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2019年8月24日 (土)

「演劇は一生懸命見られると実はうまくいかないことの方が多い」

成河が個人でカルチベートチケットに挑戦したという論座の記事を(ログイン不要の範囲で)読んだ()。fringe経由。これ自体、非常に面白い話なのだけど、カルチベートチケットというものの存在がいまいち実感できていない。「誰かがチケット代を払って(またはチケット代相当を寄付して)、そのチケットは受付にキープされていて、他の誰かが当日見たいと受付に申し出たらそのチケットがもらえる」という仕組で、「演劇を観慣れていない人向けの敷居を下げるための方策」というのが趣旨なのはわかるけど、善意に基づきすぎたシステムなのでこれがどのくらい有効なものなのかがわからない。まだクラウドファンディングとかで「応援寄付、おまけ付きあるいは誰より早くお届け」のほうが、寄付者と受益者とが一致してわかりやすい。気になるけどよくわからないのでしばらく様子見。やりやすいシステムとか整備されないものか。

それはそれとして、この話で成河が語る演劇の話が面白いので、気になったところを記録しておく。

 もっとも僕は「どうして同じ演劇の中で、こうも断絶があるんだろう」という問題意識は、それ以前からもずっとあったんです。僕は平田オリザさんも野田秀樹さんも唐十郎さんも好きです。ところが、俳優になりたいと思ったときに、どれもやっている先輩がいない。じゃあどこで何を始めたら全部できるの? それを自分たちで考えざるを得なかった。それでも僕が学生の頃はいろんな演劇が百花繚乱の幸せな時代で、少なくとも観客はいろんなジャンルの物を競い合って見ていました。ところが今は観客も断絶してしまっている。

 やがて、これは俳優と観客がお互いを育て合うシステムがないからだということに気付き始めました。観客の質が俳優の質を決める、俳優の質が観客の質を決める。その相互作用でしか演劇は育っていけない。ところが、商業演劇の世界に入ってから、それがどうも頭打ちに来てるような感覚がすごくあったんですね。端的にいうと俳優がファンに守られている。でも、守ってくれる観客だけに観てもらっている限り、俳優は成長しないですよ。もちろん 誰も悪くない。僕も応援して支えてくださる方々は大事に思っています。ただ、真面目で能力のある俳優さんほど目の前にいるお客さんにきちっと応えて喜んでもらおうとするから、そこで悪循環が生まれるわけです。

 それは自分も含めてです。つまり、俳優である僕も成長できないんじゃないかという恐れが生まれたんです。「一部のファンのための演劇を作る」ことは僕にとっての演劇ではないと思うので、このままだとできないと思っていた時期もありました。

(中略)

「私とあなたの話をして」というのが日本の芸能の根本です。

(中略)

僕、「演劇はゴールではなくて きっかけにすぎない」という考え方がすごく好きなんです。つまり僕たちは触媒であって、終わった後に議論が生まれて初めて演劇は成功する。作品として優れているかどうかなんてどうでもよくて、終わった後にいろんな人たちがいろんなことを話し合っている状況こそが目指すべき姿だと思うし、これほど楽しいエンターテインメントはないと僕は思う(笑)。もちろん今は個人で楽しむ時代ですが、だからこそ演劇は最後の砦ですよ。「ええっ、あそこで泣いたの? そんなの爆笑するところじゃん」なんていう会話が初めて演劇を立体化させていくし、そこで初めて実人生と地続きに捉えられると思うんです。

(中略)

 「一生懸命見ている人たちなのか、そうではないのか」というのが大別してあります。 それで意外と一生懸命見てくれてない人がいる回の方がうまくいくんですよ。演劇は一生懸命見られると実はうまくいかないことの方が多いんです。

――ええーっ!

 びっくりするでしょう?(笑)

――なぜ?

 予想外のことが起きないからですね。子供たちの前でパフォーマンスすることを考えてみると一番わかりやすいですよね。

――ああ、なるほど!

 子どもたちってザワザワしているでしょ。本当に何か劇的なことが起こらない限り、反応なんか絶対しない。ワーワー喋って好きなことやってるけど、何かが起きた時にはスッと皆が同じ方向を向くんですね。その瞬間だけが「演劇」だという話なんですよ。「さあ今からここで何かが起きるぞ」とみんなが見ていても「演劇」は起こらないんですよ(笑)。

 ですから演劇を愛してくださる方にもよく言うんです。「一生懸命見ないでください」 って。ただ、一生懸命見ざるを得ない金額だということも大きな問題なんですよ。そのために今回は2000円にしました。もちろん「演劇に人が来ないのは値段の問題じゃないよ」という声があるのも分かります。ただ、2000円だったらジャケ買いができる価格でしょ。「ジャケ買いして1回見て、ダメでもまあいいや」という人が客席にいないと「演劇」ってやっぱり起こらないんですよ。

(中略)

