2024年9月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

2016年7月 1日 (金)

2016年上半期決算

恒例の中間決算です。

(1)Bunkamura主催/企画製作「元禄港歌」Bunkamuraシアターコクーン

(2)パルコ企画制作「志の輔らくご in PARCO 2016」PARCO劇場

(3)ハイバイ「夫婦」東京芸術劇場シアターイースト

(4)野田地図「逆鱗」東京芸術劇場プレイハウス

(5)M&Oplaysプロデュース「家庭内失踪」下北沢本多劇場

(6)劇団民藝「二人だけの芝居」東京芸術劇場シアターウエスト

(7)ハイバイ「おとこたち」東京芸術劇場シアターイースト

(8)Bunkamura主催/キューブ企画製作「8月の家族たち」Bunkamuraシアターコクーン

(9)イキウメ「太陽」シアタートラム

(10)DULL-COLORED POP「演劇」王子小劇場

(11)青年団「ニッポン・サポート・センター」吉祥寺シアター

以上11本、隠し観劇はなし、チケットは1本以外すべて公式ルートで購入した結果

  • チケット総額は73000円
  • 1本当たりの単価は6636円

となりました。本数の割りに何だと自分で計算して一瞬目を疑いましたけど、(1)が思いっきり高かった分です。急用で観られない時期が多くて、6月は目一杯期待できる舞台が揃っていたのにまさかの坊主になるところ、駆込みで(11)を押さえての本数です。これだけ観られたのをむしろよしとしないといけない。

本数が少ない分だけレベルの高い芝居に絞られて、内容が疑問だらけになった(6)以外はどれもかなりのレベルでした。なのにいらない粗探しのようなエントリーが散見しているのは、こちらのハードルも上がったというよりは、疲れていたんでしょう、きっと。

以前のような言葉遊びを駆使したスタイルで今も昔も変わらない日本の問題を描いて容赦なかった(4)には口コミプッシュを出しましたが、半年で新作と再演を上演してどちらも楽しませてくれたハイバイの(3)と(7)、色気と狂気があふれる(5)、活動休止公演に相応しい力作と熱演だった(10)、いつもより手に汗握るスリルも込めて文句なしの(11)など、むしろ(4)よりも一般観客には勧めやすい芝居が多かった。青年団系が多くなったのも今期の特徴ですね。あと、再演がたくさん混じってもいいから半年に2回くらいのペースでやってくれると観るほうはありがたいです。イキウメとか。

2016年上半期のトピックは演出家で2本。まずは何と言っても蜷川幸雄が亡くなったことです。俳優から始めて、時期もよかったんでしょう、いろいろ知識豊富な人たちの薫陶を受けながら、現場の知恵を盗みつつ演出家に転向、ついに世界進出して世界のニナガワになるまるで漫画のようなキャリア。芸術性だけでも娯楽性だけでもなく、両方を含めた演出は観れば何かアンテナにひっかかる仕上がり。あらためて哀悼の意を表します。今後この穴を埋めるところまでたどり着ける人はいるんでしょうか。駆込みで(1)を観られたのはよかったですが、この後に予定されてついに流れた「蜷の繭」はいつか必ず上演してほしい。

そして新国立劇場の次の演劇部門芸術監督に小川絵梨子が決まりました。この抜擢人事という名の博打を認めた関係者には敬意を表します。演出翻訳合せても手がけた芝居はそんなに観られていないですけど、モダンな演出家という印象がある。それは年齢が若いとか、海外の現代ものを手がけていることが多いとかではない。多分、ある種の体系立った演劇教育を受けた、しかも海外で受けたのが理由と推測しますけど、芝居の解釈が行き届いているというか、ローカルなネタに頼らず芝居を立上げているというか、どことなく時事を感じさせるというか。上手く言えないですけど、演劇が観客によい影響を与られる力を持っていること、世界共通の芸術であり世界中に同業者と観客がいること、体系だって教えられる技術があってその上に表現が成立つこと、なにより演劇はいいものであることを信じているような気がします。世間は芸能界でも東京でも日本でもなく世界であり、多様な価値観がある世界に開いている。水商売とか親から絶縁とか芸は盗むものとか、そういうアングラ感がない。

