観客にどれだけ届いている実感がありますか
Twitter(これとこれとこれ)で気になる内容をみつけたので掲載(改行はこちらで追加)。
今の仕事(ライセンサー業務)をするようになってわかったこと
・広く一般の人は「絵がすごく上手い」と「まぁ上手い」の区別がつかない。
・広く一般の人は「絵を描くのは遊びの延長」だと思ってる。
・劇場に来ている半分くらいの人は「映画などのストーリーを半分くらいしか理解していない」
あと
・けっこうな人々は「比喩的表現が理解できない」「言葉で言ってくれないとわからない」
・「観る側に解釈を委ねられても解釈しないで、『なんかわかんね』→『つまんね』となる」
これな、たぶん送り手が思っている以上に多いニャ。
そういう人々を「お客様」とするか「お前なんか観なくていい人間」とするかは、どんな作品にしたいかによって変わりますけどネー。
これを読んで思ったのは、実際の創り手は、自分の表現したいことが観客にどれだけ届いているのだろうということ。やっぱり毎回、カーテンコールの拍手の音色を聞きながら身もだえしたりするんだろうか。あるいは、上手くいったと思ったときに限って批判が強くて失敗したと思ったときに褒められると忸怩たる思いを抱いたりするんだろうか。
今だってそこまで自信はないけど、自分が芝居を観始めたころを思い返すと、観ていた芝居の半分も理解できていたかな。適当に笑わせたりハラハラさせたりするのが上手な芝居はそれだけで楽しめるので評価を高くつけていた。
今にして思えば、展開の上手な芝居や、本当に表現したいことを的確に表現するために情報の出し方を工夫した芝居が面白かったのであって、ただしそういう芝居を創れる人ほど笑わせたりハラハラさせたりするのもやっぱり上手だったと言える。芸術には多かれ少なかれ観客に積極的な想像力を要求するところがあって、その想像力を引出すためには創り手にも手練手管が必要となる。
歌舞伎だと、どんなに客席が満員でも見巧者は一人か二人で、その人に観てもらう心持で演技するなんて話もどこかで読んだ覚えがあるから、昔からそう考える人はいたのだろう。
どれだけ届いている実感がありますか。あるいは、実感よりも自己採点の高さですか。
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