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2019年8月10日 (土)

あいちトリエンナーレ「表現の不自由展、その後」のメモと芸術監督の仕事について

これは美術展示だったけど、芝居の分野で似たことが起きたときに参考にするかもしれないのでいくつかメモ。もともとまったく興味もなければ開催もしらないイベントだったけど、話題を目にした瞬間に直感と偏見で「展示側が不手際をやらかした」と思ったので解説が出てくるのを待っていたら、出てきた。

その1。いきなり長いけど、伊東乾がJBPressに書いた「『慰安婦』トリエンナーレが踏みにじった人道と文化」。この人は音楽関係で芸術監督経験者。長いけどいつまで残る記事かわからないので適宜引用。掲載ページへのリンクは省略。

 報道やネットのリアクションには「政治家や公権力の<表現の自由>への介入」といった切り口があふれ、また、展示を中止された人々からも、何の説明もなくいきなり中止を通告されたと怒りを露わにする抗議文が公表されています。
 しかし、こんな事態にしてしまったのは、芸術監督の判断と行動に原因があることで、明確にそれを指摘しておく必要があるでしょう。
 というより、こうしたことを収拾するために、プロフェッショナルのキュレーターや職業人としての芸術監督という職掌が存在しているのにほかなりません。
 アマチュアが間違った椅子に座り、面白半分で打つべき対策を打たずに徒手していれば、人災を招いて当然です。
 では、本来プロフェッショナルの芸術監督であれば何をしておくべきだったのでしょうか?
 もし私がその任にあったとしたら、

1 展示コンテンツ事前告知の徹底
2 国際情勢の緊迫を念頭に、公聴会の開催、ないしパブリック・コメントの募集と検討
3 8月1日以降の事態急変に際しては、あらゆる関係者と対面での綿密な打ち合わせ(足を運んでの調整)。
 調整不能の場合は引責辞任と、残余期間案分相当の報酬返納、それによる危機管理プロフェッショナルの雇用の申し出など

 これらを必ず行っていたと思います。またこの3点とも、いまのところ十全に行った報道を目にしません。

(中略)

 今回の経緯、こんな事態に炎上・発展してしまった段階で「セキュリティの観点から」大村知事が「中止」と判断を下されても、職掌に照らして妥当なことです。
 さらに大村知事は、名古屋市長からのコンテンツ内容に関する指摘に「憲法違反の疑い」という、極めてピシッとした折り目で対処しており、プロフェッショナルの措置として、まずもって完璧です。
 大きなリスクがある。だから留保する。以上。
 芸術サイドに返す言葉は本来ないというのが、一芸術人として常識的に考えるところです。むしろ、そこまで徒手していた監督サイドの瑕疵を指摘し、今後は決してこうしたことの再発がないよう、努めるべきと思います。

(中略)

 十分な事前告知を行わず、パブリック・コメントなど官費執行に関する手続きも踏まぬまま、「隠し玉」炎上狙いの素人了見で8月1日に蓋を開け、現下の国際緊張状態のなか、アルコールランプと思っていたら、ガソリンにマッチを投じてしまった。アマチュアの浅い考えです。
 実際に「大炎上」してから、つまり保守系の政治家がクレームをつけたり、襲撃予告と解釈できる(といっても多くは愉快犯で、本当のリスクは別のところにあると思いますが)匿名連絡があったりすれば、国家公務員出身の政治家・知事の「実行委員会」委員長としては、憲法にも照らして状況を精査のうえ、純然と安全性の観点から中止という判断を下さないわけにはいかない。
 当たり前のことです。この段に至って「表現の自由」などというのは、トリエンナーレが人道と文化、平和の芸術五輪である原点を考えるとき、議論にならないことがお分かりいただけるかと思います。
 さて、その渦中で芸術監督は何をしたか?
 一緒になって「中止」する側に回ってしまった。これが最低最悪と思います。察するに、公務員としても政治家としてもプロの大村知事の盤石の説明の前で「納得」させられ、うなづいて帰ってきたのではないかと思います。
 それでは、ただの坊やにすぎません。芸術監督が守るべき一線は別に厳然と存在したわけですが・・・。
 さらに、その「決定」に際して、芸術監督であるはずの津田大介氏は、作品「平和の少女像」の作者、彫刻家のキム・ソギョン、キム・ウンソン夫妻と、直接対話して納得を得るプロセスを経ていない、と報道されています。事実なら、あり得ません。
 彫刻家本人はもとより「表現の不自由展その後」の当事者とも、十分な話し合いがなされていないように報じられています。
 一方で、愛知県の大村知事と津田大介さんは直接対面して確認をとったとの報道も目にしました。
 もし、これらがすべて事実であるとするならば、さらに加えて津田さんは芸術監督の任ではないと言わねばなりません。
 芸術監督にとっては、コンテンツの総体そのものが「作品」として彼・彼女の見識と品位を問われます。出たとこ勝負で出したりひっこめたりする、じゃんけんの掌のようなものではありません。
 一つひとつの作品には作家があり、五輪同様に、海外からの参加には最大の尊重と敬意を払う必要があります。
 前回稿の冒頭にも記しましたが、もし展示作品を、自分自身がそれを依頼し、決定した作家や関係者に確認を取らず、「展示中止」つまり「撤去」などということをしてしまったら、それは芸術監督でもなんでもない。子供がおもちゃを弄っているのと変わりません。