偏見で言えば、芸人は末路哀れは覚悟の上といわれて親から縁を切られる話が珍しくない中、まだ少ない海外の理論をかじって伝統芸能からの独立を目指しながら、古典となる脚本の解釈に四苦八苦して、巡ってきたチャンスをものに出来た人たちだけが生延びた時代との断絶。一言で言えば世代交代ですが、単なる新旧交代ではなく、野良育ちの人たちが活躍する時代から、クラシック音楽や油絵などと同じように小さい頃から教育を受けた人たちの中から活躍する人が出てくる時代に移行している最中であることをうかがわせるような演出家の新旧交代劇です。いやもちろん小川絵梨子が主体的にものすごい努力をしたであろうことやこれからもするであろうことは信じていますが、それより前の段階の環境の違いのことです。芸術監督に就任してどんなラインナップを揃えてどんな演出をしてくるか、興味を持って待ちたいと思います。

ところで時代の移行は私個人の感覚では、良し悪しは半々です。いいところを挙げると、体系化による知識の蓄積と、業界のイメージ改善です。たとえば時代劇は今では作るのが困難で、それは金の問題ではなく、スタッフの後継者不足が最も大きいとのことです。撮影される現場が減ったため、現場の工夫でやってきた殺陣などは付けられる人も減ったり、あるいは着物の着こなしや小道具を使った仕草なども分かる人がどんどん減っているそうです。そういうことが、少なくとも知識として保管継承されていけば、仮に一度全滅してもどこかの段階で復活させられる。あと、今は一部の大学と公立劇場が演劇教育を行なって毎年卒業生がいるはずですが、そういう人たちが大幅に活躍している印象がまだない。むしろ大学でのめり込んで中退してからのし上がってくるのが王道のように思える。これがもっと改善されて、あと平田オリザみたいにワークショップとかで活躍の幅が広がれば、これはよい職業たりえる分野だという認識が広がる可能性がある。何しろ舞台を観ている人は少ない。接点がない人相手なら人は何とでも思える。舞台以外にも舞台関係者に接点がある人が増えれば認識も改まる。

ただ、効率悪い代わりに野良育ちの魅力というのは捨てがたいものがあります。役者だったら伊東四朗、脚本家だったら井上ひさしあたりはストリップ劇場から登りつめました。野田秀樹は賞に落選して「演劇の王道が守られた」と言われました。今になってみれば好き嫌いはあってもこの人たちの実力を認めないわけにはいかないでしょう。そういう人たちのために野良からの道も開かれていないといけない。何より芸能界がGentrificationの対象になってはいけないんじゃないかという感覚があります。それこそが偏見に満ちた考えなのかもしれませんが、社会をRepresentingできない芸術は業界と社会の首を絞めるという視線を忘れてはいけない。

関係者でもないのに勝手に心配して気苦労だけ増えていれば世話はないので、そんな余計な考えは捨てて、自分がどれだけ芝居を観られるかの心配をします。

更新は遅れがちですが、引続き細く長くのお付合いをよろしくお願いします。

青年団「ニッポン・サポート・センター」吉祥寺シアター

<2016年6月30日(木)夜>

行政から管理運営を委託された拠点でNPO団体が運営する、行政だけでは手が回りきらない様々な相談を請負う、地方都市にあるサポートセンター。運営委託先の更新時期が迫る時期に、創立メンバーの家族が事件を起こして逮捕され、委託されている拠点の継続が危ぶまれる。そんな中でも、実習生を受入れ、地域のボランティアの助けを借りながら、職員たちは持ちこまれる相談の解決に奔走する。