 「宮大工さんが木の違いを嗅ぎ分ける」みたいなことが1800人の劇場ではより困難になりますし、客席には僕が思うよりもいろんなお客さんがいるだろうということもわかっています。ただ同時に、1800人と母数が大きくなればなるほど、今度は客席の中で排他的な動きが生まれてくる。つまりルールや「見方」ですね。カーテンコールの迎え方や手拍子の仕方、拍手のお行儀、日本人が美徳としてそういうものにこだわるのはいいことだと思います。 ただ、それがある瞬間に排他的になると、「何でそうしなければいけないんだろう?」と思う人たちを全員追い出すことになる。

 舞台に立つ側としては何でもいいんです。好きに過ごして欲しいし、感動なんかしなくたっていい。その人が何を大事に思うかを決める権利はこちらにはない。でも、その作品を愛好してくださる方達が大勢を占めて行った時に、無意識的な集団心理が生まれがちです。要するに同調圧力ですよね。もちろん誰が悪いわけでもないのですが、それが実は演劇の一番の敵になることもあると思うので、これにもみんなで立ち向かいませんかっていうことなんです!

(中略)

僕が『エリザベート』をやるのは作品がとても面白いと思うからです。日本人にとっても意義があると思う。これはアメリカじゃ全然受けませんからね。「絶望の甘美」とか「自由になりたいけどなれない」とか、皇室や王室がある国は分かるんです。……アメリカ人は笑いますからね(笑)。

(中略)

でもそこにどうやって「たまたまふらっと来て見たけれど衝撃を受けた」という人を増やせるか? それに尽きます。そのことをお客さんと一緒に考えてみたかった。『エリザベート』だって20人でも30人でも、できれば100人ぐらいでも、そういう客層がいたら……断言します。作品が良くなります。みんなで守ろうとして守ろうとして作品は悪くなるんですよ。荒波に突き落とさないと作品は良くはならない。

やっぱり引っ張りだこになる人はそれだけいろいろなことを考えているんだなと思い知らされる。個人的にはチケット代もさることながら、使った時間に対する対価を要求してしまう面がある。それは観客として当然の心理だけど、年齢が上がるごとに時間を使うものに対する要求が辛くなっている。

それはそれとして「観客の質が俳優の質を決める、俳優の質が観客の質を決める」という話はどういう相互作用なんだろう。ずいぶん質の高い俳優も観てきたと思うけど、自分はあまりいい観客に育たなかったなと思う。粗探しのような視点が多い。俳優の質を高く決めるような観客になれるものならなりたいけど、どうやったらなれるものなのか。

文学座も一般向けワークショップを開催していた

たまたまこちらのブログを読んでいて知りました。新国立劇場とか世田谷パブリックシアターとか、一般向けのワークショップは国公立劇場でしか提供していないと思っていたけど、文学座でもやっていたのを初めて知った。わざわざ「演劇経験のない方から将来文学座附属演劇研究所への受験をお考えの方までどなたでも受講いただけます!」と明記してくれている。

ざっと読んだ感じでは毎年開催していそうで、春と夏に昼間コース、夜間コースで連続7日間のものがメイン。夏に開催していたものが好評だから春も追加したみたいで、夏は誰でもOK、春は夜間が40歳以上限定という縛りはあるもののそれ以外は誰でもOK。事前に発表される文学座の役者や演出家が講師を務めて、主に場面の立上げや役者同士のコミュニケーションをやるっぽい。

あとワークショップの枠を超えているのがプラチナクラスで、「演技経験問わず40歳以上の健康な男女 ※学歴・国籍不問、卒業生も歓迎」という募集要項。こちらは水曜夜と日曜午後で4月から12月まで9ヶ月、11月下旬には卒業公演も行なうというスタイル。講師は事前発表されるわけではないけど「西川信廣を中心に文学座所属演出家・俳優、及び専門講師」とのことなので期待できる。

残念ながらそれなりの金額が掛かるけど、プロにやってもらうなら本来はこのくらいの金額が掛かるものなのでそこはしょうがない。国公立劇場のほうが裾野を広げる意味で安く設定しているので諦める。プラチナクラスはオーディションから含めると約40万円の費用が掛かるので、適当な覚悟で受けられるものではないけど、それでもそういうクラスが存在するということ自体がいいこと。

気がつくのが遅くて今年の分は7日間コースを含めてすでに終わっていた。だいたい3月8月に行なわれて、その2ヶ月前くらいから募集が開始されるようなので、気になる人はそのころに公式サイトで確認を。

2019年8月21日 (水)

日本人なら一度は観ておくべき古典芝居100本は選べるか

芝居を観すぎた反動で最近バテているので、観る数を減らせないかと考えていたら突然、そもそも観ておくべき芝居というものがあるのか、とそんなことを思いついた。別に100本と限らなくてもいいけど、都心に住んでいる滅多に芝居を観ない普通の人が100本観るのに何十年かかるのかを考えると、100本でいいでしょう。

まず古典の定義から始まるけど、このくらいかな。
(1)作者が亡くなっている
(2)複数の演出家によって演出される
(3)初演から最低でも30年以上経っても定期的に上演される
(4)洋の東西は問わないけど、外国作品なら日本上演で考える
(5)これは主観になるけど、コメディでもシリアスでも、一定水準を超えてよくできている

