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2016年12月30日 (金)

2016年下半期決算

恒例の年末決算です。

(1)Bunkamura企画製作「ゴーゴーボーイズ ゴーゴーヘブン」@Bunkamuraシアターコクーン

(2)On7「ま○この話~あるいはヴァギナ・モノローグス~」@神奈川芸術劇場大スタジオ

(3)パルコ企画製作「母と惑星について、および自転する女たちの記録」@PARCO劇場

(4)パルコ企画製作「ラヴ・レターズ」@PARCO劇場

(5)葛河思潮社「浮標」神奈川芸術劇場大スタジオ

(6)世田谷パブリックシアター/エッチビイ企画制作「遠野物語」世田谷パブリックシアター

(7)劇団チョコレートケーキ「治天ノ君」シアタートラム

(8)新国立劇場演劇研修所「ロミオとジュリエット」新国立劇場小劇場

(9)KERA・MAP「キネマと恋人」シアタートラム

(10)(11)新国立劇場主催「ヘンリー四世(第一部、第二部)」新国立劇場中劇場

(12)シス・カンパニー企画製作「エノケソ一代記」世田谷パブリックシアター

以上12本(ヘンリー四世は別々でカウント)、隠し観劇はなし、チケットはすべて公式ルートで購入した結果

  • チケット総額は77040円
  • 1本当たりの単価は6420円

となりました。上半期の11本とあわせると

  • チケット総額は150040円
  • 1本あたりの単価は6523円

です。小劇場から始めてプロデュース公演になった人たちに偏ったラインアップなのは、新規開拓する余裕がなかったからです。そしてプロデュース公演は高い。けど他の予定を優先した時期もあれば都合で観られない時期もある。ならば空いた時間を金で叩くしかないと割切って、上半期よりさらに単価が上がるのはしょうがないと諦めました。意地になって芝居見物を続けているような面もあってこれだけ観ましたが、普通の人はこうなったら芝居の優先順位を下げてそのまま遠ざかっていくんだろうと実感しています。

そして偏ったラインナップの中でも上半期に比べると仕上りにばらつきが多く、こちらの体調不良もあいまって、後半失速気味でした。素直に満足した芝居Aと、不満はあっても最終的には満足した芝居Bと、面白かったけどどこか不満の残る芝居Cの3パターンあって、芝居Bと芝居Cが多かった。数少ない芝居Aは(2)(5)(6)、次点で(4)(10)(11)です。何度も上演された脚本の芝居が多いです。1本だけ選ぶなら(5)。(7)(9)の評判がいいのですけど、自分には芝居Cでした。こんなに自分の感想と世間の評判とがずれるとは思いませんでした。別にずれてもいいのですが、(7)はともかく(9)はこちらの体調以上の理由が突き止められないのが情けないです。

でも通年で一番は上半期の野田地図の「逆鱗」です。あの、雑魚が一番具体的に詳しくてトップは目標も具体的情報も持っていなくて、その情報格差を認められないばかりにトップが適当な判断を出して、その矛盾が下にくる話は今も普通に見かける光景で、私がいろいろ疑問に思っている内容のひとつ。日本社会のよくないところのひとつをあれだけ上手に描いたのは素晴らしい。

下半期のニュースはPARCO劇場が立替のため閉館したこと。思い返せば(3)はやっぱりPARCO PART1-3とセゾンまたは堤清二を模した芝居ですよね。あと、さいたま芸術劇場の蜷川幸雄の後任は予想を外して吉田鋼太郎に決まりましたが、後を追うように平幹二郎がなくなったこと。ある時代で育った世代が確実に亡くなっています。それに出演者インフルエンザによる公演期間中短期上演中止。(9)は当初観に行こうとした日がそれに当たって急遽予定変更しましたが、別のスケジュールにしわ寄せが来ました。他に神奈川芸術劇場の「ルーツ」も、ここなら観られたという日が上演中止に当たって、結局見送りになりました。両方とも公立劇場プロデュースだからできたのかもしれませんが、興行収入直撃を覚悟して上演中止にした制作側の判断は正しいので支持します。が、やはり役者は体が資本なので、公演期間中の体調はぜひとも万全に整えてほしいです。体力が落ちている私にとっては勝手なお願いになりますけど。

