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2017年11月13日 (月)

いつまでたっても上手くならない感想文

芝居を観てしばらくしたころから、今はなき「えんげきのぺーじ」というサイトの「一行レビュー」という欄に感想を投稿していたのが初期の感想活動でした。しばらく経ったころに観たのが日本総合悲劇協会の「ドライブイン カリフォルニア」。これがそれまで感じたことがない、何かすごいいいものを観た、という感覚を刺激しました。この思いを長文で書きたい、それにこういう感覚は自分の管理できるところに書いておいたほうがいい、と思ったのと、そのころブログというものが登場して無料で書けるサービスがいくつか開始になっていたのとが重なって、勢いで始めたのがこのブログの経緯です。途中中断をはさんで今は3代目です。たまに再掲載とか再録とかタイトルについているのは初代や2代目のバックアップから引張ってきた文章のことです。

その立上げの動機とは別に、長らく書いていれば文章も上手になるのではないかという裏目的もありました。芝居をもっと上手に観たい、それを端的にわかりやすく誤解のない文章で表現できるようになりたい。まあまあ本を読むのが好きだったということと、何を言っているのかよくわからないと言われることが多かったのとが合わさって、上手な文章を書けることへの憧れがありました。

爾来何年とブログを書いてきましたが、文章はまったく上手になりません。書いた分量が足りないと言えばその通りですが、一番の理由は上手な文章に対するイメージがまったくまとまっていないことです。せめて書いたものに対して、仕上がりがよいか悪いかを振返るトレーニングをすればよかったのですが、そういうことすら思い至らず、ただ書いていただけで時間ばかり経ってしまいました。

ただし気がついたことはいくつかあって、その中でも上手な文章を書くよりも大事かつ難しいことのひとつが、自分がその芝居に満足だったか不満だったかを把握することでした。「はっきり面白い芝居」と「はっきりつまらない芝居」とはわかりやすいのですが、「楽しんだけど不満が残っている芝居」と「穴は多かったけど満足感を覚える芝居」というのが世の中には存在して、そういう芝居の感想を書いた後、褒めたけど不満が残っているなとか、けなしてしまったけど結構面白かったなとか、そういう感覚を感じながら過ごしていたのですが、当時はまだ言葉にできませんでした。

その感覚を自覚できるようになってから、自分の満足、不満足という点を中心に、もっといえば好き嫌いに基づいて感想を書いてきました。よい文章のイメージが不足している分だけ、主観に頼ったわけです。主観を中心に据えることは悪くないのですが、その好き嫌いの根拠を適切に説明できないと、やはりよい文章になりません。でもその根拠には、脚本あり演出あり、役者の工夫もあればスタッフの英知もあり、そして歴史や社会情勢に鑑みてその芝居の意義を位置づけて評価することもある。こういうことは2時間の芝居を眺めただけでわかるものではなくて、観る側の興味や知識や、もっと大げさにいえば人生観まで総動員してつかみに行かないとわかりません。そういうものが自分には圧倒的に不足しています。たまにそれらしいことを書いていても、こんなものは勘違いではないか、知ったかぶりなのではないか、明後日の方向なのではないかという思いは消えません。推敲してもきりがないから投稿してしまえ、読みかえしたら不備が見つかって書き直したくなるから読みかえすな、と自分に言い聞かせて投稿ボタンを押して、それでまたトレーニング不足の日々が続くわけです。まして面白い芝居を観たときの、それを適切に表現できないことのもどかしさたるや。

そんな状態でもこれまで書いてこられた理由は、自腹で観ているのだから的外れでも何でも感想くらい書いたっていいだろうという判断です。今までブログに書いた芝居はすべて自腹自力でチケットを入手したものだけです。別に知合いもいないので無理なのですが、招待券とか、チケット手配を融通してもらったとか、そういう芝居の感想は書いたことがありません。当日券で並んでいたら端数の金額を割引で譲ってもらったとか、そういうささやかな幸運はありますが、それは自力のうちに数えています。ずいぶん力んだスタンスだと思われるかもしれませんが、そこまで担保しないと書けない人も世の中にはいるのです。

高校生劇評グランプリという企画が今年で4回目だそうで、選考委員を務めるしのぶの演劇レビューで知ったので受賞作を読んでみました。読みおわって、高校生でこれだけ文章が書けるんだということが羨ましく、また文章の能力に年齢は関係ないということがはっきりして、読んだ自分の落込んだことといったらありませんでした。なにより一番に落込んだのはそのブログに引用されていた、これは本職の演劇ライターである徳永京子のツイートの一文。