行われていることは実に立派な人助けでありながら、それだけに一筋縄ではいかない相談が多く、ささやかな相談がいつの間にか世界の問題につながるようなこともある状況の中、サポートセンターを運営する職員やボランティアの間に経験や立場や権限の違いはありつつも問題があれば協力して立向かう、けどその職員やボランティアが大小さまざまな問題に直面して本当に助けが必要なのは誰なんだ、と何本も伏線を張って展開する脚本は期待を裏切らない出来。

これぞ青年団というくらい主要な役者が勢揃いしていて、芝居の設定からは人をいくらでも増やせるので混乱はなかったけど、さすがに出番には長短あって、贅沢を通り越してもったいないとは思った。久しぶりにあの役者この役者が観られてうれしいなかで、車椅子の役は大塚洋でいいのかな、自然に思えていた青年団の演技も全力で演技していたんだと改めて思わされるような不思議な発声だった。

たくさん伏線を張って、最後には3つある部屋それぞれの「相談」の結果を見せないで終わるのは今までより乱暴だけど、先のわからない終わり方というのがこの芝居に向いているし、世の中の方向が見えない今っぽい。俺は誰の最後も見届けられなかった、って惑星ピスタチオの「ナイフ」を思い出した。現代の一面を確実に切取った名作。

2016年5月28日 (土)

DULL-COLORED POP「演劇」王子小劇場(若干ネタバレあり)

<2016年5月25日(水)夜>

「僕」は卒業式間近の小学生。友達と遊びながら卒業式になんて出ないと言い合っている。夜中の外出中に、車椅子の少女と出会い、恋をする。一方、卒業式間近の学校。卒業間近の生徒が合唱の練習をしている最中、職員室では教師たちが相談を繰返す。自殺未遂を起こした生徒の親から連日問詰められており、本日の対応を協議していると、現れた父親がこれまでの非礼を詫びて「娘を卒業式に出席させたい」と教師に懇願する。

活動休止前の最終公演のうち長編のほう。タイトルにいろいろ重ねて、最終公演にふさわしい内容と、この規模の劇場らしからぬ仕上がりの高さに。無理やり観に行ってよかった。

人生は演劇でありそれぞれが誰かにとって主役であり脇役である(雑)、というシェイクスピアのような台詞をおもいっきりダイレクトに説明する場面を前振に、小劇場らしい「僕」の場面と硬派なストレートプレイの学校の場面という表看板を展開。最終公演に参加を希望しつつも体調不良でひとりだけ降板した劇団員という自分たちの劇団を想像させるような設定に、立場上演技せざるを得ない教師と保護者という演劇的な演劇を込めて、それぞれ自分の人生の新しい局面を新しい演劇として始めていくことをタイトルコールでメタ演劇で表現。「演劇」について多分ほかにもいろいろ入っている。

これだけいろいろな要素を入れつつも、表看板のストーリーが骨太でそれだけで堪能できる脚本。特に卒業式に出席させるかどうかを最終決定するクライマックスは、登場人物の誰もが役を演じて自分の望まない発言をしているのではないか、あの登場人物がそう発言するに至った背景は何か、について考えさせられる、ものすごく上手に観る側の想像力を促してくれる名場面。

最後に「僕」と教師が会話する場面はあまり明らかにされていなかったけど、「僕」の場面のいろいろからして、小劇場的には「僕があなたの若い頃」「わかったかい、俺」みたいな裏設定を思い浮かべた。これが上手く処理できるようなら映像化できないかこの脚本。映像にとても向いている予感がする。

劇団員は父親役の大原研二を筆頭に熱演揃いだったけど、客演陣がそれに負けず劣らず好演。特に井上裕朗の学園主任役と井上みなみ(日替ゲスト)の少女役は、よくできた小劇場芝居でよく見かける好演よりも振切りが大きくて、新鮮だった。

2016年5月27日 (金)

イキウメ「太陽」シアタートラム(若干ネタばれあり)

