2019年11月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

« 野田地図「Q」@東京芸術劇場プレイハウス(若干ネタばれあり) | トップページ | 2019年11月12月のメモ »

2019年10月19日 (土)

芸術の鑑賞ルールなんて教わったことがない

あいちトリエンナーレ「表現の不自由展、その後」のその後、以前のエントリーの続きのような話です。

愛知県で検証委員会の資料が公開されたのを読んで(動画は観ていません)非常に勉強になったのだけど、1ヶ月経っても考えがまとまりません。ちなみに第2回の会議に掲載されている資料はどれも非常に勉強になるので興味のある人は読んでみるとよいです。お金の話も載っています。

たとえば太下義之「トリエンナーレ(アート・プロジェクト)におけるアームズ・レングスの原則について」なんかを読むと、アーツカウンシルとアームズレングスの話、私も昔いろいろ書いて結局消化不良でしたけど、結局

いわゆる「政府はお金を出しても口は出さない」という考え方のこと。

だそうです。専門家はわかりやすいですね。

で、トリエンナーレの話です。検証委員会の資料を読む限りでは、展示側はあれだけ体制が整っていてなぜそんなイレギュラーな契約、スケジュールで展示を決めたのか。キュレーターチームからパネルでと提案されても強行して、結局はキュレーターチームとは独自の責任でやるものと切り分けになった。他の展示とは異色かつ爆弾な展示の提案がボスの芸術監督から出てきて、キュレーターチーム側としては切り分けまでが精一杯のところだったのだろうとサラリーマンの私は想像する。その後で知事に上がったら知事も止めてくれと提案したけど芸術監督(と契約先)が強行な態度で、それで止めたら本当に検閲になりかねないから対策しかできなかったんだろうと推測する。もし私がこの件を芝居にするなら一番翻弄されたであろうキュレーターチームの誰かを主役に選びたい。

最大限好意的に解釈すれば、展示だけでなく展示プロセス自体でも問われるのが表現の不自由だった、と言えなくもないけど、芸術監督に偏見を持っている私の感想は、芸術監督は炎上を商売に変える錬金術師ではあっても、炎上させないようにする守護神ではなかったのだろうな、炎上を商売に変えるのに不適切な場所で同じ事をやったら大火事になったのは必然だったんだろうな、となる。

そこから政府の交付金停止(一応体裁は文化庁による停止)まで派生して、最初は政府がなんでこんな悪手を取るかと思ったけど、その後の世論調査で交付金停止賛成が反対を上回って、なんと世論の機を見るに敏だとびっくりしました。どこまで正確に世論を読めたと確信があったのかまではわかりませんが。この件は、県知事はぜひ訴えて、アームズレングスの原則確立に尽力してほしいです。政治家が確立するってのも妙ですが。

そこまでは展示側の話。それとは別に観客側の話があります。検証委員会の資料が端的にまとまっていて、たとえば岩渕潤子「表現の自由に関して世界で起きていること」を読むといろいろな事例が載っており、

国際芸術展、美術館など文化施設において、出展作品の解釈を巡って作家やキュレー
ターと来場者(政治家を含む)の意見が対立することは、特に表現の自由が保証されてい
る先進的民主国家においては、珍しくない。

ということが説明されています。この観客側の話、それはそうなんだけど、もっと個人レベル、基本レベルの話が知りたいと思ったら、「『あいトリ』騒動は『芸術は自由に見ていい』教育の末路かもしれない」という文章が出てきました。まずはここ。

私の専門とする芸術哲学の分野では、「解釈に正解はない」とか「解釈は自由」といった考え方は、実のところ必ずしもすべての論者が同意するものではないのだが、本稿ではその問題にはふみこまない。私が本稿でまず指摘したいのは、たとえ「解釈に正解はない」とか「解釈は自由」などと言えるとしても、だからといって「あなたの見方が常に正解」ということにはならない、という点だ。

たしかに芸術の分野には、多様な解釈を許容する風潮がある。芸術作品とは、科学論文や事故報告書などとは違って、様々な仕方で「読み解かれる」ものだ。いったん公開された作品は、作者の手を離れ、世間の中で「読み解き」の対象となる。作者側は「どう見られるかわからない」という思いで作品を手放すのだ。

しかしだからといって、作品解釈が「何でもあり」になるわけではない。解釈には、作品全体を整合的に読み解けるものであるべきだ、とか、より良い作品理解を目指すものであるべきだ、といった基本的なルールがある。作品の一部だけを取り出して自分勝手な妄想を繰り広げても、それは恣意的な解釈にしかならない。

今回のトリエンナーレをめぐる騒動では、政治信条に引っ張られた恣意的な解釈、表面的な解釈が多数見られた。《気合100連発》に対するいくつかの批判は、その典型例といえる。以下、不適切な解釈のパターンをいくつか見てみよう。

A)部分しか見ない。
(中略)
B)制作背景を考えない。
(中略)
C)作品の狙いを考えない。
(後略)

恣意的な解釈がよくないのはそうだけど、「解釈には、作品全体を整合的に読み解けるものであるべきだ、とか、より良い作品理解を目指すものであるべきだ、といった基本的なルール」は、暗黙の了解なのか、それとも芸術系の学校では必ず教えるような常識なのか、どちらなんでしょう。私は学校でそのような鑑賞ルールを教わったことがありません。これだけの量の芝居を観てきた今なら、そういう鑑賞ルールのほうが幸せかな、と想像できますけど、同じ事を学生時代に言われてもたぶん理解できませんでした。

