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2019年1月 6日 (日)

2018年下半期決算

恒例の年末決算です。

(1)新国立劇場主催「消えていくなら朝」新国立劇場小劇場

(2)DULL-COLORED POP「1961年:夜に昇る太陽」こまばアゴラ劇場

(3)パラドックス定数「5seconds」シアター風姿花伝

(4)キョードー東京企画招聘「コーラスライン」@東急シアターオーブ

(5)パラドックス定数「Nf3Nf6」@シアター風姿花伝

(6)野田地図「贋作 桜の森の満開の下」@東京芸術劇場プレイハウス

(7)松竹製作「秀山祭九月大歌舞伎 河内山」歌舞伎座

(8)遊園地再生事業団「14歳の国」早稲田小劇場どらま館

(9)グループる・ばる「蜜柑とユウウツ」東京芸術劇場シアターイースト

(10)小田尚稔の演劇「聖地巡礼」@RAFT

(11)松竹製作「俊寛」歌舞伎座

(12)シス・カンパニー企画製作「出口なし」新国立劇場小劇場

(13)パラドックス定数「蛇と天秤」シアター風姿花伝

(14)東京芸術劇場主催「ゲゲゲの先生へ」東京芸術劇場プレイハウス

(15)新国立劇場主催「誤解」新国立劇場小劇場

(16)松竹製作「助六曲輪初花桜」歌舞伎座

(17)KERA・MAP「修道女たち」下北沢本多劇場

(18)青年団「ソウル市民」@こまばアゴラ劇場

(19)青年団「ソウル市民1919」@こまばアゴラ劇場

(20)神奈川芸術劇場プロデュース「セールスマンの死」神奈川芸術劇場ホール

(21)M&Oplaysプロデュース「ロミオとジュリエット」下北沢本多劇場

(22)新国立劇場主催「スカイライト」@新国立劇場小劇場

(23)Bunkamura企画製作「民衆の敵」@Bunkamuraシアターコクーン

(24)シアター風姿花伝企画製作「女中たち」シアター風姿花伝

(25)月刊「根本宗子」「愛犬ポリーの死、そして家族の話」下北沢本多劇場

(26)カタルシツ演芸会「CO.JP」スーパーデラックス

以上26本、隠し観劇はなし、チケットはすべて公式ルートで購入した結果、

  • チケット総額は157780円
  • 1本当たりの単価は6068円

となりました。上半期の26本とあわせると

  • チケット総額は316000円
  • 1本あたりの単価は6077円

です。そんなつもりはなかったのにまさかの2年連続50本越え達成です。ここまで本数が増えたのは、長く芝居を観ているなら有名な芝居は一度くらい観ておきたいという発想になったせいで、その分再演ものが多くなりました。チケット単価はここ数年の中では抑えたほうですが、それにしてもこれだけ観ると総額が馬鹿にならず、それ以上に交通費が嵩むのが財布には痛いです。なお数を観すぎたためか、夏以降に断捨離を高い優先度で進めていたためか、上に並べた26本が半年以内に観た芝居という実感が持てていません。3年前くらいの感触です。

下半期の収穫は、劇場提携公演中の(3)(13)、今もって古さを感じさせなかった(8)、繰返し上演される海外古典戯曲の(15)(20)(23)、青年団の代表作である(18)(19)など再演ものが多い中、気合の入った新作で気を吐いた(17)と、笑わされた(26)になります。この中で1本選ぶなら(17)になります。できれば土曜日の昼間で余裕のあるときに観たかった1本です。

通年では、下半期の(17)、上半期に口コミプッシュを出した青年団の「日本文学盛衰史」などを差置いて、パルコ/兵庫県立芸術文化センター共同製作の「テロ」を今年の1本に選びます。セットらしいセットもなく台詞だけで緊迫感がここまで作れると示した仕上がり、多様化した現代の問題をタイムリーに取上げた内容、観客投票で変わる結末など、本来なら口コミプッシュを出すべきだった1本です。その場で判断できなかった自分の不明を恥じます。