キーワードは体力です。2017年は体を鍛えて体力を取戻さないといけない。2016年から4-5年は、後で振返れば教科書に載るくらい時代が動いた年になります。そこを過ごすためにはまず体力。体力がないと芝居も観られない。芝居を楽しめないレベルではなく、そもそも劇場まで行けません。実際に体力切れで見送った芝居が何本かありました。体力が落ちると心も弱って、心が弱ると新しいものへの興味がなくなるどころか拒否反応が出たり、より弱いものへのはけ口を探すようになってしまいます。そこは自分で注意を払わないといけません。そうやって鍛えた体力で観た芝居から、どこまで多様性についての興味と寛容の心を養えるか。今の私に多少なりとも寛容の心があるとすれば、その一部には長年観てきた芝居から受けた影響が間違いなくあります。そんな説教臭い心構えで観たって芝居はつまらないので実際にはただ観に行くだけですが、それを途切れさせるのはもったいない。

そして芝居には、時代に負けない強さ厚さを備えることを期待します。事実は小説より奇なりを地で行くような時代に、繊細すぎる芝居やその場のノリでふざけるような芝居は、観なければよかった気分になります。別に繊細さやノリが悪いのではなくて、それがどれだけのいろいろな蓄積に裏打ちされているか、です。劇団全盛期だと劇団内の活動が一種それを裏打ちしたのでしょうし、蜷川幸雄くらい頻繁に仕事をしていれば少なくともスタックワークに隙はなかったでしょうけど、プロデュース公演ではどうしても脚本、演出、役者という基本構成要素に、その中でも直接客席と接する役者個人個人に求められる比重が高くなります。最近のテレビドラマは視聴率が悪い場合はすべてが出演者の責任にされるので主役を演じる役者のプレッシャーがきついという話をどこかで読みました。裏打ちを作るのに一番必要な「時間」が絶対的に足りない世界では、残念ながらそういう構造になってしまいます。舞台の場合、劇団が最適解なのかどうかは意見が分かれますが、何らかの工夫で乗りきってほしいです。

話がいろいろ飛びましたが今回はこのくらいで。気になる芝居を観るには30本でも足りないのはここ数年の経験で確定になりました。去年の見込み通り、今年は観劇頻度も更新頻度も低調になってしまい、来年もこの傾向は続く予想です。それでも毎年2桁本数は芝居を観続けるつもりなので、引続き細く長くのお付合いをよろしくお願いします。

シス・カンパニー企画製作「エノケソ一代記」世田谷パブリックシアター

<2016年12月23日(昼)>

喜劇役者榎本健一ことエノケン、にあこがれてエノケ「ソ」として一座で巡業生活を送る男。座員は妻、相手役兼スタッフ一切の男、脚本家兼マネージャ一切の男、の4人だけ。興行元の誤解や妥協に付けこんでの巡業なのでトラブルも多いがあの手この手で乗りきっていく。しかし本物のエノケンに問題が起きたら偽者はどうするべきか・・・。

どんなものだろうと観に行って、普通に観ればよくできているけど不満の残る出来。期待していたハードルはもっと高い。

満足したのはなんといっても吉田羊。脚本に魂を吹きこんで確実に芝居を一段上に上げていた。笑いをきっちりとって、偽者の夫を支える妻役の座中の立場もきっちり見せて、その分ラストで涙を誘う。カーテンコールの拍手の半分は吉田羊向け。脚本もおいしかったかもしれなけど、それ以上に仕上げていた。浅野和之と春海四方もいい感じ。浅野和之は「まともなヤツと付きあうのはもう飽きた」って台詞(聞きようによっては肝の台詞)で一部の客が吹いたのにつられて、一瞬詰まっていた。名手浅野和之の珍しいとちり。

