらしい。娘の救出劇に焦点を当てて短縮したってことでいいのかな。それでも90分とは思えない内容だった。あと、夜の女王のアリアとか、パパゲーノ・パパゲーナとか、有名な曲を聴けて満足。役者ではザラストロ役のヴァンサン・パヴェジがよかった。

たぶん、このくらいシンプルに上演できるんだぜ、ってところが一番の驚きで、それはオペラに詳しい人ほど驚くところだと思うんだけど、日本の小劇場を見慣れた身としてはそこには驚かない。その源流にピーター・ブルックがいたとしても、そのさらに源流に能や狂言があるわけだし。で、予習不十分で物語がよくわからなかったのは冒頭に書いたとおり。体調不十分だったのは認めるけど、カーテンコールの絶賛振りがまったくわからなかった。あれ、オペラ好きの人がたくさんいたんだろうか。歌も役者も上手かったとは思うけど、話がわからないからついていけなかった。歌舞伎もよう知らんのに、オペラ方面もいつか勉強しないといかんとは。もう一回謝っておく。上手いとは思ったけど、今の俺にはわからなかった。

あと、C.I.C.T.というのが国際演劇研究センターでピーター・ブルックが主宰していて、その本拠地としてブッフ・デュ・ノール劇場というのがあるのかな。劇団名相当に何を書けばいいのかわからないので、製作総指揮のクレジットを採用したのであしからず。ちなみにその劇場はこれらしい。何をやっても期待してしまうという当日パンフの言葉もわかる。世田谷パブリックシアターを一度廃墟にするとこんな感じになるのかな。

<2012年3月27日(火)追記>

これを読んだ。王子による王女の救出劇という以外に、神殿の長による悪い女王をやっつける要素もあったのかな。で、通常のオペラだと勧善懲悪でやるところを、寡婦の不安感にも同情できる舞台だったと。言われてみればそうかもしれないけど、だとすると、寡婦の不安っていうテーマで3本連続観たことになる。なんだこの流れ。

2012年3月25日 (日)

シス・カンパニー企画製作「ガラスの動物園」Bunkamuraシアターコクーン

<2012年3月24日(土)夜>

1930年代のアメリカ。父は出奔し、母は女手ひとつで子供を育て、姉は極度の内気で他人との会話もままならず、弟は倉庫の仕事にうんざりしている。姉の将来を心配する母は結婚相手を探すことを弟に依頼し、ある日の夕食に仕事先の友人が招かれることになる。

題名だけしか知らないで観たら、なんと2週続けて同じような家族構成の、同じような狂気。ただし今回のほうがさすがの仕上がり。

先週のDULL-COLORED POPはものすごい情報量をいろいろなところに込めて、登場人物のいろんな思惑を立てようとしていた。そういうところが最近っぽい。だけど今回の話は、すごいシンプルな粗筋でどこまで積木を積めるかの勝負。絶対バッドエンドの話だと信じていたから最後にどう落とすかと思って観ていたら、ものすごい単純な展開で落として、いわゆる古典は何て素直な脚本なんだと妙に感心した。こういう素直な脚本は緊張感勝負で、役者同士がかみ合わなかったり、役者がひとつ嘘の演技をすると、それだけで積木が崩れる。だから演出家や役者には手ごわい。

それが成立したのは、まずは立石涼子と深津絵里の2人。男性陣もよかったけど、でも女性陣2人のほうがすごかった。母親は、もし自分が脚本を読んだら、弱くて古風なお婆さんという感じに想像したとおもうけど、立石涼子はよかれと思ってやっていることが価値観の押付けで子供を圧迫する母親にした。もっと深くてやわらかい声が出せる人なのに、嫌なおばさんのダミ声で高圧的だったり泣き落としだったり、自由自在だった。それを受ける深津絵里のおどおどした声。最初はやりすぎだと思っていたけど、これがだんだん馴染んできて、後半に男性と2人きりで話す場面で、それまでより少しだけ普通っぽく話すところの差を聴いて、応援したい気分にかられた。

これを演出したのが長塚圭史だと休憩時間に思い出したけど、見直した。ダンサーというかコロスが出てきて、場面転換をしつつ、登場人物の不安を表すことも担当していた。あれがまた観ていて不安と不快の微妙な境をついてきてこまる。音響も照明も舞台も衣装も、全体に不安と不快の混ざったようなトーンで揃っていて、ベテランの名前が多かったけど、それだけでなく明確な方針があったんだろうなと想像したくなる見事なスタッフワーク。

