2017年7月 1日 (土)

文学座「中橋公館」紀伊國屋ホール

<2017年6月30日(金)夜>

早くに中国に移住して、子供はみな中国で生まれた中橋家。医者として中国全土を回っていた父は家庭を顧みず、長男が一家を支える。北京の自宅で終戦の報を聞いた中橋家に父が帰宅するが、敗戦よりも次の医療奉仕に気が向いて相談相手になれない。敗戦によってデマが飛びかい安全におびえる中、残るか、日本に行くかで揺れる中橋家一族の葛藤。

初日観劇。戦後間もない1947年初演の芝居。敗戦に臨んだ登場人物の良し悪しをこれでもかと描く3時間。「シニカルな喜劇」と宣伝されていて、初日でやや客席が固かったのもあるけど、自分の感想は純粋にシニカルな芝居だった。外れなしの役者を揃えて質は高いけど、こんなに感想に困る芝居は久しぶりだ。

敗戦に当たってじたばたしてもしょうがないと落着いた登場人物と、慌てふためく登場人物と、両方でてくる。でもよい面でも悪い面でもどちらも「日本人なんだから」というくくりに自分たちを当てはめて出処進退を決めようとする価値観は、初演の時代には自然に受止められたんだろうか。それとも自分がひねくれているだけで、むしろ今のほうが自然に受止められるんだろうか。かといって、敗戦なんて気にしないと行動しようとする父は家族の今後をまったく考えられておらず、個人主義が行き過ぎて自分勝手になる。内輪で交わされる会話の端々に、国と家族と個人との関係の「整理されていなさ」を、ものすごく正確に描いている。

それが外に向かうとき、中国人に家が襲われたのは横暴な態度を取っていた日本人の家だけだだとか、会社接収で鉢合わせた中国の軍隊を本社に行けと追いかえした中国人のボーイを日本人の社員が突然あがめだしたとか、いかにもあったようなみっともない日本人のエピソードを会話に織り交ぜる。特定個人の中国人への感謝をはっきり台詞にしている一方、大勢が引揚げた後の市場で見た日本の着物が乱暴に扱われる場面に表明する集団の中国人への嫌悪も描く。

大陸で生まれて育ったら日本は祖国ではないし行く当てもないのに引揚げるってどういうことかとさりげなく重要な台詞が出てくるけど、その台詞をいう姉妹たちは、以前日本に旅行して日本が嫌いになったと日本語で話合う。それを日本育ちの母親が、出征している孫の無事を願うというごく素朴な感情を吐露することで家族の方針が揃う当たり、父性よりも母性というか、日本的なまとまりかたというか。

めでたいエピソードや前向きな場面もたくさんあったのだけど、シニカルと呼ぶにはきつい面ばかり覚えている。それはラストで言った「島国根性」なるものを追い求めて描いた脚本だからに思える。脚本家がどのくらい意図的にエピソードを盛りこんだのか気になるけど、それぞれのエピソード自体は当時の同じ経験をした日本人の自然な行動や感情に思える。だから、何と言うか、別に興行を邪魔したいわけではないけど、この芝居に入り込んで自然に親和してしまうような人間では駄目というか、どんなに立派でも田舎者は田舎者というか、精神の安定を他に依存するようでは一人前ではないというか、異なる文化と付き合える人間と付き合えない人間とを分かつものは何かとか。なんかひどいことを書いている気がするけど、上手い言葉が見つからない。これを言葉で表現できないと感想として成立しないのに見つからない。

全然まとまっていないうえに、実は人生初の開演時間遅刻をやってしまい冒頭を見逃したせいで肝心のポイントを理解していない気がしている。御容赦。

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2017年6月29日 (木)

新国立劇場主催「君が人生の時」新国立劇場中劇場

<2017年6月24日(土)夜>

1939年のサンフランシスコの港近くにある安酒場。あまり客も来ないが、店には似合わない金離れのいい男が毎日たむろしている。男の使いっ走りは店にたむろする売春婦にほれている。ピンボールに入れこむ若者、金がなくて仕事のほしいミュージシャンやダンサー、ほら吹きの親父、教養あってあえて港で働く人足夫、仕事が嫌になった警官、恋人に求婚する若者、物珍しさで見物に来た金持の夫婦、売春婦の取締りに血眼な警察。いろいろな人間が出入りする酒場の1日。

実際の初演も同じ年で、名前だけ聞いたことがあっても観たことのないアメリカ芝居。ほとんど出ずっぱりな人物から一場面だけ出て終わりの人物まで総勢25人(子役がダブルキャストなのを数えると26人)の役者で構成される、それぞれの「君が人生の時」のひとこま。宮田慶子演出で期待したものの、残念ながら好みに合わず。