あと、今回は3階サイドの席で観たのだけど、舞台がセンターに固めてあって、見切れが全然なかった(上手の端だと2場の黒板だけ見えなかったかも)。結構広い劇場なので目一杯使いたくなるところ、コンパクトに抑えてしかも小さく感じさせないのは親切かつ見事。

不満は3つあって、ひとつは猿之助。1月に観たのと同じ役者とは思えないオーラのなさで、脚本に書かれていることは全部やるけど書かれていないことは一切やらない、みたいな演技だった。偽者のオーラのなさまで演じたのかもしれないけど、それはそれとして、観客を揺さぶってほしい。あれじゃエンノスケじゃなくてエンノケソ。劇中でも芝居でも吉田羊に頼りっぱなしなのはどうなんだ。

あと脚本。よくできていたけど、巡業プラスアルファの5場を、ナレーションで繋ぐのは物足りない。場面が変わったときにそれがどういう場面かをいかに上手に伝えるかは脚本の技術であり、その情報を受取りながら芝居にのめりこんでいくのは観客の醍醐味だけど、そこはぜんぶ飛ばされていた。大河ドラマのナレーションが評判になっていたのに味を占めたのか。1時間50分という近年稀に見る短時間に収まったのはありがたいけど、あと15分延ばしてもいいからナレーションなしで挑んでほしい。

で、不満の最後が役者三谷幸喜。一般に観ればあれだけできれば上手だけど、残念ながら三谷幸喜芝居のレベルに達していなかった。チョイ役とか、インフルエンザの役者の代役とかだったらご愛嬌だけど、3場の相手役としてフル出演していたのはいただけない。このチケット代の芝居には見合わないし、あれでOKでは猿之助の演技に駄目だしできない。今後は出演するにしても控え目にしてほしい。

2016年12月20日 (火)

新国立劇場主催「ヘンリー四世(第一部、第二部)」新国立劇場中劇場

<2016年12月15日(木)昼・夜>

先王を廃して王位についたヘンリー四世。その際に協力しあった領主一族とも晩年には揉めて、その領主一族から謀反を企てられる。王はごろつきと付きあって放蕩している長男も呼び戻して戦い、勝利し、やがてその長男がヘンリー五世を継ぐまでの物語。

あまり評判が上がって来ないので心配しつつ、「ヘンリー六世」を観たからにはこれも観たいので通しで観劇。結果、かなりよかった。シェークスピア芝居を抑えておきたい人にはぜひお勧めしたい。

最初は長男がヘッドホンして衣装がスカジャンだったり、音楽がクイーンだったりして、うわーこれどうしようと思ったのだけど、観ているうちに違和感もなくなったし、他はごく王道のスタッフワークと演出だった。そうすると、王位を巡る両一族の対立がきれいにわかって、入り込めた。それでもややこしいのだけど、ロビーに人物関係を描いたパネルが展示されていたのが理解に一役買っていたので、始まる前に、せめて休憩時間にでもいいから眺めておくべき。

そのややこしい話を違和感なく観られたのは役者の実力の賜物。シェイクスピアは日本になじみのない舞台に昔ながらのくどい台詞がつきものでハードルが高いのだけど、あの台詞を特にひっかかることなく聞けるのは幸せな座組だと最近気がついた。

その中でも特筆モノなのがごろつきのフォールスタッフを演じた佐藤B作。強盗を働き、酒におぼれて女と金にだらしなく、ケチで見栄っ張りで、強きにへつらい弱きを挫き、うるさい声で呼吸をするように嘘をつくのだけど、必至さと愛嬌とで何とか日々を過ごしていく憎めない奴。こう言っては失礼だけど、役者佐藤B作に対してもっている、うるさそうな人とかケチそうな人とかうっとおしそうな人とか、そういう偏見全部を引受けてなおかつ憎めない役に仕上がっていた。間違いなくはまり役で、60歳を大幅に超えてこんな役に出会えるなんて幸運な人だし、それを観られた自分も幸運だった。キャスティングした人の慧眼に敬意を表する。

