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2016年5月12日 (木)

追悼蜷川幸雄

最後に観た芝居は今年1月のシアターコクーンの「元禄港歌」。近年ではさいたまゴールドシアターがやっぱりよくて、「アンドゥ家の一夜」と「ルート99」。それでもゴールドシアターはこの2本しか観られていなくて、さいたまネクストシアターにいたっては見逃し続き。さいたま芸術劇場がもう少し近ければ観られる回数も増えただろうなとは思う。そんな中でもどれか1本選べと言われたら野村萬斎主演の「オイディプス王」かな。あの劇場のサイズをさらに上回るスケール感は、なかなかできることではない。一番見逃してもったいなかったのは「グリークス」で、テレビ放映で観たけど、あれはやっぱり舞台でぶっ続けで観たかった。今なら再演できそうなのでやってほしいのが「ムサシ」。

日本の新聞社の記事は時間が経ったら消えてしまうので、ほとんど丸ごと引用で申し訳ないけど朝日より。

 日本人の感性で読み解いたダイナミックなシェークスピア劇などで知られ、国際的な活躍で「世界のニナガワ」と呼ばれた演出家、蜷川幸雄(にながわ・ゆきお)さんが12日午後1時25分、肺炎による多臓器不全のため、東京都内の病院で死去した。80歳だった。通夜は15日午後6時、葬儀は16日正午から東京都港区南青山2の33の20の青山葬儀所で。喪主は妻宏子(ひろこ)さん。宏子さんは1980年代まで俳優、真山知子(まやま・ともこ)として活躍し、現在はパッチワーク・キルト作家。写真家の蜷川実花さんは長女。

 埼玉県川口市生まれ。55年に劇団青俳の研究生となり俳優としてスタート。68年に蟹江敬三、石橋蓮司らと「現代人劇場」を結成し、翌年、清水邦夫作「真情あふるる軽薄さ」で演出家デビュー。若者の体制への怒りを鋭く表し、アングラ演劇の旗手となった。

 74年、日生劇場(東京)で「ロミオとジュリエット」を演出。疾走感あふれる鮮烈な表現が大劇場に新風を吹き込んだ。続く、「王女メディア」「NINAGAWAマクベス」「近松心中物語」などで、戯曲の本質に大胆に切り込み、美しく視覚化する演出を確立。若い頃は、やる気のない俳優に灰皿を投げる激しい稽古でも知られた。

 代表作はほかに「テンペスト」「唐版 滝の白糸」「タンゴ・冬の終わりに」「身毒丸」「海辺のカフカ」など。

 83年にギリシャ悲劇「王女メディア」のアテネ公演などを成功させて以降、ほぼ毎年、海外公演を重ね、高い評価が定着。英国ロイヤル・シェークスピア劇団との「リア王」など海外との共同制作も度々手掛けた。

 15歳の藤原竜也を「身毒丸」の主役に選んだのをはじめ、小栗旬、鈴木杏ら多くの若手を育てた。また、吉田鋼太郎を主役に抜擢(ばってき)するなど、多くの俳優を花開かせた。

 99年にシアターコクーン(東京)、06年には彩の国さいたま芸術劇場の芸術監督に就任。高齢者劇団「さいたまゴールド・シアター」を設立した。09年には無名の若手俳優を集め「さいたまネクスト・シアター」も作った。

 99年度朝日賞。02年英国名誉大英勲章第3位、04年度文化功労者、10年度文化勲章。03~10年、桐朋学園芸術短大学長を務めた。

 心臓や肺などに病気を抱え、90年代後半から入院や手術を繰り返したが、創作意欲は衰えず、14年11月に公演先の香港で倒れた後も車椅子で稽古に復帰。15年は4本を新たに演出した。

 特に、「さいたまゴールド」と「ネクスト」による新作「リチャード二世」では、30台以上の車椅子を登場させるなど、自らの不自由さを表現に反映し、鮮やかな舞台を作った。