<2016年5月18日(水)夜>

地球規模のバイオテロに遭った人類は、その細菌に適合した人種を生み出した。肉体は歳を取らず、力は強く、思考は明晰になるが、太陽の光を浴びると耐えられずに死んでしまう。彼ら/彼女らはノックスと称し夜に活動し、被害に遭わずそれまでどおりだった旧人類をキュリオと呼ぶ。旧人類からノックスになる方法が確立されたため、一大経済圏を構築したノックスが、反抗した旧人類の村を経済封鎖して10年目。ようやく経済封鎖は解除されたが、人口は10分の1にまで激減。そこに元住人で、今はノックスとなった男が訪問するところから話は始まる。

映画にもなって、同時上演企画の再演モノ。劇団員は絶好調で、ゲストもハマって、劇団の好調さをうかがわせる芝居だったけど、観ているこちらが受止めきれずに消化不良気味。

明晰な言語コミュニケーションを好んで力も強くて経済も繁栄しているけど、ノックス同士のセックスで子供が出来る確率は非常に低くて、旧人類からの養子をノックスにすることで人口を維持しているあたりは、グローバル化の影響を受けて二極化しながら人口が減っている日本で、それが太陽を浴びると死ぬのは原発事故の比喩で、いろいろ批判したい精神があるとは思うけど、それがクリアすぎて、観ていてあたった。もう少しノイズがほしい。

それでいて旧人類もあまり救いはなくて、役者は絶好調だけど、思い入れできる登場人物とそうでない登場人物とがはっきり分かれすぎ。それがあのラストを引きたてるのはわかるのだけど、もう少し、感情移入が進むようなそれぞれの正義が用意されていてもよかった。そんな中で、村の見張りを勤めるノックスとそこに通う村の青年とで、お互い隣の芝生が青い状態で意見がぶつかる場面は見所のひとつ。

これだけ文句を書いておきながら次も観るとは思うけど、脚本演出も役者も売れすぎて次が来年というのがつらい。外部の仕事の経験が実力を上げるのに役立っているのはわかるけど、この調子が続いているうちにもう少し多く劇団芝居をやってほしい。それが贅沢だというなら、せめて年1回の公演は維持して解散はしないでほしい。お願いします。

Bunkamura主催/キューブ企画製作「8月の家族たち」Bunkamuraシアターコクーン

<2016年5月18日(水)昼>

アメリカの田舎町。病気を抱えて薬物中毒の妻と酒浸りの夫。離婚して実家に戻った次女が面倒を看ているが、限界のため夫が住みこみの看護兼家事手伝を雇う。その数日後に夫が行方不明になり、妻の妹と長女が様子を見に来るが、薬物中毒がひどくて妻は要領を得ない。やがて悲報が届き、三女を含めた親類一同がこの家に集まる。

ブラックコメディ仕立てとの触込みだけど、これだけ問題があれば登場人物のどこかには身につまされるものがあるだろう、というくらい問題を抱えた登場人物たちによる三幕物で。このくらいコメディ仕立てにしてようやく消化できるくらいで、個人的には少ししか笑えない重い脚本。問題が順番に明るみになっていくあたり、そこまできれいに展開しないでもいいのにと思うけど、それぞれに言い分があって観客が揺らされてしまうあたりがよい脚本の証拠。あの乾いたエンディングは、なかなか日本の脚本ではお目にかかれない。

それぞれ見せ場のある役だけど、役者陣が豪華すぎて、夫役の村井國夫が冒頭5分(と2幕目の頭に少し)しか出てこないという贅沢ぶり。その中でも、やっぱり妻役の主人公の麻美れいが、こんな怪しい演技もできる人なのかと新発見。娘たちに失望する理由を述べるくだりの迫力と説得力は、選ばれた女優だけがこなせる領域。そこに真っ向からぶつかる長女の秋山奈津子が拮抗した場面の手に汗を握る緊張感、を観ると、次女の常盤貴子と三女の音月桂はもっとエネルギーを備えてほしい。生瀬勝久の事態に善処する様子と橋本さとしの怪しさは、はまっていたけどイメージ通り(失礼)なので、逆で演じてほしかった。