それにしても70年近い年月を隔てて、高圧的な母親と圧迫される子供の物語を新旧観る事になったのは、これが昔からある構図なのか、それとも時代の転換点には依存と独立が語られやすいのか。今回上演されてもまったく古さを感じない点は、いくら名作とはいえどうなんだ。長塚圭史は確かDULL-COLORED POPの今日のアフタートークに出ているはずだけど、あっちを観て、何を思って、何を話したんだろう。でも長塚圭史のほうが、構想が2回りくらい大きい印象。おまけの話しだけど、体調はまだ悪いけど、今回観終わった後にすごい心がすっきりした。すっきりしたというか、正気に戻った感覚。カーテンコール2回で終了のバッドエンドの話を観て正気が戻るというのも変な話だけど、そこに込められた着想、エネルギー、問題意識から元気をもらった。観終わって満足。

それなら無条件でプッシュするかというと、難点がひとつ。深津絵里がきれいすぎて、姉役の信憑性に若干の疑問が残った。別に汚い深津絵里なんてみたくないので、難癖と言われてもしょうがないけど。深津絵里のことを、いけてないOLを演じたら天下一品だけど、いけてないOLが自分を重ねてみるには美しすぎる女優、とかつて評した松尾スズキの慧眼を今更実感することになるとは思わなかった。

<2012年3月25日(日)追記>

DULL-COLORED POPに対して「小劇場らしいお芝居だった」というコメントがあったらしい。そうだと思う。でもその差がどこから来ているのか、佳作と名作をわけるものは何か。あの芝居に立石涼子が出ていればよかったのか、長塚圭史が演出すればよかったのか、脚本で猫がしゃべらなければよかったのか。差はほんの少しだと思うけど、決定的な差で、そこがわからないんだ。

2012年3月18日 (日)

DULL-COLORERD POP「くろねこちゃんとベージュねこちゃん」アトリエ春風舎

<2012年3月18日(日)昼>

夫婦に息子、娘の4人家族。子供たちはすでに家を出ているが、久しぶりに集まったのは父が亡くなったため。葬儀も終わり、疲れた母をお手伝いがサポートし、息子が帰ろうとしたときに、娘が引止める。父の机から遺言書が見つかったため、開封するために全員の戸籍謄本が必要だという。

面白いかつまらないかで言えば面白い。けどあのエンディングまでの過程の後味の悪さを味わうには体調不良できつかった。実際にありそうな話をここまで掘って転がすのもすごいけど、こういう話を創る人たちの頭の中というか興味というかよくわからない。猫の位置づけがよい。オチは途中で何となく想像ついたけど、やっぱり後味悪い。

ビール飲んでる公開駄目出しまで観たけど、エアコンか気温か、この劇場寒い。あとチケットの半券に値段書いておいてください。
・振付になってきているのでもっと自由に、相手の反応を見て(多数)
・もっと間をかぶせて、あるいは引張って(多数)
・あの場面はもっとXXを出して(多数)
って感じ。さすがに前半千秋楽だから致命的な駄目出しはない。でももっといけるかも、と思った場面はしっかり指摘されていた。ぬるっとセクハラしてたのは、まあエンターテイナーってことにしておく。

他に、公開稽古を観た観客のリクエストでエンディングの別バージョンを試したり(うけたら採用、といいつつうけずにあっさり却下)、この会場が70席で次の新潟が843席(だったか)なんでこの会場が何個入るんだかわからないけど大きな劇場で試したいことはたくさんあるからミザンスは変えるのに前向きとか、平田オリザみたいに舞台上特設席にいかないのはすごい。

最後の質問でこれはハッピーエンドかバッドエンドかの質問が出て、6対4か7対3くらいでハッピーエンドが多くてびっくりした。自分はバッドエンド派だったので何でだろうと思ったけど、あれはたぶん音楽に引張られていると思う。音響は演出家からのメッセージ。音響なしだったら半々くらいにはなったはず。でもどっちともとれるのは確か。

こうやって書いているうちにどんどん体調が悪化しているのでこのくらいで。これから観る人は体調を十分に整えてください。で、ハッピーエンド派かバッドエンド派か、観終わったら考えてみてください。毎公演挙手させてみてほしい。