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2017年12月30日 (土)

2017年下半期決算

2017年下半期決算

恒例の年末決算です。

(1)世田谷パブリックシアター企画制作「子午線の祀り」世田谷パブリックシアター

(2)ホリプロ企画制作「NINAGAWA・マクベス」さいたま芸術劇場大ホール

(3)Bunkamuraその他主催「ウェスト・サイド・ストーリー」東急シアターオーブ

(4)東京芸術劇場企画制作「気づかいルーシー」東京芸術劇場シアターイースト

(5)シス・カンパニー企画製作「子供の事情」新国立劇場中劇場

(6)Bunkamura企画製作「プレイヤー」Bunkamuraシアターコクーン

(7)松竹製作「野田版 桜の森の満開の下」歌舞伎座

(8)日本総合悲劇協会「業音」シアターイースト

(9)シス・カンパニー企画製作「ワーニャ伯父さん」新国立劇場小劇場

(10)小田尚稔の演劇「悪について」新宿眼科画廊地下

(11)Q「妖精の問題」こまばアゴラ劇場

(12)ななふく本舗「浪曲タイフーン!」カメリアホール

(13)風琴工房「アンネの日」三鷹市芸術文化センター星のホール

(14)こまつ座「円生と志ん生」紀伊國屋サザンシアターTAKASHIMAYA

(15)インプレッション企画制作「謎の変奏曲」世田谷パブリックシアター

(16)さいたまゴールド・シアター「薄い桃色のかたまり」彩の国さいたま芸術劇場インサイド・シアター

(17)日本のラジオ「カーテン」三鷹市芸術文化センター星のホール

(18)国立劇場制作「霊験亀山鉾」国立劇場大劇場

(19)ワタナベエンターテイメント企画製作「関数ドミノ」下北沢本多劇場

(20)株式会社パルコ企画製作「想い出のカルテット」EXシアター六本木

(21)KAAT×PARCOプロデュース「オーランドー」神奈川芸術劇場ホール

(22)イキウメ「散歩する侵略者」シアタートラム

(23)シス・カンパニー企画製作「ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ」世田谷パブリックシアター

(24)野田地図「表に出ろいっ!」東京芸術劇場シアターイースト

(25)庭劇団ペニノ「地獄谷温泉 無明ノ宿」神奈川芸術劇場大スタジオ

(26)ナイロン100℃「ちょっと、まってください」下北沢本多劇場

(27)新国立劇場制作「かがみのかなたはたなかのなかに」新国立劇場小劇場

(28)城山羊の会「相談者たち」三鷹市芸術文化センター星のホール

(29)Bunkamura企画製作「欲望という名の電車」Bunkamuraシアターコクーン

(30)ブス会「男女逆転版・痴人の愛」こまばアゴラ劇場

(31)チェルフィッチュ「三月の5日間 リクリエーション」神奈川芸術劇場大スタジオ

(32)マームと誰かさん「ぬいぐるみたちがなんだか変だよと囁いている引っ越しの夜」VACANT

(33)シアター風姿花伝プロデュース「THE BEAUTY QUEEN OF LEENANE」シアター風姿花伝

以上33本、隠し観劇はなし、チケットはすべて公式ルートで購入した結果

  • チケット総額は228980円
  • 1本当たりの単価は6938円

となりました。上半期の20本とあわせると

  • チケット総額は352380円
  • 1本あたりの単価は6648円

です。数多くの芝居を観るためには高い芝居も安い芝居も両方観ることが必要ですけど、それでもあれだけ高い芝居を大量に観て単価が7000円を切ったのは驚きです。

今年の個人的な喜びとしては年間50本の観劇に到達したことです。これまでは記録を取りはじめてからの過去最高が2004年の48作品49ステージ(1本だけ2回観た)。一度は50本越えをやってみたかったけど無理かと諦めていたところ、夏ごろに今年はいけるかもという感触があったので挑戦しました。今年を逃すと多分無理という予感もあったので相当頑張って、最後は「できれば週1回ペース」と言える52本越えも目指した結果、見事達成できました。「どれだけ舞台を観られるかは時間とお金と運次第」とブログの頭に書いていますけど、達成した今なら正しくは「時間とお金と体力次第」だと言えます。体力の重要性を実感した1年になりました。体力は重要です。

