松竹製作「秀山祭九月大歌舞伎 夜の部」歌舞伎座
<2019年9月7日(土)夜>
寺子屋の夫婦が菅原道真の若君を我が子としてかくまっていたものの発覚して差出せと言われて窮しその日に入門に来た子を身代わりにと考える「寺子屋」、源義経を奉じて奥州に行こうとする弁慶たちが安宅の関で見咎められて勧進の一行だと言張る「勧進帳」、赤穂浪人大高源吾の不忠が気に入らぬと出入禁止にした殿様松浦鎮信を宥める俳人其角が会ったばかりの大高源吾の俳句を伝えると「松浦の太鼓」。
夜の部をフルで観て初物経験。「すまじきものは宮仕え」と台詞が出てきたけど寺子屋が出典らしい。で、寺子屋を初めて観終わって自分でも驚いたけど、この展開の芝居は現代ではないだろうという感想。二十歳のころなら多分納得していたので、おもったより自分の考え方が近代化してきている。調べたら菅原道真を中心に五段目まであるうちの四段目のそのまた一部が寺子屋で、寺子屋夫婦の源蔵も首検分する松王丸もその前に登場しているらしい。けど現代芝居ならこの展開を納得させるために源蔵と松王丸が道真から恩を受けたことを中心に組立てなおして3時間以上は必要な大作になる。古典なので直すものでもないけど、こんな感想を持つ日が来ようとは。
役者は、吉右衛門の松王丸、千代の菊之助、戸浪の児太郎あたりはいいのだけど、源蔵の幸四郎がちょっと軽い。
勧進帳は奇数日で仁左衛門弁慶に幸四郎富樫。仁左衛門は格好よかったけど、勧進帳の読上げとか義経を叩くところとか、ここ一番が若干薄い。後半でうっすら息切れしていたのは酒を飲んだ後の演技かとも思ったけど、最後の飛び六方が厳しそうだったので多分体力の問題。弁慶は体力的にきつい役と噂に聞くけど実際そうなんだろう。
そしてここでも幸四郎。富樫が弁慶一行を見逃したあたりの心情、納得して見逃したのか、わかって見逃したのか、仁左衛門に目がいっていたのもあるけどそこらへんがいまいちわからず。もともと幸四郎というか高麗屋は弁慶側なので、できることなら偶数日を観たい。
最後の松浦の太鼓は殿様が笑わせる狂言物。歌六の殿様もいいけど大高源吾の妹で殿様に仕える女中の米吉がいい感じ。出だしはともかく、だんだん殿様の可笑しさが伝わってくる後半は、力が抜けて観られるけど、終演9時過ぎのせいかここまで観ずに帰る人も散見。前2本と比べて地味といえば地味だけどもったいない。
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