分かりやすいところで外国作品だと、これで20-30本くらいになるかな。ミュージカルやオペラは別腹とします。
・有名なシェイクスピアの、そのまた有名なものを何本か
・日本の初期はロシアの影響が大きいのでチェーホフの有名どころ
・イプセンも影響が大きいので代表作を
・アメリカは作家より作品単位の印象がある、「わが町」とか「ガラスの動物園」とか
・フランスは・・・モリエールくらい昔になる?
・ギリシャ悲劇は外せない
・ドイツ、スペイン、イタリアあたりが思いつかないのは、オペラのほうが有名だからか
・近代演劇だと日本ではアジア芝居はまだ影が薄い

日本のほうが分かっていない。歌舞伎や宝塚は入れても能狂言は別腹のほうがしっくりくる。
・歌舞伎から何本かは選ぶべきでしょう
・いまだに観たことのない宝塚は「ベルサイユのバラ」以外に適当なものがあるか
・井上ひさしの代表作を選ぶべき
・三島由紀夫も選ばれだろうけど作品にうとい
・岸田國士は戯曲賞になっているくらいだけど、個人的には入るか判断しかねる
・三好十郎は「浮標」より「炎の人」だと思う
・宮本研の「美しきものの伝説」とか見逃しっぱなしなのでわからない
・秋元松代とかどうなんでしょう
・木下順二?

だめだわからない。存命の古典「候補」のほうがまだ多少は思いつく。
・唐十郎は何本選ばれるべきだろう
・鴻上尚史を外したら怒る人がたくさんいそう
・永井愛なら「見よ、飛行機の高く飛べるを」かな
・今度やる飯島早苗の「絢爛とか爛漫とか」は息が長いですね
・平田オリザは上演頻度なら「ソウル市民」より「東京ノート」か

やっぱりわからない。野田秀樹とかKERAとか松尾スズキとか岩松了とか、やりにくいのか許可を出さないのか、他の演出家で上演されることが少ないので数十年後の評価待ちですね。三谷幸喜は上演許可を出さないことで有名です。上演させたくないから戯曲出版も断る徹底振り。

思いつきはよかったけど勉強が足りないので埋まらない。思い出したらそのうち更新するかもしれません。

2019年8月17日 (土)

DULL-COLORED POP「第三部:2011年 語られたがる言葉たち」東京芸術劇場シアターイースト

<2019年8月16日(金)夜>

大津波と原発事故が起きた2011年の年末。地元テレビ局の報道スタッフは仮設住宅に避難している住人に取材を試みるが上手くいかない。報道局長は双葉町の町長の弟だが、町長は神経を病んで入院しており、取材できる状態ではない。取材が進まない中、年末の特番を控えて、復興を後押しする報道をしたいスタッフと、視聴率がほしいスタッフとで意見が割れる。

福島三部作の第三部は第一部とも第二部とも打って変わって、原発よりも住人に焦点を当てたドキュメンタリー調。原発を取上げるよりも復興をテーマに据えた未来志向とも言える。仮設住宅の住人のエピソードも、テレビ局のいろいろも、何か取材元があるんだろうなということが観ながら想像できて、重かった。

トークディスカッションの回にまた当たって、そこで話された内容によれば、やっぱりこの第三部はいろいろ取材で聞きこんだ情報を盛込んだとのこと。力作ではあるけど、事実が重すぎて観る側の想像力の入る余地が少ない。ここが前2作と大きく違うところ。

トークディスカッションのメモを覚えている限りで。客席の質問に答えるQ&Aのスタイル。はてなまでが質問、そのあとが回答。間違っていたら文責はこのブログにあり。

・津波の被害と原発の被害は分けて描くべきだったのでは? 自分が東北3県を取材した限りでは津波に対する意見もそれなりに多かったので、自分の中で消化した結果、津波に関する話もそれなりに多くなった。

・劇中で福島放送を実名でネガティブな要素も含めて描いており、しかもロゴに本物を使っていたが、タイアップしているのか(私は気がつかなかったが、カメラに貼ったステッカーや封筒などに記載されていた模様)? 劇中でのロゴの使用を申請したが断られた、脚本を提示したわけではない(ので検閲ではなく単に許可がもらえなかった)、制作と相談して実物を使うことにした、福島放送のエピソードは多少脚色しているが取材した内容に基づいており表現の自由の範囲と信じている、先方の法務部門から訴えられたら対応する。

・この話題を演劇で描くことについてと、この話題に対する距離の取り方についてどう気をつけたか? ギリシャ悲劇の昔から演劇は違う意見の対立を描くものだというのが自分が演劇の脚本を勉強した理解、なので今回の内容はむしろ演劇向き、距離の取り方は難しく特に第三部はエピソードを聞いた人の顔が思い浮かんで自分で演出しながら泣きそうになった、演出家の仕事は冷静に距離を取ることなので将来改めて振り返りたい。

