2018年12月18日 (火)

シアター風姿花伝企画製作「女中たち」シアター風姿花伝

<2018年12月15日(土)夜>

あまりよくない経歴を持つ、姉妹で奉公する女中たち。主人を密告し奥様を悩ませ、形見分けとして財産をもらおうと画策する。留守を狙って奥様の部屋で将来を夢見ていたが・・・。

虚実が曖昧な芝居と当日パンフに書かれていたけど、観た感じははっきりしていて特にそうは思わず。むしろ客を笑わせようというサービス精神の多い脚本と思えた。オープニングのどっきりとか、女中たちが奥様の口調や仕草を真似るところ(後で奥様がそのような演技をする)や、飲みそうで飲まない煎じ薬の扱いなど、そこは脚本家が絶対狙っているだろ、というネタが多い。もうだめだ、と嘆く台詞も笑わせどころにできたはずで、これは絶対喜劇。

なのだけど、鵜山仁がそうとう真面目に演出して、もちろん質は確保されていたけど、なんかアングラっぽい雰囲気になってしまってネタが生かされていない(白黒のメイド衣装にアングラを連想してしまったのは自分の偏見か)。いい感じの奥様の甘ったるさが放置されてしまったし、そして女中2人とも演技以前に存在に貫禄がありすぎて女中らしさが薄く、奥様との上下関係が弱い。那須佐代子の最後の長台詞は圧巻だったけど、あれをより生かすにはそこまでにもっと笑わせておいてほしかった。

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2018年12月15日 (土)

Bunkamura企画製作「民衆の敵」@Bunkamuraシアターコクーン

<2018年12月14日(金)夜>

ノルウェーの田舎町。見つかった温泉を整備して保養にふさわしい地域として宣伝し、町が活気にあふれている。が、温泉整備の発案者であるドクターは、保養客が病気になったのを不信に思い調べたところ、採取ルートが悪かったため汚染されていることがわかる。この事実を公表しようとするが、市長で温泉施設長も兼ねる兄は影響の大きさから発表を見合わせるように弟を説得する。それでもドクターの発表の意思は変わらなかったが、兄は具体的な町の損害を算出してドクターに賛同する人たちの説得を開始する。

イプセンでまだ見たことのなかった一本。タイトルが半分ネタばれだけど、実に設定の上手な、これは揉めるに決まっているだろうという状況で意見を変える人たちの姿を描いた秀作。自分には多数派がついていると最初にドクターに言わせて、後で多数派を非難するというあの脚本の意地悪さ。

加えて演出で上手だったのが、堤真一演じるドクターを単なる正義の味方にせずに、日常生活にやや想像力の欠ける人間として描いたこと。町の住人が、持っている土地や株券がパーになったり、失業したり、そこまで可能性を考えてなお決断するなら立派だし、そこまで考えたら行動に移れないとも思うけど、あの態度では他人事ながら手のひらを返されても不思議ではない。盗人にも三分の理というけど、観ていて市長や記者や不動産協会会長の立場に感情移入の対象が移ることが一再ならずあって、その点では芝居として実によいバランスだった。観た人に、誰の意見に賛成するか訊いてみたい。

編集長の谷原章介と、不動産協会会長の大鷹明良がいい感じ。兄で市長の段田安則と、ドクターの一家に味方する木場勝己は実にはまっているのだけど、個人的にはいつも似た役どころで観ているので、逆の役で観たかった。あと、音響が実に上手。普段は舞台から飛んでくるような音だけど、今回は劇場に音が湧いて充満するような音響だった。あれは劇場改修の成果なのか、今回の音響デザインがよかったのか、知りたい。

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新国立劇場主催「スカイライト」@新国立劇場小劇場

<2018年12月14日(金)昼>

ロンドンの、治安がよくない地域でアパートに独り暮らしをする女性の元に、かつて一緒に暮らした一家の息子が訪ねてくる。女性が出て行き、母が亡くなってから父の様子がおかしいので会ってほしいと言う。息子が帰ったあと、父である男性が訪ねてくる。女性は実家を出て男性が経営するレストランで勤務し、その一家に見込まれて一緒に住んでいたが、男性と不倫関係にあり、関係が妻に知られてから姿を消していた。話は近況の報告からお互いの価値観、そして過去の出来事と様々に進む。

