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2019年8月24日 (土)

「演劇は一生懸命見られると実はうまくいかないことの方が多い」

成河が個人でカルチベートチケットに挑戦したという論座の記事を(ログイン不要の範囲で)読んだ()。fringe経由。これ自体、非常に面白い話なのだけど、カルチベートチケットというものの存在がいまいち実感できていない。「誰かがチケット代を払って(またはチケット代相当を寄付して)、そのチケットは受付にキープされていて、他の誰かが当日見たいと受付に申し出たらそのチケットがもらえる」という仕組で、「演劇を観慣れていない人向けの敷居を下げるための方策」というのが趣旨なのはわかるけど、善意に基づきすぎたシステムなのでこれがどのくらい有効なものなのかがわからない。まだクラウドファンディングとかで「応援寄付、おまけ付きあるいは誰より早くお届け」のほうが、寄付者と受益者とが一致してわかりやすい。気になるけどよくわからないのでしばらく様子見。やりやすいシステムとか整備されないものか。

それはそれとして、この話で成河が語る演劇の話が面白いので、気になったところを記録しておく。

 もっとも僕は「どうして同じ演劇の中で、こうも断絶があるんだろう」という問題意識は、それ以前からもずっとあったんです。僕は平田オリザさんも野田秀樹さんも唐十郎さんも好きです。ところが、俳優になりたいと思ったときに、どれもやっている先輩がいない。じゃあどこで何を始めたら全部できるの? それを自分たちで考えざるを得なかった。それでも僕が学生の頃はいろんな演劇が百花繚乱の幸せな時代で、少なくとも観客はいろんなジャンルの物を競い合って見ていました。ところが今は観客も断絶してしまっている。

 やがて、これは俳優と観客がお互いを育て合うシステムがないからだということに気付き始めました。観客の質が俳優の質を決める、俳優の質が観客の質を決める。その相互作用でしか演劇は育っていけない。ところが、商業演劇の世界に入ってから、それがどうも頭打ちに来てるような感覚がすごくあったんですね。端的にいうと俳優がファンに守られている。でも、守ってくれる観客だけに観てもらっている限り、俳優は成長しないですよ。もちろん 誰も悪くない。僕も応援して支えてくださる方々は大事に思っています。ただ、真面目で能力のある俳優さんほど目の前にいるお客さんにきちっと応えて喜んでもらおうとするから、そこで悪循環が生まれるわけです。

 それは自分も含めてです。つまり、俳優である僕も成長できないんじゃないかという恐れが生まれたんです。「一部のファンのための演劇を作る」ことは僕にとっての演劇ではないと思うので、このままだとできないと思っていた時期もありました。

(中略)

「私とあなたの話をして」というのが日本の芸能の根本です。

(中略)

僕、「演劇はゴールではなくて きっかけにすぎない」という考え方がすごく好きなんです。つまり僕たちは触媒であって、終わった後に議論が生まれて初めて演劇は成功する。作品として優れているかどうかなんてどうでもよくて、終わった後にいろんな人たちがいろんなことを話し合っている状況こそが目指すべき姿だと思うし、これほど楽しいエンターテインメントはないと僕は思う(笑)。もちろん今は個人で楽しむ時代ですが、だからこそ演劇は最後の砦ですよ。「ええっ、あそこで泣いたの? そんなの爆笑するところじゃん」なんていう会話が初めて演劇を立体化させていくし、そこで初めて実人生と地続きに捉えられると思うんです。

(中略)

 「一生懸命見ている人たちなのか、そうではないのか」というのが大別してあります。 それで意外と一生懸命見てくれてない人がいる回の方がうまくいくんですよ。演劇は一生懸命見られると実はうまくいかないことの方が多いんです。

――ええーっ!

 びっくりするでしょう?(笑)

――なぜ?

 予想外のことが起きないからですね。子供たちの前でパフォーマンスすることを考えてみると一番わかりやすいですよね。

――ああ、なるほど!

 子どもたちってザワザワしているでしょ。本当に何か劇的なことが起こらない限り、反応なんか絶対しない。ワーワー喋って好きなことやってるけど、何かが起きた時にはスッと皆が同じ方向を向くんですね。その瞬間だけが「演劇」だという話なんですよ。「さあ今からここで何かが起きるぞ」とみんなが見ていても「演劇」は起こらないんですよ(笑)。

 ですから演劇を愛してくださる方にもよく言うんです。「一生懸命見ないでください」 って。ただ、一生懸命見ざるを得ない金額だということも大きな問題なんですよ。そのために今回は2000円にしました。もちろん「演劇に人が来ないのは値段の問題じゃないよ」という声があるのも分かります。ただ、2000円だったらジャケ買いができる価格でしょ。「ジャケ買いして1回見て、ダメでもまあいいや」という人が客席にいないと「演劇」ってやっぱり起こらないんですよ。

(中略)

 「宮大工さんが木の違いを嗅ぎ分ける」みたいなことが1800人の劇場ではより困難になりますし、客席には僕が思うよりもいろんなお客さんがいるだろうということもわかっています。ただ同時に、1800人と母数が大きくなればなるほど、今度は客席の中で排他的な動きが生まれてくる。つまりルールや「見方」ですね。カーテンコールの迎え方や手拍子の仕方、拍手のお行儀、日本人が美徳としてそういうものにこだわるのはいいことだと思います。 ただ、それがある瞬間に排他的になると、「何でそうしなければいけないんだろう?」と思う人たちを全員追い出すことになる。

 舞台に立つ側としては何でもいいんです。好きに過ごして欲しいし、感動なんかしなくたっていい。その人が何を大事に思うかを決める権利はこちらにはない。でも、その作品を愛好してくださる方達が大勢を占めて行った時に、無意識的な集団心理が生まれがちです。要するに同調圧力ですよね。もちろん誰が悪いわけでもないのですが、それが実は演劇の一番の敵になることもあると思うので、これにもみんなで立ち向かいませんかっていうことなんです!

(中略)

僕が『エリザベート』をやるのは作品がとても面白いと思うからです。日本人にとっても意義があると思う。これはアメリカじゃ全然受けませんからね。「絶望の甘美」とか「自由になりたいけどなれない」とか、皇室や王室がある国は分かるんです。……アメリカ人は笑いますからね(笑)。

(中略)

でもそこにどうやって「たまたまふらっと来て見たけれど衝撃を受けた」という人を増やせるか? それに尽きます。そのことをお客さんと一緒に考えてみたかった。『エリザベート』だって20人でも30人でも、できれば100人ぐらいでも、そういう客層がいたら……断言します。作品が良くなります。みんなで守ろうとして守ろうとして作品は悪くなるんですよ。荒波に突き落とさないと作品は良くはならない。

やっぱり引っ張りだこになる人はそれだけいろいろなことを考えているんだなと思い知らされる。個人的にはチケット代もさることながら、使った時間に対する対価を要求してしまう面がある。それは観客として当然の心理だけど、年齢が上がるごとに時間を使うものに対する要求が辛くなっている。

それはそれとして「観客の質が俳優の質を決める、俳優の質が観客の質を決める」という話はどういう相互作用なんだろう。ずいぶん質の高い俳優も観てきたと思うけど、自分はあまりいい観客に育たなかったなと思う。粗探しのような視点が多い。俳優の質を高く決めるような観客になれるものならなりたいけど、どうやったらなれるものなのか。

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