(中略)

 私が全面否定するのは「プロの職責に素人が紛れ込んで引き起こされる、必然の失敗」セキュリティー・ホールそのもので、個人には興味がありません。
 アート側の人間は訥弁の人が多い。いまだ多くの意見が出て来ていないと思いますが、「平和の少女像」という個別作品への意見の是非とは別に、本質的に作家と作品を愚弄する行為であるという点では、意見は一致すると思います。
 これ以上、出たところ勝負の民間療法で、傷口を広げないようにというのが、落ち着いた分別から投げてあげられる「タオル」と思います。
 あまりに作家や作品、いや「芸術」というもの、ビエンナーレ・トリエンナーレの理想そのものに対して、失礼です。

この次の「トリエンナーレ『計画変更』は財務会計チェックから」も有益。

 先に「芸術監督」は「予算」「進行」と「リスク」を<管理>する、と書きましたが、別の表現を採るなら

Ⅰ 芸術的な観点から「予算の配分の権限を持つ」立場であり
Ⅱ 芸術的な観点から「制作進行決定の権限を持つ」立場であり、かつ
Ⅲ 芸術的な観点から「リスクに対処する権限を持つ」立場である

 ことにほかなりません。
 このうちⅢ、つまり危機管理に関しては、今回全くその職能を全うせず、そのため今回の事態を出来している。
 関係自治体、議会や地域納税者は、いったい何が起きていたのか、正体不明の水かけ論ではなく、数字とともに厳密なチェックを行うのが筋道です。
 これは企業でもどこでも同じ、当たり前のことで「芸術」だからと言っておかしな雲や霧で覆うことは許されません。

(中略)

 さて、報道に目を向けると、「企画展中止」に対していろいろ主観的な意見は出てくるのですが、官費で運営されるトリエンナーレの計画変更に当たって、マネジメントを帳簿からチェックし直すという一番シリアスな指摘はほとんど目にしない。
 数字がないまま「税金」がどうした、と文字だけ躍っても意味ありません。さらに「税金で<こんな作品を展示して>」などと言っても、それが<良い>とも<悪い>とも、白黒は決してつきません。

(中略)

 逆に、ただちにはっきり出るのが数字、財務です。今回、計画を変更したわけで、関連して明らかに(「電話」だけでも事務がパンクしてしまった様子などは報じられましたし、もし追加の警備などがあれば当然出費が伴うわけで)お金の動きがあるはずです。一般にこうしたコストは(余剰人件費であることが多く)決してバカになりません。
 さらに「襲撃予告」などが風評被害を生んでしまい、ファックスを送った犯人は逮捕されても、ことはこれでは終わらない。
 いや、逆で、京都アニメーション放火殺人事件で「方法」が周知されてしまった「ガソリン携行缶テロ」という手口の模倣犯が、仮に言葉だけの脅迫であっても出て来る可能性が現実になってしまった。
 パンドラの箱はすでに開いており、愛知県内の小中高等学校にガソリン放火との脅迫メールの事実も報道されています。すでに、全く洒落では済まない状況になっている。
 言うまでもなくトリエンナーレ全体の来場者数にも変化が出かねず、その場合は露骨に収支に直結するでしょう。