実は人物関係のパネルを読んでも半分くらい配役が理解できなかったのだけど、他の人もまあ実力十分だった。他に一人だけ、那須佐代子を挙げておく。第一部はほとんど出番がなかったけど、でも酒場の場面で出てきて一言二言話しただけで目が向いた。その分第二部でははっちゃけた役を披露していた。

他にスタッフワーク2つ。ひとつは舞台美術で、奥に傾斜がついた殺風景な床に木組みで3階立ての仕切り。途中で小道具の当たった垂木が1本飛ぶ始末で、よほど金がないのかとおもっていた。けど終盤、ヘンリー四世が病に伏してヘンリー五世と話す、街頭のようなオレンジの照明が当たる場面。立派なように見えても王政なんてぼろぼろの体制で、何かあったら簡単に崩れるものだって印象が強く伝わった。もうひとつはロビーに貼ってあった現在までのイギリスの王朝の系図。シェイクスピアの題材になった王に色がついて、ヘンリー四世で王朝が変わって、その後ヘンリー六世やリチャード三世につながるイメージがよく伝わって、理解の助けになった。1枚でとても勉強になるので、この系図が載っていたらパンフレットを買おうと思ったのだけど、見本を読んでも載っていないんだこれが。次にシェイクスピアの王朝ものをやるときにはぜひ載せてほしい。

正直言うと、王位を巡る争いとごろつきたちの場面とのバランスがよいは第一部に比べて、第二部は出世したフォールスタッフが目立ちすぎてバランスが悪い。たぶんシェークスピアは第一部だけのつもりで書いたら、芝居もいいしフォールスタッフもいいしで思わぬ人気が出て、フォールスタッフが多めに出るように第二部を書いたんじゃないだろうか。でもそういうことまで考えさせるほど、脚本をよく反映した仕上がりだった。「ヘンリー六世」の他に「リア王」や「十二夜」も観ているけど、鵜山仁のシェイクスピアはよい。

で、これだけ満足した芝居なのだけど、座席がすかすか。2階はよく見なかったけど、7割切っていたんじゃないのか。平日なのを差引いてもひどい。開演が12時と17時半だったのは、通しで観た自分にはありがたかった。けど、休憩込みで第一部が3時間、第二部が3時間20分なら、勤め人も少しは取り込む狙いでせめて13時18時にしたほうがよかったのではないか。公演日程を見ると今後の参考のためか、平日は試行錯誤の跡がうかがわれる。ただこれを書いている今日と明日が18時半でそれぞれ第一部と第二部、チケットはまだ余裕なので当日券でも問題なし、なんなら千秋楽もまだチケット買えるので、とりあえず第一部だけでも如何。

2016年12月 6日 (火)

KERA・MAP「キネマと恋人」シアタートラム

<2016年12月1日(木)夜>

昭和初期。勤め先の工場が倒産して失業し酒とギャンブルと浮気におぼれて暴力を振るう夫を持つ女は勤め先に内職を掛け持ちして家計を支える。そんな女の唯一の趣味は映画鑑賞。東京から遠く離れた離島の町に1件しかない映画館では東京から6ヶ月遅れの映画が上映されるが、それも毎日観に来る。ある日、上演中の時代劇を観ていると、映像の中から登場人物に話しかけられる。やがて映像から飛び出してきて映画館が混乱すると、その隙に登場人物は女を連れて脱走する。折りしも、その時代劇の続編を撮影するために、役者陣がその島にロケに来ている。

元ネタは「カイロと紫のバラ」という映画だと公言しているけど、未見のためどこまで元ネタに近いかは不明。観終わってみれば、映画の登場人物に主人公の女に妹の話も絡めて、実によく出来たプロットの王道な展開。舞台内映画の映像やプロジェクションマッピングを贅沢に使う割にはアナログな手段も駆使して、それ自体も含めて笑いにするような仕上げ。