ただしふたを開けるまで仕上がりがわからないのが芝居の特徴で、良い芝居に出会えるかどうかは嗅覚に加えて運が重要です。普通は数が増えれば玉石混合になるところ、今回はかなり打率が高かったです。総評は、劇団員や常連役者と組んで劇団芝居の底力を見せ付けた(13)(16)(22)(25)(30)、初見にして今後も機会があれば観たいと思えた(10)(12)(28)、プロデュース公演でよい仕上がりを見せた(5)(19)(21)、何年どころか何十年単位で様々な団体によって上演が繰返される国内外の良脚本で実は難しい一定以上のクオリティを出して見せた(1)(2)(3)(9)(15)(18)(29)(33)、子供向けかと思いきやかなり真面目なテーマを扱ってしかも観て楽しかった(4)(27)になります。

この中でも特に観られて良かったと思うのは、主役級をずらりと揃えてしかも期待以上に笑わせて満足しなかった人はいないだろうという三谷幸喜の(5)、劇団改名を控えた最後の新作が女優限定芝居で生理という話題を時にポップに時に真正面から取上げてしかも芝居としても相当よかった詩森ろばの(13)、蜷川幸雄が鍛えた老若男女のカンパニーを率いて人間の想像力への信頼を覚える圧巻の芝居を創った岩松了の(16)、イキウメの看板芝居を以前よりもはるかによい出来で見せてくれた前田知大の(22)の4本です。全部脚本演出兼ねている芝居でした。しかも4本中3本が新作と、大量に観たこともありますが、近年まれに見る豊作です。さらに選べば(5)と(16)なのですが、上半期の「足跡姫」も足した3本から年間ベストを選べと言われても選べません。これだけ観ても見逃したと悔やまれる芝居は何本もありますが、それは「時間とお金と体力と運次第」と諦めます。

そのほか、今年は勝手に一部に部門賞も設けます。役者では上期の「足跡姫」「マリアの首」から(29)にかけて目に見えて腕を上げた鈴木杏。スタッフでは(15)で抜けるような美しい照明を見せてくれた佐藤啓。美術では上期「令嬢ジュリー」「死の舞踏」での見事なシアターコクーンの使いこなしに加えて(5)で映画のエンディングを思わせる奥行きの使い方が見事だった松井るみ。企画では3本中2本を観て(1本は観損ねた)、好き嫌いはともかく、活動歴に拘らず今後を期待させてくれるラインナップを揃えていた今年で18回目のMITAKA "Next" Selectionを挙げます。

観ている芝居の上演場所が公立劇場に偏っていますけど、実は民間プロデュース公演という企画がかなりあって、しかもそういうのに限って出来がよかったりする傾向がありました。観る側にとっては劇団かプロデュースかというのはどうでもよいのですが、今後も芝居を楽しめるよう人材は育ってほしいです。その場合、事実上自営業の芸能界だとしても、どこかの団体に所属していたほうが育つ確率は高いのではないかと、最近思うようになりました。そういう時期だからこそ、育つ劇団が減っている中で18年間もこういう企画を続けているMITAKA "Next" Selectionの価値が光ります。この手の企画にしては比較的上演期間を長めに確保していたり、スタッフのお勧めコメントなども出して観客を集めようとしているあたり、よい印象です。

その他の話題では、昔から気になっていた「いつまでたっても上手くならない感想文」の話が、何で書けたのかわかりませんが、ぽろっと書けました。長い間気になって内側に溜まっていたものが、高校生の劇評を読んでふたが開いたのでしょうか。今もって不思議です。

それと「観客にどれだけ届いている実感がありますか」の話は、改めて言葉で示されて、少し前の「『ネタバレされたい人』が世の中にいる」も思い出しつつ、いろいろ考える機会になりました。年間50本越えを達成した今年だから実感を持って言えますけど、芝居に限らず鑑賞するという行為は、体力があっても疲れます。対象に働きかけられる要素がほとんどない受身の行為で、考えたり味わったりすることを要求されるからです。普段の会話でも話すより聞くほうが疲れるのと同じ理屈です。芝居で観客側が演者に能動的に出来ることは笑う、泣く、拍手するくらいしかありません。あとは歌舞伎だと掛声もありますが、好きなときに笑ったり拍手したりしてもいいものではないのは皆さんご存知の通りです。