・ネットでの評判だと第二部だけ毛色が違うと言われているが、三部作を執筆した順序や時期に違いがあるか? 書いたのは順番通り、前の作品を書き終わってから次の作品を書いた、第二部は町長に興味があって描きたかったが、三部中でもっとも資料の入手しづらい箇所でもあったので、数少ないインタビューと書籍を参考に脚本家の想像で補った部分が最も多い作品となった、そのためそういう評判になったのではないか。

自分が三部を全部観た感想だと、第二部が一番考えさせられたのだけど、事実より想像が多い作品の方が観ていて想像力をかきたてられたというのは、貴重な経験だった。

あとロゴの話は微妙。むしろ悪行を告発するような芝居で実物を使うのならまだわかるけど、今回はそうとは限っていない。取材に基づいたエピソードを実名で描くのは表現の自由だけど、ロゴの使用は商標権の話(気が付かなかったけどこれこれか)。表現の自由で商標権に挑戦しない方がいいというのが個人的な意見。この芝居の価値はそこではない。せっかくの力作にそういう細かいところでケチをつけられないように、自作のロゴに改めるのが吉。

<2019年8月17日(土)追記>

書くのを忘れていた。報道局長の「資本主義と真面目な報道は相性が悪い、民主主義と真面目な報道は相性が悪い」というインパクトの強い台詞があったけど、これは間違っている。テレビ業界は時間の制約が絶対なので、その分お金をかけるか報道内容を絞るかしないと品質を保てない、さらに大規模な報道内容に挑むならお金をかけないといけないけど、そこまでできない、というのが正しい。もっと身近な例なら、取材に3年かけたというこの三部作自体が報道に近い内容を含むけど、それを1か月でやれと言われてできたか、と考えればよい。

プロジェクトで品質を維持するための時間と費用と範囲のトレードオフ」は報道を含むあらゆる分野に通用する内容で、資本主義でなくても民主主義でなくても事情は同じ。そういう自覚を業界で、少なくともその局で持っていないから無茶な要求がまかり通って報道が荒れていく、というなら話は分かる。あるいは最終的な品質の評価を視聴率でしか行なわないから時間と費用と範囲のトレードオフが正しく判断されないというのでも話は分かる(視聴率に関する台詞は少しあった)。台詞の強さ、発するまでの展開とシチュエーション、役者の演技力、すべて揃って説得させられそうになるけど、そこは違う視点でも考えられるべき。

2019年8月11日 (日)

DULL-COLORED POP「1986年:メビウスの輪」東京芸術劇場シアターイースト(ネタばれあり)

<2019年8月9日(金)夜>

双葉町に原発が建ってから15年。税収が街を潤し、原発反対を声高に訴える人が少なくなった中、原発反対を訴えて県議会に立候補しては落選を繰返していた男がいた。飼犬が亡くなった晩、家族からの反対もあってもう政治には関わらないと決めていたが、町長の不正によって対立政党から出馬依頼を受ける。建ってしまった原発が安全に運営されるために監視する人が必要という説得に負けて立候補、無事に当選が決まるが、その翌年にチェルノブイリの原発事故が発生する。

第一部に続いて福島三部作の第二部はほぼ会話劇。立候補することを決めるまでの前半と、町長になってチェルノブイリ事故が発生してどう対応するかを問われる後半。粗筋だけならほぼ上記で言尽くしているけど、この芝居の価値はそのプロセスを描く会話劇、説得劇の箇所にある。あのときのあの立場で関係者がどう振舞うのかが正解かなんて、現在進行形で答えられる人なんていなかったことがよくわかる。そこに寡黙な妻を用意しておいたのは数少ない脚本の救い。亡くなった犬を、狂言回しではなく、生者を見つめる死者に位置づけることで、変わらざるを得なかった運命の皮肉が強調される。

一番上手いのは、対立政党の政治家の秘書に典型的な悪人要素も描きつつ、その実が日本人の振舞や反応を代表させる構造。極論を求めるその態度だけ取上げたら、原発自体が日本人には向いていなかった技術、過ぎた技術と見える。この秘書がどう見えるかが、その観客の芝居への反応を体現することになる。どの程度意識して描いたのか気になる。

知らずに観に行ったら脚本演出家と観客のトークアンドディスカッション(だったか?)を実施している回だった。父が電力会社の技術者、母が原発の近所出身、昔は原発を素直にすごいと思っていたけど今は反対、などの情報はあった。

ただ、原発反対している人たちは、反対なのはわかるけど、止めた後の話を言っている人がいない。ただ止めるのか、節電を進めて原発不要なところまで目指すのか、代替エネルギーを探すのか、そこの意見がわからない。原発の建設を決定した人たちは、想定されうる事故の対策検討に目をつぶって原発を推進した人たちとして扱われていたけど(うろ覚え、トークアンドディスカッションだったかも)、止めた後のことは知らないけど止めろという人たちといったい何が違うのだろう。シンプルに考えるといっても、せめてもう一言、その後についての意見があってしかるべきではないのか。