小川絵梨子の芸術監督就任後初演出。ほぼ出ずっぱりの蒼井優と浅野雅博が、とにかくしゃべる。その会話の内容がいかにもイギリス芝居っぽい。相手をしゃべらせて、非難して、その言葉から相手を非難し返して、仲直りして、またしゃべらせて、がなんども続く。同じ出来事に対してこれだけ違う見方を提示しながら会話を続けるのは立派。1995年初演らしいけど、それにしたって浅野雅博演じる男性は余計なことを言い過ぎで、あれでよくひっぱたかれないなという脚本。ラスト15分ごろ、タクシーを呼ぶところからの蒼井優が突然いい感じになって、この人は高い声を普段無理して出しすぎで、もっと低い声のほうが楽に発声できるのではないか。

劇場の中央横に舞台を置いて、舞台を挟む席とギャラリーを囲む席の配置だったけど、役者の顔はやっぱり正面席優遇の感は否めず。今回入って奥側で観たけど、台所から食卓までの導線が正面向くようになっていたけど、それなら椅子や床に座ったときで顔の向きの按配を調整してほしかった。何度も書くけど、囲み舞台をやるなら稽古場の演出家席がわかるようなバランスはやめてほしい。あと入って正面から見て下手側の席だと、上手側と比べて窓が内よりに配置された舞台美術で、あれが役者に重なってストレス。床から上がる玄関を配置したのと、窓から差込む光を照明で作るために位置と距離を稼ぎたかったのが理由だと思うけど、あれでS席として同じチケット代ってことはないだろう。座席の不満が大きくて感想が薄い。

<2018年12月16日(日)追記>

寝て落着いたから思い出したことを若干ネタばれで追記。

表向きは不倫していた2人が過去や互いのよかったこと悪かったことを振返る話だけど、その振返る内容のかなりの部分に貧富の問題が含まれていて、そちらが本筋ではないかと思う。特に、治安のよくない地域からレストラン経営で身を起こして一代で富裕層になった男性と、弁護士の娘に生まれて大学を優秀な成績で卒業したのに治安のよくない地域に住みながら教育に力を注ぐ女性との対比は、役の基本背景として隅々まで行き渡っていてほしかった。それが最後に、あなたはどんなときでも現状では満足できない人、君は自分の身を他人に預けることが出来ない人、のすれ違う台詞で締めくくるような脚本になっていたはず。

この線でいくと、寝室を豪華に作ることが罪滅ぼしになったと考えていた男性と、もう花は見たくないと言った男性の妻とのすれ違いもあって、そこに貧民にも成金にも共通な軽蔑される要素を描くという、いかにもイギリスっぽい、ある意味嫌味な面もあったはず。

そんなことをつらつらと考えると、男性を演じた浅野雅博が紳士すぎた。人に命令しなれて、見下して、成功がさらに自意識を拡大して、でも飽くなき上昇欲を持ち、創業者ならではのエネルギッシュな魅力を放出して、少なくとも料理については唐辛子を先に入れる以外にも豪華な朝食を食べるなど一家言あり、それらが今はぺしゃんこになっているけど認められないという、少なくとも紳士ではない面をもっと見せてほしかった。相手を非難するときも、言葉の割に攻撃感が少ないというか。

もうひとつ違和感があったのは、ワンルームが広すぎたこと。囲み舞台にしたせいで壁を立てられなくて台所やストーブでしかボロさを出せなかったのはわかる。でもその場合にどこで貧しさを感じるかといえば日本人としては広さで、貧しい地域とはいえ1995年でロンドンで手ごろな家賃であの広さが借りられるのか。いや舞台美術なのはわかっているけど、それでも手狭さを出せなかったものか。