そのほか、勝手に一部部門賞になります。

役者部門。主演男優は「アンチゴーヌ」で新王クレオンを演じた生瀬勝久。圧巻の演技で、これ1本で拍手に値します。年明け実質2本目にこれを観たので、今年の観劇ではこれを越える男優がいないかと探すのが裏テーマでしたが、見つかりませんでした。主演女優は2人。カオルノグチ現代演技を立上げて「演劇部のキャリー」で絵に描いたような小劇場2人芝居で楽しませてくれた野口かおると、(15)で圧巻の絶望を演じてのけた小島聖の2人。まったく間逆のベクトルですがあのテンションには甲乙付けがたいです。

助演は挙げたらきりがないのでばっさり減らします。男優は「秘密の花園」と(21)で不思議な演技を見せてその理由が解明できない田口トモロヲと、(15)で大ベテランながらほとんど台詞のない役を演じてしかも存在感抜群だった小林勝也。女優は、ハイバイ「ヒッキー・ソトニデテミターノ」で支援センター職員が見事だったチャン・リーメイと、(18)(19)で中心人物を演じて青年団内での出演機会も上昇中の荻野友里。出演した芝居が自分の好みに近かったかどうかも加味してしまいましたが、挙げたらきりがないので、この4人とします。

脚本演出部門では、上半期に劇団公演で「ヒッキー・ソトニデテミターノ」再演と、さいたまゴールドシアターで「ワレワレのモロモロ」新作を作った岩井秀人。再演多めの人ですが、観たら外れがありません。下半期の「て」「夫婦」の再演を見逃したのが悔やまれます。「ヒッキー・ソトニデテミターノ」の当日パンフのコメントも記憶しておきたい見事なものでした。

スタッフ部門は、(15)でシンプルな舞台美術に大きな幕を使って美しかった乘峯雅寛と、(17)のA4仮チラシが単体でも芝居との関連でもきっちりはまっていた雨堤千砂子。この2人を挙げます。

企画は、1年で7本上演という上演計画を立てて今なお上演中のパラドックス定数とシアター風姿花伝。もともと劇場から申し出た提携案なので計画に融通はきくとしても、これを通した劇場の太っ腹もすごい。1本あたりの上演期間が短いのが難です。ここまで5本上演されたうちの4本を観て、事件に絡めた脚本を書く野木萌葱の才能に改めて気がつきました。2019年には新国立劇場で小川絵梨子演出の新作「骨と十字架」が予定されています。

なおその新国立劇場では2019年冬には月刊「根本宗子」が新国立劇場の中劇場に進出することが折込チラシで発表されており、劇団公演か共催かわかりませんが、劇場側が攻めたラインナップを並べようとしている気配が伺えます。目を転じて民間では、三谷幸喜が今さら感ですが6月に歌舞伎座初登場です。新橋演舞場でワンピースを上演するなど、あの手この手でジリ貧に陥らないように伝統芸能もいろいろな企画を立てています。

趣味で選んで偏っているとはいえ、2年で100本も観ると何となくイメージが湧くのですが、いい上演企画には大まかに2種類あります。仮に「現代の風潮を問う芝居」と「徹底的にエンターテイメントの芝居」と名づけます。昔だともう少し文学っぽい芝居も成りたったと思いますが、今は2種類の少なくともどちらかの要素を混ぜないと魅かれません。何故かといえば日本の生活も社会もここ10年で大変になったからです。観客側から見れば余裕はどんどんなくなっています。単によくできただけの芝居に大枚はたくような余裕はなく、ましてや外れ芝居を見守るような余裕もないので、観るからにはその芝居を観てよかったと実感できるような芝居が求められています。大変になった人たちの悩みをすくい取って励ますか、大変になった人たちを楽しませて明日への活力を与えられるか。大げさに言えば、2種類のどちらの要素も含まれない芝居は自己満足と言われても仕方がない世相になっています。

下半期で例を挙げると、かつての不倫相手との一夜の話がメインでありつつバックグラウンドに社会問題を織込んで深みを出した脚本が(22)で、完全エンターテイメントだったのが(26)で、読んだ批評では吉右衛門の演技が絶賛一色でしたが上演企画そのものには継承して育てた芸の披露以上の意味があったのか疑わしいのが(11)です。歌舞伎にとって芸の継承は大げさに言えば生命線ですが、それが今時の歌舞伎マニアでない観客に訴えるところがないのも事実です。これを解決して作り手と観客とをつなげるのは演出家や芸術監督の仕事で、だからこそ古典と古典の間に三谷幸喜を呼んで活性化をはかることになるわけです。なお、現代の風潮をエンターテイメント風に問うのが今時の理想で、だいぶシリアス路線でしたけど新作では(17)が代表です。この話題は独立したエントリーを書きたかったけど間に合いませんでした。できれば改めて書きたいです。