周辺の話も存分にネタを仕込んであり、それなりに楽しんだのに、どこか釈然としない。昔の喜劇の知識がないのでそこのネタが分からなかったからなのか、あんな扱いをされておとなしくしている女に緒川たまきが見えなかったからなのか、映像の登場人物が主人公にほれる理由が不明だからなのか、そこに説得力を持たせられなかった妻夫木聡が悪いのか、映像のテンポと舞台演出のテンポが合っていなかったのか、たまたまテンポがずれた回を観てしまったのか、いろいろ可能性を考えるけど、どれも可能性として間違っている気がする。

観ていて、これと間逆のラストを期待していた自分に気がついたので、たぶん自分が疲れていたのが一番の原因だと思う。主人公の幸福感は伝わってきたけど、それを自分の元気に転化しきれなかった。うーん。

それ以外だと、インフルエンザで中止の回があったのも困ったけど、19時開始で3時間20分だとちょっと交通事情も厳しくて。蜷川幸雄がBunkamuraの駐車場が閉まるより長く上演する公演が昔あったけど、それは考えてほしい。KERA芝居で上演時間が長いのは覚悟の上だけど、終了時間まで真似ないでほしい。14時19時を13時18時半の繰上開始にできなかったものか。

2016年11月13日 (日)

新国立劇場演劇研修所「ロミオとジュリエット」新国立劇場小劇場

<2016年11月12日(土)夜>

2つの名家が反目を続けて勢力が二分されている街、ヴェローナ。一方のモンタギュー家の御曹司であるロミオは恋に破れたばかり。いたずら好きの友人にそそのかされて、もう一方のキャピュレット家が主催する仮面舞踏会に潜り込む。そこでキャピュレット家の一粒種の娘、ジュリエットと出会う。

一度はどこかで観たはずで、観終わって筋を思い出した。結構期待していたのだけど、窮屈な演技で終わってしまった。これでは合格点はおろか及第点にも届かない。研修所の上演とはいえ、やりたくったってやれないシェイクスピアの、そのまた王道の1本に主要な役で参加できる貴重な機会だったはずだけど、残念。周辺役でちょっといい感じと思ったのは後で確認したら全員卒業生だった。

がんばっているのはわかるけど完全に台詞に負けていて、まっすぐこちらに届く台詞がほとんどなかった。「ロミオとジュリエットは結構恥ずかしい台詞。日本人のメンタリティでは言えない。」って言葉が今になってようやく実感できた。これは難しい脚本。上手にやるかどうかより、ほとばしるエネルギーで芝居をねじ伏せるのが先に必要だけど、エネルギーが足りない。とりあえず大声出しとけって言ったのは野田秀樹だったか。

最後の場面、アメリカ大統領選だけでなく日本を含めた世界中が似たような状況になっているので、そういう意図も込めて脚本選んだのかな。そうすると、世界をねじ伏せるような愛を見せつけてくれないといけない。ますます難しい脚本。

2016年11月 6日 (日)

劇団チョコレートケーキ「治天ノ君」シアタートラム(若干ネタバレあり)

<2016年11月3日(木)夜>

病気のために執政の期間が短かった大正天皇。父である明治天皇や息子である昭和天皇との不和に悩みながらも全力で生きた生涯のうち、皇太子時代に婚約してから亡くなるまでを、貞明皇后が振返る。

少年期は父から叱責を受け、晩年は摂政の立場を巡って息子と対立。重い話の枝葉を落としてまとめて、一見よくできた芝居だったけど、個人的には合わなかった。

先に良いところを挙げておくと、役者はとてもよい。威厳のある天皇から食えない政治家まで、全体に雰囲気を揃えて宮中のトーンを作っていた。あと狙った配役なのか、皇族役に美声の持主が多くて、それがここ一番の場面を盛上げるのに一役かっていた。その点は観て後悔はない。