元気なときなら体力と引換えに難しい話を味わう余地もあるのですが、疲れているときは難しい話は頭に入りません。確実に理解力が下がります。そこに妙に小難しい芝居だったり、主張は強いけど提示する技術が下手だったりする芝居を持ってこられた日には、何だこれはと言いたくなります。長くてややこしいなんてもってのほかです。仕事で疲れた身体を引きずって何でわざわざ疲れる芝居を観に行くのかといえば、疲れる以上のある種の感動を味わいたいからです。黒柳徹子が(20)のアフタートークで言っていた「毎年喜劇を上演しているけど、笑えば観終わった人が元気になるから。最近ますます欝になっている世の中で、せめて観ている間だけでも笑ってほしいと願っているから」と言っていたのがどれだけ偉大なことなのか、改めて感じ入っています。

それを避けつつ、でもよい作品を味わったときの感動は体験したいという要求が、積極的にネタバレされたい人のことではないかというのが仮説です。金や時間の無駄遣いを避けるためにネタばれを求める人もいるでしょうけど、ここでは少ない体力や詳しくない分野でも適切に体験できるよう事前に予習してから臨むというポジティブな意味の仮説です。それに関連して、物語それ自体にはそこまで感動をもたらす力はないのではないか、物語を味わうためには一定以上の体力が必要なのではないか、あるいは物語以上に感動をもたらす要素が(少なくとも芝居には)あるのではないか、などの仮説が立てられます。これはまた改めてエントリーを書きたいです。

50本越えを達成して満足したので、2018年はさすがにペースを落としたいと考えています。引続き細く長くのお付合いをよろしくお願いします。

シアター風姿花伝プロデュース「THE BEAUTY QUEEN OF LEENANE」シアター風姿花伝

<2017年12月23日(土)夜>

アイルランドの田舎町リナーン。昔ロンドンに働きに出たものの、いろいろあって実家に戻っている娘。姉2人は結婚してすでに家を出て、病気がちの母と二人暮らし。生活に望みもなく出会いもなく、娘をこき使い嫌味をいう母とはけんかが絶えない。ある日、近所でアメリカに旅立つ人間の見送りパーティーが主催される。招待された娘は、家族の見送りで地元に戻ってきた昔の同級生と再開し、互いに恋に落ちる。

長塚圭史版に続いて2回目は小川絵梨子演出。演出家が違っても悲惨な脚本であることには変わりないけど、初期長塚圭史の暴力っ気全開に比べてこちらはやや抑え気味で笑いもそれなりに。悲惨な話の悲惨なポイントを母娘両方とも強調したのが長塚圭史版で、悲惨な中にもある面白さをできるだけ拾って娘をより重点的に描いたのが小川絵梨子版。でも筋書きを知っていたためか舞台を今の日本に置換えても十分あり得る話だからなのか、抑え気味で笑いを入れようとすればするほど怖い感が強調されて見えた。スイカにかける塩のような、笑えない部分を強調する笑い。

一番の違いは「私はどうすればいいのよ」という最後の母の台詞で、これが全体の重しになって母と娘の言い分が拮抗したのが長塚圭史版で、そこを流して重くなりすぎないようにしたのが小川絵梨子版。観比べたら好みの範囲だけど、昔より体力の弱った今観るなら小川絵梨子版のほうがよかった。

役者については、演技がモダンというか西洋演技のスタンダード風。兄役の吉原光夫と弟役内藤栄一が実に自然で、役の本人がそこにいるような、ストレートプレイのお手本のような演技。那須佐代子の娘はそれよりももう少し役者の色を出して、鷲尾真知子の母はまあうるさい役だったけど(笑)、出演者全員がこのくらいの出来が一般になったら舞台を観に来る客が増えるよねという高水準。あとある程度具体的な美術ではあったけど、家の中も外も、登場人物の見ている景色が共通しているような印象があった。あるようでなかなか見られない仕上がり。

で、それと同じくらい今回の芝居を観ていていろいろ感心したのがスタッフワークの予算組み。

美術は、狭い会場を、通路も使うことによってアクティングエリアを拡げるアイディアはこの劇場では珍しくないかもしれない。けど、サイド席を設けることで客席を増やすと同時に壁を不要にした美術は、舞台を狭くしたのに実際以上に広く見せている。しかも床を張って、ドアを2箇所に建てて、後は家具を置くだけなのでデザインだけでなくタタキや仕込みバラシに要する美術予算の節約にもつながっている。家具や流しをどこから手配したかまではわからないけど、これは金を掛けずに効果を上げるためのベテラン(島次郎)の工夫全開。

それと連動して、同じ室内の場面だけというのもあるけど、照明も少ない器材で賄っていたように見える。奥の暖炉の明かりと台所の電灯をアクセントにして、夜の場面は下手寄りに照明を追加して、あとはクライマックスで必要になる下手奥の数体くらい。ドアより向こうは壁の向こう扱いだから照らす必要なし。サイド席からも見えるようにする必要はあるけど壁を照らさないで済む分だけ器材が減らせたのかな。