みたいなことを、その場で質問できたら良かったのだろうけど、帰りの電車から数日かけて感想をまとめるタイプの人間にはそういうやり取りは難しいし、何より直接芝居と関係ない。第三部を観てからまた考える。

2019年8月10日 (土)

東京芸術劇場主催「お気に召すまま」東京芸術劇場プレイハウス

<2019年8月9日(金)昼>

兄である元領主が弟である現領主に追放された領地。娘の願いで姪だけは除名して館に住まわせていたが、開催したレスリング大会で兄の忠臣の息子が優勝し、その戦いを見物していた姪と互いに一目惚れする。現領主は男の出自を知り殺そうとするが召使いの機転で脱出し、追放を命じた姪は男装して娘と道化と一緒に領地を去る。2組が目指すのは元領主が命を永らえているというアーデンの森。

粗筋を書くと格好よさそうだけど、森の出来事は男同士の乱交騒ぎといった趣で、シェークスピアの中でも強引な展開による喜劇。演出もそれを強調して格調とは縁がない。ただ、シェイクスピアは役者のキャラで客席狙いするようなところが多々あって、四大悲劇のほうが例外的というか、十六世紀の芝居はそっちが標準ではないかと最近考えている。だから客席も多用した今回の演出は何となくオリジナルに近づけることを目指したのではという印象を受けた。

という前提で、それにしては正統派の役者を集めたなあ、そして正統派の役者も結構はっちゃけるんだなあ、と余計なことを考えながら観ていた。とりあえずシェイクスピアなら中嶋朋子出しとけ、という理由で呼んだのではないことは「おそるべき親たち」以来の縁だろうからわかるけど硬軟使い分けていたし、山路和弘や小林勝也や久保酎吉のベテラン勢も結構ノってみせていた。むしろ道化役の温水洋一がちゃんとした喜劇を目指そうとして遊びが足りなかったし、広岡由里子は出番が少なくてもったいなかった。

ヒロインの姪役の満島ひかりが、一言で言えば華があった。言い方が難しいけど、演技で言えば観られるけどそこまで上手ではない。ただ、一番伸びやかに演技していた。ニンに合った演出だったのか、観客を信用していたか、自分がしゃべれば客は納得するだろうという売れっ子の自信かはわからないけど、あれは主役にふさわしい態度だった。これまでよさそうな芝居に出ているみたいだから、そろそろ劇団☆新感線とか登場しそう。相手役の坂口健太郎はちょっと真面目すぎ、満島真之介は出番が少ないのがもったいない王道演技だった。

もうちょっとだけキャスティングを入替えて、演出方針を徹底できていたら、もっと面白くなっていたはずだけど、惜しい。

あいちトリエンナーレ「表現の不自由展、その後」のメモと芸術監督の仕事について

これは美術展示だったけど、芝居の分野で似たことが起きたときに参考にするかもしれないのでいくつかメモ。もともとまったく興味もなければ開催もしらないイベントだったけど、話題を目にした瞬間に直感と偏見で「展示側が不手際をやらかした」と思ったので解説が出てくるのを待っていたら、出てきた。

その1。いきなり長いけど、伊東乾がJBPressに書いた「『慰安婦』トリエンナーレが踏みにじった人道と文化」。この人は音楽関係で芸術監督経験者。長いけどいつまで残る記事かわからないので適宜引用。掲載ページへのリンクは省略。

 報道やネットのリアクションには「政治家や公権力の<表現の自由>への介入」といった切り口があふれ、また、展示を中止された人々からも、何の説明もなくいきなり中止を通告されたと怒りを露わにする抗議文が公表されています。
 しかし、こんな事態にしてしまったのは、芸術監督の判断と行動に原因があることで、明確にそれを指摘しておく必要があるでしょう。
 というより、こうしたことを収拾するために、プロフェッショナルのキュレーターや職業人としての芸術監督という職掌が存在しているのにほかなりません。
 アマチュアが間違った椅子に座り、面白半分で打つべき対策を打たずに徒手していれば、人災を招いて当然です。
 では、本来プロフェッショナルの芸術監督であれば何をしておくべきだったのでしょうか?
 もし私がその任にあったとしたら、

1 展示コンテンツ事前告知の徹底
2 国際情勢の緊迫を念頭に、公聴会の開催、ないしパブリック・コメントの募集と検討
3 8月1日以降の事態急変に際しては、あらゆる関係者と対面での綿密な打ち合わせ(足を運んでの調整)。
 調整不能の場合は引責辞任と、残余期間案分相当の報酬返納、それによる危機管理プロフェッショナルの雇用の申し出など

 これらを必ず行っていたと思います。またこの3点とも、いまのところ十全に行った報道を目にしません。

(中略)

 今回の経緯、こんな事態に炎上・発展してしまった段階で「セキュリティの観点から」大村知事が「中止」と判断を下されても、職掌に照らして妥当なことです。
 さらに大村知事は、名古屋市長からのコンテンツ内容に関する指摘に「憲法違反の疑い」という、極めてピシッとした折り目で対処しており、プロフェッショナルの措置として、まずもって完璧です。
 大きなリスクがある。だから留保する。以上。
 芸術サイドに返す言葉は本来ないというのが、一芸術人として常識的に考えるところです。むしろ、そこまで徒手していた監督サイドの瑕疵を指摘し、今後は決してこうしたことの再発がないよう、努めるべきと思います。