出番の長い役でも背景が完全に説明されることはほとんどなくて、出番の短い役ならなおのこと。出番の長短に関わらず、そのひとこまを見せてみろ、それを的確に表現した上にようやく成立させてやる、という意地悪な脚本なのかと思われる。ただしほとんどの役者がそこまでたどり着いていなかったので、観ていて入り込めず。ほら吹き親父の木場克己と悪徳警官の下総源太朗が素晴らしい仕上がりだったけど、これがぱっと観はよさそうな他の役者の仕上がり不足を浮きあがらせる副作用。人数が多い割に同じようなテンポで場面が進むので統一された雰囲気や一部登場人物の連帯感を感じることもなく、それがあのラスト、登場人物が喜ぶ場面なのに、観ていて雑な展開という印象につながった。美術衣装音楽などスタッフワークがかなり上出来だった分、惜しいを通り越してもったいない。

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青年団「さよならだけが人生か」吉祥寺シアター

<2017年6月24日(土)昼>

雨の工事現場の休憩所。遺跡が出てきて工事が中断している。発掘の手伝いに来た学生たちや文化庁の職員に建築会社の社員は平身低頭。娘の話題が出て機嫌が悪いおじさんやその日が最後で故郷に戻る人の話題で盛上がる現場のメンバー。休憩所の床は割目が広がっていい加減危なくなっている。見回りした人たちはミイラを見たと言い出す。雨がやまないので休憩所で話すくらいしかやることがないある日の午後の2時間。

遺跡の発掘に頑張る学生たちと早くマンション建てたいので穏便に済ませてほしい建設会社の社員たちの話を縦糸に、結婚したい人たちとまだ結婚したくない人たちの話を横糸にして、遠くに行く人と行けなかった人と行かれてしまった人の来し方行末をいつも通りだらだらとした会話で描く。1992年初演の比較的初期の芝居だけど、すでにスタイルが完成されていて近年の芝居と同じように楽しめる。そこはかとなく色っぽい場面が出てくるのも初期作品っぽい。床の割目に手を入れたら抜けなくなった場面は何の話だったか。

青年団+無燐館で最近観たメンバーも出ていて、出だしはどうかと思ったけど、だんだん馴染んでいた。客席に背を向けて話すのは青年団のたまにやる手法だけど、縄文時代の研究をなぜ目指したのか訊かれて、そのまま突然話が止まらなくなってこれはやばいと思わせる怪演を魅せた文科省の役人、誰が演じたのかと思ったら立蔵葉子だった。手元の過去ログを検索すると「忠臣蔵OL編」とか「サンタクロース会議」とか五反田団の「ふたりいる風景」とか、見た目も声も覚えられない割に出ているといつも気になる演技で魅せてくれる。足場とパイプで組んだ素通しの小屋の舞台、こういう美術もあるのかという発見がある。

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2017年6月 3日 (土)

iaku「粛々と運針」新宿眼科画廊地下

<2017年6月2日(金)夜>

夫が追突事故に遭った夫婦は一戸建てに2人暮らしで、家のどこからか猫の声が聞こえると妻は夫に訴える。母と2人暮らしの長男とすでに結婚して家を出た弟は、入院した母の見舞いで久しぶりに顔を合わせ、実家で今後のことを相談する。粛々と運針を進める2人の女性は、家の裏手にあった桜の木の思い出話をすすめる。

最近評判のよい大阪の劇団。なるほど評判になるだけのことはあった。古くて新しい家族の話題を真正面から放り込んでくる。身につまされる話題満載だったけど、ネタを全部拾って笑う他の観客に助けられた。年齢が高い人ほど味わいが深い話で、たぶん日によって笑いの量の増減が著しく異なると思う。

若干のネタバレ込みで言うと、夫婦は妻が妊娠したかもしれないが、もともと子供はつくらない約束で結婚していたので妊娠していたら堕ろすつもりの妻と、いまさら子供がほしくなった夫との間で話がこじれる。兄弟は入院先で母の新しい恋人らしき相手に出会い、その相手が母に安楽死を願うように刷り込んだのではと疑うが、そこからフリーターで独身の兄と結婚して仕事も忙しい弟との間で話がこじれる。至近距離で出ずっぱりに耐える演技をあてにして、深刻すれすれのネタを混ぜてくる脚本演出の絶妙なハンドリンク。

その周りで針仕事をしている女性2人ののんびりした話で、終盤に全部つながるのが演劇ならではの醍醐味で、小さい劇場を生かした椅子美術も完成させてのラスト。あれだけ深刻な話題満載でそっちに落とすかと思わないでもなかったけど、反対のラストにしたらそれはそれでしんどいので、きれいに終わるほうでよかった。

夫婦や兄弟のどちらに肩入れするかは観る人次第だけど、芝居の出来のよさでは裏切りません。観られてよかった。1時間35分と近年では短い芝居だけど密度は十分。すでに前売完売のようだけど、当日券も若干枚販売なので我こそはと思う人はぜひ新宿まで。

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劇団☆新感線「髑髏城の七人(花組)」IHIステージアラウンド東京