他にも書きたくて書けなかったエントリーはあるのですが、その代わりに「2018年の東京台風直撃の対応の記録」は、長くて読みづらい文章なのが難であるものの、このブログらしいまとめでした。観客として、公演中止の対応にもいろいろあることがわかって勉強になりました。願わくは、少しでも観客に優しい対応が芝居業界で標準化されますように。

2019年は本数が増えるか減るかわかりませんが、引続き細く長くのお付合いをよろしくお願いします。

<2019年2月19日(火)追記>

チラシを発掘して雨堤千砂子の名前が確認できたので記載変更。でもA4パンフ側に宣伝美術のクレジットがなくて、A3パンフにしか載っていなかったのが不思議。

2018年12月26日 (水)

カタルシツ演芸会「CO.JP」スーパーデラックス

<2018年12月23日(日)夜>

最近よくないことが続く男が訪ねた「霊媒師」、スーパーでつかまった高校生が盗もうとした品がどうもおかしい「万引き」、久しぶりに新刊を出した作家が宣伝で話すインタビュアーの話し方が気になる「インタビュー」、クラスメートからは仲良く構ってもらえるものの不満がある「転校生」、妻が入院して駆けつけた夫に医者が病状を説明する「手術」、引越した友人の家を訪ねたらなぜか取付けられている「ボタン家」、主人が亡くなって犯人を見つける「名探偵」、順調に正解を続けているが「クイズ」、栄えある一等賞に選ばれたものの「メガネ男子」、計画を立てて押しこんだはずだったが「銀行強盗」、日本を救え「ジャパンレンジャー」。

順番とタイトルは一部適当。コントと演劇の境界を探ると銘打ったが「ゴリゴリのコントに仕上がりました」との前口上で始まるコント集。深いことは考えずに笑えるコントが並ぶ。こういうのを観るときは意地悪い気分で笑ってやるものかと身構えるけど、笑わされた。設定の妙に負けた「転校生」とあんまりな展開にやられた「名探偵」が特によい。たまにアドリブが入って共演者が笑うのはわかるけど、あまりにも上手い間がはまって共演者が笑うのはほどほどにとは思う。それも含めて面白かった。こんなにリラックスしていた客席の雰囲気は久しぶり。

横長の舞台を三方から囲むのでサイド席だと表情が隠れる場面もあったはずだけど、顔や仕草に頼る笑いが少なく声でしっかり突込みが入るから、わからなくて笑えないことはほぼない。それは逆にいうと設定と構成がしっかりしていた証拠。他人を馬鹿にするような要素もなく、政治的な話もなく、誰が観ても等しく楽しめる見本のようなコント集。

それとは別の感想として、ゴリゴリのコントとは言っていたけど、出来上がったものは演劇に近い。具体的にはKERAの芝居を観ているような気分になった。不条理劇と呼ばれる分野の脚本を書いて喜劇的に演出するKERAと、理不尽だったり強引だったりする設定やそこへのツッコミで笑いを取る今回の公演と、そんなに差はないことを実感。場面がつながって一本の物語になるか、ならないかだけが違いではないか。あるいは、困った(けどあり得ないことではない)場面に追詰められた登場人物がおかしいのがウェルメイドな喜劇で、理不尽な(本来あり得ない)場面に振回される登場人物がおかしいのが不条理劇で、それが短いコントになっていても長い物語になっていても根は同じではないか。今回のコントが不条理劇風味のラインナップで揃っていたのは、やっぱりコントと演劇の境界を探った成果ではないか。

こんな感想を書くのは、ついこの前「風の演劇」という別役実の評伝を読んだから。この本の中でも三木のり平やKERAを絡めて、不条理劇は喜劇に近いという話が載っていた。よく考えたら別役実は一度も観たことがないけど、コントだと思って機会があったら臨みたい。