2016年4月19日 (火)

ハイバイ「おとこたち」東京芸術劇場シアターイースト

<2016年4月14日(木)夜>

学生時代からの男友達4人組。彼らの最後の一人が卒業して全員が働き出してから、80歳を過ぎた晩年に至るまでの人生のイベントで綴る。

初演から2年経たずしての再演。男のダメな部分のうち、特に人間関係をこじらせるダメな典型例を4人に体現させてその行末を見届ける話。事前の予想通りの面白さだったけど、駄目が高じた先にあるものが見えてくるにつれて、あれだけ大量のネタ投入されているにも関わらず笑えなくなるという冷汗モノ。

カラオケで始まりカラオケにつきるオチは見事の一言だけど、この脚本家ならその出来には驚かない。それよりも、抽象化された舞台にわずかな映像でテンポよく転がしていく演出とか、それをこなしてもまったく大変さを感じさせない役者陣とか、観ているときはまったく気がつかなかったけど、後から考えるとひょっとしてものすごい高度なことをやっていたのではないか。何が高度だったのかまったくわからないけど、そこが気になるというか。

人生どこでそっちに転げるか分かったものではないと考えながら観ていると顔が引きつってくるけど、あれは女の側から見たらうんうんうんうんそうそうそうそう、くらいなものなんだろうか。引きつるようになってから観てもいいけど、これを中学生男子くらいのときに観たらどんな感想を持ったかな。

これから全国ツアーなので、観られるものならぜひお勧めしたい。

2016年4月18日 (月)

劇団民藝「二人だけの芝居」東京芸術劇場シアターウエスト(ネタばれあり)

<2016年4月14日(木)昼>

公演で赤字を出したために巡業公演中の劇団。主宰者兼男優の弟と女優の姉とが狂っているとして見限った劇団員は、有金を持ってロンドンに帰ってしまう。今さら公演をキャンセルもできない弟は、残った大道具係に舞台美術だけ組んでもらい、渋る姉を説得して2人だけで出来る演目を再演する。父が母を殺して自分も自殺した事件のために近所から迫害され、自宅から出られない姉弟の会話劇が開演する。

テネシー・ウィリアムズの日本初演作というけど、ちょっと難しくて、こなれていなかった。では何が悪いと聞かれるとそれがよくわからないので、思ったことを挙げてみる。

・姉弟の役のキャスティングとして、奈良岡朋子と岡本健一はちょっと年が離れすぎていた。どれだけ声色を作っても声年齢が離れていてつらい。せめて見た目だけでも岡本健一をもっと年上にできなかったものか。

・劇場に残された2人と、劇中劇と、実際の観客を劇中劇の観客に見立てるのと、3つの場面設定というか関係を混ぜながらそれぞれの内容をリンクさせて進めていくのが脚本の構成のはず。終盤になって内容がリンクしていくのはいいのだけど、それは今どの場面設定かが明確になってこそ生きてくること。今回は場面の切替にメリハリがなくて、誤解はしないのだけど、観ていて不完全燃焼な気分になった。

・いろいろ声の調子は変えていたけれど、結構同じテンポで会話が続いていた。あと、姉が言いたくない台詞を飛ばすために弟に指示したり、客席の態度を指摘したりするところは、劇中劇っぽくない声だった。これも場面の切替のメリハリのなさにつながっている。

「やがてリハーサルはのっぴきならない真実をあぶりだしていく」ってチラシやサイトの粗筋に書いてあるけど、観客を劇中劇の観客に見立てる台詞から、あの劇中劇はリハーサルではなく本番だったと考える。ただ、酔っ払っているという設定とはいえ、劇中劇の姉の声をあれだけ露骨な調子にしていたところからすると、翻訳もした演出家は、劇中劇に見えた場面は狂ったいない観客もいるように想像してしまった姉弟のリハーサルだと判断したのかも。