<2017年6月2日(金)昼>

豊臣秀吉が天下統一を目指して関東攻めを準備している戦国時代。が、関東では、天魔王率いる「関東髑髏党」が北条一族を滅ぼして関東一円を手中にし、戦に備えて新たに城を築く一方、領内で狼藉の限りをつくしていた。それに対抗して村人を救った若者集団「関八州荒武者隊」と、通りがかって手助けをした正体不明の浪人捨之助。救った村人を送り届けたのは無界屋蘭兵衛が作り上げた、流れ者の色町として名高い「無界の里」。送り届けたまではよかったが、どうやら捨之助と蘭兵衛は知り合いらしい。やがて関東髑髏党の手は無界の里まで伸びてくる。

粗筋は昔のエントリーのコピペ。以前観たときはあんなに楽しんでいたのに、今回はいまいち盛上がれず。客席の動く劇場といっても、多数の場面転換を含む上演はすでに一般劇場で何度も実現していたところで、それを横に伸ばしても目新しさは感じず、むしろ空間が広がって雰囲気が薄まった。横の広さを生かした映像も厳しいことをいえば物語にはあってもなくてもよかった。小栗旬の主役もセンター後方の席からはマイクの声の大きさに比して見た目が遠い。沙霧役の清野菜名はラスト場面でマイクが飛んでいたけど、その時の音量の落差がそのまま劇場の広さだった。天魔王の成河だけ、単体で劇場に負けない演技をしていて、あれは素直にすごい。

関八州荒武者隊が思ったよりもよくて、何でだろうと考えたら、台詞を揃える場面の声の大きさと勢いが、ようやく劇場に釣りあっていたからだった。たぶんこの劇場はどんなに派手でも普通の芝居で頑張っては駄目で、劇場の広さに見合ったアトラクションというか、専用に組立てられた場面がないとつらい。古田新太がローラースケートで登場する場面が少しだけあったけど、青山円形劇場でローラースケートを履いた劇団☆新感線なればこそ、客席と映像とローラースケートを組合せて回す演出はできなかったものか。

おまけを書くと、真面目な場面が多かったためか、古田新太が出てきたら客席が待ってましたとばかり何をやっても笑う状態になっていた。路線変更ならいいけど、規模が大きくなりすぎておバカをやる余裕がなくなったのであれば残念。

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イキウメ「天の敵」東京芸術劇場シアターイースト

<2017年5月20日(土)夜>

料理教室を主宰し、マクロビオティクスの料理研究家として最近売れている男。料理番組の収録にも出るくらいだが、過去の経歴は不明で、助手に任せて一切調理を行なわない。料理教室に通う生徒は、夫の健康を気遣って教室に参加していたが、医療健康分野の取材を重ねていた夫は経歴不明の主宰者に興味を持って取材を申込む。過去に食餌分野で名を成した医者の子孫ではないかと追及したところ、子孫ではなく本人だと伝えられる。生きていれば120歳を超えているはずの主宰者が話す、食餌医療追及の果てにたどり着いた長寿の秘訣とは。

元は短編を長編に仕立て直したとのこと。役者は好演。スタッフワークも相変わらずよくて、特に整然と作られた料理教室の美術はロングランの賜物か、このくらい作られていると小劇場感が抜けていい芝居を観に来た気になれる。

2役を演じる役者が多くて、助手と主宰者の妻の2役を演じた小野ゆかりがこの前よりもいい感じ。生徒役の太田緑ロランスもよさそうな印象だったけど、戦前からの回想の話が続くため、回想場面で当てられる役が少なくて役不足。話より先にキャスティングを押さえてしまったんだろうと推測。

長寿の秘訣を長年試して絶望する男と、試したばかりで絶賛する関係者とのやり取りは、どこまで意図したかわからないけど、「太陽」を暗示するかのような場面で、イキウメらしさがよく出た作風。最後、取材後の主宰者と取材する夫との隔たりもいい。ただ、主宰者が話すメインの出来事1本だけで2時間超を引張るにはちょっとつらくて、薄味な仕上がり。長編化するなら、並行して別の問題を進めるか、「生きてる時間」みたいに別の立場からの描写を増やすか、もう一工夫ほしかった。

次回の本編は映画化に合せてなにか奇跡が起きてる気がする名作「散歩する侵略者」、他に新作を長塚圭史演出で「プレイヤー」、脚本のみ提供の秀作「関数ドミノ」、と前川友大の活躍は追いかけたいところです。

で、最後に文句。今回は当日券で観たのですが、割当てられたのが追加椅子席の一番端。なのだけど、ひとつ内側の追加椅子席が最後まで空席だった。これと同じことが以前「獣の柱」のときもあった。なぜ内側の席を売ってくれないのか。受付の手元には10枚くらいチケットが残っていたのに選べないし、もちろん一番端だから観やすいなんてこともない。追加椅子席だから事前の指定席販売に含まれていたとは思えない。

