« 2018年2月 | トップページ | 2018年4月 »

2018年3月31日 (土)

劇団青年座「砂塵のニケ」青年座劇場

<2018年3月29日(木)夜>

大会社の創業家に生まれた女性。母は昔から仕事で忙しくほとんど家におらず、父については一晩の行き摺りの男で名前も知らないと教えられて育つ。そんな母への反発から美術修復家の道を進むが、不倫相手の子供を中絶した挙句に自殺未遂を計る。そんな中、一家と長年付合い美術修復家の道を世話した画廊の社長から、一枚の絵の修復を持ちかけられる。かつて画廊が目を掛けていたが早くに亡くなった画家が、最後まで持ち歩いていたパリの風景画だという。画廊の手配で画家がかつて住んでいたパリの部屋に暮らし、画家の手がかりを探しながら修復を手がける。

青年座劇場はこれで建替えるとのことなので一度くらいはと観劇。化粧品会社を買収する上場企業の創業家の母娘で美術に理解がある、とかポーラ化粧品とポーラ美術館を想像する設定。これでもかと分かりやすく展開してくれる芝居としては珍しい脚本で、面白いことは面白かったのだけど、説得力に欠けたのが残念な1本。

先によかった点を挙げておくと、現在と過去のパリの場面。画家の綱島郷太郎、管理人の山野史人、プロフェッサーの松川真也、先輩修復家の野々村のんなど、観ていて芝居世界が広がる演技で、こんなに芸達者な役者をまだ認識していなかったことが悔やまれる役者陣。そこに自由さを感じさせる雰囲気と、登場人物や重なる場面による展開で、特にアパートの舞台が重要なのだけど、回り舞台を駆使して遺跡の柱を混ぜつつもアパートの部屋に仕立ててこれを成立させた舞台美術の功績大。これが展開できるのだから自前の劇場としては贅沢。

残念なのは現在の場面の、特に母娘。増子倭文江は昔のパリの場面での出来がよかった分だけ現在の場面が追いついていない。創業家の娘にして上場企業で海外の化粧品会社まで買収するような大企業の社長らしさを感じられる場面がなかった。ずいぶん時間に融通が利きそうな印象だったけど、創業者の娘だとしてもそれはない。脚本だけど、いまどき買収の記者会見に社員でもない娘を同席させるとかありえない。あと主役の娘を演じた那須凜。劇団の育成方針か演出家の賭けか、抜擢らしいけど仕上がりは追いつかず。大企業の創業家に生まれて父の不在に悩む面、不倫相手の子供を中絶して自殺未遂を起こす面、美術の道に進みたいと言う程度には美術への興味もあこがれも審美眼も持っている点、そもそも脚本の時点で全部そろえるのはかなり無茶な設定だけど、その無茶に説得力を持たせるのが主役の仕事。周りに芸達者が揃っていた分だけつらいものがある。

あと脚本の分かりやすさも、芝居ならもう少し不親切にしてもよかったのでは。サインの話が出てきたら次の場面で鍵となるサインが見つかるとか、詩の朗読場面の次に詩の本が出てくるとか、写真が見つかるホテルは島にひとつしかないホテルとか、情報の提示はもう少し離してほしいところ。テレビドラマだとそういう提示が求められるのかもしれないけど、芝居でそれをやられると侮られた気分になる。他にもう少し主役を主役らしくさせてあげればというか、例えばサインをみたらこれは誰それとか言わせるような工夫もほしかった。

母娘の対立と、母と娘とそれぞれのロマンチックな話と、本筋の面白さはわかるので、脚本を見直して再演してほしい1本。

<2018年4月2日(月)追記>

多少単語を変更。あと松川真也演じるプロフェッサーがニケの歴史を説明する場面について下書きからのコピーミスで落ちていた。客席をルーブル観光のツアー客に見立てて解説させるのは、タイトルにもなっているニケについての知識を観客に伝えるためのよいアイディアだったし、この登場人物がルーブルのバックヤードに出入りしていてプロフェッサーというあだ名で呼ばれるだけのことはあるという説得力につながっていた。なによりニケ好きとしてはもう一度聞きたくなるくらいよい出来の場面だったことはぜひ記録しておきたい。

| | コメント (0)

2018年3月14日 (水)

小田尚稔の演劇「是でいいのだ」三鷹SCOOL(若干ネタばれあり)