音楽も、暖炉やラジオやテレビにスピーカーを仕込む必要はあったけど、古い民謡と効果音がメインだったのでひょっとしてJASRAC税は払わないで済んでいるかもしれない。

あと4人中3人は衣装替えが何度があって、それが舞台や照明のバリエーションの少なさをカバーして、日時の経過を感じさせた。あれに手持ちの洋服が混ざっていれば節約になるし、弟役は衣装替え不要と判断したのであればそれも同じ効果あり。その分はヘアメイクに回せる(この規模でヘアメイクがいるのはなかなか贅沢)。

あとは翻訳。上演料をまけてもらうのは難しいと思うけど、演出の小川絵梨子に翻訳もやってもらうことで勉強してもらった可能性がある。長塚圭史版ですでに目黒条翻訳があるけど、細かいところをより好みにできるのであれば、翻訳の再利用より少し安い費用でも乗るか、となったかどうかは不明。それなりに縁はあっても、新国立劇場の次期芸術監督にそこまでお願いするのも何だけど、背に腹は替えられない。実際どうだったんだろう。

主演が劇場支配人で各方面に縁があるとはいえ、規模の割にずいぶん贅沢な体制の上演だったのが気になってきょろきょろしていたのだけど、昔こんなエントリーを書いた素人の推測はこのくらい。誰か詳しい人がいたら金額もつけて解説してください。

マームと誰かさん「ぬいぐるみたちがなんだか変だよと囁いている引っ越しの夜」VACANT

<2017年12月23日(土)昼>

これまでに発表された作品、私物、本人および存命の父親へのインタビュー、一緒に仕事をしたことがあるブックデザイナーの名久井直子からのコメントを元に、歌人・穂村弘が重ねてきた引越しの日々とその両親とについて構成された話。

マームとジプシーが他ジャンルの作家とのコラボレーションに取組む企画をマームと誰かさんと呼んでいるとのこと。自転車キンクリートと自転車キンクリートSTOREみたいなものか。「小指の思い出」がさっぱりわからなかったのでいつかもう一度と考えていたところこれならもう少し分かりやすいだろうと観てみた。

美しかったけどわかったとは言いづらい。一般的な芝居と比べて何が違うかを考えたけど、前提知識を芝居中で説明していないししようともしていない。「詩はリズム、芝居はテンポ」という台詞があったけど、公開情報その他で前提知識を仕入れてから観るか、ひたすら流れに乗るか、どちらかの態度で臨まないといけない。すごく大雑把な感想だと詩人が役者と映像と音楽を使ってDJをやっているような。野田秀樹を最初に観たときのほうがまだ何か分かった気になっていた。役者の声を含めて音に気を使っているのはわかる。

ほぼ全編、青柳いづみのひとり芝居。穂村弘(のエッセーや短歌を台詞として語る)本人と思しき役や、(映像の)穂村弘へのインタビュアーや、(映像の)穂村弘の父親へのインタビュアーを演じる。その中に名久井直子を演じる場面があるのだけど、観ていたこちらが一瞬戸惑うくらいがらっと演技を変えて、あそこから観る姿勢が変わった。出ずっぱり喋りっぱなしで、でもあまり役者本人感の薄い青柳いづみが巫女っぽいと思ったら、本人も「私は媒介物」と言っている記事を見つけた(前編後編)。もっと他の芝居にも出ればいいのに。

あの芝居の前提として青柳いづみの声と演技がないと多分成立しない。しかも藤田貴大の演出がないと成立しない。それは演劇をライブ体験として捉えるなら強みだけど、シェイクスピア的な後世への残り具合はあまりなさそう。それはつまるところ脚本構成が弱いんじゃないかと思うのだけど、今時は上演を映像で残しておけば上等で他人の上演なんて真っ平ごめんなのか。それとも見慣れたらまた印象がかわるのか。

チケットもチラシもないので少しだけ出ていたもうひとりの男性役者やスタッフの情報は不明。公式サイトにもみつからない。あと当日パンフはおろかチケットもないので、こうやって書いてでもおかないと記録が残らない。チケット作るだけでも手間だとおもうけど何とかならないものか。