月刊「根本宗子」「愛犬ポリーの死、そして家族の話」下北沢本多劇場

<2018年12月23日(日)昼>

母が駆落ちし父はアル中になって亡くなって祖母に引取られた4人姉妹。祖母も亡くなった後で上の3人は結婚して家を出たが、若い頃に引きこもりになった四女は飼犬と本だけに関心をつないで生きている。22才の誕生日を祝いに姉夫婦たちが集まるが、その最中に飼犬が死に、義兄たちが嫌いな四女は義兄たちのせいだと恨む。その直後に、いつも読んでいる本の作家から四女にSNSでコンタクトが届く。

高圧的、マザコン、浮気性と駄目な男性の見本市のなか、それを見ていた四女が何をどうしてどうなるか。男性の駄目さを描く腕前は冴えていて、特に浮気性の夫が妻に言い訳する場面は台詞も演出も秀逸。演じた田村健太郎の逆切れぶりが素晴らしく、イキウメの「図書館的人生」の爽やかなストーカーを思い出す。

それに反して駄目な男性と別れない女性陣の描き方は最後まで筆が鈍ったまま。納得させるわけでもなく、突き抜けるわけでもなく、消化不良のぬるぬるが残る。演技演出が上手な分だけ演劇的な突き抜けた感のなさが目立つ。タイトルにも入っている愛犬ポリーは開始早々に忘れ去られて、でもポリーを活用しようとした痕跡は残っていたので、一度書いたプロットに納得がいかず書き直したものと推測。だとしても観ていて納得のいかないラスト。

あと全員の演技に文句はないけど、根本宗子だけ声の小ささが目立った。自分の芝居だけでなく「水の戯れ」とか役者出演でもいい腕前の人なので惜しかった。細かいところでは、歌とダンスの場面で4人の女性陣が踊るとき、根本宗子ひとりだけが笑顔の場面があった。当日チラシだと振付も本人なので、そこまで目が届かなかったんだろう。

結局、根本宗子の不出来または不行届にいきつく仕上がり。主役が直前で体調不良で交代するという不利はあったけど藤松祥子は代役をこなしていたし、何より脚本が迷走していた。チラシ作成時点で脚本未完成だったとしても「一人の少女が自分と周りを信じて家族を変えるお話です」と書いてあのラストはどうなのか。本多劇場ではあまり見かけない質感に仕上がりましたと当日チラシで言われても、まずは質感より質がほしい。

2018年12月18日 (火)

シアター風姿花伝企画製作「女中たち」シアター風姿花伝

<2018年12月15日(土)夜>

あまりよくない経歴を持つ、姉妹で奉公する女中たち。主人を密告し奥様を悩ませ、形見分けとして財産をもらおうと画策する。留守を狙って奥様の部屋で将来を夢見ていたが・・・。

虚実が曖昧な芝居と当日パンフに書かれていたけど、観た感じははっきりしていて特にそうは思わず。むしろ客を笑わせようというサービス精神の多い脚本と思えた。オープニングのどっきりとか、女中たちが奥様の口調や仕草を真似るところ(後で奥様がそのような演技をする)や、飲みそうで飲まない煎じ薬の扱いなど、そこは脚本家が絶対狙っているだろ、というネタが多い。もうだめだ、と嘆く台詞も笑わせどころにできたはずで、これは絶対喜劇。

なのだけど、鵜山仁がそうとう真面目に演出して、もちろん質は確保されていたけど、なんかアングラっぽい雰囲気になってしまってネタが生かされていない(白黒のメイド衣装にアングラを連想してしまったのは自分の偏見か)。いい感じの奥様の甘ったるさが放置されてしまったし、そして女中2人とも演技以前に存在に貫禄がありすぎて女中らしさが薄く、奥様との上下関係が弱い。那須佐代子の最後の長台詞は圧巻だったけど、あれをより生かすにはそこまでにもっと笑わせておいてほしかった。

2018年12月15日 (土)

Bunkamura企画製作「民衆の敵」@Bunkamuraシアターコクーン

<2018年12月14日(金)夜>

ノルウェーの田舎町。見つかった温泉を整備して保養にふさわしい地域として宣伝し、町が活気にあふれている。が、温泉整備の発案者であるドクターは、保養客が病気になったのを不信に思い調べたところ、採取ルートが悪かったため汚染されていることがわかる。この事実を公表しようとするが、市長で温泉施設長も兼ねる兄は影響の大きさから発表を見合わせるように弟を説得する。それでもドクターの発表の意思は変わらなかったが、兄は具体的な町の損害を算出してドクターに賛同する人たちの説得を開始する。

