KAAT×PARCOプロデュース「オーランドー」神奈川芸術劇場ホール(若干ネタばれあり)
<2017年10月8日(日)昼>
16世紀に絶世の美少年として生まれ、詩人を目指すオーランド―。女王に見出されて宮廷に仕えることとなってから、17世紀を生き、18世紀にはなぜか美女となり、その後の時代も生き続ける彼のち彼女の話。
ヴァージニア・ウルフ原作小説の舞台化の翻訳。場面転換の多さや一人複数役をこなさないといけないところを、小劇場色の濃いキャスティングの妙と、生演奏と映像と衣装をスマートに振ったスタッワークとで、結果かなりモダンな芝居に仕上がった。自分はとても好み。
男が突然女になる点については、男だけで女も演じる劇団や、女だけで男を演じる劇団や、水やお湯をかぶると男女が入れ替わる漫画が存在する国の民としてはそんなに違和感はない。調べたら女性作家であるヴァージニア・ウルフが、そのころ付きあっていた女性詩人との関係をもとに書いたらしい。そういう背景なら男が女になる展開は理解できるけど、芝居の大きな嘘がもう一つ。16世紀からなぜかずっと生きるのは、筋を追うだけでは説明がなくて意味がわからない。そういう意味のわからないところがいかにも白井晃の企画だと思える。
そこはきっと舞台化するときに整理されていて、観た印象は「その時代でもっとも美しいとされていた存在」と「その時代で力を持ちもっとも美しいものを求めていた存在」との関係の変遷を描いて、その変遷の軌跡の上に現代ではその年齢の女性が一番美しくまた力を持っていて、そういう孤独な存在であるがゆえに他人を求めるという現代人への解釈兼賛歌に仕上がっていた。芝居中では21世紀が最後で、そこで詩人は読者を求めるという台詞と、タブレット端末を抱える詩人の現代女性という演出でとてもに今っぽく、格好良く、何というか、力強さを感じさせた。
これを成功させたのは一にも二にもキャスティング。オーランドーの多部未華子が、美少年も美女もやっぱり美しくて似合っていた。それを翻弄するロシア皇女の小芝風花が、回る装置の上で踊る場面を見ながら運動神経いいなと思ったらスケート経験者だった。見目麗しさを楽しむならなんといっても前半。それよりも脇がさすがで、宣伝では小日向文世の女王役が推されているけど、他の3人(戸次重幸 池田鉄洋 野間口徹)も含めて小劇場出身者が生きていた。芸達者というだけでなく、リアリティの処理が上手いと言えばいいのか。うっかりすると疑問を持ったり白けたりする場面だらけ、しかも詩的な台詞も多い脚本を、時に真面目に、時に笑わせながら成立させていた。女性陣の美しさに目を奪われがちなところ、男性陣の能力を見落してはいけない。ちなみに翻訳劇なのに小劇場っぽい台詞が多数。翻訳なのか現場で演出しながら直したのか、どっちなんだろう。
多部未華子の発声が喉声だったのだけが残念で、あの台詞群をしっかりした発声で言い回せていたらどれだけ説得力が増して芝居のレベルが上がったか。少年の場面はよくても大人の女性の場面がつらい。せっかくの大器なので、いまからでも発声を習ってほしい。
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