会場は原宿らしいおしゃれなスペースで、窓があって遮光していないので、昼と夜とで雰囲気が大幅に違うと思うけど、個人的には昼に観られてよかった。夜に観たら怖すぎる。

2017年12月20日 (水)

チェルフィッチュ「三月の5日間 リクリエーション」神奈川芸術劇場大スタジオ

<2017年12月16日(土)夜>

2003年3月、イラク戦争の最後通牒が突きつけられている夜、ライブで出合った男女が渋谷のラブホテルに泊まり、何となくいい感じになり連泊する。置いていかれた友人はライブに来るかもしれなかった女性のことを考える。渋谷では戦争に反対する人たちが連日デモ行進をしているが、参加者にも温度差がある。何となく緩いノリの若者たちが過ごす渋谷が、普段とは少しだけ違う風景に見えた5日間の話。

2004年初演の芝居。2006年に六本木のSuperDeluxeで上演されたときに観たけど、細かいことは覚えていないので脚本の変更有無は不明。最後の場面が少し長い気もするけど特に変えていないか? リクリエーションと銘打たれたけど以前よりは醒めた感想。率直に言ってすでに古さを感じた。劇場の紹介ページには「もはや"時代劇"とも呼べる本作」と書かれていたけど、時代劇としても現代劇としてもいまいちだった。

それで終わってはあまりなので理由を言葉にする。

・脚本が古い。日本が人も国土も直接影響するかもしれない戦争が起きるかもしれない現在、全部遠い場所で完結したイラク戦争の話は現実に追いこされた。もともと反戦を控えめなトーンで描く芝居ではあるけど、今の時代に対する強度が不足している。

・言葉遣いが古い。サンプルが少ないから実態はわからないけど、今時の25歳以下の若者の大多数は非常に礼儀正しく、ああいう言葉遣いをしないという印象を持っている。世界大会に出場するようなスポーツ選手のインタビューでの受け答えがここ数年で飛躍的に立派になったけど、今の25歳から40歳の間のどこかに賢さの谷間がある。2003年の時代風俗を反映した芝居ではあるけど、その反映が強すぎて今聞くと古い。

・だらしない動きを使った演出が古い。2006年当時、台詞と独立したあの動きは珍重するものではないと自分は批判的だった。けどそのころであれば、あの意味不明な動きやだらしなさがむしろ新しかった。当時の日本人の若者の身体には近いものがあったかもしれないけど、今となっては一時のあだ花になった感がある。

・役者の演技が追いついていない。動きについて言えば、たぶん腰をあまり使っていないせいだとおもうけど、だらしない動きではなくぎこちない演技に見える。MIKIKOがPerfumeの振付について、全身を使った白人黒人のダンスとは違う日本人向けの振付を模索して手先にメッセージを乗せた振付にたどり着いたという話を聞いたことがあるけど、そういうレベルではなく身体が固くて動いていないように見える。あと台詞回しもあのだらしない言葉遣いにに慣れていないように聞こえた。だらしない演技はかなり高度な演技力を求められるものだけど、音響を極力廃して(ひょっとして全然なかったかも)美術と照明を洗練させた舞台には力不足。動きと台詞回しをこなしてさらに役作りまで気が回っていたのは7人のうち渡邊まな実だけだった。あと終盤でデモに抗議するアメリカ大使館の近所の人をやっていたのが他の誰だか失念したけどそこはよかった。

・化粧が今風。自分が当時を覚えている程度には年配だからの違和感だけど、あれは2003年の化粧ではない。

2003年を上演したいのか2017年を上演したいのかがよくわからなく、それが上の否定的な感想の理由の半分くらいを占めるので、脚本を大幅に書換えて、2017年の若者が2003年の若者を演じながら当時の出来事を語る、という枠組みで脚本演出スタッフワークをそろえたほうがいろいろ丸く収まって説得力も増えたのではないか。個人的には分かる人にだけ分かればいいと開き直られたように感じた。それとも自分がイケてないおっさんになったのか。それは否定しない。脚本の構成を読みきれている自信もない(過去と今回の2回観ただけで、脚本を読んだことはない)。多様な芝居が存在することの価値も認める。でも隣の客は寝ていたし、カーテンコールの拍手の熱量も低めだった。この芝居を観て、少なくともこの回を観て、楽しんだり心に深く刺さったりした人が満員の客席にどのくらいいたんだろう。自腹で金と時間を費やして頭から最後まで観た人間として、自分には退屈な芝居だったと書く権利は行使したい。

2017年12月19日 (火)