あと芝居とはまったく関係ないけど、終演後のカーテンコールで蒼井優のお辞儀に感じた真剣味というか深刻さというか、あれは何だったんだろう。単に少し長くお辞儀しているのがそう見えただけなのかな。

<2018年12月17日(月)追記>

何でろくに知らないイギリスの芝居にこんなコメントが出てきたのかと自分で疑問だったけど、これだ。「イギリスでは労働階級出身だと芸能人になれないらしい」ってエントリーを書いていたんだ。

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2018年12月10日 (月)

M&Oplaysプロデュース「ロミオとジュリエット」下北沢本多劇場

<2018年12月8日(土)夜>

2つの名家が反目を続けて勢力が二分されている街、ヴェローナ。一方のモンタギュー家の御曹司であるロミオは恋に破れたばかり。いたずら好きの友人にそそのかされて、もう一方のキャピュレット家が主催する仮面舞踏会に潜り込む。そこでキャピュレット家の一粒種の娘、ジュリエットと出会う。

「なるべくまんまやる!」という宣言通り、笑わせるためにところどころで役者に面白いことをさせたり台詞のニュアンスをいじったりしていたけど、だいたい脚本には忠実だった。なので粗筋は前回観た新国立劇場研修所版と同じ。シェイクスピアが生きていた時代はもっとごちゃごちゃ猥雑な雰囲気で上演していたはずだからこれもいけるはず、という狙いがあるとどこかで読んだけど、「ヘンリー四世」の佐藤B作を観たあとだと、そういう狙いも外れていないという予感はあった。で、結果は半分成功していて半分失敗していた。

先に成功していたところを書くと、まず笑い。このくらいいじっても耐えられる強度のある脚本だったというのはひとつの発見だった。その前提で、芸達者なベテランを配置して、崩し具合をコントロールしていた。

皆川猿時が飛び道具をこなしていたのはわかりやすいけど、ごく素直にいい感じの役者が多い中で細かくネタをこなして好感を持てたのがキャピュレット家の安藤玉恵と池津祥子と大堀こういち、大公の今野浩喜。そして意外にも三宅弘城のロミオも、年齢は高くとも身体が動く点で若々しさをカバーして、もちろん演技力もあって、成立していた。

抜群によかったのが神父役で、誰がやっているのかわからなくて終わってから確認したら田口トモロヲだった。真面目とネタの切替え、それでいて脚本の本筋にも関わる神父の真摯さを保ったあのバランスが、今回の演出に一番あっていた。「秘密の花園」の一風変わった演技よりもさらに上で、あの神父はもう一度観たい。ここを守ればあとはいくらでも崩せるという線を見極めていた模様で、その秘密が知りたい。一度にふざけるのは一人までとか声のトーンは一定の範囲を維持するとか、何かルールがありそうなのだけど分からずじまい。

スタッフワークでいうと、衣装を頑張ったのがいい感じ。あと半分は役者だけど、剣を使った喧嘩のアクションが身体にあたるすれすれで、観ていてどきっとした。

残念だったのが、ジュリエットの森川葵。キャンセル騒動からの代役で初舞台でジュリエットであの台詞量がきついのはわかる。ただそれら悪条件を差引いても、女優魂を感じさせてくれる台詞回しがなかったのは残念。強度のある脚本ではあるけど、それだけに特にロミオ役とジュリエット役は人材が求められる。三宅弘城があれだけ成立していたなら、いっそ片桐はいりとか連れてこられなかったか。

次に演出。ネタに時間を割くためか、長めの脚本を休憩無しの時間(今回約2時間15分)に収めるためか、全体にそうとう早回しの一本調子になっていた。登場人物が多いうえに脇役は複数の役者が兼ねるので、ある程度丁寧にやってくれないとややこしい両家の関係が頭に入りにくい。加えて、言葉にしづらいけど、本来の雰囲気を目指して入れたネタと、みんなロミオとジュリエットの粗筋くらいは知っているだろうという前提で崩したネタとが混ざっていたような印象。今回の演出だと後者のネタは混ぜてはいけないのではないか。どこがどうとは指摘が難しいけど。