<2018年3月10日(土)夜>

東日本大震災が起きた日の新宿駅近く。就職活動をしていた女子学生は面接が中止になった挙句に電車が止まって家まで歩いてかえる羽目になる。喫茶店で離婚届の書類を書いていた女性は埼玉に帰れずに公園で休んでいたところを、寝過ごして地震に気がつかず中野からやってきた学生に声を掛けられてカラオケボックスで休む。スマートフォンの調子が悪い会社員は仕事で六本木に来ている最中に地震に遭う。新宿の本屋で働く女性は入社2年目にして仕事に疑問を抱く。その日の話と、だいぶ経ってからの日の話。

東日本大震災に遭って大小の決断を下した登場人物たちを、カントの「道徳形而上学原論」とフランクルの「それでも人生にイエスと言う」とにひもづけて描く話とチラシに紹介されている再演もの。ここから引用した文章が芝居中に何度か読上げられる。前回と同じく、超スローな出だしに、一人語りが多いスタイル。多いどころか登場人物の2人は登場しない人物としか話さない。すごく地味な話だけど、やっぱり自分には面白かった。新宿近辺やさえない大学生やカラオケなど設定は前回と重なるところが多いけど(再演だから前回が重なっていたのだけど)、それも観ているうちに気にならなくなった。ただこんな学生演劇っぽい芝居のどこが気に入ったのか理解できていない。なので以下の文章もまとまりに欠ける。

似た芝居をしいて挙げれば自分の見聞の範囲ではチェルフィッチュが思いつくけど、「三月の5日間」の超ローカルな話を世界平和まで持っていく曲芸的なスケールの拡げ方に対して、こちらは東日本大震災を背景に持ってきながらそれは背景に留まって、個人が自分自身とひたすら対話して、もっとローカルに内側に向いて、少しだけ自分と上手く付き合えるようになる、格好良くいうと思索が深まるという話。今までの個人を応援する「物語」が、たとえば「ヒッキー・ソトニデテミターノ」ならマイナス100をゼロにしたり、「獣の柱」ではゼロを100にしたり、劇的に描いて振れ幅が大きくなっているところ、マイナス3がゼロに向かって動き始めるまでの細かいところを丁寧に描いた話。いい表現が思いつかないけど、平田オリザの芝居が「静かな芝居」なら、これは「小さな芝居」。

登場人物は自己評価が低かったり夫婦生活が破綻していたり今の自分に疑問を抱いていたりで、少なくとも最初から元気な人物は一人も出てこない。間が悪いことになる人物はいても悪い人物は出てこない。震災は発生するけどその後はイベントらしいイベントもほとんどない。たいていのことは独白で語らせてしまう台詞。登場人物間の関係も5人くらいなら全員がお互いに何か関係のありそうなところ、北斗七星みたいな一本線の関係。それも場所や時間や小道具を調整しての、同じ芝居に登場させる意味があるのかというくらい薄くて細い線のつながり。結局本屋の女性は地震に遭ったのかすら覚えていない。これだけ書いてみたらこんなもの演劇でやる意味あるのかと思えるのだけど、やっぱり演劇になっている。独白だらけの台詞だけど、「ラインの向こう」のように説明調で嫌になるという感じではない。何が違うのか上手く説明できないけど、物語を進行させるのではなく場面として書かれていて、しかも登場人物本人の思考が定まっていないあたりに鍵があるのか。登場人物が頭の中で考えて話が止まらない調子が、小説を読んでいるような気分になる。振返ると、結構言葉は選び抜かれていたように思える。

もっともらしいことを書くなら。

ツールやルートが整備されてすぐに世界につながれるようになった現代(日本の芝居も結構世界に進出してきていますね)では、活躍する人たちの実力や実績はより身近に感じられ、しかも一般の人たち、要領の悪い人たち、最初に行動し損ねた人たちとの差は指数的に開いていく。これら出遅れた人たちは、あるいは自己評価が不当に低くなって自分を貶めるような心情に至ったり、あるいは出遅れたことに焦って行動するもそれが自分の希望に添わない立場に置かれたりする。モノを買ったり趣味に詳しかったり学歴があったり正社員で忙しく仕事をしたりすることが、よくも悪くも素直に自信や誇りにつながる時代は終わって、でもそれに代わって一般人が自信や誇りを得られるような手段は今の日本では見つかっていない。そういう時代にこそ、カントの実践理性やフランクルのような人生を前向きに捉える姿勢の価値を再認識してもいいけど、それを知らない一般の人間がそこに気がつくためには、大震災くらいの衝撃や混乱があってようやく、個人が個人として生きていけるような第一歩を踏出せるようになる、その瞬間を描いた話。