ブス会「男女逆転版・痴人の愛」こまばアゴラ劇場

<2017年12月16日(土)昼>

大学で美術の講師を勤める「私」は40歳が語る5年前からの話。母の命日に行きつけのバーで出会った「ナオミ」という少年はそのころまだ15歳。親もおらず家もない少年に目を掛けて、家を借りて一緒に暮らすようになる。少年の美しさに心を奪われた「私」は、成長するにつれて見えてきた少年のわがままな面にも目をつぶり生活の支援を続けるが・・・。

谷崎潤一郎の原作は未見。観劇後の声では案外原作に忠実らしい。「私」を演じる安藤玉恵が完全に仕上がっていて緩急自在、しっかりした大人に見えたところからヒモにはまって狂っていくまでを狭い空間で堪能できる、主演女優賞候補といってもいい一見の価値あり。その分だけ絡みの多い少年役の福本雄樹が追いついていないのがつらい。その他4役を演じた山岸門人が、出番は少ないながらも面白い役をこなして盛上げただけに惜しい。

音響は効果音以外はチェロの生演奏、芝居の雰囲気に合っていて堪能。簡素な舞台は自分の席からは見切れがあったものの複数場面をこなすのに有効。ただ照明がかなりベタ明かりで、陰影礼賛を書いた谷崎潤一郎の芝居ならもう少し影の多い照明にしてもあの劇場なら十分見えるし許されたのではないか。

全体には気合十分の満足度の高い仕上がり。これを書いている時点であと1ステージだけど、当日券に挑戦しようか迷っている人には挑戦してみてほしい。

2017年12月14日 (木)

Bunkamura企画製作「欲望という名の電車」Bunkamuraシアターコクーン

<2017年12月9日(土)夜>

裕福だった実家が没落し、教師の職も失った姉が、静養を兼ねて妹夫婦の家を訪れる。初めて訪問した狭いアパートと、気性が荒く深夜まで仲間たちとつるむ妹の夫に面食らいながらも妹の世話で馴染んでくるが、生活を邪魔されて趣味も合わない妹の夫は事あるごとに衝突する。おとなしい独身者である妹の夫の仲間のひとりは姉に好意を寄せてデートするようになるが、ある日、妹の夫が勤め先の仲間から気になる噂を仕入れてくる。

松尾スズキ演出以来、2度目の観劇。すっかり忘れていたけど、改めて観るとやっぱり救いのない話という感想がぴったりくる芝居。大竹しのぶ演じる姉がかなり神経質な演技で通していて実に上手なんだけど、あれでは追出されても文句は言えないくらい高慢な姉になっていて、正直、感情移入ができなかった。そこを補ったのが妹を演じた鈴木杏で、姉を想い夫を愛し気を双方に使いながらもたくましく生きる面が演じられていた。

スタッフワークでは美術がよくて、アパートを中央に置いてあとは劇場の機構をむき出しにしていたけど、あれがアパートの立地を想像させて、建て込めばいいってものではないことを見せてくれた。

ただ、やっぱりそれでも救いのない話は救えなくて、レベル高く仕上がったのだけど観ていてつらい。脚本は脚本として、もう少し姉に同情心のある演出にはできなかったものか。

余談だけど、「足跡姫」「マリアの首」に今回と、鈴木杏が今年は絶好調かつどんどん上手くなっている。昔、同じ劇場でヘレン・ケラーを演じていて、大竹しのぶ演じるサリバン先生に巴投げを食らっていたのを観た身としては感慨深い。蜷川幸雄の薫陶が今になって花開いたか。来年の「ムサシ」も期待。

城山羊の会「相談者たち」三鷹市芸術文化センター星のホール(若干ネタばれあり)

<2017年12月9日(土)昼>

娘一人がいる夫婦の自宅。夫が妻に別れ話を相談しているが、夫が不倫していることを知っている妻は離婚を拒否する。そこへ両親は離婚したほうがいいと考えている娘が会社の先輩を連れて帰ってくる。結婚を前提に付合っていると両親に紹介するが、夫は社会人一年目の娘が早々に結婚することに反対する。気まずい先輩が帰りそびれているところへ、さらに夫への来客者がやってくる。

初見の城山羊の会。離婚したい人と結婚したい人が入混じって、きっかけごとに主導権が入替わって立場が逆転しながらすすんでいく喜劇。似たような経験をした人が観たら身につまされるんだろうか。愁嘆場から修羅場までの見事な展開。小声で演じる芝居と事前にアナウンスがあったが、劇場の規模を考えても本当に小声で演じられて、でも十分聞き取れてしかもぐっと雰囲気が出る。人気劇団になるのもうなづける出来。