(中略)

 以下、イベントの「途中変更」がお金の観点で何を意味するか、分かりやすいと思うので、具体的に書いてみます。
 あるリハーサルでアンサンブルが<下手っぴー>なところが出てきたとしましょう。普通にあることです。
 そこで「追加練習を組む」という芸術上の決定を指揮台の上で下すとします。これが「計画の変更」。
 仕事の現場では「変更」は同時に、必要なリハーサル室の室料からアーチスト謝金の追加、場合により伴奏ピアニストの手配やその謝金、事務局の管理経費などすべて「出費の追加」を意味します。
 当然ながら財務会計チェックに相当するソロバンを頭の中で弾かねばなりません。「芸術監督」の<お金の管理>という仕事の分かりやすい一例を記してみました。
 あらゆる「変更」は「財政破綻につながるリスク」日々用心、備えよ常に、が芸術監督業の要諦です。
 これが仮に「客演指揮者」であれば、ギャラを貰って1回の本番があっておしまい、という仕事で、練習の追加発注の権限などは持っていません。
 あらゆる「変更」の折は、直ちに事務局とのシリアスな話し合いが始まります。プロフェッショナル同士の、値引きのない駆け引きの場です。

(中略)

 いま、はっきり言って素人が選んだ今回のトリエンナーレで、もっぱら安全性の観点から、「その継続のために、いったいいくらの警備費を上乗せすることが妥当か?」は、作品への好悪などと無関係に冷静に検討すべき財務のイシューです。
 赤字が出たらどうします?
 というかアクションすれば出費は100%増えます。名古屋市民や愛知県民の税金で追加補填するのですか?
 私は慎重であるべきと思います。芸術家の立場から、良心をもって断言します。警備の強化などを含む、あらゆる対策経費を念頭におく財務チェックを直ちに行う必要があるでしょう。
 それが芸術監督、芸術ガバナンスに携わる立場から第一になすべきこと、異論の余地などあり得ません。
「無い袖」は振れない。これはシビアな職業的経営判断です。お金の見通しの立たないこうした計画変更は、税金を原資とする官費投入の現場で許されることではありません。

ちなみに県知事の判断は朝日新聞の記事にも載っている。申し訳ないけど全文引用。

 愛知県で開かれている国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」(津田大介芸術監督)の実行委員会が企画展「表現の不自由展・その後」を中止したことを受け、実行委会長の大村秀章・愛知県知事は5日の定例会見で、展示の中止を求めた河村たかし名古屋市長らを「憲法違反の疑いが濃厚と思う」と批判した。

 企画展は1日に始まり、慰安婦を表現した少女像や、昭和天皇を含む肖像群が燃える映像作品など、各地の美術展で撤去されるなどした二十数点を展示。河村氏は2日、「日本国民の心を踏みにじる行為」などとして、展示の中止を求める抗議文を大村氏に提出した。また、日本維新の会の杉本和巳衆院議員(比例東海)も「公的な施設が公的支援に支えられて行う催事として極めて不適切」として、展示の中止を求める要望書を出していた。

 大村氏は5日の会見で、こうした行為について「憲法21条で禁止された『検閲』ととられても仕方がない」と指摘。「行政や役所など公的セクターこそ表現の自由を守らなければいけないのではないか。自分の気に入らない表現でも、表現は表現として受け入れるべきだ」と述べた。企画展の費用は420万円で、全額寄付で対応するとした。

 また大村氏は、中止を判断した理由について「安全安心を第一に考えた」と説明。5日朝にも「ガソリンを散布します」などと書かれた脅迫メールが県に届いたことを明らかにした。警察と協議するという。