今回はチケットサイトで席未定の当日引換券を販売していたから、チケット販売開始時点で観やすい席を当日引換券に優先的に割当てるならわかる。でも自分が開演15分前でチケットを買った時にはすでに誰も並んでいなかった。それなら残っているいい場所から当日券に引当ててもいいだろうに、何でこんな目に合わないといけないんだ。「獣の柱」のときは一応指定席だったから買った観客が来場できなかった可能性もあるけど、2回目に同じ目にあったので偶然とは思えない。急遽芸能関係者や評論家が来場したときに備えて少しでもましな席を用意しておくとかの理由でも、開演15分前に通用する理屈とは思えない。金を扱う場所なので受付担当は手伝いではなく制作メンバーの一人だと思うけど、そんなに当日券客の扱いが低いならチケットは当日引換含めて全部Web販売、当日券販売しない、くらいまで徹底してくれ。

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2017年5月26日 (金)

新国立劇場主催「マリアの首」新国立劇場小劇場

<2017年5月20日(土)昼>

終戦から13年後の長崎。原爆投下で顔に火傷を負った女は、昼は看護婦として働き夜は客を取る。原爆では無傷だったが防空壕で強姦された女は、その時の男への復讐を考えながら、病弱な夫をささえるために夜中に薬と詩集を売る。キリスト教の信者でもある2人が気にするのは原爆で崩れた長崎天主堂を巡る保存か再建かの協議の行方。特に、その入口に残る、原爆で半分顔が崩れたマリア像の首。

粗筋だけ書くと重たい話だけど、重いというより真剣な話と書いたほうが適切。基本的には神も仏もありはしない世の中で信仰を続ける女たちと、それに関わる、戦争や原爆の影響がある男たちの話。肝心の仕上がりは、脚本に完敗。観られてよかったけど、全力で臨んで脚本の立上げが叶わない結果だった。

脚本がちょっと変わっていて、舞台が長崎だから長崎弁なところまではわかるけど、台詞が詩で書かれている部分が多くあって、一筋縄ではいかない作りになっている。この脚本が書かれたのも舞台設定と同じ時期で、その頃の日本は復興して軌道に乗り始めた頃で、でも戦争の記憶は残っていて原爆の被害者も生きている時代。その時期に戦争とか信仰とか書こうとしたときに、勝手な推測だけど、散文では追いつかないと考えて詩を台詞と同じに扱う形式を思いついたんだと思う。これが脚本を完成度を上げるのと同時に、上演の難易度を格段に上げている。

メインの2人を演じた鈴木杏と伊勢佳世は出演舞台を結構観たことがあって、自分の観た範囲では過去最高。最後の場面の掛声とか、あんな声が出せるならもっと昔から出しておけって声だった。そこに気合の入ったスタッフワークが重なって、脚本の良さが伝わってきた。けど、そのスタッフワークでようやくそこまで届いた感じ。日本記録でオリンピックに出たのに入賞に届かなかったような完敗だった。成功したら最高に立体的な舞台が立上がる脚本なことはわかったし、下手な上演だとそれすら伝わらないのだからレベルが高かったのは確かだけど、「面白い脚本を面白く演じるのは難しい」を地で行く結果になった。

ただ今回については、役者より演出家のほうが責任は大きいと思う。何か方向が揃っていなくて、特に女性陣と男性陣との差が気になった。ロビーに貼られていたインタビューでもこちらのトークセッションでも「難しい」を連発している。じゃああの脚本を誰なら上演できたかというと、それもあまり思い浮かばない。宮田慶子や栗山民也がやっても苦労しただろうし、蜷川幸雄や唐十郎でもちょっと違う。ひょっとしたら平田オリザが青年団で上演したらどうだろうとは想像する。でも原爆をピカドンと呼ぶ芝居を上演できる役者が現代にいるのかとも思う。戦後は遠くなりにけり。

ここまでひどいことを書いてきたから信じてもらえないかもしれないけど、その割には観られてよかったと思っている。完敗にもいい完敗と悪い完敗があって、今回は出し惜しみせずに全力で脚本にぶつかっているのが観られて、結果跳ね返されていたのだけど、いいほうの完敗だった。上手な芝居はたくさんあるけど、一定以上の水準で全力の芝居を観られる機会はそうそうない。さらに、この手強い脚本が他で上演されるとは思えない。興味のある人は今回観ておいたほうがいい。

で、新国立劇場で数年後にリベンジをしてほしい。今回のシリーズで登場している演出家に「東京原子核クラブ」とか「Caesiumberry Jam」とか名作が揃っているから、「日本人脚本家による原子力シリーズ」とかどうでしょう。海外原作を入れていいなら「見えない雲」とか。

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2017年5月11日 (木)

ローザンヌ・ヴィディ劇場製作「ウェルテル!」静岡芸術劇場

<2017年4月28日(金)夜>

引越した先で知合った女性シャルロッテに恋したウェルテル。彼女にはすでに婚約者がいた。叶わぬ恋に悩み自殺するまでの話をウェルテルとして演じる一人芝居。

初日。マイクとカメラでライブ映像を映したりしながら演じ通す。ドイツ芝居(というか原作小説)は強度があって何とでもいじれるとの評判は伊達ではない。恥ずかしながら原作を読んでいないのだけど、開演前にSPACのメンバーがロビーで粗筋解説していた。粗筋がわかったからといって楽しむのに問題ないとの判断もあってのことだと思う。