(中略)

 十分な事前告知を行わず、パブリック・コメントなど官費執行に関する手続きも踏まぬまま、「隠し玉」炎上狙いの素人了見で8月1日に蓋を開け、現下の国際緊張状態のなか、アルコールランプと思っていたら、ガソリンにマッチを投じてしまった。アマチュアの浅い考えです。
 実際に「大炎上」してから、つまり保守系の政治家がクレームをつけたり、襲撃予告と解釈できる(といっても多くは愉快犯で、本当のリスクは別のところにあると思いますが)匿名連絡があったりすれば、国家公務員出身の政治家・知事の「実行委員会」委員長としては、憲法にも照らして状況を精査のうえ、純然と安全性の観点から中止という判断を下さないわけにはいかない。
 当たり前のことです。この段に至って「表現の自由」などというのは、トリエンナーレが人道と文化、平和の芸術五輪である原点を考えるとき、議論にならないことがお分かりいただけるかと思います。
 さて、その渦中で芸術監督は何をしたか?
 一緒になって「中止」する側に回ってしまった。これが最低最悪と思います。察するに、公務員としても政治家としてもプロの大村知事の盤石の説明の前で「納得」させられ、うなづいて帰ってきたのではないかと思います。
 それでは、ただの坊やにすぎません。芸術監督が守るべき一線は別に厳然と存在したわけですが・・・。
 さらに、その「決定」に際して、芸術監督であるはずの津田大介氏は、作品「平和の少女像」の作者、彫刻家のキム・ソギョン、キム・ウンソン夫妻と、直接対話して納得を得るプロセスを経ていない、と報道されています。事実なら、あり得ません。
 彫刻家本人はもとより「表現の不自由展その後」の当事者とも、十分な話し合いがなされていないように報じられています。
 一方で、愛知県の大村知事と津田大介さんは直接対面して確認をとったとの報道も目にしました。
 もし、これらがすべて事実であるとするならば、さらに加えて津田さんは芸術監督の任ではないと言わねばなりません。
 芸術監督にとっては、コンテンツの総体そのものが「作品」として彼・彼女の見識と品位を問われます。出たとこ勝負で出したりひっこめたりする、じゃんけんの掌のようなものではありません。
 一つひとつの作品には作家があり、五輪同様に、海外からの参加には最大の尊重と敬意を払う必要があります。
 前回稿の冒頭にも記しましたが、もし展示作品を、自分自身がそれを依頼し、決定した作家や関係者に確認を取らず、「展示中止」つまり「撤去」などということをしてしまったら、それは芸術監督でもなんでもない。子供がおもちゃを弄っているのと変わりません。

(中略)

 私が全面否定するのは「プロの職責に素人が紛れ込んで引き起こされる、必然の失敗」セキュリティー・ホールそのもので、個人には興味がありません。
 アート側の人間は訥弁の人が多い。いまだ多くの意見が出て来ていないと思いますが、「平和の少女像」という個別作品への意見の是非とは別に、本質的に作家と作品を愚弄する行為であるという点では、意見は一致すると思います。
 これ以上、出たところ勝負の民間療法で、傷口を広げないようにというのが、落ち着いた分別から投げてあげられる「タオル」と思います。
 あまりに作家や作品、いや「芸術」というもの、ビエンナーレ・トリエンナーレの理想そのものに対して、失礼です。

この次の「トリエンナーレ『計画変更』は財務会計チェックから」も有益。

 先に「芸術監督」は「予算」「進行」と「リスク」を<管理>する、と書きましたが、別の表現を採るなら

Ⅰ 芸術的な観点から「予算の配分の権限を持つ」立場であり
Ⅱ 芸術的な観点から「制作進行決定の権限を持つ」立場であり、かつ
Ⅲ 芸術的な観点から「リスクに対処する権限を持つ」立場である

 ことにほかなりません。
 このうちⅢ、つまり危機管理に関しては、今回全くその職能を全うせず、そのため今回の事態を出来している。
 関係自治体、議会や地域納税者は、いったい何が起きていたのか、正体不明の水かけ論ではなく、数字とともに厳密なチェックを行うのが筋道です。
 これは企業でもどこでも同じ、当たり前のことで「芸術」だからと言っておかしな雲や霧で覆うことは許されません。

(中略)

 さて、報道に目を向けると、「企画展中止」に対していろいろ主観的な意見は出てくるのですが、官費で運営されるトリエンナーレの計画変更に当たって、マネジメントを帳簿からチェックし直すという一番シリアスな指摘はほとんど目にしない。
 数字がないまま「税金」がどうした、と文字だけ躍っても意味ありません。さらに「税金で<こんな作品を展示して>」などと言っても、それが<良い>とも<悪い>とも、白黒は決してつきません。

(中略)