もったいなかったのは舞台美術と役者の出入り。玉座から伸びる赤絨毯を置いてしまったために、絨毯をまたいで部屋を移動する場面が多数出た。あれは色に拘らず照明で必要に応じてあらわした方がよかった。あと絨毯の話も関係するけど、役者が舞台から出たり入ったりする位置と部屋の関係が全然頭に入らなくて最後まで場所への想像力が追いつかなかった。あれは何かを意図してわざとやっているのか。だとしても意図がわからない。

個人的に合わなかったのは、扱っている歴史の認識が合わなかったのがひとつ。明治天皇と明治時代が威厳があって、明治への復古を目指した体制が昭和の悪さを構築していった、という流れだけど、そうかなあ。明治天皇と明治時代は偉大ではあるけど本来もっとおおらかだったのを、後付けで威厳があったと昭和時代に構築したんじゃないかな。神棚という台詞はあったけど、明治天皇に現人神という単語を使わせているから、前者のように受取れた。これは趣味の違い。

歴史の扱い方に疑問があったのがもうひとつ。当日パンフで「この物語は歴史的事実を参考にしたフィクションです」と書かれているけど、それにしては全体を大真面目に作りすぎている。それでいてどこか薄い。設定だけ借りてハチャメチャな芝居にすることは望まなかっただろうけど、事実を押さえて不明なところを埋めたという感じもしない。大正天皇をモデルにした話に専念すればよかっただろうけど君が代まで流してしまったし。

前回もそうだったけど、登場人物がほとんどすべての状況と心情を台詞で説明している。逆に、登場しない人物や外部の状況を伝えるような情報はほとんどない。ただし今回はその説明台詞だらけでバランスが一応成立している。なぜかと言えば、観ているこちら側が必ず何かしらの歴史情報を持っているから、背景を知識で想像できる。その代り、各人の歴史情報に依存するので想像の背景はばらつく弱点があるし、そこに疑問が生じると話が成立しない。この脚本を架空の国の王3代の物語に置きかえたらスカスカになる。だから一応成立していると書いたけど、実は適切なバランスではない。だったらもっと歴史的事実で観客の想像力を方向付けするような脚本にすることが望ましいけど、そうなっていない。そこをフィクションで済ませるのは、重い歴史を扱った割には軽い扱いではないか。なにより、宣伝チラシに引用していた渡辺保の劇評で

「治天の君」は衝撃的な舞台であった。私たちの体験した戦争がどのようにして決定されたかが鮮明に描かれていたからである。

とまで書かれた劇評を引用するからには、フィクションでないと描けない真実があるという意見には賛成するけど、今回についてはフィクションで済ませないでほしかった。そういう色々なことが、個人的に合わなかった理由。ちょうど昼間に観た「遠野物語」がフィクションについて上手に扱っていた芝居だったのでなおさら。

あともうひとつ運営について。今回当日券を買ったらトラムシートしか余っておらず、後ろが立見だったからまあましな席を確保できてよかったと思っていたら、招待券が大量に余ったのか、立見客が椅子席に案内されていた(椅子席が埋まったあとはトラムシート)。席を無駄にするくらいなら直前でも捌いた方がいいのでこれ自体はいい判断。

ただそれならトラムシートの客から案内してほしかった。開演直前でまとまった枚数を急いで処理しないといけなかったのはわかるけど、優先されたのはキャンセル待ちの客じゃなくてすでに立見席を買って入場まで済ませた客ですからね。自分たちで立見席より先にトラムシートを売っていたのだから、どちらが先に並んでいたのかわかるでしょう。トラムシートは当日券金額だったけど、ひょっとして立見席は当日券よりも安く売っていた可能性もあるので、だとしたら割高なトラムシートを買ったことになる。早めに劇場に来て並んでチケット買ったほうが損するのはどうなんだと文句を言いたい。立見より楽とはいえトラムシートでも腰にきつい、そういうときに限って休憩なしの2時間半。芝居の感想と合せて踏んだり蹴ったり。