全体に夫を中心に描いていて、確信を持って妻を説得するところ、いろいろばれて気まずいところ、自分を棚に上げて娘の結婚に反対するところ、でもおっさんの本気のエロさがかもし出す色気のところ、のそれぞれを演じてぴたりとはまっていた吹越満のキャスティングが成功の第一。両親が席を外した隙にいちゃつこうとする娘と先輩の場面を見せておいて、でもキスだけで親父はもっとエロい、という構成を吹越満が大成功させていた。そのほか全体、役者も脚本も練られていた印象。スタッフワークではモダンな一軒家という印象を持たせつつ椅子やテーブルの配置で立ち位置のバリエーションを増やせる美術がよい感じ。

ひとつだけ気になったのは前説。小声で演じる芝居というアナウンスを含めて劇場の職員が前説をやっていたのだけど、この劇場で上演する場合にはいつも同じ人に小芝居をさせるのが城山羊の会のパターンらしい。適度に話が上手い上にどことなくいじりたくなる雰囲気を持った人なので、前説を依頼したっておかしくないのだけど、自分の勝手な妄想では何となく劇団から劇場関係者への接待のように見えてしまった。何でそんな印象を持ったのか思い返すに、開演前の客入れでこの職員が走り回っているのを見たときの雰囲気と前説での雰囲気とにギャップがあったからだった。ひょっとしたら過去に役者をしていたような頼みがいのある人かもしれないし、そもそも意味不明な妄想と言われてもしょうがないのだけど、個人的な印象としてメモ。

2017年12月13日 (水)

新国立劇場制作「かがみのかなたはたなかのなかに」新国立劇場小劇場(ネタばれあり)

<2017年12月9日(土)朝>

海兵である「たなか」は、出発待機の間、海辺の部屋で暮らしている。この部屋で過ごしていると、やや不真面目な「かなた」が現れて、鏡合わせに暮らしだす。ある日、話し相手のほしくなった「たなか」がピザの配達員の「こいけ」を部屋に連れ込むと、鏡合わせの向こう側には「けいこ」が現れる。ごついのに自信満々であつかましい「こいけ」と、きれいなのに卑屈な「けいこ」を巡って、「たなか」と「かなた」が恋の鞘当を始める。

キャスティングはよくぞこの組合せが集まったという4人。子供向けの話で鏡合わせのダンスを見せて楽しませるこっけいな話、かと思いきや、「こいけ」を邪険にして「けいこ」の取合いから不穏な話に。「こいけ」のいなくなった「けいこ」が、紆余曲折を経た挙句身動きが取れなくなる展開は、いかに自己評価を高くするか、いかに無条件で自己肯定を強く持つか、という心理学の問題を絵本的な物語で描く。子供向けと銘打っているけど十分大人向け、むしろ大人メインでもいい芝居で、自己評価の低いところがある自分にとっては好みの分野。物語だけならごく単純な内容で上演も1時間半を切っているのに、観終わって十分だった感じるのは、こちらが気付いていない工夫や洗練を凝らしているからだと推測。

鏡合わせという設定の割りにそこまで細かくあわせようとしていない動きがやっぱり興味深い。首藤康之はやっぱり一番動きが大きくてきれい。じゃあ近藤良平が見劣りするかというと、説明が難しいけど動きに愛嬌というか色気みたいなものがあって、これはこれで別の魅力がある。でも何といってもきれいなのが松たか子で、単純に見目麗しいし、日舞で鍛えているのかそこまで激しい動きではないけどダンスも負けていないし、あと裾の長い衣装の捌き方が上手なのはさすが。ちなみに松たか子は微妙にお仕事だから頑張っています感の残った演技をするのだけど、それが困っている感じの役をやらせたときには妙なはまり方をして目を引かずにはいられない不思議な役者。長塚圭史は最初からきれいに見せない役どころだから動きは割愛するけど、でも台詞はさすが役者も長くやっているだけあって確かなもの。

再々演があったとして、このメンバーでもう一度かというとさすがに集まらなさそうなので、興味がある人は今回観ておいたほうが吉。日によっては朝公演があるので、そこから他の芝居の昼公演に流れると1日が有効活用できる。

2017年12月 2日 (土)