イプセンでまだ見たことのなかった一本。タイトルが半分ネタばれだけど、実に設定の上手な、これは揉めるに決まっているだろうという状況で意見を変える人たちの姿を描いた秀作。自分には多数派がついていると最初にドクターに言わせて、後で多数派を非難するというあの脚本の意地悪さ。

加えて演出で上手だったのが、堤真一演じるドクターを単なる正義の味方にせずに、日常生活にやや想像力の欠ける人間として描いたこと。町の住人が、持っている土地や株券がパーになったり、失業したり、そこまで可能性を考えてなお決断するなら立派だし、そこまで考えたら行動に移れないとも思うけど、あの態度では他人事ながら手のひらを返されても不思議ではない。盗人にも三分の理というけど、観ていて市長や記者や不動産協会会長の立場に感情移入の対象が移ることが一再ならずあって、その点では芝居として実によいバランスだった。観た人に、誰の意見に賛成するか訊いてみたい。

編集長の谷原章介と、不動産協会会長の大鷹明良がいい感じ。兄で市長の段田安則と、ドクターの一家に味方する木場勝己は実にはまっているのだけど、個人的にはいつも似た役どころで観ているので、逆の役で観たかった。あと、音響が実に上手。普段は舞台から飛んでくるような音だけど、今回は劇場に音が湧いて充満するような音響だった。あれは劇場改修の成果なのか、今回の音響デザインがよかったのか、知りたい。

新国立劇場主催「スカイライト」@新国立劇場小劇場

<2018年12月14日(金)昼>

ロンドンの、治安がよくない地域でアパートに独り暮らしをする女性の元に、かつて一緒に暮らした一家の息子が訪ねてくる。女性が出て行き、母が亡くなってから父の様子がおかしいので会ってほしいと言う。息子が帰ったあと、父である男性が訪ねてくる。女性は実家を出て男性が経営するレストランで勤務し、その一家に見込まれて一緒に住んでいたが、男性と不倫関係にあり、関係が妻に知られてから姿を消していた。話は近況の報告からお互いの価値観、そして過去の出来事と様々に進む。

小川絵梨子の芸術監督就任後初演出。ほぼ出ずっぱりの蒼井優と浅野雅博が、とにかくしゃべる。その会話の内容がいかにもイギリス芝居っぽい。相手をしゃべらせて、非難して、その言葉から相手を非難し返して、仲直りして、またしゃべらせて、がなんども続く。同じ出来事に対してこれだけ違う見方を提示しながら会話を続けるのは立派。1995年初演らしいけど、それにしたって浅野雅博演じる男性は余計なことを言い過ぎで、あれでよくひっぱたかれないなという脚本。ラスト15分ごろ、タクシーを呼ぶところからの蒼井優が突然いい感じになって、この人は高い声を普段無理して出しすぎで、もっと低い声のほうが楽に発声できるのではないか。

劇場の中央横に舞台を置いて、舞台を挟む席とギャラリーを囲む席の配置だったけど、役者の顔はやっぱり正面席優遇の感は否めず。今回入って奥側で観たけど、台所から食卓までの導線が正面向くようになっていたけど、それなら椅子や床に座ったときで顔の向きの按配を調整してほしかった。何度も書くけど、囲み舞台をやるなら稽古場の演出家席がわかるようなバランスはやめてほしい。あと入って正面から見て下手側の席だと、上手側と比べて窓が内よりに配置された舞台美術で、あれが役者に重なってストレス。床から上がる玄関を配置したのと、窓から差込む光を照明で作るために位置と距離を稼ぎたかったのが理由だと思うけど、あれでS席として同じチケット代ってことはないだろう。座席の不満が大きくて感想が薄い。

<2018年12月16日(日)追記>

寝て落着いたから思い出したことを若干ネタばれで追記。

表向きは不倫していた2人が過去や互いのよかったこと悪かったことを振返る話だけど、その振返る内容のかなりの部分に貧富の問題が含まれていて、そちらが本筋ではないかと思う。特に、治安のよくない地域からレストラン経営で身を起こして一代で富裕層になった男性と、弁護士の娘に生まれて大学を優秀な成績で卒業したのに治安のよくない地域に住みながら教育に力を注ぐ女性との対比は、役の基本背景として隅々まで行き渡っていてほしかった。それが最後に、あなたはどんなときでも現状では満足できない人、君は自分の身を他人に預けることが出来ない人、のすれ違う台詞で締めくくるような脚本になっていたはず。