世田谷パブリックシアター/エッチビイ企画制作「遠野物語」世田谷パブリックシアター

<2016年11月3日(木)昼>

標準語政策が推し進められて、方言で書かれた書物を出版すると罪に問われ、また迷信や怪談を実際にあったものとして出版すると扇動罪に問われる時代。怪しげな迷信を方言で書いて自費出版した男、柳田が警察に逮捕される。方言には標準語を併記している、内容は事実であると主張する男のために、怪奇現象を科学で説明する教授を事実判定担当者として警察は連れてくる。急いで駆けつけたためまだ内容を読んでいない教授に対して、これは佐々木という男から聞いた事実であると柳田は内容の説明を試みる。

原作の遠野物語自体は未読。この後、柳田が佐々木から話を聞いたり遠野に案内してもらったりする話でつなぎながら、たまにおちゃめな場面を挟みつつも、真面目に遠野物語のいくつかの話(ですよね?)を上演しながら進む。観ていて飽きさせないための構成と適度な方言の取入れでよい雰囲気に引込んで、でもそれだけで終わらせない良作。

単純に遠野物語を観るつもりの観客としては、柳田や佐々木の立場に一方的に肩入れしそうになる、逆に言えばその立場に反発する観客には全然受入れられない仕上がりに偏りそうなところ。そこに、教授がなぜそのような仕事をしているのかの短くも強烈な話を1本入れるだけで、全体のバランスを取りながら、ここで語られるような出来事は現在にもある話だと印象付ける展開がものすごく好み。その地域に伝わる怪談を事実ととるか迷信ととるかで対立する両者の立場を軸に、標準語政策を筆頭とする近代化が進むことで逆に貧しくなっていく地方の現実、たぶんそれらを現代の余裕のなさ、進行形で進む物心両面の貧困化に重ねる上演意図。そう受け取った。

天井も高くてスペースも広い劇場に簡素なセットだったけど、その雰囲気を一変させる背後のボードがよい効果。上手な役者があつまる中、佐々木の祖母を演じた役者が方言を使いつつひときわ上手な演技が明らかに一段上で、雰囲気づくりを含めて芝居を引張っていた。忙しすぎて事前に出演者を調べていなくてどこで探してきたんだこんな役者と終演後にポスターを見たら銀粉蝶でしたごめんなさいごめんなさいこんなに上手い人だとは知りませんでしたと反省した。この劇場では反省させられる

周りを見渡すと年齢の高い客層だった。確かに演目は渋いしチケット代は高いしで学生が気軽に来るような演目ではないけど、かといって芝居慣れしている人たちばかりではなさそうだった。あれはどういうチケット販路で来た人たちなんだろう。

2016年8月 9日 (火)

葛河思潮社「浮標」神奈川芸術劇場大スタジオ

<2016年8月6日(土)夜>

日支事変の時代、結核の妻の療養のために千葉の海岸沿いの家で暮らす夫婦。絵の鬼とも呼ばれ今でもその能力が嘱望されている夫は、画壇への軽蔑と妻の看病に専念するためとから、わずかな仕事と借金で食いつなぐ。妻は祖父から託された不動産をつかって児童養護所を開設しているが、亡くなる前にその名義を弟に書換えておこうと妻の母からは迫られる。夫の数少ない友人からは出征が迫るなか残される妻の世話を託される。診断した医者からもはかばかしい返事がもらえないなか、夫は妻の望みで絵を再開し、万葉集を読み聞かせる。