ナイロン100℃「ちょっと、まってください」下北沢本多劇場

<2017年11月18日(土)昼>

謎の反対運動が繰広げられる町に住む、子供2人に元詐欺師の執事と女中がいる金持ちの家庭。間違い電話も日記に書こうとするくらい退屈すぎる日常だが、内実は借金で火の車なのを夫はしらず、妻と執事がやりくりしている。その家の庭に来たホームレスの家族は、妹が面識のないこの家の息子と結婚すると言っている。やがて家に侵入した妹はなぜか主人と結婚して妻が家を出て行き、ホームレスの家族も居つくことになるが、その父は庭でそれまでどおりの生活を続ける。

登場人物が突拍子もないことを言うと、他の登場人物が真に受けて劇中の設定が変わりどんどん進んでいく、粗筋が粗筋にならない芝居。不条理劇というものらしい。らしい、というのは、こんなに登場人物が真に受けて設定が変わっていく芝居のことをそう呼ぶのかどうかわからないから。「ゴドー待ちながら」も観たことがないくらい不案内。

先にメタなことを書いてしまえば、いろいろな物事がいつの間にか決まったり変更されたりして進んでしまい、しかも大勢の人間が納得してしまっているように見える今の日本の社会にたいして「ちょっと、まってください」「そのまま行くととんでもないことになりますよ」と言いたかったのだろうなと推測する。オープニングでマギー演じる詐欺師に「騙しているうちに嘘か本当か自分でも区別がつかなくなるので詐欺師はやめました」という台詞を言わせるのはずっと芝居を貫くトーンなのである意味親切な説明。芝居の最後に反対運動の一環で子供の声で、うろ覚えだけど「絶対賛成、絶対反対、あなたはどっち」みたいなコールを流したのは、何でも二分でしか判断しようとしない人たちへの皮肉。他にも劇中にそういうものが満載。こうやって書くと重苦しく見えるけど、それを筋には出さないであれだけ笑わせるのだからKERAはすごい。

ただ、全然不条理劇を観たことがない人からすると、とりあえずその環境は受入れるけど登場人物は釈然としないで振回されるのが不条理劇というイメージがある。その点、ベテラン劇団員は全体に流暢に演技しすぎて「釈然としない感じ」が足りなかったのではないか。もちろん上に書いたとおり、今の日本の状況を揶揄するなら流暢に転がしていくのは狙い通りだし、重いことを重いまま上演することを笑いの一人者であるKERAに期待はしないのだけど、それでももう少しナンセンス風味を控えた演技を探る余地があったと思う。

だから自分が今回印象に残ったのは執事役のマギー、ホームレス一家の妹の水野美紀、女中役の小園茉奈と、客演やあまりこれまで出ていない劇団員だった。マギーは最初から最後までずっと微妙な違和感を感じさせてさすが。水野美紀は兄と戯れる場面とか金持ちの夫に求婚されたと語りだす場面の、透明感というか現実感のなさというか、あの違う世界に入っている感じが好き。小園茉奈はごく素直な演技がこの芝居では生きた感じがするけど、今さら劇団員を育てるつもりがないであろうこの時期に劇団に執着するのはもったいないので、次の次公演は出演が決まっているみたいだけど、他にも出番を求めて成長してほしい。

2017年11月13日 (月)

庭劇団ペニノ「地獄谷温泉 無明ノ宿」神奈川芸術劇場大スタジオ

<2017年11月12日(日)昼>

北陸の奥地にある、一部の地元の人間しか来ない湯治宿。冬を間近に控えた季節に、余興を依頼されて東京から訪れた人形遣いの親子だが、その温泉宿はすでに持主が亡くなって所有者はいないという。帰りのバスもすでにないため、相部屋で一晩過ごしてから帰ることに決めた。その一晩の出来事。

これが最後の上演という岸田國士戯曲賞作の千秋楽は満員御礼状態。変態か絶望のどちらかを秘める登場人物たちが、一晩の交流のうちにそれをちらりと見せながら過ごす宿の出来事。ラストも一見平和に見えるけど、いろいろ考え合わせると平和には思えない。全体に粘度の高い芝居で、適度に不親切な脚本と併せて、過去に観た庭劇団ペニノもそんな感じたったよなと思い出す。

マメ山田ありきの脚本でマメ山田が人形遣いを演じたから成立した芝居かと思ったけど、よく考えたら他の役者でも成立するよくできた脚本。でもあの雰囲気はマメ山田ならでは。それも含めて不親切な脚本を不親切に役者は公演。あの狭いスペースに4分割で湯治宿を詰込んだ舞台美術と照明には拍手。

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