実際の上演は、本人が客席とのコミュニケーションを楽しむスタイルを好んだようだけど、ドイツ語メインかつ字幕にいろいろ問題があって客席との齟齬が多く、結構滑った。途中で日本語を繰出したり四苦八苦していたのだけど個人的にはことごとく裏目に出ていた。演技はよかっただけにもったいない。

齟齬について補足しておくと、客席に話しかけたりリアクションを期待した芝居が開演直後から多数あったのだけど、英語ならともかくドイツ語だと客席に通じる割合が低く、反応が鈍かった(出来なかった)。特に、途中で一度終わったように見せかけて退室する演出があったのだけど、そこで拍手なり笑いなりを期待していた役者と、いやいや全然終わりじゃないだろそんなのネタだってバレバレだから拍手も笑いも無しで続きを早くというスレた客席(自分を含む)とで思いっきり食い違って、非常に気まずい進行だった。客いじりなんて日本人が日本人を相手にしても難しいのだから、最後まで飛ばしてもらってもよかったと思う。クラシック音楽の演奏会みたいに、最後にわっと拍手するのもいいものだ。

あと字幕はひどかった。台詞と全然合っていないだけでなく、先に進みすぎた字幕を戻したりして(PowerPointのスライドをキーボードで行ったり来たり操作するような)、初日ゲネですらなかった。字幕の完成が遅かったのか、ビデオ含めて一度も上演内容を確認せずにぶっつけ本番でやったのか、字幕のオペ担当が急病で代理になったか。すくなくともドイツ語がまったく分かっていなかったのは確かで、通訳が客席後方で待機していたのだから(オペも客席後方だった)通訳に任せたほうがまだマシだったはず。

字幕についてはもうひとつ。天井の高い劇場の後方を目一杯ライブ映像に使っていたので、字幕がさらにその上に表示された。たぶんそれが原因で、客の目線が上に寄って、客席とコミュニケーションを取ろうとした役者が映像トラブルを疑って最初に何度も後方を確認していた。字幕の配置場所はもっと配慮があってもよかった。映像を使うから悩みどころだけど、重ねてしまってもよかったと思う。途中で前方に幕を追加する演出があって、それがまた悩みどころだけれど。

終演後は役者のフィリップ・ホーホマイアーのアフタートーク。客席から集めた質問を宮城聰が訊く形。ちょっとうろ覚えだけど覚えている範囲でメモ。間違っていたらそれは私が悪い。当日パンフの内容が混ざっているかも。

・小さい頃に独学で詩を勉強した。中学生になって授業でコッポラの映画を観たあと、教師から感想を求められた。他の同級生が何も感想を言わない中で、自分は机の上に立って詩を朗読した。あれが自分の初の演劇体験。

・その後、演劇学校に入って役者の勉強をしたが、そのころに演出のニコラス・シュテーマンと知合った。今回上演した芝居は演劇学校で最初に発表したもので、基本的にはその20年前のときと同じ演出で今回も上演した。「若きウェルテルの悩み」はドイツでは全員が知っている有名な小説で、(一般階級の男性が恋に破れて自殺するというのは発表された1774年当時では衝撃的な内容だったため)ドイツの小説史上でもとても重要な位置づけがされている。

・演劇は自分にとってはこれしかできないもの。他の仕事をやったら「カローシ(過労死)」してしまう。

・普段はできるだけ自分をニュートラルに保って、何かあったときにそれを即座に自分の中に取りこめるように努めている。取りこんだものを芝居に出す。(通訳補足)今回の上演で「津軽海峡冬景色」を流したが、あれは前日の懇親会で流れた曲を本人が耳にして、その場でダウンロードして、今日の芝居に使うことを決めた。

・上演中は飛行機のパイロットのつもりでいる。出発地と到着地は同じでも、周囲の状況は違う。雲の中をどうやって抜けていくか、風が吹いている中で無事に離着陸できるか、状況が毎回変わる中でどうやって運転するかが大事になる。芝居の上演も状況が毎回異なる中で、運転を調整しながら、到着地を目指している。

・(今までで一番記憶に残る公演は?)毎回違う状況で運転しているので、どれが記憶に残るということはないが、今日の公演は滅多にない公演だった(客席の反応が鈍かったことを指している)。

・(ひとつの演技に複数の感情が込められていたが、どのようにしているのか?)自分たちは普段の生活で、すでにそのように行動している。演技でも、できるだけ自分自身を正直に解放するように演じると、そこに複数の感情が表れる。

・(劇中で食器を割る場面で、何のためらいもなく食器を割っていたのに魅了されたが、ためらいはないのか?)あの場面はウェルテルの心がそれを欲しているので、ためらいはない(宮城聰も面白い質問と言っていたけど、日本人ならもったいない意識が働きがちなところ、どうももったいない感覚自体が伝わっていなかった?)

