才能の発露について
日経ビジネスのコラム(要登録)からです。義太夫はまだ観たことがないけど、何か納得しました。
誰もが感情過多で、大げさで、身勝手で、常に自己憐憫の虜になっている。しかも、彼らは、たやすく激発し、ことあるごとに自暴自棄に陥る。
この5年ほど、年に何度かお誘いを受けて義太夫を見に行く機会に恵まれているのだが、見るたびにあきれるのは、あの時代の演劇台本の中で暮らしている人々のうちにある不穏極まりない激情だ。
最初のうちしばらく、私は、太夫の口舌の中で展開される人物像の直情径行のありさまにただただあきれていた。
どうしてそう簡単に死ぬの腹を切るのと短絡するのかと、知的な現代人たるオダジマは、緞帳の手前に浮かび上がる近世人の阿鼻叫喚を訝しんでいた。
ただ、何回か通ううちに理解したのは、われわれの集合無意識を父母に持つ演劇的な人物は、観客の理性や賢さではなくて、われわれの感情と愚かさを代表して舞台の上に立っているということだった。
別の言い方をすれば、義太夫のような演劇台本は、理屈で説明できないわれわれの民族の愚昧な感情を体現しているからこそ、時代を超えて人の心を打つことができるわけで、誰であれ小論文みたいな芝居を見たいわけではないということだ。
でもこのコラムの一番の注目は以下。才能についてこんなにきっぱりとした指摘は初めて読んだ。
才能が、「やすやすと作品を生み出す能力」だったり「努力なしに成果が出る」魔法の杖としてもたらされるものであるのだとしたら、こんなめでたい話はないのだが、多くの場合、才能は、「特定の対象への尽きせぬ執着」という形でそれを持たされた人間を蝕むことになっている。
上手い奴ほど見切って辞めていくと聞いたことがある演劇業界だから、長く続けているというのも才能なんでしょう。その一方で、年齢制限を設けて引導を渡す将棋界のようなものもあります。結局才能というものはない人にはわからないんでしょう。私もわかりません。
だからどうしたと言われても困りますが、オチのこの文章に非常に心打たれたので引用してみました。
何の係累もない、はるか海の向こうの局外者が、誰かを救うことがある。
これこそが才能の力だと思う。
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