という感じになるのかな。全然違う気がする。フランクルの「それでも人生にイエスと言う」が出てくるのはまさかの引用で、自分の大好きな一冊。あの感じが演じられているから好きなのかも。こんな芝居であんなラストだから、やっぱりあの地震と同じ時期に三鷹で再演したかった気持ちはよくわかるし、それを観られたのはラッキーだった。何となく想像はしたけど、狭い会場を生かして最後の暗転がはまったのはきれい。

役者は前回出ていたメンバーと新しいメンバーで弱い微妙な感じを演じられるメンバーをよく集めている。前回に続いて駄目な大学生役の伊藤拓は面白い身体の動きが観られたのでもっといろいろな芝居ができる役者なのかも。ミニマム感あふれて前回とあまり変わらない舞台美術は予算がないのだろうなという推測。この前観たのが「演劇部のキャリー」だからか、逆にこのくらいミニマムにしたほうが客に想像を強制していいかもと思わないでもない。照明は会場付属の機材に1点の工夫(ミラーボールではない)。そんな中でも音響にまともな環境を投入しているところは好感。

あともったいなかったことをいくつか。

演出。イベントがないわけではなくて、その数少ないひとつに帰宅途中で見かけたペットを亡くした女性とそれをはげます酔払いという場面がある。あれは酔払いにカントを重ねるのも、実家への不安を煽るのも、もっと掘れた。初演のダイジェストがYouTubeに上がっていて、確実に今回のほうが方向が定まっていい仕上がりだったけど、まだいける。

客席。狭い会場で客席数を稼ぐためか、コの字型の客先でさらに舞台上手奥に音響オペを配置するという大胆なレイアウト。音響オペをやったメンバーは目立たないように気配を消していたけど、この狭さだと他の客が視界に入る。あと観ていた感じでは下手の席が割りを食って、役者の後姿が多くなっていた。あれなら下手の椅子を上手に動かしてL字でやれば観やすくて演じやすかったのに、なぜ難しい囲みレイアウトにあえて挑戦したのか。梁があって照明器具が分散されていたのでやむなくか。

あと前回もあった客いじり。この地味な雰囲気の芝居には似合わないし、超少人数の客を相手にやっても盛上げるのは難しいので止めたほうがいい。

最後に上演時間。上演予定時間2時間半に対して終わったら2時間45分というのは夜の回だと三鷹からの帰宅には結構つらい時間帯。あの弱さを作るのにスローなテンポが一役買っているのは確かだけど、その分上演時間に効いている。都心部からやや遠いので平日に15時19時上演ってスケジュールはわかるけど、週末なら13時18時または14時18時のほうがありがたかった。

| | コメント (0)

2018年3月 1日 (木)

カオルノグチ現代演技「演劇部のキャリー」OFF・OFFシアター(2回目)

<2018年2月28日(水)夜>

おかわり

この時間に観られる芝居があまりなくて、昼間に観た芝居が重たかったから重い芝居を続けて観たくなくて、長い移動も嫌で、芝居以外の選択肢を取るには遅い時間帯で、帰ろう。と考えた瞬間に思いついた選択肢。同じ芝居を2回観ることはほとんどないのだけど、1回目がものすごく楽しかったのと、あのライブ感あふれる演技がどこまで作りこまれていたのか気になっていたのもあって下北沢へ。開演前のオクイシュージの口上、「今宵このとき数多の劇場で幕が開く しかし野口 幾千幾万の芝居の中で 俺はこの芝居を一番にしてみせる」だったか(適当)、あれでぐっと引込むようになっているのに今さら気がついた。格好いい。

違っていたのは気がついた範囲では
・前座でカーテン開けすぎとか喉が冷えるとかこれで学校公演1ヶ月くらいやりましょうよとかそういう細かいやり取り
・エチュードで脱いだミッキーへの突っ込み
・エチュードで先輩がミッキーにやらせる適当なストーリー(適当なところで止めた野口かおるにオクイシュージがまだ続きがあったんだけどねと返すと、え、そうだったんだと素に戻りそうになる細かいやり取りは面白かった)
・エチュードと稽古(だったか?)で客席にまで行こうとすること2回
・観覧車の場面で誤解したミッキーを抑える先輩の場面(口がキスのミッキーを手でがっちり押さえる形から頬を付けながら話す形に)
・結果を聞いたミッキーの泣く長さが少し長かったかも
くらい。前座とエチュードの場面を除いたらほとんどない。掛合いが掛合いを呼んでライブ感を出していく面はあるだろうけど、それでもあそこまで作りこめるものかと感心しきり。