「自分に嘘をつかない、自分の感覚を粘り強く掘る、観客の代表のふりをして書かない」

ここまで長く書いてきたようなことがたった40文字にまとめられています。素人と本職との違いとはいえ、この文字数の差が、文章の実力の差だと思うと、その詰められない道程の長さには笑うことしかできません。

それでも、最初にブログを立上げたときの感覚を信じて、書くことは悪いことでも何でもない、書きたいことがあることが書くことの第一歩だ、書けなかったらしばらく書かなくたっていいのだから、と自分で自分を励ましたりなだめたりしながら芝居を観ていると、2年に1回、3年に1回は特大ホームランの芝居に出会えて、感想を書いて、またしばらくは芝居を観ようと気持ちを新たにします。その繰返しで、このブログは3代目まで続いてきました。

願わくは、この企画を機会に芝居を観る高校生が、本当に感想を書いてみたいと思えるような芝居に出会えますように。

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庭劇団ペニノ「地獄谷温泉 無明ノ宿」神奈川芸術劇場大スタジオ

<2017年11月12日(日)昼>

北陸の奥地にある、一部の地元の人間しか来ない湯治宿。冬を間近に控えた季節に、余興を依頼されて東京から訪れた人形遣いの親子だが、その温泉宿はすでに持主が亡くなって所有者はいないという。帰りのバスもすでにないため、相部屋で一晩過ごしてから帰ることに決めた。その一晩の出来事。

これが最後の上演という岸田國士戯曲賞作の千秋楽は満員御礼状態。変態か絶望のどちらかを秘める登場人物たちが、一晩の交流のうちにそれをちらりと見せながら過ごす宿の出来事。ラストも一見平和に見えるけど、いろいろ考え合わせると平和には思えない。全体に粘度の高い芝居で、適度に不親切な脚本と併せて、過去に観た庭劇団ペニノもそんな感じたったよなと思い出す。

マメ山田ありきの脚本でマメ山田が人形遣いを演じたから成立した芝居かと思ったけど、よく考えたら他の役者でも成立するよくできた脚本。でもあの雰囲気はマメ山田ならでは。それも含めて不親切な脚本を不親切に役者は公演。あの狭いスペースに4分割で湯治宿を詰込んだ舞台美術と照明には拍手。

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2017年11月 5日 (日)

野田地図「表に出ろいっ!」東京芸術劇場シアターイースト

<2017年11月4日(土)夜>

能の家元の家で、飼犬が出産を控えたある日の晩。仕事仲間と協会の行事に出かけようとする家元と、3か月前から計画していた予定に出かけようとする妻と、友人との約束に出かけようとする娘。今晩限りは何としても出かけたい3人は、互いに相手に押付けあいながらなかなか表に出られない。

今は亡き勘三郎との共演で制作された芝居を、今度はイギリスの役者と英語上演。舞台美術や衣装をポップにし、役と役者の男女を入替えることで、エスカレートしていく展開がリアルにならないようにする配慮。

ふざけた展開をもっとふざけるうちに深刻な話になるところがミソだと思うけど、これだけのふざけた設定をもってしても、イギリスの役者は真面目さが伝わってくる。日本での英語上演なのでアドリブに限度があることもあるけど、ふざけられないお国柄なんだろうか。そこに限界があるのが残念。

あと、野田秀樹だけでなく大竹しのぶや阿部サダヲがイヤホンガイドを務めていたということだけど、よさがわからなかった。録音のせいか、単純に英語と日本語の台詞があっていなかったし、情報量もかなり落ちていた感触。もうちょっと何とかならなかったか。

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シス・カンパニー企画製作「ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ」世田谷パブリックシアター

<2017年11月4日(土)昼>

ある朝、使者に呼ばれて王宮に向かうローゼンクランツとギルデンスターン。呼ばれた理由もわからず、存在意義もわからず、あろうことか自分の名前がどちらかもわからない。錯乱したハムレットを監視する学友として呼ばれたが、ハムレットにいいようにあしらわれる。とにかくよくわからない2人の最後まで。

ハムレットに登場した脇役2人から観たハムレット芝居内の世界と、上演されているハムレット芝居の裏側とを重ね合わせたトム・ストッパードの翻訳芝居。たぶんハムレットの展開を客が全部把握している前提で、ハムレット芝居の進行と重ね合わせて観ないと面白さがわからない。そういうひねった現代翻訳劇はさすがに得意な小川絵梨子で、素舞台に近い美術で劇場機構を見せたり、舞台の準備をしてみせたりすることで開演前から芝居の裏側感を示した演出は、隅々まで把握して隙のなさが伝わってくる。いきなり始める演出は観てのお楽しみで、遊び心と格好よさが両立している。