 昨年12月、「元禄港歌」の稽古中に体調を崩し、入院。今月25日開幕の「尺には尺を」は病床で演出プランを練ったが、稽古には参加できなかった。

それと同じく朝日から論説委員・山口宏子の追悼文を。

 自分の美意識から外れることを「恥」とする心と、世の理不尽や無理解に対する「怒り」。この二つを抱えて、演出家、蜷川幸雄は走り続けた。

 西洋の古典であるシェークスピア劇やギリシャ悲劇を、日本で生まれ育った者の感覚で読み解き、大胆に視覚化した。「マクベス」は仏壇の中、「テンペスト」は佐渡の朽ちかけた能舞台で演じられた。「王女メディア」の嘆きには津軽三味線の音が寄り添った。

 目指したのは、日本人が演じ、見て、恥ずかしくない舞台。戯曲から普遍性を引き出し、アジアの民衆の記憶と交差させ、自分が納得できる表現を探った。

 これは当初、西洋に規範を置く評論家らに批判された。しかし、観客は舞台のおもしろさを支持した。戯曲の本質を射抜き、アジアの美意識で彩る舞台は海外でも高く評価された。英国をはじめ、各国に繰り返し招かれ、ファンを広げた。作品の力が蜷川を「世界のニナガワ」に押し上げた。

 創作をともにした劇作家の清水邦夫や唐十郎への敬意から、蜷川は原則として戯曲に手を加えない。代わりに演技、美術、照明、音響、衣装などを総動員して言葉と対峙(たいじ)した。勝負は開幕3分。鮮やかなイメージで観客を劇世界に引き込んだ。

 特に冴(さ)えたのは、群衆場面だ。舞台上に人々の多様な生きる姿を配し、ドラマを、名もなき人々のまなざしの中で展開させる。蜷川自身の目も、いつもその中にあった。

 演出家として闘い続けた。若者たちを認めない新劇界を飛び出し、商業演劇では演出家を侮る俳優に灰皿を投げた。海外では、異国趣味への関心にとどまる批評に「俺は西洋の補完物じゃない」と、かみ付いた。

 強く激しい人には、傷つきやすい魂が宿っていた。自身の商業演劇の演出が原因で劇団の仲間と決別した日の孤立感を、終生抱いていた。病やけがに見舞われた清水や唐の旧作を次々上演し、盟友を励まし、支えた義?心(ぎきょうしん)もまた、蜷川の一面だった。

 70歳を超えてからも延べ100本を演出。高齢者劇団では、市井の人々の老いを「表現」に昇華した。

 口癖は「枯れた老人にはならない」。理想を追う意志が、弱ってゆく体をむち打ち、走り続けた。

 酸素吸入、車椅子で稽古をした15年春の「リチャード二世」では、和服の衣装、約60人の老人と若者が踊るタンゴ、海を表す巨大な布、空飛ぶ王冠など、蜷川演出の精髄である多彩なイメージを次々繰り出した。蜷川の舞台は最晩年まで、みずみずしく輝いていた。(論説委員・山口宏子)

蜷川幸雄は脳梗塞でもびくともしなかったくらいバイタリティーあふれる爺さんだったとはいえ、最後の10年で100本演出ってすごい。で、これだけ立派な文章を引用しておいてなんだけど、蜷川幸雄の追悼文だけは扇田昭彦に書いてほしかった。文化勲章は間に合ってよかった。

芸術監督を兼務とかありえないところ、Bunkamuraのシアターコクーンとさいたま芸術劇場を兼務する人気ぶり。Bunkamuraはまあ何とでもやっていける。さいたま芸術劇場はどうなるか。むかし、次の芸術監督という企画がありましたけど、今でもKERAが一推しなことには変わりない。ただ、今なら栗山民也が空いている。この2人なら役者は誰でも引張れるくらいの、多忙を極める実力派演出家だけど、演劇で客を引張ってくるなら一般向けにはこれでも知名度は足りないくらい。海外とのコネクションもにらむなら栗山民也か。ここは要注目。

最後に、しょうもないエントリーを1本紹介して締めにします。今をときめく売れっ子だらけで、自分で読み返して楽しんでしまった。

合掌。

<2016年10月24日(月)追記>

後任の芸術監督には吉田鋼太郎が決まりました

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