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2018年1月24日 (水)

東京芸術劇場主催「秘密の花園」東京芸術劇場シアターイースト

<2018年1月20日(土)昼>

東京、日暮里のアパートに暮らすポン引きとホステスの夫婦の部屋に、ホステスの店の客だった男が通い続けている。ただし男はホステスに手を出さずに毎月自分の給料を渡しており、ポン引きの夫もそれを承知している。ホステスは町の実力者の甥から求婚されているがまだ受けていない。そんなある日、男は大阪に転勤になることを告げる。そこで騒動が巻き起こったあと、男を迎えに来た姉は、ホステスと瓜二つだった。

おっかなびっくりで観たけど、いまいちな仕上がり。アングラな芝居の持つエネルギーに丁寧すぎる演出がブレーキを掛けて乗りこなせなかった印象。柄本佑と寺島しのぶの主人公2人はストレートプレイで、実力者の叔父の池田鉄洋は小劇場、実力者の甥の玉置玲央はアングラ、田口トモロヲは不思議な演技。登場人物ごとに雰囲気が違って揃っていないのと、なによりほとんどの役者の声が出ていない。大量の本水をつかった美術と、選曲に時代を感じさせつつ現代の設備に耐えうる音質の音響など、スタッフの気合が入っていただけに残念。

ただ、いろいろ考えたらそもそも乗りこなせなった印象が正しいかというと、そうとも思えなくなった。ここから先はあまり芝居と関係ない雑感。

大量の言葉と息をつかせぬスピード感で、理解させるより先にわけのわからない設定を進めて、気がついたら何かよくわからない到達感を覚えさせるのが唐十郎の手法。それはやっぱり言葉を意味と音の両方から操れる詩人の仕事で、唐十郎は何よりも詩人だということ。観ていて思ったのは、野田秀樹は確実にこの詩人・唐十郎の系譜に連なるということ。

一方、身体的に個性のある役者(障害者という意味ではないです)を配してある種の重さ、泥臭さを出すのも、特権的肉体論(全然わかっていないけど「訓練された普遍的な肉体としてではなく、各役者の個性的な肉体が舞台上で特権的に『語りだす』ことを目指した演劇論」)と言い出した唐十郎の特徴で、たぶん唐十郎と一緒に仕事をした蜷川幸雄もこれを体質にしたのだと思う。「薄い桃色のかたまり」に出ていた役者陣の演技(もっといえば劇団員選抜の時点)に、その片鱗を感じさせた。蜷川幸雄は脚本の読み解きはもっとテクニカルというか今時風、西洋風だった。この身体性と脚本読み解き技術とが混ざって芝居が出来上がると、洗練されすぎて鼻につくこともなく、かといって泥臭すぎて目を背けたくなることもなく、地に足の着いた仕上がりになって、それが魅力だったのだろうと今になって思う。

出典は失念したけど、串田和美は野田地図「カノン」の出演からだいぶ後のインタビューで、野田秀樹の芝居に出るとみんな声を張って走り回る、ああいうのではない演出もあり得ると思うのだけど気がついたら自分が頑張る余地はなかった、という感想を述べていた。今回の上演は(野田秀樹が芸術監督を務める)東京芸術劇場の「現代演劇のルーツといえるアングラ世代の戯曲を若手・気鋭の演出家が大胆に現代の視点で読み直す」企画であるRooTSの一環で行なわれたものだから、まさに串田和美の指摘どおりの企画。詩人の仕事にも特権的肉体論にも囚われる必要なく、純粋に組立てなおせる可能性もあったはず。

今回の公演に際して松尾スズキがどこかで福原充則を「アングラをよく知っている人」とコメントしていて(他の役者が聞きだしたコメントだったかも、これも出典失念)、それが引っかかっていたけど、なんとなく理解した。たぶんアングラな芝居を原案と違う演出で上演するのに、アングラに詳しすぎるとそれが足を引張って自由度が下がる、それで上演して吉と出るか凶と出るかわからないけど頑張れ、みたいな含みをもたせたのだと推測。

そこまで考えると、田口トモロヲの軽快かつ実感あふれるヒモっぷりが目指すラインではなかったか。暑くるしいアングラ芝居にいかず、かといって嘘臭くもなく、軽演劇風でもなく、今回のキャスティングの中でひとりだけ形容しがたい演技だった。でもあのラインの演技を他の役者がすんなりできるとも思えず、形を変えた特権的肉体論のような気がする。寺島しのぶのおとなしめの演技もそういうラインを目指したのだと考えれば腑に落ちるのだけど、貧乏ホステス感を出すにはちょっと上品すぎたのと、柄本佑が応えられていなくて失敗した。姉役はアングラ感を強めに出していたけど、あの場面の連続ではアングラ感を出さないほうが難しい。ただ田口トモロヲは隅にいるときは細かい演技で、真ん中に出てきたときも声を張りすぎずにやり通した。結局は声か。あの演技の秘密がさっぱりわからない。

観客としては面白ければよくて正解はないのだけど、つまらない不正解はあって、今回の仕上がりは不正解だった。

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