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2018年3月14日 (水)

小田尚稔の演劇「是でいいのだ」三鷹SCOOL(若干ネタばれあり)

<2018年3月10日(土)夜>

東日本大震災が起きた日の新宿駅近く。就職活動をしていた女子学生は面接が中止になった挙句に電車が止まって家まで歩いてかえる羽目になる。喫茶店で離婚届の書類を書いていた女性は埼玉に帰れずに公園で休んでいたところを、寝過ごして地震に気がつかず中野からやってきた学生に声を掛けられてカラオケボックスで休む。スマートフォンの調子が悪い会社員は仕事で六本木に来ている最中に地震に遭う。新宿の本屋で働く女性は入社2年目にして仕事に疑問を抱く。その日の話と、だいぶ経ってからの日の話。

東日本大震災に遭って大小の決断を下した登場人物たちを、カントの「道徳形而上学原論」とフランクルの「それでも人生にイエスと言う」とにひもづけて描く話とチラシに紹介されている再演もの。ここから引用した文章が芝居中に何度か読上げられる。前回と同じく、超スローな出だしに、一人語りが多いスタイル。多いどころか登場人物の2人は登場しない人物としか話さない。すごく地味な話だけど、やっぱり自分には面白かった。新宿近辺やさえない大学生やカラオケなど設定は前回と重なるところが多いけど(再演だから前回が重なっていたのだけど)、それも観ているうちに気にならなくなった。ただこんな学生演劇っぽい芝居のどこが気に入ったのか理解できていない。なので以下の文章もまとまりに欠ける。

似た芝居をしいて挙げれば自分の見聞の範囲ではチェルフィッチュが思いつくけど、「三月の5日間」の超ローカルな話を世界平和まで持っていく曲芸的なスケールの拡げ方に対して、こちらは東日本大震災を背景に持ってきながらそれは背景に留まって、個人が自分自身とひたすら対話して、もっとローカルに内側に向いて、少しだけ自分と上手く付き合えるようになる、格好良くいうと思索が深まるという話。今までの個人を応援する「物語」が、たとえば「ヒッキー・ソトニデテミターノ」ならマイナス100をゼロにしたり、「獣の柱」ではゼロを100にしたり、劇的に描いて振れ幅が大きくなっているところ、マイナス3がゼロに向かって動き始めるまでの細かいところを丁寧に描いた話。いい表現が思いつかないけど、平田オリザの芝居が「静かな芝居」なら、これは「小さな芝居」。

登場人物は自己評価が低かったり夫婦生活が破綻していたり今の自分に疑問を抱いていたりで、少なくとも最初から元気な人物は一人も出てこない。間が悪いことになる人物はいても悪い人物は出てこない。震災は発生するけどその後はイベントらしいイベントもほとんどない。たいていのことは独白で語らせてしまう台詞。登場人物間の関係も5人くらいなら全員がお互いに何か関係のありそうなところ、北斗七星みたいな一本線の関係。それも場所や時間や小道具を調整しての、同じ芝居に登場させる意味があるのかというくらい薄くて細い線のつながり。結局本屋の女性は地震に遭ったのかすら覚えていない。これだけ書いてみたらこんなもの演劇でやる意味あるのかと思えるのだけど、やっぱり演劇になっている。独白だらけの台詞だけど、「ラインの向こう」のように説明調で嫌になるという感じではない。何が違うのか上手く説明できないけど、物語を進行させるのではなく場面として書かれていて、しかも登場人物本人の思考が定まっていないあたりに鍵があるのか。登場人物が頭の中で考えて話が止まらない調子が、小説を読んでいるような気分になる。振返ると、結構言葉は選び抜かれていたように思える。

もっともらしいことを書くなら。

ツールやルートが整備されてすぐに世界につながれるようになった現代(日本の芝居も結構世界に進出してきていますね)では、活躍する人たちの実力や実績はより身近に感じられ、しかも一般の人たち、要領の悪い人たち、最初に行動し損ねた人たちとの差は指数的に開いていく。これら出遅れた人たちは、あるいは自己評価が不当に低くなって自分を貶めるような心情に至ったり、あるいは出遅れたことに焦って行動するもそれが自分の希望に添わない立場に置かれたりする。モノを買ったり趣味に詳しかったり学歴があったり正社員で忙しく仕事をしたりすることが、よくも悪くも素直に自信や誇りにつながる時代は終わって、でもそれに代わって一般人が自信や誇りを得られるような手段は今の日本では見つかっていない。そういう時代にこそ、カントの実践理性やフランクルのような人生を前向きに捉える姿勢の価値を再認識してもいいけど、それを知らない一般の人間がそこに気がつくためには、大震災くらいの衝撃や混乱があってようやく、個人が個人として生きていけるような第一歩を踏出せるようになる、その瞬間を描いた話。

という感じになるのかな。全然違う気がする。フランクルの「それでも人生にイエスと言う」が出てくるのはまさかの引用で、自分の大好きな一冊。あの感じが演じられているから好きなのかも。こんな芝居であんなラストだから、やっぱりあの地震と同じ時期に三鷹で再演したかった気持ちはよくわかるし、それを観られたのはラッキーだった。何となく想像はしたけど、狭い会場を生かして最後の暗転がはまったのはきれい。

役者は前回出ていたメンバーと新しいメンバーで弱い微妙な感じを演じられるメンバーをよく集めている。前回に続いて駄目な大学生役の伊藤拓は面白い身体の動きが観られたのでもっといろいろな芝居ができる役者なのかも。ミニマム感あふれて前回とあまり変わらない舞台美術は予算がないのだろうなという推測。この前観たのが「演劇部のキャリー」だからか、逆にこのくらいミニマムにしたほうが客に想像を強制していいかもと思わないでもない。照明は会場付属の機材に1点の工夫(ミラーボールではない)。そんな中でも音響にまともな環境を投入しているところは好感。

あともったいなかったことをいくつか。

演出。イベントがないわけではなくて、その数少ないひとつに帰宅途中で見かけたペットを亡くした女性とそれをはげます酔払いという場面がある。あれは酔払いにカントを重ねるのも、実家への不安を煽るのも、もっと掘れた。初演のダイジェストがYouTubeに上がっていて、確実に今回のほうが方向が定まっていい仕上がりだったけど、まだいける。

客席。狭い会場で客席数を稼ぐためか、コの字型の客先でさらに舞台上手奥に音響オペを配置するという大胆なレイアウト。音響オペをやったメンバーは目立たないように気配を消していたけど、この狭さだと他の客が視界に入る。あと観ていた感じでは下手の席が割りを食って、役者の後姿が多くなっていた。あれなら下手の椅子を上手に動かしてL字でやれば観やすくて演じやすかったのに、なぜ難しい囲みレイアウトにあえて挑戦したのか。梁があって照明器具が分散されていたのでやむなくか。

あと前回もあった客いじり。この地味な雰囲気の芝居には似合わないし、超少人数の客を相手にやっても盛上げるのは難しいので止めたほうがいい。

最後に上演時間。上演予定時間2時間半に対して終わったら2時間45分というのは夜の回だと三鷹からの帰宅には結構つらい時間帯。あの弱さを作るのにスローなテンポが一役買っているのは確かだけど、その分上演時間に効いている。都心部からやや遠いので平日に15時19時上演ってスケジュールはわかるけど、週末なら13時18時または14時18時のほうがありがたかった。

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