文学座「中橋公館」紀伊國屋ホール
<2017年6月30日(金)夜>
早くに中国に移住して、子供はみな中国で生まれた中橋家。医者として中国全土を回っていた父は家庭を顧みず、長男が一家を支える。北京の自宅で終戦の報を聞いた中橋家に父が帰宅するが、敗戦よりも次の医療奉仕に気が向いて相談相手になれない。敗戦によってデマが飛びかい安全におびえる中、残るか、日本に行くかで揺れる中橋家一族の葛藤。
初日観劇。戦後間もない1947年初演の芝居。敗戦に臨んだ登場人物の良し悪しをこれでもかと描く3時間。「シニカルな喜劇」と宣伝されていて、初日でやや客席が固かったのもあるけど、自分の感想は純粋にシニカルな芝居だった。外れなしの役者を揃えて質は高いけど、こんなに感想に困る芝居は久しぶりだ。
敗戦に当たってじたばたしてもしょうがないと落着いた登場人物と、慌てふためく登場人物と、両方でてくる。でもよい面でも悪い面でもどちらも「日本人なんだから」というくくりに自分たちを当てはめて出処進退を決めようとする価値観は、初演の時代には自然に受止められたんだろうか。それとも自分がひねくれているだけで、むしろ今のほうが自然に受止められるんだろうか。かといって、敗戦なんて気にしないと行動しようとする父は家族の今後をまったく考えられておらず、個人主義が行き過ぎて自分勝手になる。内輪で交わされる会話の端々に、国と家族と個人との関係の「整理されていなさ」を、ものすごく正確に描いている。
それが外に向かうとき、中国人に家が襲われたのは横暴な態度を取っていた日本人の家だけだだとか、会社接収で鉢合わせた中国の軍隊を本社に行けと追いかえした中国人のボーイを日本人の社員が突然あがめだしたとか、いかにもあったようなみっともない日本人のエピソードを会話に織り交ぜる。特定個人の中国人への感謝をはっきり台詞にしている一方、大勢が引揚げた後の市場で見た日本の着物が乱暴に扱われる場面に表明する集団の中国人への嫌悪も描く。
大陸で生まれて育ったら日本は祖国ではないし行く当てもないのに引揚げるってどういうことかとさりげなく重要な台詞が出てくるけど、その台詞をいう姉妹たちは、以前日本に旅行して日本が嫌いになったと日本語で話合う。それを日本育ちの母親が、出征している孫の無事を願うというごく素朴な感情を吐露することで家族の方針が揃う当たり、父性よりも母性というか、日本的なまとまりかたというか。
めでたいエピソードや前向きな場面もたくさんあったのだけど、シニカルと呼ぶにはきつい面ばかり覚えている。それはラストで言った「島国根性」なるものを追い求めて描いた脚本だからに思える。脚本家がどのくらい意図的にエピソードを盛りこんだのか気になるけど、それぞれのエピソード自体は当時の同じ経験をした日本人の自然な行動や感情に思える。だから、何と言うか、別に興行を邪魔したいわけではないけど、この芝居に入り込んで自然に親和してしまうような人間では駄目というか、どんなに立派でも田舎者は田舎者というか、精神の安定を他に依存するようでは一人前ではないというか、異なる文化と付き合える人間と付き合えない人間とを分かつものは何かとか。なんかひどいことを書いている気がするけど、上手い言葉が見つからない。これを言葉で表現できないと感想として成立しないのに見つからない。
全然まとまっていないうえに、実は人生初の開演時間遅刻をやってしまい冒頭を見逃したせいで肝心のポイントを理解していない気がしている。御容赦。
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