・(大きい声を出すにはどうすればいいですか?)筋肉を鍛える!

こういうトーク、向こうの人たちはとても真摯に応対する印象がある。芸術の国と芸能の国の違いかもしれないけど、ストレートでいいなあという感想と、もう少し照れてくれたっていいんじゃないかという感想と、半々。

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2017年4月15日 (土)

青年団・こまばアゴラ演劇学校無隣館「南島俘虜記」こまばアゴラ劇場(ネタばれあり)

<2017年4月8日(土)夜>

近未来の日本は戦争中。それで捕虜になった日本の軍人たちが、孤立した島に収容されている。もっとも待遇がよいとされているその収容所は平和そのもので、捕虜に課される日々の労働も対したことはない。さしてやることがない労働をさぼって医務室でくつろぐ捕虜たちのある日のひとこま。

Bチーム。初演が2003年らしいけど、日本と日本人の嫌なところを描かせたら筋金入りの平田オリザによる嫌日本人シリーズの系譜の1本。そんなシリーズはないけど今作った。興味深い話だったけど、いつにも増して表現が難しい。いつもだともっと何本も緊張の伏線を張るところ、退屈がテーマなので、たぶん意図的に緊張しすぎないように調整している。

表の話は、やることがなく監視も緩いので、捕虜同士でセックスが盛んになって、それで妊娠した女性兵士を巡る緊張、になりそうなところ、自分で話を広めた結果登場人物全員が知っている状態になってかえってのんびりした状態に。女性兵士の素性は自称と他人の噂と両方出てきて、女性兵士の本当の素性は確定しないままに終わるのだけど、その過程で捕虜たちの心残りが少しずつ出てくるあたりが一応の筋。

平和すぎて退屈すぎて、そうすると日々の生きる張りとなる目的意識も持てないのがあらわになってきて、その借景に何が目的で戦争をやっているのかすらわからなくなった日本を持ってきたり、島のアホウドリは助走しないと飛べないとか飛んでも風任せなんて暗喩も挟みつつ、日本人嫌いになった現地人まで念入りに登場させて、話は(狙い通り)ねちっこくだらだら過ぎていく。

わざわざ公式サイトの説明に、大岡昇平の「俘虜記」へのオマージュと、もうひとつ、坂口安吾の「魔の退屈」の

つまり我々は虚しく食つて生きてゐる平和な阿呆であつたが、人間ではなかつたのである。

を描けないか考えたと載せているくらいなので、この日本人の目的意識のなさ、生きる張りのなさに悪意、と言って悪ければ表現意欲をそそられたのだと思うけど、自分は登場人物とシンクロしそうな感覚があった。あの状況になったら自分もあんな退屈になる確信があった。だからすごい平静に観ていたし、描かれている状況にたいして肯定的だった。

ただそういう脚本の世界観とは別に、もう一段上の仕上がりにならなかったものかと思う。理由のひとつは若い役者が多かったことで、年上の役者が混ざっていたら違う印象をもてたと思う。そこは無隣館メインの公演のためしょうがない。あともうひとつ、どこがどうと言えないのだけど、やっぱり役者にもう少し頑張る余地が残っていた気がする。全3チームあるので、他のチームで観たら印象がかわったかもしれない。

客席も天井も一杯に張りめぐらされた舞台美術で覗き見感満載。勝手知ったるホームグランドの、狭い劇場だからこそ実現できる美術は劇場に入った瞬間から入り込める。一見の価値あり。

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2017年4月13日 (木)

劇団青年座「わが兄の弟」紀伊國屋ホール

<2017年4月8日(土)昼>

奨学金をもらう医学生でありながら家計を助けるために小説家として働き後に認められたチェーホフの、あったのかなかったのかでいうと多分なかったことのほうが多い出来事を通して描かれる、あったかもしれない熱い魂の伝記。

副題が「贋作アントン・チェーホフ傳」だから想像の出来事がほとんどだと思うけど、ニーナという名前の女性が出てきたり、三人の姉妹の住む屋敷に避暑で訪れたり、湖の周りで小説家(チェーホフ)が話したり、たぶん他にもいろいろなチェーホフの芝居や小説から場面設定を取ってきている。ちなみにメインのタイトルは短編小説短編小説時代のペンネームから拝借したとのこと。だからこそ脚本家の想像力で存分に遊べる2時間35分。楽しかった。

青年座はたしか初見だけど、今回は声でキャスティングを決めたのかというくらい声の出る役者ばかりが揃っていた。色々な声なのだけど全員同じゴールを目指して鍛えて獲得した声です感があって、老舗劇団の底力十分だった。正直に書くと、チェーホフの時代で、マキノノゾミのオリジナル脚本なのによくぞ翻訳っぽい調子まで再現したって台詞も多いから、ベテランに比べて中堅若手は言葉が身についていない場面もあった。けどそれも含めて、劇団っぽい一体感にあふれるていた。演出も青年座出身の宮田慶子で、新国立劇場芸術監督の手腕はさすが。もう少し多めに笑いを取りにいける脚本だけど品位を重視してここまで仕上げた。