身を寄せた哲学は崩壊し、打ちこんだ芸術は才能より政治が幅を利かせ、経済的には首が回らず金貸しに頭を下げ、親族はたかりに来て、友人はいなくなり、医学にも見放され、これでもかという八方ふさがりの中で何とかして生きてみせるというエネルギーの塊のような執念を描く。「炎の人」を遡ること11年、カットしてもまだ4時間の大作だけどそれだけのものが詰まっている脚本を、役者とスタッフが真っ向勝負で立上げた力作。ずいぶんと時代がかった台詞もあったけど、モノにしていた。三演目だとしても田中哲司の迫力と、小母さん役がはまっていた佐藤直子、出番は少なくても芝居背景に奥行を出した裏天役の深貝大輔は特に素晴らしかった。強いて言えば原田夏希が妻役よりは少し健康に見えるのと、長塚圭史の医者役はまだ練る余地があるのとが挙げられるけど、大勢にそこまで影響はない。歯ごたえのある芝居を観たい人はぜひ。脚本は青空文庫にあります。

開演前に、初演の主役を演じた丸山定夫は広島の原爆投下で亡くなったことを長塚圭史から簡単に説明。井上ひさしの「紙屋町さくらホテル」の人ですね。特に黙祷もないし、その後は固くなった客席をほぐすようなトークだったけど、そういう日にそういう縁のある芝居を観たのも何かの巡りあわせ。その初演より前に、丸山定夫自身も貧乏に追われて同棲中の女優が病気になったためにエノケンにお願いして一座でコメディを演じていた時期があったようです。当て書きだったのかどうなのか、そういう人にこの芝居の主演をやってもらったのだから、リアルタイムの時代と相まって初演の迫力もなかなかだったのではないかと推測します。

パルコ企画製作「ラヴ・レターズ」PARCO劇場

<2016年8月6日(土)昼>

小学生のころからの幼馴染であるアンディとメリッサ。その始めての手紙から最後の手紙までを通して2人の人生を追う。

文字通り何百回も上演されている朗読劇だけどこれまで未見。PARCO劇場最後のこのタイミングで観ておきたくて、個人的には千秋楽よりよさそうに見えた勝村政信とYOUの回で観劇。本当にひたすら手紙形式の脚本を読む朗読を休憩を挟んで2時間やって、しかも最後まで面白かった。少しずつ情報を小出しにしつつ想像の余地を残す脚本がいいのはもちろんだけど、手紙を読む形式にあわせて抑え気味にしているようで細かく調整している朗読は2人ともさすが役者だった。

現PARCO劇場最後の観劇に相応しい一本だったし、新PARCO劇場でもぜひシリーズを再開してもらいたい一本。

2016年8月 1日 (月)

パルコ企画製作「母と惑星について、および自転する女たちの記録」PARCO劇場

<2016年7月16日(土)夜>

気性激しく奔放に生きた母の死をきっかけに、母が行きたいと言っていたイスタンブールに散骨を兼ねて旅行に来た三姉妹。散骨に相応しい場所を探して旅しながら、貧しい母子家庭で育った三姉妹が母と過ごして喧嘩した日々の思い出と、三人それぞれの現在の悩みとが交差する。

PARCO劇場改築前の最後の新作。正直なところを言えば設定に難がある芝居。舞台設定がトルコだけど、途中にテロが発生する場面は旅行から帰らない理由を無理矢理補強した感じだし、ラマダン中の三女の飲食も後半の伏線には弱くて単なる無神経に思える。ちょうど本当にトルコのクーデター未遂が起きた日に観たのもあるけど、この物騒なご時勢で、物騒な地域を舞台にして、それが物語の骨格に絡んでいる感じがしない。架空のアジアの国で漫画っぽい設定をいじり倒した松尾スズキのほうがよほど必然がある。

けど、斉藤由貴演じる母親と絡む三姉妹は生き生きしていて、特に1対1で丁々発止やりあう場面は魅力的。モノローグやスマホを駆使して独白させる三姉妹に対して、あくまで三姉妹から見た姿で奔放さや影や過去の重さを想像させて魅力十分な斉藤由貴の偉大さを再確認する。それに一番拮抗していたのが三女の志田未来というのがまた意外。後半はぐっと面白くなって最後の急展開は、改築になるPARCO劇場の行末を称えるような、むしろ最初にそれをイメージして脚本を書いたんじゃないかと思われるような祝祭感。重い展開をすっぱり切るいい後味だった。