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2014年9月15日 (月)

状況倫理と絶対倫理と説教芝居と芝居の強度について

ひとつ前のエントリーの「きらめく星座」が乱暴な感想だったので補足を兼ねて。内容は山本七平の本に大いに影響を受けています。

日本人は状況倫理でキリスト教やイスラム教は絶対倫理。状況倫理は、そのときの状況によって価値判断を変えることを是とする倫理。絶対倫理は、そのときの状況が何であれ、常に同じ価値判断を是とする倫理。絶対倫理の「状況」には例外はなくて、おまえ隠れキリシタンでなければ踏み絵できるよな、踏み絵しなかったら殺すと言われて、踏めるのが状況倫理、踏まないで殺されるのが絶対倫理。その「絶対」が発揮される範囲が、キリスト教やイスラム教では神との契約に基づいて云々、までいくと受売りの説明を続けるだけになるから省略。

日本人は状況倫理と言ったけど、それでは成立たない例外がいくつかあって、軍隊はそのひとつ。誰かひとりが下手をうつだけで部隊全滅になることがあるので、軍隊は軍隊のルールで動かないといけない。このルールは絶対倫理。だから一流の軍人になった人であれば、軍隊のルールが定める範囲において、日常の価値判断も軍隊のルールに従った結論を出す。倫理とは個人のものだから、ある絶対倫理に沿って大成すれば、個人もその絶対倫理の影響を受ける。

宗教や軍を例えに出すと話が荒れるけど、別に宗教や軍に限らない。職人の世界はこれと同じ。

ところが、日本人は状況倫理が発達しているので、特定の絶対倫理を持っていない人の場合、その絶対倫理を「状況」のひとつとして運用してしまう。「本音と建前」という言葉が端的にあらわしているように、ある絶対倫理を状況倫理として運用しているときは「建前」で運用して、それが終わるとそうはいってもさ、と「本音」が出てくる。ところがこの本音もしばしば「状況」で左右される。それでいて儒教や仏教の影響があちこちにあり、日常的には宗教的な価値判断を行なっている。

状況倫理なら状況倫理で、様々な場面を想定して、状況ごとの「本音」の優先順位を決めて、自分たちの状況倫理を絶対倫理まで育てて明示化できればいいけど、日本人はそれを明文化せず、かといって江戸以前の伝統も「見た目には」なくなってしまったので、そもそも価値判断を状況倫理で行なっているという自覚がない。自覚がないため改めることもできないし、自分たちの日常の「宗教的な」価値判断にひっかかる他の倫理を認めることもできない。それがひいては、異なる倫理をもつ人たちとのコミュニケーションが深くできない原因にもなっている。

状況倫理に様々なメリットがあるとしても、現代の日本の日常だとデメリットのほうが目立っているので、そこに釘をさすような話は今でも必要。

ここまで前振り。「きらめく星座」の話をすると、以下の2つの塊がある。

・芝居中で主人公たちの生活を圧迫する存在としてあからさまに非難の対象になっていた昭和の軍。昭和の軍は、自分が今まで本を読んで得た知識の範囲では、一般人の状況倫理を無視して軍隊の絶対倫理を日常にまで運用しようとした点と、それでいてその運用をしている内部の人間は無自覚な状況倫理で動いていた点とがあり、それが「倫理」つまり精神論に基づいた、一般人への無茶な要求と、それでいて自分たちの節操のない行動につながった。木場勝己の台詞や山西惇が電車で耳に挟んだ会話で批判してい内容のバックグランドはそういう点だったと理解した。軍以外でも、船の中で兄が見聞した民間人の振舞のエピソード(ひとりだと何もできないのに集団になると野蛮になる)もここに含まれる。これは非難されてもしょうがない。
・それでいて、その向こうをはる庶民側にも状況倫理のエピソード満載にしている。兄が脱走兵で目をつけられるなら妹を傷病平と結婚させて美談の主に仕立てようとする話、この結婚相手が固い軍人(絶対倫理)なのに兄をかくまう嘘をつかせて庶民側(状況倫理)に傾かせる場面、下宿にあいさつがてら憲兵がもってきた横流しのすきやきに平気でお相伴に預かる家族、世の中の理不尽を憤るたびに右手が痛む夫に「世の中に腹をたてては駄目」といさめる妹、など。これらのエピソードを笑いや涙に結びつけて、肯定的に描いている。

この2つともが同じ状況倫理から発したものなので、対立が成立しない。状況倫理のまま、それを最後に人間賛歌に結び付けてうやむやにしてしまう。前者をそこまで明確に非難するなら、その対案になるものを描いてほしい、それがないなら説教芝居と呼ばせてほしい、というのが前のエントリーの感想。

さらに脱線。ふたつ前のエントリーの「醜い男」の当日パンフで、長谷川寧がこう書いていた。

ともあれManos.はドイツ演劇の上演が多い。
勿論自分の嗜好でも有るのだけれど、
ドイツ戯曲は強度が有るという印象が有って、
どう料理しようが根幹がブレずに、
遊び甲斐が有るから、
という理由は有る。

これは脚本の構成もあるかもしれないけれど、日本の脚本はたぶん「状況」を上手く描かないと成立しない話が多くて、その状況を駄目にするような演出を受付けられないという面もあるのではないか。

ただし、ここがややこしいのだけど、井上ひさしの脚本は台詞と単語選びが抜群に優れていて、「日本語で」演出する範囲においては、台詞だけで脚本が求める状況を立上げられるだけの強度を持っているのではないか。

そして、日本人が読んで優れていると感じる脚本には「脚本の構成が主題(絶対倫理)の主張を助けるもの」と「台詞を丁寧に演出することで主題またはその対立項(状況倫理)が立上がるもの」の2種類があるのではないか。特に新劇は後者を好むのではないか。

と考えたけど、それ以上はおいおい考える。

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