2019年12月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        

« 東京芸術劇場/東京都/東京文化発信プロジェクト室主催「マシーン日記」東京芸術劇場シアターイースト | トップページ | 世田谷シルク「ブラック・サバンナ」アトリエ春風舎 »

2013年4月 3日 (水)

立体感のある芝居

こういうブログを読んで、何かメモを書きたくなった。

研究するより前にまず鑑賞せよ、というのが自分の観客としての方針なんだけど、たまに、本当にたまにしかないのが残念なんだけど、これは違う、という芝居に出会うことがある。何が違うかというのを自分の言葉でいうと、立体感がある芝居。あるいは、舞台上にリアルな三次元空間が広がっている芝居。もっと一般的に言うと、リアリティのあるストレートプレイ。

「芝居を立上げる」という言葉を読んだり聞いたりするけど、この言葉を最初に使った人は、たぶんこういう芝居を創るか観るかした人なんだと思う。古田新太は、つまらない脚本を面白い芝居にするのは簡単だけど面白い脚本を面白い芝居にするのは至難の業、って言い方をしていますね。

で、たまにそういう芝居を観たときに考えることがふたつあって、ひとつは、これは脚本演出役者のどれがあずかって力があったのか。スタッフワークが直接の理由でないことは(申し訳ないけど)わかる。けど、3つのどれが直接の理由なのか。ぱっと考えるのは、ものすごい強固な世界観の確立した脚本があって、それを役者と演出家が全力で追求したのではないかということ。少なくとも今まで観たものは脚本が優れていたものばかりだった。でもそれは、単に強固な世界観の脚本があった場合に役者と演出家が目標を共有して追及しやすいだけじゃないのか。適当な脚本でも、役者と演出家が同じ目標を理解しあえて追求したら立体的な芝居が創れるんじゃないか。そこのところがいまいち分からない。

もうひとつは、観客として立体感のある芝居を観たあとは間違いなく満足するんだけど、それって創る側からすると芝居を創る目的というか、芝居の方法のひとつだよな、と。立体感を持った芝居を創ることが目的ならそれはそれでいい。けど、何か伝えたいこと訴えたいこと表現したいことがあって、それを2時間なりで観客に伝えたいと思った場合、方法は複数あってよくて。それが例えば人生いつも脇役な女性の悲哀を描きたいと思ったときに、悲惨な現実を積重ねてもいいんだけど、「マシーン日記」みたいに一見ありえない(あるいはとても珍しい)設定を積重ねて描いても、観客に伝わる悲哀は等量なんではないか、むしろ後者のほうが深く伝わるなんてこともあるんではないか、と。現代で描きづらいことは時代劇にすると描きやすいって言ったのは芥川龍之介だったか三島由紀夫だったか忘れたけど、小説にとっての時代劇が、小劇場にとっての突飛な設定なのかもしれないよ、とか。野田秀樹なら省略と誇張というところというべきか。

で、リアリティのあるストレートプレイって欧米由来で、能や歌舞伎の国である日本がやってきたのは後者で、いまも後者のほうが心情的には親しく感じるんじゃないかなと思うわけです。これを別の表現をすると、ここで少し話が飛ぶのだけど、日本人として普段意識しないで日本語に馴染んでいる人には後者しか創れないんじゃないかなと言換えたくなる。言語化せずに身体一本でやっていける天才もいるかもしれないけど、それで前者が務まる人っているんだろうか。コメディならいけるかもしれないけど。

自分の中でも全然まとまっていないことを書いたので、そのうちまた書く。

<2013年4月8日(月)追記>

メモの単語追記。人間を描く芝居と世界を描く芝居。演じる役者のギリギリ感に基づく緊張感。

« 東京芸術劇場/東京都/東京文化発信プロジェクト室主催「マシーン日記」東京芸術劇場シアターイースト | トップページ | 世田谷シルク「ブラック・サバンナ」アトリエ春風舎 »

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 東京芸術劇場/東京都/東京文化発信プロジェクト室主催「マシーン日記」東京芸術劇場シアターイースト | トップページ | 世田谷シルク「ブラック・サバンナ」アトリエ春風舎 »