老舗劇団のよさが出たのは他にもあって、3つ上げておくと、ひとつは年齢に添った役者の配置。劇団M.O.P.ならここは同年代の役者が1人2役、になるところ、年齢の幅が広い役者が専任で出演していて、しかも上手。あと衣装。今回は当時の雰囲気の再現でここは外してはいけない、ここができれば他は最悪ごまかせる要のスタッフだけど、学生劇団だと頑張って用意してもひとり1着になりがちなところ、場面ごとに複数の衣装も用意して、昔のロシアっぽさが出ていた。少なくともそう信じて芝居に没入できた。あと最後に小道具。銀のサモワール(*)はマキノノゾミが遊び心で狙って出しているはずけど、ちゃんと(銀ではなくとも)サモワールの実物を持ってきた。今時なら手に入れるのは難しくないかもしれないけど、ああいう努力が芝居の質に確実に貢献している。別に他のスタッフもごまかしていなかったですよ念のため。

*昔チェーホフの芝居を上演するにあたって「銀のサモワールでお茶を飲む」という場面が出てきて、当時はロシアの情報なんてないから誰も観たことがなくて、八方手を尽くして実物が置いてある店を探して、使い方を勉強させてもらってから上演に臨んだ、というのが、近代演劇史初期の劇団の苦労話兼笑い話兼努力系美談の例として、いろんな本で目にする。

あとマキノノゾミの脚本が不思議で、長い芝居とはいえ全部で4場しかない脚本なのに、全然過不足を感じなかった。チェーホフの一生を描くのが目的ではないとはいえ、それで観るべきものは観た気になれた。場面転換時にはつなぎを兼ねて登場人物による長めのナレーションが入るのだけど、あんな芝居こんな芝居と比べると、すんなり馴染んでいたというか、十分かつ必要なナレーションだった。たぶん情報の量とか順番を上手にコントロールしているからだと思うのだけど、具体的に何が違ってここまで印象が変わるのかわからない。そんなに何本も観られていないけど、当たりの多い名脚本家だと思う。ついでに書くと、これはキムラ緑子がやったらよさそうだなって役があった。劇団M.O.P.を想像しながら書いているのかな。

久しぶりに一体感のある中身も面白い芝居で、いまどきの高額なプロデュース公演に慣れているとこれが4800円はお得。当日券は余裕だったので時間のある人はぜひ。

と芝居は手放しで褒めるのだけど残念なことがひとつ。後半3場に謎の会話が聞こえて、それが3場(後半の前半分)が終わるまでずっと響いて、いい場面だったのに集中力がそがれた。最初は客席かと思ったけど、客席以外から聞こえているような声の響きで(あれだけ長く話していたらさすがに近くの人が止めると思う)、3幕途中でロビーに出る人がいたから扉が開いたけどロビーの声でもなく、スタッフのオペ室か楽屋かな。客席だったら勘違いで申し訳ないけど、本当あの邪魔な会話だけが残念。

<2017年4月26日(水)訂正と追記>

ネタばれを含む引用もとを説明してくれて助かるしのぶの演劇レビューのエントリーが上がっていたので紹介。かっこいいチラシを褒めるのを忘れていたけど、あの絵は兄が弟を描いたものだとは知らなかった。で、タイトルは短編小説時代のペンネームだったとのことなので本文を訂正。

せっかくなので調べてみたら演出のe+の宮田慶子のインタビューを見つけた。この脚本の成立ちが興味深いのだけど、こういうインタビューはある日突然消えてしまうのでちょっと長いけど引用しておく。

──チェーホフは宮田さんからの提案だったんですね。

 もちろん、マキノさんも、チェーホフの『かもめ』を2002年に新国立劇場で演出していらっしゃいますし、わたし自身も『かもめ』を演出してる。実を言うと、ここ数年、アントン・チェーホフがひそかにマイブームだったんですよ。

 脚本(ほん)をお願いしたのが、もう2年前になります。チェーホフの作品は、もちろんよく知っていたけれど、ふたつのエピソードがすごく心に残っていて、ひとつは、あれだけ浮名を流していたチェーホフだけど、なぜか妻を娶(めと)ることが晩年までなかった。

──結婚したのは、亡くなる3年前。ほぼ最晩年でした。

 最晩年にやっとモスクワ芸術座の女優オリガと結婚して。それも別居を前提で結婚するんですよ。「あなたは女優だから、モスクワで仕事をしてくれ。わたしは別の土地で診察をしているから」というように、いっしょに住まない。だから、独得な女性観の持ち主だなと、すごく気にはなっていた。

 もうひとつは、チェーホフにはお兄さんがふたりいて、歳が近いニコライという画家とものすごい気が合って、芸術家としても尊敬をしていた。この兄は放蕩のあげく、早くして結核で亡くなるんだけど、医者としてのアントンは、どんどん病いに蝕まれていく兄の体を診つづけた。