 逆に、ただちにはっきり出るのが数字、財務です。今回、計画を変更したわけで、関連して明らかに(「電話」だけでも事務がパンクしてしまった様子などは報じられましたし、もし追加の警備などがあれば当然出費が伴うわけで)お金の動きがあるはずです。一般にこうしたコストは(余剰人件費であることが多く)決してバカになりません。
 さらに「襲撃予告」などが風評被害を生んでしまい、ファックスを送った犯人は逮捕されても、ことはこれでは終わらない。
 いや、逆で、京都アニメーション放火殺人事件で「方法」が周知されてしまった「ガソリン携行缶テロ」という手口の模倣犯が、仮に言葉だけの脅迫であっても出て来る可能性が現実になってしまった。
 パンドラの箱はすでに開いており、愛知県内の小中高等学校にガソリン放火との脅迫メールの事実も報道されています。すでに、全く洒落では済まない状況になっている。
 言うまでもなくトリエンナーレ全体の来場者数にも変化が出かねず、その場合は露骨に収支に直結するでしょう。

(中略)

 以下、イベントの「途中変更」がお金の観点で何を意味するか、分かりやすいと思うので、具体的に書いてみます。
 あるリハーサルでアンサンブルが<下手っぴー>なところが出てきたとしましょう。普通にあることです。
 そこで「追加練習を組む」という芸術上の決定を指揮台の上で下すとします。これが「計画の変更」。
 仕事の現場では「変更」は同時に、必要なリハーサル室の室料からアーチスト謝金の追加、場合により伴奏ピアニストの手配やその謝金、事務局の管理経費などすべて「出費の追加」を意味します。
 当然ながら財務会計チェックに相当するソロバンを頭の中で弾かねばなりません。「芸術監督」の<お金の管理>という仕事の分かりやすい一例を記してみました。
 あらゆる「変更」は「財政破綻につながるリスク」日々用心、備えよ常に、が芸術監督業の要諦です。
 これが仮に「客演指揮者」であれば、ギャラを貰って1回の本番があっておしまい、という仕事で、練習の追加発注の権限などは持っていません。
 あらゆる「変更」の折は、直ちに事務局とのシリアスな話し合いが始まります。プロフェッショナル同士の、値引きのない駆け引きの場です。

(中略)

 いま、はっきり言って素人が選んだ今回のトリエンナーレで、もっぱら安全性の観点から、「その継続のために、いったいいくらの警備費を上乗せすることが妥当か?」は、作品への好悪などと無関係に冷静に検討すべき財務のイシューです。
 赤字が出たらどうします?
 というかアクションすれば出費は100%増えます。名古屋市民や愛知県民の税金で追加補填するのですか?
 私は慎重であるべきと思います。芸術家の立場から、良心をもって断言します。警備の強化などを含む、あらゆる対策経費を念頭におく財務チェックを直ちに行う必要があるでしょう。
 それが芸術監督、芸術ガバナンスに携わる立場から第一になすべきこと、異論の余地などあり得ません。
「無い袖」は振れない。これはシビアな職業的経営判断です。お金の見通しの立たないこうした計画変更は、税金を原資とする官費投入の現場で許されることではありません。

ちなみに県知事の判断は朝日新聞の記事にも載っている。申し訳ないけど全文引用。

 愛知県で開かれている国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」(津田大介芸術監督)の実行委員会が企画展「表現の不自由展・その後」を中止したことを受け、実行委会長の大村秀章・愛知県知事は5日の定例会見で、展示の中止を求めた河村たかし名古屋市長らを「憲法違反の疑いが濃厚と思う」と批判した。

 企画展は1日に始まり、慰安婦を表現した少女像や、昭和天皇を含む肖像群が燃える映像作品など、各地の美術展で撤去されるなどした二十数点を展示。河村氏は2日、「日本国民の心を踏みにじる行為」などとして、展示の中止を求める抗議文を大村氏に提出した。また、日本維新の会の杉本和巳衆院議員(比例東海)も「公的な施設が公的支援に支えられて行う催事として極めて不適切」として、展示の中止を求める要望書を出していた。

 大村氏は5日の会見で、こうした行為について「憲法21条で禁止された『検閲』ととられても仕方がない」と指摘。「行政や役所など公的セクターこそ表現の自由を守らなければいけないのではないか。自分の気に入らない表現でも、表現は表現として受け入れるべきだ」と述べた。企画展の費用は420万円で、全額寄付で対応するとした。

 また大村氏は、中止を判断した理由について「安全安心を第一に考えた」と説明。5日朝にも「ガソリンを散布します」などと書かれた脅迫メールが県に届いたことを明らかにした。警察と協議するという。

日本の「議論」でよく見かける悪いパターンに「敵の敵を味方扱いしてかばう(無視する)」があって、今回だと市長(政治家)が検閲に類する発言をしたから非難して、その大元になった芸術監督の不手際を問わない人が多い。けど、両方とも駄目ということも成立つし実際に両方とも駄目。個人的にはこれを機会に隙を与えない運営方法が芸術側に広く共有されてほしい。