ただそうは言っても、ハムレットがわからないとそのまま観ても3分の1くらいしか楽しめない。そこを工夫したのが主演の2人に人気者を配したことで、ほとんど出ずっぱりであの膨大な台詞をこなしたのはさすが。おかげで女性多めの客席は立見までぎっしり。

個人的には劇団の座長を演じた半海一晃の、いつもとは全然違ううさんくささが目を惹く仕上がり。そして過去公演で古田新太と生瀬勝久が演じていたのを知って観たかったとの思い。

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イキウメ「散歩する侵略者」シアタートラム(ネタばれあり)

<2017年11月3日(金)夜>

海の向こうと戦争が開始され、戦闘機の発信が頻繁に行われている、日本海に面するある町。海辺を歩いていた男が保護される。日常生活のことがわからなくなっており、病院で検査しても問題はなかったが、行方不明だった3日間の行動は不明。不仲で別居同然だった妻に引取られる。そのころから同じ町で、認識能力に問題がある患者が次々と発生する。

映画化と合せて四演目のイキウメの名作。前回と比べて格段に上手になっていて、しかも脚本が親切な方向に改定されていて、誰が観ても楽しめる一本。先に書いておくと連休初日だったせいか当日券は前方端席のみからトラムシートに立見目いっぱいまで売って満員御礼。自分は立見でしんどかったけど見切れは皆無の舞台美術。椅子席が取れるならもう一度観たい。ただし親切になりすぎて不満もあり、感想がややこしい。以下、観た人向けのネタばれ全開の感想。

今回の発見はやっぱり脚本。いろいろなエピソードがこんなに緊密に関係している脚本だとは思わなかった。これから侵略されようとしている話とすでに始まった戦争とを並べて、方や家族の概念を奪われた姉が攻撃的になって所有権に敏感になること、方や所有権の概念を奪われた男が戦争反対の運動を始めること。あるいは初期に家族の概念を奪った宇宙人が比較的温和なのに対してそうでない仲間が荒っぽくて乱暴なこととか、いろいろ対比している。

あと、いまどきの乱暴な議論の発露にも突っ込みがある。自他の区別の概念を奪われた医者がよくも悪くも反射的に相手に感情移入するとか、所有権の概念が戦争を引き起こしているんだと主張する男にその所有権の概念を正しく理解していないのに反対してどうするんですかと反論する後輩とか、そういう説明を昔に聞いて理解しておきたかったという場面がたくさんあった。平和なときに平和を訴えるたり戦争の時に戦争を訴えるのはダサくて戦争の時に戦争反対をとなえるのがいいんだという場面、恥ずかしがらずに主張してみろよというアジテーションと、何でも反対だけする人たちの胡散臭さを一刀両断する両方を同じ場面で描いた場面は秀逸だった。

そういうよくできたエピソードが、最終的には「愛について」に集約されるのたけど、昨今の北朝鮮のミサイル騒動と結び付けられて、ちょっと戦争反対色が強めになった。前回観たときは「一言でいえばLove&Peace」なんて書いたけど、今回の改定がむしろ「Love&Peace」で、前回はもっと全編愛についての話だった。それがあの「何か奇跡が起きてる気がする舞台」の奇跡の正体だったと観ている途中で気が付いたけど、今回の脚本改定で直接解説する台詞が後半に多く出てきてしまった。親切と言えば親切なのだけど、観ていて気が付いたことを解説されるのは興ざめで、今回が初見だったらそんなことは感じなかったはずだけど、個人的には残念。

前回欠点と思っていた衣装替えは、背広と制服の多い芝居だったけど、今回は私服は適宜行なわれていていい感じ。テーマ音楽は古い音源だったけど、あれは多分そういうものだ。

最後に役者の話だけど、劇団員もいいけどゲストもよくて、カタルシツからこちらにも参加した板垣雄亮の警察官役がよい味。判断に困るのが主人公と言っていい妻役の内田慈。ひとり目立つ演技をしていてなぜ目立つのか理由を考えたのだけど、たぶん、他の役者が役の確立を目指して演技していたのに、内田慈だけ役の変遷に重きを置いて演技していたから。場面ごとに立場が明確な役が多いこの脚本の中では数少ない、感情が揺れる役だったからというのもあるのだろうけど、その演技プランに乗りすぎたのか、もっとストレートな声が出る役者なのに声が浮いて聴こえた場面あり。それとも感情の揺れにあまり馴染みがない脚本演出が、新しいアプローチを仕掛けた役者に負けたのか。調べたら内田慈は役は不明ながら再演にすでに参加していたのでイキウメ初参加というわけではない。それなら、本人を調整するか、それに乗って周囲を調整するか、脚本演出で対応してほしかったところ。保護された夫役の浜田信也の「宇宙人だけど記憶は持っている真治(役名)で、今の(親切そうな)真治はこれまでの記憶で可能性としてありえた真治」の変化がもっと前面に出たら内田慈の演技とかみ合ったのにと残念。