日本の「議論」でよく見かける悪いパターンに「敵の敵を味方扱いしてかばう(無視する)」があって、今回だと市長(政治家)が検閲に類する発言をしたから非難して、その大元になった芸術監督の不手際を問わない人が多い。けど、両方とも駄目ということも成立つし実際に両方とも駄目。個人的にはこれを機会に隙を与えない運営方法が芸術側に広く共有されてほしい。

あと、有名ブログの極東ブログで「あいちトリエンナーレ『表現の不自由展、その後』展示雑感」があったのでそこからも引用。

 もちろん、そういう私の感性が、芸術の価値を決めるものではない。およそ、芸術というのは、個々人が「これが芸術だといえば芸術だ」といった単純なものではない。その芸術作品が複数の人々に与えるインパクトに加え、批評家による批評、キュレーターによる考察などが加わり公の議論を誘うことで、その作品が、公的に芸術であることが問われていく、というものである。そうでなければ、街のギャラリーなどで自由に展示すればいい。
 なので、あいちトリエンナーレ『表現の不自由展、その後』展示について、私がまず関心を向けたのは、キュレーターであり、学芸員である。日本の場合、学芸員には、養成の専門講座を設置している大学か専門学校で所定科目を履修して取得するか、文部科学省が年1回実施している学芸員資格認定試験に合格することが求められる。彼らは、この展示をどのように考えていたか? 
 もう少し過程的に言うなら、津田大介・芸術監督が企画と方向性を決め、学芸員が個々の展示作品を決める、という手順である。別の言い方をすれば、個々の作品の選別には、津田氏は直接的には関わらないはずである。

(中略)

<金曜カフェ>ジャーナリスト・津田大介さん あいち芸術祭 監督として
北海道新聞07/08 05:00

約80組の作家選びは当初、学芸員に任せるつもりだった。ところが、上がってきたリストを見て「ピンとこない。これはまずい」と方針転換。自ら決定権を握った。「僕はそういう(人の権利を奪う)タイプの人間ではありません。でも、そうしないと『情の時代』というテーマにこだわった内容にならないと思った。仕事は5倍くらい大変になったが、その方針のおかげで(参加作家の男女比を半々とする)ジェンダー平等も達成できました」

 どうやら、作品の選定は津田大介・芸術監督の独断だったようだ。

学芸員とは職種ではなく資格なのだと、恥ずかしながら初めて知った。Wikipediaによると実情はいろいろらしいけど、でも

通常、学芸員には、それぞれ、1つまたは複数の専門の分野があり、その専門分野は、その学芸員が所属している美術館等の企画や収集と極めて密接な関係にある。

たとえば、写真が専門である学芸員がいる美術館では、通常、写真作品の収集に力を入れており、また、写真の企画がなされる可能性も高い。ときどき、「何故、あの美術館であんな写真の企画がなされるのだろうか」と不思議なケースがあるが、それは、その美術館に、写真専門の学芸員がいる、ということがその理由であることが多い。逆に写真を専門とする、または、少なくとも、副次的に写真を専門とする学芸員がいない美術館では、写真の企画はまずなされない。なぜならば、写真を扱える担当者がいない美術館に写真作品を任せられるはずがないからである。

と言われればもっともな話なので、専門家をもっと上手に活用するような芸術監督として振舞えるなら話は違ったかもしれない。あともうひとつ。寄付の話。

 愛知トリエンナーレ『表現の不自由展・その後』展示予算420万円が民間の方から寄付で全額まかなわれたというのが本当なら問題ではないか。展示方向に影響するからだ。寄付は運営を信頼し全体予算に組み込むべきだっただろう。そうでなければ、その寄付額でトリエンナーレから切り離し、民間展示にすべきだろう。

やっぱりお金の話は難しい。こういう感覚は勉強して身につくものなのか。

今回の記事を読んで、芸術監督の大変さを改めて認識した。のんきに芸術監督ウォッチとかしているのが申し訳ない。ただ、今の芝居の芸術監督は演出家出身の現場たたき上げがほとんどなので、予算の感覚は持っているだろうし、それ以上に何が上演にふさわしいかの感覚を持っていると信じられる。その点は芝居ファンとしては幸せです。

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