スタッフワークでは音響が、どうも演出の雰囲気に沿っていない。今回の演出だと、笑わせるところと真面目なところの区別を客席にはっきり伝えるのが重要で、音響はそれを促進する役割があったはずのところ、いまいちわかりにくかった。

もっと猥雑な雰囲気を出せるはずという企画と演出の挑戦には敬意を表するし、所々成功はしていたけど、残念ながら満足には届かず。値段を考えたらなおのことこの出来では不満。「メタルマクベス」という名作を書いた宮藤官九郎にして、演出の狙いを整理し切れなかった、あるいは時間切れで詰めきれなかった印象。脚本の難しさを再認識する結果になった。どこかで再挑戦してほしい。

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2018年11月21日 (水)

神奈川芸術劇場プロデュース「セールスマンの死」神奈川芸術劇場ホール

<2018年11月18日(日)昼>

1950年代のアメリカ。セールスマンのウィリーは、60歳を越えて成績不振から歩合制にされ、なおかつ車で数百キロ以上走る田舎の担当に回される。妻は励ましてくれるが、最近はまったく収入がなく、家や家財のローンがあと少し残っていて辞められない。自慢だった2人の息子も長男は職が定まらず全米を放浪し、次男は近所にアパートを借りて女遊びにうつつを抜かしている。数ヶ月ぶりに長男が家に帰って家族4人が揃うが、心身ともに疲労しているウィリーはふがいない息子に説教をし、それに反発する長男と衝突する。とりなした次男のアイディアで起業の準備を進めることになり、家族に平和が訪れたように思われたが・・・。

千秋楽。タイトルがすでにネタばれで、オープニングの演出もネタばれなのだけど、そこに至る過去と現在を休憩はさんで3時間20分でこれでもかと描く。観なければよかったかと一瞬思わせるくらい重たい前半から、父と長男の立場や長年の心境の変化を解いてみせる後半まで、きつくて、いたたまれなくて、どこにも正解なんてなくて、でもそれだけでは終わらない話は有名なだけのことはある。それを直球ど真ん中の演出で隅々まで明確に立上げた長塚圭史の力作。

疲れすぎて神経がまいって危ない父親の風間杜夫と、まったく笑わせない山内圭哉の2人が軸としてしっかりしているけど、周囲もとにかく素晴らしい。この日の出来のよさでいったら健気を絵に描いたような妻役の片平なぎさが一番。あと近所の友人役の大谷亮介の柔らかさと、その息子で長男の同級生役は加藤啓であっているかな、あの整った感じは記録しておきたい。少し迷ったのは芸達者なのにチャラい演技で通した次男役の菅原永二で、実際チャラい役どころだけど脚本上はもう少し幅を求める役で、あれは風間杜夫や片平なぎさが重量級の分だけ演出が全体のバランスを調整したか。

有名な話というだけでなく、脚本がよすぎて演技演出に求められるハードルも高いのにクリアしているというまたとない座組。横浜千秋楽だけど関西で公演があるから、そちら方面で興味のある人にはぜひお勧めしたい。ただし体調は整えて。

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2018年10月30日 (火)

青年団「ソウル市民1919」@こまばアゴラ劇場(若干ネタばれあり)

<2018年10月27日(土)夜>

京城で商売を営んで稼いでいる一家。初代の大旦那は病気で寝込んでおり、孫娘は離婚して戻ってきているが、息子達が手がける商売は順調で、日本人と朝鮮人の使用人に加えて文人食客をおいて裕福に暮らしており、興行のための相撲取りまで呼んでいる。が、朝鮮人の使用人たちの姿が見えない。表通りでは朝鮮人たちが大勢集まっているという。