でも、劇中劇(またはリハーサル)の場面で姉に飛ばされた、なぜ父が母を殺したかの詳細が、最後の場面で寒さを紛らわすために稽古するときにそれっぽい理由が示唆されて、それと同時に劇中劇(またはリハーサル)の内容が姉弟のある程度の過去を反映していて、ひょっとして逃げた劇団員が正しくて本当に2人は狂っているのかも、って思わせるところがこの脚本の見せ所なのは確実だと信じている。それにしてはそこに至るまで、結構乱暴に展開していた。

試行錯誤する時間が足りなかったのかもしれないし、脚本自体が実はつまらないものだった可能性もある。けど、芝居全体の構成についてすら芝居と自分との間に合意ができなかった結果を考えると、翻訳兼演出家がどういう理解で演出したのかは訊いてみたい。

2016年3月17日 (木)

M&Oplaysプロデュース「家庭内失踪」下北沢本多劇場

<2016年3月11日(金)夜>

定年の男と、再婚した年下の妻。二人暮らしの家に、前妻との間の娘が戻ってくる。夫が気に入らないための別居だという。夫は会社の部下を週末ごとに様子見によこして、今では一家が夕食の用意を考えるくらい来るのが当たり前になっているが、本人は一向に来ない。

初日観劇。「蒲団と達磨」の後日談、らしいが、これだけ単発で観ても大丈夫。台詞と真意との乖離が激しいのはいつもの岩松了脚本だけど、そこをいつもより匂わす親切演出。妻への好意がこじれて不信な行動に出る夫たちに対して、そんなことは百も承知であきれているが表面上は合せている妻たちとのすれ違いを何組も描いて、タイトルに相応しい怪しさ満載。登場しない人物を使って話の奥行きを見せるあたりは安定の脚本術。

部下を誘惑する再婚妻を演じる小泉今日子も、出戻った小野ゆり子も色っぽくて、出てくる女優みんなをいつもどうやって色っぽくさせるのか、岩松了に訊いてみたい。その分男性陣は情けない役ばかり。その中でも本当に失踪して見せた不審な男を演じる岩松了は楽しそう。ただ、登場人物全員が何かしら情けない人たちのはずだけど、風間杜夫と小泉今日子の2人はもともと貫禄がありすぎて、その分だけ芝居が立派になりすぎた感もあり。贅沢な悩み。

「蒲団と達磨」よりもさらに間接的な芝居で展開するので、派手でスカッとする芝居を求めている人には向かないけれど、このくらいネチネチして観客に積極的に想像力を要求する芝居は珍しいし、それで質が高いものはさらに貴重なので、ぜひ挑戦してみては如何。

2016年2月11日 (木)

野田地図「逆鱗」東京芸術劇場プレイハウス(若干ネタばれあり)

<2016年2月10日(水)夜>

日本の海岸にある海中水族館。イルカのショーが名物だったが、人魚研究者である館長の娘の肝煎りで新たな目玉として人魚ショーの導入が進められる。海中に設けた大きな専用の水槽に、水族館の下に沈んでいる古代遺跡からダイバーたちが人魚を連れてくる計画。このショーの訓練中におぼれたダイバーが夢の中で人魚と出会う。一方、娘の研究を信じていない館長は人魚役のオーディションを開催するが、そこに自分は人魚と言い張る女性が応募してくる。彼女はダイバーが夢の中で会った人魚と同じ女性だった。

粗筋を書いていると一昔前のアングラ芝居と見間違えるけど、「キル」とか「パンドラの鐘」とか、あのくらいの時期の言葉遊びや複数世界の往来がとびかう、いわゆる野田秀樹っぽさが満載の芝居。だけど後半は最近の野田秀樹。そのギャップがものすごく大きいのにぴたりと合わさって、壮大な展開になった。後半で取上げていた内容が最近の自分の興味にハマったこともあり、観終わった後に全力で拍手した。