この線でいくと、寝室を豪華に作ることが罪滅ぼしになったと考えていた男性と、もう花は見たくないと言った男性の妻とのすれ違いもあって、そこに貧民にも成金にも共通な軽蔑される要素を描くという、いかにもイギリスっぽい、ある意味嫌味な面もあったはず。

そんなことをつらつらと考えると、男性を演じた浅野雅博が紳士すぎた。人に命令しなれて、見下して、成功がさらに自意識を拡大して、でも飽くなき上昇欲を持ち、創業者ならではのエネルギッシュな魅力を放出して、少なくとも料理については唐辛子を先に入れる以外にも豪華な朝食を食べるなど一家言あり、それらが今はぺしゃんこになっているけど認められないという、少なくとも紳士ではない面をもっと見せてほしかった。相手を非難するときも、言葉の割に攻撃感が少ないというか。

もうひとつ違和感があったのは、ワンルームが広すぎたこと。囲み舞台にしたせいで壁を立てられなくて台所やストーブでしかボロさを出せなかったのはわかる。でもその場合にどこで貧しさを感じるかといえば日本人としては広さで、貧しい地域とはいえ1995年でロンドンで手ごろな家賃であの広さが借りられるのか。いや舞台美術なのはわかっているけど、それでも手狭さを出せなかったものか。

あと芝居とはまったく関係ないけど、終演後のカーテンコールで蒼井優のお辞儀に感じた真剣味というか深刻さというか、あれは何だったんだろう。単に少し長くお辞儀しているのがそう見えただけなのかな。

<2018年12月17日(月)追記>

何でろくに知らないイギリスの芝居にこんなコメントが出てきたのかと自分で疑問だったけど、これだ。「イギリスでは労働階級出身だと芸能人になれないらしい」ってエントリーを書いていたんだ。

2018年12月10日 (月)

M&Oplaysプロデュース「ロミオとジュリエット」下北沢本多劇場

<2018年12月8日(土)夜>

2つの名家が反目を続けて勢力が二分されている街、ヴェローナ。一方のモンタギュー家の御曹司であるロミオは恋に破れたばかり。いたずら好きの友人にそそのかされて、もう一方のキャピュレット家が主催する仮面舞踏会に潜り込む。そこでキャピュレット家の一粒種の娘、ジュリエットと出会う。

「なるべくまんまやる!」という宣言通り、笑わせるためにところどころで役者に面白いことをさせたり台詞のニュアンスをいじったりしていたけど、だいたい脚本には忠実だった。なので粗筋は前回観た新国立劇場研修所版と同じ。シェイクスピアが生きていた時代はもっとごちゃごちゃ猥雑な雰囲気で上演していたはずだからこれもいけるはず、という狙いがあるとどこかで読んだけど、「ヘンリー四世」の佐藤B作を観たあとだと、そういう狙いも外れていないという予感はあった。で、結果は半分成功していて半分失敗していた。

先に成功していたところを書くと、まず笑い。このくらいいじっても耐えられる強度のある脚本だったというのはひとつの発見だった。その前提で、芸達者なベテランを配置して、崩し具合をコントロールしていた。

皆川猿時が飛び道具をこなしていたのはわかりやすいけど、ごく素直にいい感じの役者が多い中で細かくネタをこなして好感を持てたのがキャピュレット家の安藤玉恵と池津祥子と大堀こういち、大公の今野浩喜。そして意外にも三宅弘城のロミオも、年齢は高くとも身体が動く点で若々しさをカバーして、もちろん演技力もあって、成立していた。

抜群によかったのが神父役で、誰がやっているのかわからなくて終わってから確認したら田口トモロヲだった。真面目とネタの切替え、それでいて脚本の本筋にも関わる神父の真摯さを保ったあのバランスが、今回の演出に一番あっていた。「秘密の花園」の一風変わった演技よりもさらに上で、あの神父はもう一度観たい。ここを守ればあとはいくらでも崩せるという線を見極めていた模様で、その秘密が知りたい。一度にふざけるのは一人までとか声のトーンは一定の範囲を維持するとか、何かルールがありそうなのだけど分からずじまい。