でももう一度観たいのは変わらない。このまま海外に持って行きたい現代日本小劇場の名作。

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2017年11月 1日 (水)

芝居はチケットの3倍の満足感を提供してようやく対価が釣りあう

2000円の芝居が2000円分だけ観客を楽しませればいいかというとそうではなく、6000円分楽しませてようやく観客は満足する、という話です。

淡々と書かれた文章が身にしみるこちらのブログより。

勿論、舞台に集中して、感情移入して、感動する舞台もあるけれども(映画も)、
だんだん数少なくなってきた。
俳優が(時には役者と言ったりするが)懸命に演技している事はわかるけれども、
だからといって、その舞台を褒めそやすことはできない。

歌舞伎座の歌舞伎会の会員は、もうとっくにやめてしまった。
国立劇場のあぜくら会員も、今年まで30年以上続けてきたが、
最近は国立劇場にも足を向けなくなってきて(面白くないのだ)、
結局この12月で辞めることにして、連絡した。
後はカードにハサミを入れるだけ。

あらたに新国立劇場のアトレ会員に数年前からなっているが、
いつもS席を購入しているのに(割引で)、コストパフォーマンスに見合ったものが得られない。
もう少し会員を続けるが、安い席の方にすることを決意した。

名指しで面白くない、コストパフォーマンスに見合ったものが得られない、と書いた点には一観客として非常に共感します。こう言っちゃ何ですけどマニアや狭いリピーター向けのラインナップに特化しすぎです。これはそのうち書きます。

ところでこのコストパフォーマンスを具体的に表すとどうなるか。まあコストにもいろいろあります。まずチケット代が掛かるのはスタート地点として全員納得してくれるでしょう。

次に観劇の時間がかかることを挙げます。長短あるけど仮に上演時間が2時間なら2時間のコストを観客は払っているということです。えっ、って思うかもしれませんけど、飲食で頼んで食べた瞬間に満足したり、おしゃれな衣料品が着た瞬間から満足開始だったりするのを考えると、最初から笑わせっぱなしの喜劇ならともかく、2時間最後まで観ないと満足できないのはかなりのハンデになります。この前のこまつ座の「円生と志ん生」は、後半はかなり笑えたけど前半はあまり笑えない仕上がりでしたけど、2-3人が前半途中で退席していました。昼の回だから帰宅を考えてということではありません。こまつ座だから笑える喜劇を期待していたのにこんなものを観に来たのではないという結果です。それを考えれば、2時間最後まで座っているのもコストに含めていいと思います。いまどき連続2時間を一箇所で確保するというのは贅沢ですよ。

あとは見逃しがちですけど、往復の交通に掛かる費用と時間を挙げます。都内のよほど一等地に住んでいれば最寄の劇場まで徒歩5分かもしれませんけど、普通は都内に住んでいたり働いていたりしても片道30分以上はまず必要。通勤圏の住宅街からなら1時間は掛かります。そこに交通費が掛かる。往復2時間分は費やしていると見なせます。でもこれはかわいいほうで、例えば赤坂ACTシアターはアクセス案内画面に「飛行機をご利用の方」という項目を設けています。宝塚みたいに旅行会社と組んで宿泊セットを売る場合もあります。総じて交通には費用も時間も掛かりますけど、ここでは合計で片道1時間分のコスト、往復で2時間分のコスト、と考えます。

そうすると、チケットコスト+観劇コスト2時間+交通コスト2時間分がおおまかなコストになります。チケット(金額)と観劇+交通コスト(時間)の換算をどうするかですが、その芝居のチケット代と上演時間を換算レートにしましょう。つまり2時間2000円の芝居なら、2000円+2時間+2時間は6000円または6時間ということです。もちろん、4時間1万円とか1時間5000円とかいろいろありますが、最大公約数に最大公約数を重ねて、平均ではチケット代の3倍のコストを観客は支払っている、というのがこのエントリーの主張です。

2000円の価値を他のライブと比べるなら条件は同じです。でも6000円あったらどのくらい美味しい食事が楽しめるか、あるいは衣料品が買えるか、などなど。1万円のチケットなら3万円で何ができるか。他のそこまでコストがかからない業界の満足感と比べて釣り合っているかは、とりあえず目安として悪くないのではないかと考える次第です。

ここまでくると、ならば満足感を定義せよとなりますが、それはまたそのうち。

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