あと、有名ブログの極東ブログで「あいちトリエンナーレ『表現の不自由展、その後』展示雑感」があったのでそこからも引用。

 もちろん、そういう私の感性が、芸術の価値を決めるものではない。およそ、芸術というのは、個々人が「これが芸術だといえば芸術だ」といった単純なものではない。その芸術作品が複数の人々に与えるインパクトに加え、批評家による批評、キュレーターによる考察などが加わり公の議論を誘うことで、その作品が、公的に芸術であることが問われていく、というものである。そうでなければ、街のギャラリーなどで自由に展示すればいい。
 なので、あいちトリエンナーレ『表現の不自由展、その後』展示について、私がまず関心を向けたのは、キュレーターであり、学芸員である。日本の場合、学芸員には、養成の専門講座を設置している大学か専門学校で所定科目を履修して取得するか、文部科学省が年1回実施している学芸員資格認定試験に合格することが求められる。彼らは、この展示をどのように考えていたか? 
 もう少し過程的に言うなら、津田大介・芸術監督が企画と方向性を決め、学芸員が個々の展示作品を決める、という手順である。別の言い方をすれば、個々の作品の選別には、津田氏は直接的には関わらないはずである。

(中略)

<金曜カフェ>ジャーナリスト・津田大介さん あいち芸術祭 監督として
北海道新聞07/08 05:00

約80組の作家選びは当初、学芸員に任せるつもりだった。ところが、上がってきたリストを見て「ピンとこない。これはまずい」と方針転換。自ら決定権を握った。「僕はそういう(人の権利を奪う)タイプの人間ではありません。でも、そうしないと『情の時代』というテーマにこだわった内容にならないと思った。仕事は5倍くらい大変になったが、その方針のおかげで(参加作家の男女比を半々とする)ジェンダー平等も達成できました」

 どうやら、作品の選定は津田大介・芸術監督の独断だったようだ。

学芸員とは職種ではなく資格なのだと、恥ずかしながら初めて知った。Wikipediaによると実情はいろいろらしいけど、でも

通常、学芸員には、それぞれ、1つまたは複数の専門の分野があり、その専門分野は、その学芸員が所属している美術館等の企画や収集と極めて密接な関係にある。

たとえば、写真が専門である学芸員がいる美術館では、通常、写真作品の収集に力を入れており、また、写真の企画がなされる可能性も高い。ときどき、「何故、あの美術館であんな写真の企画がなされるのだろうか」と不思議なケースがあるが、それは、その美術館に、写真専門の学芸員がいる、ということがその理由であることが多い。逆に写真を専門とする、または、少なくとも、副次的に写真を専門とする学芸員がいない美術館では、写真の企画はまずなされない。なぜならば、写真を扱える担当者がいない美術館に写真作品を任せられるはずがないからである。

と言われればもっともな話なので、専門家をもっと上手に活用するような芸術監督として振舞えるなら話は違ったかもしれない。あともうひとつ。寄付の話。

 愛知トリエンナーレ『表現の不自由展・その後』展示予算420万円が民間の方から寄付で全額まかなわれたというのが本当なら問題ではないか。展示方向に影響するからだ。寄付は運営を信頼し全体予算に組み込むべきだっただろう。そうでなければ、その寄付額でトリエンナーレから切り離し、民間展示にすべきだろう。

やっぱりお金の話は難しい。こういう感覚は勉強して身につくものなのか。

今回の記事を読んで、芸術監督の大変さを改めて認識した。のんきに芸術監督ウォッチとかしているのが申し訳ない。ただ、今の芝居の芸術監督は演出家出身の現場たたき上げがほとんどなので、予算の感覚は持っているだろうし、それ以上に何が上演にふさわしいかの感覚を持っていると信じられる。その点は芝居ファンとしては幸せです。

2019年8月 4日 (日)

「リアリティの処理」について

演劇関係者のインタビューを読んでいるとたまに見かけるのだけど、この言葉の定義がいまだにわからない。あれこれ考えた末に、たぶんこうではないか、とたどり着いた定義が以下になる。
・本来あり得ない設定(物語だったり、登場人物だったり、リアクションだったり)について
・そのままやったら白けたり失笑したりするところ
・演技力や前後の展開の組合せで観客に「これはアリだ」と受入れさせること

ゴーゴーボーイズ ゴーゴーヘブン」のときに松尾スズキが吹越満を評して「お笑い出身者のリアリティの処理には信頼が持てる」と言っていたのが根拠で、このときの吹越満の役が八木さんが生まれ変わった山羊だったのを観てのことだけど、それで合っているのかいまいち自信が持てない。ただ、お笑い出身の人は演技が上手な人が多いと言われる理由にもつながる。

まあ定義はそうだとして。では演技力でありえない設定にリアリティを持たせるためにはどうすればよいのか。それともリアリティという言葉が誤解を招いていて、説得力があればいいのか。そうだとしてそれはどうすればよいのか。

それが演技の秘伝と言えなくもないけど、何か参考になりそうな情報がないか探してなかなか見つからない。

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