スタッフワークでいうと、衣装を頑張ったのがいい感じ。あと半分は役者だけど、剣を使った喧嘩のアクションが身体にあたるすれすれで、観ていてどきっとした。

残念だったのが、ジュリエットの森川葵。キャンセル騒動からの代役で初舞台でジュリエットであの台詞量がきついのはわかる。ただそれら悪条件を差引いても、女優魂を感じさせてくれる台詞回しがなかったのは残念。強度のある脚本ではあるけど、それだけに特にロミオ役とジュリエット役は人材が求められる。三宅弘城があれだけ成立していたなら、いっそ片桐はいりとか連れてこられなかったか。

次に演出。ネタに時間を割くためか、長めの脚本を休憩無しの時間(今回約2時間15分)に収めるためか、全体にそうとう早回しの一本調子になっていた。登場人物が多いうえに脇役は複数の役者が兼ねるので、ある程度丁寧にやってくれないとややこしい両家の関係が頭に入りにくい。加えて、言葉にしづらいけど、本来の雰囲気を目指して入れたネタと、みんなロミオとジュリエットの粗筋くらいは知っているだろうという前提で崩したネタとが混ざっていたような印象。今回の演出だと後者のネタは混ぜてはいけないのではないか。どこがどうとは指摘が難しいけど。

スタッフワークでは音響が、どうも演出の雰囲気に沿っていない。今回の演出だと、笑わせるところと真面目なところの区別を客席にはっきり伝えるのが重要で、音響はそれを促進する役割があったはずのところ、いまいちわかりにくかった。

もっと猥雑な雰囲気を出せるはずという企画と演出の挑戦には敬意を表するし、所々成功はしていたけど、残念ながら満足には届かず。値段を考えたらなおのことこの出来では不満。「メタルマクベス」という名作を書いた宮藤官九郎にして、演出の狙いを整理し切れなかった、あるいは時間切れで詰めきれなかった印象。脚本の難しさを再認識する結果になった。どこかで再挑戦してほしい。

2018年11月21日 (水)

神奈川芸術劇場プロデュース「セールスマンの死」神奈川芸術劇場ホール

<2018年11月18日(日)昼>

1950年代のアメリカ。セールスマンのウィリーは、60歳を越えて成績不振から歩合制にされ、なおかつ車で数百キロ以上走る田舎の担当に回される。妻は励ましてくれるが、最近はまったく収入がなく、家や家財のローンがあと少し残っていて辞められない。自慢だった2人の息子も長男は職が定まらず全米を放浪し、次男は近所にアパートを借りて女遊びにうつつを抜かしている。数ヶ月ぶりに長男が家に帰って家族4人が揃うが、心身ともに疲労しているウィリーはふがいない息子に説教をし、それに反発する長男と衝突する。とりなした次男のアイディアで起業の準備を進めることになり、家族に平和が訪れたように思われたが・・・。

千秋楽。タイトルがすでにネタばれで、オープニングの演出もネタばれなのだけど、そこに至る過去と現在を休憩はさんで3時間20分でこれでもかと描く。観なければよかったかと一瞬思わせるくらい重たい前半から、父と長男の立場や長年の心境の変化を解いてみせる後半まで、きつくて、いたたまれなくて、どこにも正解なんてなくて、でもそれだけでは終わらない話は有名なだけのことはある。それを直球ど真ん中の演出で隅々まで明確に立上げた長塚圭史の力作。

疲れすぎて神経がまいって危ない父親の風間杜夫と、まったく笑わせない山内圭哉の2人が軸としてしっかりしているけど、周囲もとにかく素晴らしい。この日の出来のよさでいったら健気を絵に描いたような妻役の片平なぎさが一番。あと近所の友人役の大谷亮介の柔らかさと、その息子で長男の同級生役は加藤啓であっているかな、あの整った感じは記録しておきたい。少し迷ったのは芸達者なのにチャラい演技で通した次男役の菅原永二で、実際チャラい役どころだけど脚本上はもう少し幅を求める役で、あれは風間杜夫や片平なぎさが重量級の分だけ演出が全体のバランスを調整したか。