1919年の3月1日に行なわれた三・一運動を背景にした芝居、と言っても当日パンフに書かれていた通り、三・一運動というものは私も知らなかった。日本からの独立を目指し(て失敗に終わっ)た運動が始まった日を借景に、内地(日本)に嫁いで憧れていた日本が嫌になった長女とか、大喰らいを責められたり八百長の興行師に従ったりするのが嫌になって憧れの南国を目指して退去する力士とか、日本から京城に来て居ついているオルガン教師とか、日本から独立する人たちを描く。それが同時に、独立できない、独立という発想すらない日本人を描くことにもつながる。冒頭から、ほぼ朝鮮育ちなのに漢字混じりの朝鮮語のビラが読めないという場面が象徴的。内地に行って初めてあんなに大勢の貧乏な日本人を見た、何もかもがじめじめしている、朝鮮のほうがいい、という長女の台詞は、「中橋公館」で描かれた日本への距離感に似ている。

昼に観た「ソウル市民」が嫌な面を上手に切取って描いたのに比べると、こちらのほうがより日本人への批判精神が多い印象で、その点に2000年初演、「ソウル市民」から11年の差が感じられる。替歌の東京節で締める終わり方、とりあえず歌で締めるのは近作の「もう風も吹かない」や「日本文学盛衰史」でもあったけど、このころからすでにやっていたのだと発見。

役者はもういつも通り、好きな人でも好きな役でも選んでくれという出来。そこから無理矢理名前を挙げると、「ソウル市民」と2本通して中心どころで活躍したのが山内健司と荻野友里、2本通してジョーカーのような立場をきっちり演じて世界観を拡げたのが太田宏と木崎友紀子、2本通して似たような役でも幅の広さを出して見せたのが井上みなみ。

終わってから渋谷に出たらハロウィンの仮装だらけで、100年前から現代にワープした違和感があった。

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青年団「ソウル市民」@こまばアゴラ劇場

<2018年10月27日(土)昼>

京城で商売を営んで稼いでいる一家。商売は順調で、日本人と朝鮮人の使用人に加えて文人食客もおいて裕福に暮らしている。いつになく来客が多い一方、出かけるものも多い。来てほしい客が来なかったり、来てほしくない客が来たり、いつの間にかいなくなったり、なぜか出かけていったり。

日韓併合が1年後に予定されている1909年を舞台に、というのは分かっているけど、今どき朝鮮人という単語が出てくるだけでどきどきする。朝鮮人を対等に扱っているつもりですでにそれが差別意識の発露とか、朝鮮人の使用人がいる前で朝鮮の悪口を言ってフォローするとか、フォローがフォローになっていないとか、あの手この手で本人たちが自覚していない差別感を極めて自然に描く。朝鮮人に文学は難しいといいつつ日本語を間違える長女に、実は熱心に日本語を勉強している朝鮮人の使用人が日本語の間違いを指摘する場面だけでも、凡百の脚本化が到達し得ない領域。

最近の芝居よりは、少なくともこの後に観た「ソウル市民1919」よりはシャープに思えて、でもそれもほんの少しだけこなれ方が足りないくらいのもの。登場人物のそこここに色恋の気配が漂うあたりは、「S高原から」や「カガクするこころ」のような初期らしさを感じさせる。近代口語演劇はこのとき描く対象を見つけたと平田オリザは当日パンフで書いていて、1989年の初演からどれだけ脚本に手が入っているのかは知らないけど、30年経った今観てもまったく古くない。追加公演も出ているので観たことのない人はこの機会にぜひ。

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2018年10月26日 (金)

KERA・MAP「修道女たち」下北沢本多劇場

<2018年10月25日(木)夜>

とある国の、主と聖女を崇める宗教の修道院。冬には毎年、この宗教の聖地とされる山荘のある村まで出かけて過ごす習慣に従って、出発の準備をしている。が、半年前のある「事件」のため、47人いた修道女たちの大半が亡くなり4人まで減って、新たに加わった2人を加えた6人しかいない。この宗教を快く思っていない国王に交代してから信者への迫害が続き、出発前から波乱含みだったが、果たして山荘に着くまでも着いてからも相手にされない事態が続く。生き残った修道女の一人と仲のいい村の娘と、その娘を気遣う村の男との世話でかろうじて山荘の生活を開始するが、そこからさらに数々の事件が起こる。