野田秀樹の芝居に満足するときは役者が少しやり過ぎなくらい前に出てくるところを演出で上手にまとめて仕上げている印象が多かった。だけど今回はこれだけ有名どころを集めたのにアンサンブルというか、池田成志や阿部サダヲがどれだけ前に出てきても、脚本の世界観を豊かにするだけになるという不思議な感覚だった。ちなみに後半の阿部サダヲは多分今まで観た中で一番献身的な演技。

唯一目立っていたのが人魚役の松たか子で、主役なだけに強い台詞や詩的な台詞が他より集まっていたけど、その強さに負けない台詞回しで芝居を牽引して、主役を張る役者はかくあるべしというのを体現していた。野田秀樹といえば最後は主役の長台詞と思っていたら、今回それはそれは美しい詩を冒頭に持ってきて、ラストは比較的短く締めていた。そのラストの松たか子の「声」が短さを気にさせない声で、演出のすべてがそこに集約するような声だった。

あと今回はコロスが美しくて、体がよく動いてぴたっと止まれるメンバーが揃っているのに加えて、振付の井出茂太、衣装のひびのこずえと、美装の柘植伊佐夫あたりが決まった感がある。人魚の衣装に限らず他の出演者の分も含めて、あの衣装はよかった。

チラシにもサイトにも「全公演、当日券を販売します!!」と明記していて、当日券も立見込みで平日夜で50枚くらいは出ている模様なので、ここは挑戦してほしい。休憩無し2時間15分だけど、立見だとぐっとチケット代は安くなるので、体力のある人はそちらを狙うのもあり。素舞台に近い美術だから、役者が後ろ向きになってしまうことはあるけど、見切れらしい見切れはないので、買えるならどの場所でもいいから買っておくのが吉。センターが当然いいのだけど、左右で選ぶことになるなら下手のほうが親切。

2016年1月29日 (金)

ハイバイ「夫婦」東京芸術劇場シアターイースト

<2016年1月28日(木)夜>

職場では手術の名手で関係者の面倒見もよい名医。家では酔って妻や子供に暴力を振るう独裁者。病気で入院するも術後の経過が思わしくなく亡くなった父と、横暴に耐えて連れ添った母の話。

再演と再々演を観た「」の続編にあたるもので、脚本演出である岩井秀人の父の話。再々演の「て」に続いて父役の猪俣俊明と兄役の平原テツと、前回よかった役者2人が同じ役でキャスティングされているため、ちょうどよい続編感を感じられる。そして母役の山内圭哉が、動きで多少笑いを取りに来たけど台詞は真面目で通していたのが、台詞とのギャップがあってそのほうがむしろ面白かったとはいえ、非常に新鮮。岩井本人役には「て」の母役からコンバートされた菅原永二だけど、次女は今回登場しない。何かあったのかな。

観ていて受けた印象は、公正であろうとする努力。どこまで話が本当かわからないけど、「て」がほぼ実話らしいのでこれもほぼ実話だとすると、殺してやりたいくらい憎んでいる家族の立場から、でもさすがにこれは取上げざるを得ないと思わせるよい面のエピソードを織り交ぜて、適切な按配。狙いしましたラストも含めて、少なくとも芝居として上演するにはよいバランスで、公正な印象は最後まで保たれた。ちなみに前回は葬儀関係で不審なネタが満載だったけど、今回は医療関係で不審なネタが満載で、事実なら医療過誤じゃないかこれは。

病気の話が出てくるので観た回の客席は深刻気味だったけど、笑える場面ももちろんあるので、「て」を観た人も観ていない人も楽しめる。当日券は毎公演発売するようなので、何を観るか迷っている人はぜひどうぞ。あと小ネタとして、「て」を観た人は開演前の曲にも注目。