 兄の方も、病気だからといって放蕩三昧を改めない。酒と女に溺れるむちゃな生活、むちゃな絵の創作を続けて、芸術家の業(ごう)を見せつける。最後には、三幕で出てくる別荘に、みんなでニコライを呼び寄せて、たぶん、あと命がもって数日というときに、たまたま長男がやってきたのにかこつけて「頼むよ」と言い残し、チェーホフは危篤状態の最愛の兄をそのままにして、旅に出るんです。

 それで結局、嵐みたいな悪天候のなか、ずぶ濡れで旅を続けていた先で、兄が死んだという電報を受け取る。医者でありながら末期の患者を見捨てるようなことをし、最愛の兄でありながら、最後の死にざまを見ないという……。

──おそらくチェーホフは、意図的に看取らなかったわけですね。

 そう。何がアントンをそこまで追い込んだんだろう。実際にそういう史実があるので、このふたつのエピソードをマキノさんにしゃべったの。

 そしたら、マキノさんは「チェーホフというとロシアの大作家で、すごく端正な作品を書いて……としか思ってないけど、そんな実生活があったんだね」と言いながら、「でも、他にも書きたいものもあるので、時間をください」ということだった。そして、さんざん悩んだあげく、「ほとんどゼロから考え直すけど、アントン・チェーホフでやってみましょうか」ということになった。

──そのようにしてスタートしたチェーホフの評伝劇ですが……。 

 そこからマキノさん、本当に苦しんで書いてくださって。まあ、珍しかったですね。マキノ氏は演劇界広しといえども、珍しく締め切りを守る劇作家。青年座には、いままで一回も遅れたことがない。

──おおっ。

 そのぶん、ご自分の劇団M.O.P.にはすごい遅れたりしてるわけ。だけど、外から発注を受けたものは、絶対遅れないことで有名だったのに、初めて遅れたんだよね。いやもう、それはどれだけ大変なことになってるか、なんとなく想像ついてたんだけど……。

──参考文献だけ見ても、ものすごい冊数ですよね。

 マキノさんはずっと資料を読み込みながら、人間チェーホフをつかみたくて、ずっともがいていたと思うんです。年越さないで台本をいただけるかなと思ってたのが、年越しして、翌年2月にやっといただいて。読んでみたら「ああっ、やっぱり、これはかかるわ」という。ここまで虚実ないまぜに、調べてくださった史実と、チェーホフの作品と、それからご自分の創作の全部を、擦り合わせて、バズルのように組み立てていくには、これだけ時間がかかるのはしょうがなかっただろうと。 

──戯曲のいたるところに、チェーホフ作品がこれでもかとちりばめられてますからね。

 それで、なんとなくチェーホフの実生活までがフィクションのように見えてくる。たとえば、第3幕は現実にあったことなのに、まるでチェーホフの芝居をそのままパクッたと言うと変だけど……。

──そうなんです。チェーホフの短篇や戯曲のエピソードだけを再構成したように見えてしまう。第3幕は特にそうですね。

 あの場面の設定や台詞は『桜の園』にあったな。それから『かもめ』にも、湖のほとりで、みんなでしゃべっていて、最後にニーナがトリゴーリンに憧れる場面があったななどと思ってしまう。まったくそこに流れている空気は、チェーホフ作品ですからね。見事なんですよ。だから、本当に今のチェーホフを作っちゃったよって。

──本当にそう思います。

 だから、不思議な感覚で、われわれも稽古していても、マキノ氏の作品をやってるんだか、チェーホフの芝居をやってるんだか、わかんなくなるような錯覚に陥るところがある。

──文体も神西清さんの訳文を髣髴(ほうふつ)させるところがあって……。

 もう完全に、完全になぞってます。わざと遊んでる。

──同じ文体を、まるでトレースするように描いてるところがありますね。

 そうなんです。だから、かなり上級な遊びになっちゃうけど、作劇する過程で、わざとチェーホフ世界を構築した大枠を、どうやって見せていこうかなと。これは最終的には、わたしの演出の仕事にもなってきちゃうんだろうけど。

──これほどまでに長篇戯曲、一幕劇、小説、短篇の数々が、史実に巧みに組み込まれているのかと驚きました。職人芸の域に達している。

 マニアはたまんないね、きっとね。チェーホフ・マニアは「うわっ、ここに出てきたか」って、思うだろうし……。

あの面白い脚本には相応の苦労があったんだとか、やっぱりあの台詞は翻訳調の再現だったんだ、ということが確認できた嬉しさとは別に、「マキノ氏は演劇界広しといえども、珍しく締め切りを守る劇作家」のフレーズに笑ってしまった。おなじチェーホフの話で井上ひさしの「ロマンス」という芝居があるけど、これは栗山民也が「演出家の仕事」という本に脱稿が本番直前(記憶だと確か5日前)って書いていた。

改めて満足感をかみしめているので、ぜひ再演してほしい。ロシアに持っていけたら面白そうなんだけど、新国立劇場の芸術監督の立場を濫用してできないかな。

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