うっかり調べなかったら平日夜には厳しい3時間15分の大作。長い時間をフルに使った表の物語は信仰と罪と宗教と赦しを扱って生きるとは何なのかを描く壮大な一本。裏の物語は声を上げるべきときに上げられない時代の末路を予言的に、「ちょっと、まってください」よりは現実の直接的な連想を抑えるよう狙って描いた一本。張った伏線はきっちり回収するし、悲劇的な背景の中にも少し前のナイロン100℃を思い起こさせるノリで適宜笑いがあって飽きないし、ここ一番ではきっちり締めて、緊張感とクオリティのコントロールは折紙つき。

KERAが下手な役者を連れてくるわけはないし全員いいのは言うまでもないけど、鈴木杏がおいしくもややこしい役を見事にこなして、完全にベテラン女優の域。あとこの中では相対的にそこまで目立たない伊勢志摩の、出すぎず引きすぎずちょうどよいポジションを維持する技量は改めて見直した。今回スタッフワークもいつも以上に方向が揃った印象だったけど、雰囲気にあった音響と、普段の場面にも見栄えよく最後にそう見立てて使うかという美術と、単純ながら効果的な使い方を提供した映像を挙げておく。

今日見た時点では当日引換券をまだ売っているし、後ろや端の席なら当日券でもいけそうなので、ここはひとつ試してみてほしい。ただし繰返すけど3時間15分なので、その都合のつく人に限る。

<2018年10月28日(土)追記>

ひとつ書き忘れていた。今回、公演チラシがA4のものとA3のものと2種類あって、たぶんA3が正式版だと思われるけど、A4のチラシが表面に引用したエドガー・エンデの絵と裏面の修道女の絵、あれは線画というのか何というのか。どちらもものすごいはまっていて、観終わった後になったらなおさらA4チラシのほうがよくできていたと感じる。あれは何でA3のチラシまで作ったんだろう。A4チラシの取っておきたくなる素晴らしさは記録しておきたい。

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2018年10月23日 (火)

松竹製作「助六曲輪初花桜」歌舞伎座

<2018年10月20日(土)夜>

吉原の三浦屋で一番の花魁である揚巻。その揚巻が三浦屋の得意客を袖にしてもぞっこんなのが花川戸の助六。侍と見ては喧嘩を売って歩くやくざ者だが、見事な色男っぷりに吉原では煙管の雨が降る。それにしてもあまりの乱暴振りだったが、実は訳があった。

一幕見席。最後がすごい中途半端だったけど、Wikipediaによれば元は3時間を2時間に縮めてそこで止めるのが通例の演出とのこと。筋書きだけならもうどうでもよくて、助六役がいかに格好良く見得と啖呵を切ってくれるか、あと所々のアドリブで楽しませてくれるかだけの芝居。

物語を楽しみたい自分のような客にとっては肩透かしもいいところの演目だったけど、これがびっくりするような大人気。前売完売どころか、一幕見席も満員札止めで後からきて並べもしないで帰る人多数。しかもその前の演目の一幕見席も売切れていた(一幕見席をつなげると早く会場に入って座席を確保できるのが歌舞伎座ルール)。その立見も老若男女いろいろで、驚くべきは杖代わりにカートを使うような御婦人が立見で頑張るほど。なんだ、歌舞伎は筋より役者なのか、色っぽい役者が綺麗な格好をして見得を切ったり気の利いた台詞を言ったりするのを、スナップショットで楽しむものなのか、うすうす気がついていたけど、汚しの入った衣装や舞台のリアリズムより、省略と誇張を駆使したぴかぴかのお約束が好きなのか。というのを見せつけられた次第。