有名な話というだけでなく、脚本がよすぎて演技演出に求められるハードルも高いのにクリアしているというまたとない座組。横浜千秋楽だけど関西で公演があるから、そちら方面で興味のある人にはぜひお勧めしたい。ただし体調は整えて。

2018年10月30日 (火)

青年団「ソウル市民1919」@こまばアゴラ劇場(若干ネタばれあり)

<2018年10月27日(土)夜>

京城で商売を営んで稼いでいる一家。初代の大旦那は病気で寝込んでおり、孫娘は離婚して戻ってきているが、息子達が手がける商売は順調で、日本人と朝鮮人の使用人に加えて文人食客をおいて裕福に暮らしており、興行のための相撲取りまで呼んでいる。が、朝鮮人の使用人たちの姿が見えない。表通りでは朝鮮人たちが大勢集まっているという。

1919年の3月1日に行なわれた三・一運動を背景にした芝居、と言っても当日パンフに書かれていた通り、三・一運動というものは私も知らなかった。日本からの独立を目指し(て失敗に終わっ)た運動が始まった日を借景に、内地(日本)に嫁いで憧れていた日本が嫌になった長女とか、大喰らいを責められたり八百長の興行師に従ったりするのが嫌になって憧れの南国を目指して退去する力士とか、日本から京城に来て居ついているオルガン教師とか、日本から独立する人たちを描く。それが同時に、独立できない、独立という発想すらない日本人を描くことにもつながる。冒頭から、ほぼ朝鮮育ちなのに漢字混じりの朝鮮語のビラが読めないという場面が象徴的。内地に行って初めてあんなに大勢の貧乏な日本人を見た、何もかもがじめじめしている、朝鮮のほうがいい、という長女の台詞は、「中橋公館」で描かれた日本への距離感に似ている。

昼に観た「ソウル市民」が嫌な面を上手に切取って描いたのに比べると、こちらのほうがより日本人への批判精神が多い印象で、その点に2000年初演、「ソウル市民」から11年の差が感じられる。替歌の東京節で締める終わり方、とりあえず歌で締めるのは近作の「もう風も吹かない」や「日本文学盛衰史」でもあったけど、このころからすでにやっていたのだと発見。

役者はもういつも通り、好きな人でも好きな役でも選んでくれという出来。そこから無理矢理名前を挙げると、「ソウル市民」と2本通して中心どころで活躍したのが山内健司と荻野友里、2本通してジョーカーのような立場をきっちり演じて世界観を拡げたのが太田宏と木崎友紀子、2本通して似たような役でも幅の広さを出して見せたのが井上みなみ。

終わってから渋谷に出たらハロウィンの仮装だらけで、100年前から現代にワープした違和感があった。

青年団「ソウル市民」@こまばアゴラ劇場

<2018年10月27日(土)昼>

京城で商売を営んで稼いでいる一家。商売は順調で、日本人と朝鮮人の使用人に加えて文人食客もおいて裕福に暮らしている。いつになく来客が多い一方、出かけるものも多い。来てほしい客が来なかったり、来てほしくない客が来たり、いつの間にかいなくなったり、なぜか出かけていったり。

日韓併合が1年後に予定されている1909年を舞台に、というのは分かっているけど、今どき朝鮮人という単語が出てくるだけでどきどきする。朝鮮人を対等に扱っているつもりですでにそれが差別意識の発露とか、朝鮮人の使用人がいる前で朝鮮の悪口を言ってフォローするとか、フォローがフォローになっていないとか、あの手この手で本人たちが自覚していない差別感を極めて自然に描く。朝鮮人に文学は難しいといいつつ日本語を間違える長女に、実は熱心に日本語を勉強している朝鮮人の使用人が日本語の間違いを指摘する場面だけでも、凡百の脚本化が到達し得ない領域。

最近の芝居よりは、少なくともこの後に観た「ソウル市民1919」よりはシャープに思えて、でもそれもほんの少しだけこなれ方が足りないくらいのもの。登場人物のそこここに色恋の気配が漂うあたりは、「S高原から」や「カガクするこころ」のような初期らしさを感じさせる。近代口語演劇はこのとき描く対象を見つけたと平田オリザは当日パンフで書いていて、1989年の初演からどれだけ脚本に手が入っているのかは知らないけど、30年経った今観てもまったく古くない。追加公演も出ているので観たことのない人はこの機会にぜひ。