モダンな演技なら同じ感情を再現して違う動作で演じるものだと言う人もいるかもしれない。でも椅子2つしかないあの狭い舞台では場面を想定して肝の動きを決めないと観る側が混乱するし、何より作りこまれた脚本があのテンポを求めている。繰返すけど、作りこんだ中にはライブ感まで含まれている。再演で、脚本家が演出したというアドバンテージはあっても、適切な声とテンポをあそこまで突詰めて再現していたのはさすがプロ。ちなみに脚本家が演出した一番のアドバンテージは選曲ではなかったかと推測。

野口かおるの声は劇場の構造か距離の問題か、1回目の近距離観劇ではすごい高音が響いていたけど、離れて聞くと聞きやすかった。オクイシュージの声は、持ち直したけど前座と口上は喉が冷えたどころか滑舌が悪くて一瞬脳梗塞かもと疑ってしまうほど(ごめんなさい)。さすがに1回目のほうが声は出ていた。あのテンションを突っ込み側で一週間続けるのはさぞ喉も体力も消耗するだろう。

勉強になったし、何より2回目でも楽しい芝居だった。千秋楽だからカーテンコール3回までは予想していたけど、まさかスタンディングオベーションする人が出るとは思わなかった。でもその気持ちはわかる。

「Love Letters」みたいに他のコンビでも上演しても面白そうな脚本。年齢が高校生のダブルスコア以上が条件とか。昼間に観た岡本健一と中嶋朋子とかでも務まりそうだし、染五郎あらため幸四郎と松たか子の兄妹出演とかチケット代2万円でも観る。ただこのいい意味での小劇場感、部員が2人しかいなくて廃部になりそうな弱小部活からの一発逆転感はやっぱり今回のコンビのはまり役であり当たり役だった。

| | コメント (0)

世田谷パブリックシアター企画制作「岸」シアタートラム(若干ネタばれあり)

<2018年2月28日(水)昼>

生まれてすぐ母を亡くし、父は旅行に出かけたまま帰ってこないため、母の親族に育てられた青年は前衛映画の俳優もやっている。ある晩、父の遺体が見つかったため引取りに来てほしいと連絡が入る。父の遺体を母と同じ墓地に埋葬しようとしたところ、母の親族から大反対される。父の遺品のスーツケースから自分宛に書かれて出されなかった大量の手紙を見つけた青年は、他の人には聞こえない父の声が聞こえるようになる。母と同じ墓地への埋葬を諦めた青年は、亡命してきた父と母の祖国に埋葬しようと遺体と一緒に旅に出る。

」と同じ作者による、レバノンと思しき祖国での旅。不思議な脚本で、死んだ父親や、小さい頃に読んだ物語の主人公が、青年とだけ話せる形で登場するのはまあ演劇っぽい。それが祖国への旅以降、内戦で苦しんだ若者たちが、遺体の埋葬場所を探すのに賛成してだんだん集まって、その途中で親との悲劇を吐露して共有していく過程が、具体的なのに寓話っぽくて、カウンセリングのような展開を辿る。どうやら仲間内で案を出して作者がまとめるスタイルを取っているらしいけど、さすが「炎」と同じ作者による脚本で、その重い現実感とたどり着く果ての感じがさすがで見所多数。合流する若者の一人がアンチゴーヌと呼ばれる場面、国に対抗して個人の筋を全うしたと言いたいのだなというのはこの前観たばかりなのでわかった。

ただちょっと今回は「炎」ほど感心はしなかった。まず演出でいうと、1幕目の冒頭から3分の1くらい、えっ、と思うくらい誰一人として仕上がっていなかった。一人二役以上やっているのだけど、祖国の場面になってから見違えるようになって、ああこっちに注力するために捨てたなというのが透けて見えた。たぶん時間が足りない中での最善の判断を下したのだろうけど、結果だけ観る側としてはいただけない。あと脚本が、長いのはいいけど、ラストの場面はそれまで言えなかった残り全部を詰込んで明らかに長すぎて、さすがにダレた。勝手に切るわけにもいかないだろうけど、ここで終わってしまえという場面が3回くらいあったのは、観ていてつらいものがある。「約束の血4部作」の第1作らしいので、これが洗練されて「炎」につながるんだなという印象。あとスタッフワークはおおむねよかったのだけど、最後に結ぶあの小道具(ネタばれにつき内緒)が突然増えるあたり、こなれていない。全体に時間が足りない状態で洗練させる余裕がなかったんだろうと推測する。

脚本はどうしようもないけど、演出は千秋楽までに育つことを期待。

| | コメント (0)

« 2018年2月 | トップページ | 2018年4月 »