いや、それはわからなくもないんだ。疲れてしんどいときに深刻な芝居を観ると身体がもたないのは身をもって体験しているところで、「せめて観ている間だけでも笑ってほしいと願っている」という黒柳徹子の考えにも大いに賛同する。昼間の芝居が悲惨な話なのに感動したのは体調がよかったことも大いに関係している。さらにいえば自分も仁左衛門が格好いいのは認める。けど、それももう少しの筋があり役があった上でのことだし、もうちょっと喜怒哀楽のバランスが取れてもいいんじゃないかと。まあ、「助六」についてお約束を知ったうえで楽しむもので、そういう教養を求められるのは「助六」が古典の位置づけを確立しているということなのでしょう。ちなみに誰が助六を演じるかでタイトルも異なって、今回のタイトルは仁左衛門専用らしい。初心者としてそういうところから少しずつお約束を学ぶことにします。

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2018年10月20日 (土)

新国立劇場主催「誤解」新国立劇場小劇場

<2018年10月20日(土)昼>

ヨーロッパの片田舎で使用人をおいて小さな宿を経営する母娘。父は亡くなり息子は20年前に出奔したきり。いつか海と太陽の町に引越すことを夢見て、裕福な独り客を殺害しては金品を強奪している。そこへ仕事で成功し結婚もした息子が帰ってくるが、母娘は気がつかない。それを見た息子は、名乗り出る言葉が浮かぶまで独り客として泊まりたいと妻を説得し、妻を近隣のホテルに返して自分は偽名で宿に泊まる。疲れたので今回は殺害を見送りたいという母に対して、これを見逃す手はないと説得する娘。

公演も終わったしそこはネタばれしてもいいから書くけど、結局殺害してしまい、その後で息子の身元がわかる。この殺害をはさんで、息子の身元が分かってから、母の絶望と、絶望する母に絶望する娘の圧倒的な台詞が繰広げられる。母を助けるために若い時期を田舎町で過ごして、それが海と太陽の町への憧れを経て、歪んだ動機を生んでしまう娘。娘しか頼る家族がいないばかりに娘を田舎町に縛りつけてしまっているが、その負い目から娘の殺人を手伝うようになってしまった母。どちらが先かわからない入れ子の依存関係から、息子の身元に気がついた瞬間に母は目が覚めるが、そこで突然置いてきぼりにされたことに気がついて母を詰る娘。

展開だけ観たら救いようのない話だけど、母娘の言い分に理解できるところ多数。殺人ほど大げさではないにしても、こういう親子関係を他人事とは思えない家族は現代日本には多いのではないか。あと、民衆と国家と山、という台詞があったけど、初演が1944年で第二次世界大戦中だった痕跡か。その時代の閉塞感も、残念ながら今の日本に近い気がする。

原文なのか翻訳なのか、独特な言い回しの多い脚本だったのも特徴的。これが「台詞に生理が同調するような台詞術の役者だとまだるっこしくていえないような台詞だが、作られたリズムを楽しめる役者だと大丈夫」な台詞の例なんだろう。少なくとも原田美枝子と小島聖は完璧に消化していた。母の原田美枝子の柔らかさと疲れとの混ざり具合も絶妙だったけど、娘の小島聖の、他人への頑なな態度で始まる前半から、母を詰る場面から絶望を語る場面が圧巻。長台詞をものともしないテンションで絶望を台詞で紡いで、代表作といってもいい仕上がり。あれだけ言われたらおもわず納得させられてしまう迫力。あと使用人役は最後に二言しか台詞がないけど、それを演じる小林勝也の存在感が素晴らしい。やっぱり神様とか運命という裏設定だったのか、普段なら無駄遣いと書くところだけど、あの立って見つめているだけで格好になる雰囲気は若い役者には出せないし、おもわぬ軽い動作もいい。息子の水橋研二は、人心を軽く見ること甚だしくて、あれは殺されてもしょうがない(笑)という意味で好演。その妻の深谷美歩だけ、今回台詞が身につかずに苦戦。

スタッフワークは安心の新国立劇場レベルだけど、シンプルな舞台に適度な透過度の大布を駆使して場面を転換した美術と、国籍がヨーロッパにも日本にも見える衣装を取上げておく。一言で言えば成功の部類で、この重たい話を真正面から取上げた演出家の稲葉賀恵の勝利。

<2018年10月22日(月)追記>

速報を清書。

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