だから長いけど以下の部分を引用します。

とはいえ、ここで私が言いたいのは、作者の意図どおりに作品を読まねばならない、ということではない。芸術の領域では作者の意図を超えて作品を見る「解釈の自由」が、ある程度容認されている。

「お前が何を思いながら作っていようが知ったことか」「私はお前が思いつきもしなかった評価軸を勝手に当てはめ、好きなように称賛・批判するのだ」。芸術の場では、こうした暴力的な失礼さがある程度認められているのである。これはある意味で驚くべきことだ。芸術以外の場でこのような「失礼さ」がまかり通っているところはほとんどない(あるとしても、たいていは「芸術的」な見方が受け継がれている領域だ)。

だがこの失礼さの容認も、出し手と読み手、お互いの敬意の上に成立するものだということを忘れてはならない。自由に意味を読み込む、とか、作者本人には思いもよらない解釈を持ち込む、といったやり口が許されるのは、あくまでそのベースに相互理解と尊重があるからだ。

この枠から外れる、リスペクトを欠いた解釈は、悪意ある解釈にしかならない。作品や作者に最低限の敬意も払わない者は、「自由な解釈ゲーム」を始めるためのスタートラインに立てていないのである。悪意ある表面的な解釈は、たんに間違っているだけでなく、言葉どおりの意味での「失礼な」解釈として批判されねばならない。

だが今回の騒動では、悪意ある解釈をあえて採用する人たちが一定の割合でいる、という事実が明らかになった。これはつまり、芸術作品をもはや芸術の枠内で見ない人達がそれなりにいる、ということだ。

今回、作品を恣意的に読んで政治的な主張につなげた人たちは、一方では「成果物を作り手から切り離して読み解く」というふるまい(これは非常に近代芸術的と言える)をしつつ、その一方で「芸術業界の小難しいルールなんて知るか!」と文句を言い、さらに気に入らないところがあると、いったんは視界から消したはずの作者や展示者を呼び戻して攻撃している。

これは一見複雑な立場だ。ある面では、「文脈から切り離された対象を自由に読み解きましょう」という極端な芸術観を採用しているだけのようにも見えるが、その一方で、より良い解釈を目指すとか、より良い鑑賞経験を目指すといった、芸術文化を支える態度はほとんど見られない。こうした態度にはおそらく「わがままな消費者」という理解が一番ぴったりくる。だからこそ、気にくわない作品を見たときに「税金返せ」といった発言が出るのだろう。

もちろんすべての来場者に、芸術なんだから芸術鑑賞の作法で見ろ、と鑑賞態度を押し付けるのも無理な話だ。すべての人が芸術に理解あるわけではないし、市民参加を求める大規模芸術展では、普段美術館に来ないような人もたくさん来場する。

こうしたお祭りでは、芸術文化に慣れてない人を引き込む工夫・戦略が、展示側には少なからず求められるし、ゴリゴリの玄人向け表現が「場を読めてない失敗作」と批判されることもあるだろう(もっとも、こうしたケースでの批判も、「もっと工夫しろ」といった、あくまで見せ方の失敗に対する批判であるべきだが)。公的な芸術イベントでは、芸術の領域外の人々への配慮が強く求められるのである。

今回の騒動において、展示者側からの配慮がそこまで欠けていたとは私は思わない(とりわけ騒動が起こったあとでは、ボランティアやアーティストたちが、展示再開に向けてさまざまな対話の努力をしていた)。

今回の騒動を加熱させていたのは、芸術の評価軸を採用しない批判、つまり、芸術を芸術として見ようとしない者たちからの批判である。芸術として提示されたものを芸術として見る者たちと、見ない者たち。あいちトリエンナーレがつきつけたのは、この合間を本来埋めるべきであるはずの相互尊重が思いのほか断絶されていた、という点である。

書かれていることは実にもっともでほぼ賛成ですし、「『わがままな消費者』という理解が一番ぴったりくる」という表現も的確だと思いますけど、「芸術の評価軸を採用しない批判、つまり、芸術を芸術として見ようとしない者たちからの批判である」というところだけ違和感がああります。繰返しになりますけど、鑑賞、解釈の基本的なルール、態度について、私は教わったことがありません。経験則以上のものを知りませんでした。そして一般日常生活をおくる人でいわゆる芸術に積極的に接する人はそんなに多くない、少なくともそうでない人のほうが多い。だから芸術には芸術としての鑑賞ルールがあるということすら知らない人のほうが一般ではないでしょうか。

その点は検証委員会の第1回の議事録のほうがむしろ詳しいです。2箇所引用します。最初は岩渕潤子の発言。

 美術館が特別な目的を持った公共空間であり、国際美術展も美術館に準ずると考えるわけですが、昨今、SNS、ソーシャルメディアの登場によって、以前と公共空間の認識が若干変わってきているように思います。もともとは閉ざされた空間で特別な目的を持っているという前提があるからこそ表現の自由が守られてきた美術館ですが、その空間内で、スマートフォンなどを使って写真を撮って、広く一般の人が SNS への投稿を通じて容易に表現活動をすることが可能になり、美術館の側でもそれを広報的に利用するという流れが一般的になってきました。閉ざされた特別な目的の空間だったものが、今では建物の壁を越えて、一般の公共空間にまで広がってしまっているという状況になっているように思います。
 今回、愛知で起きている問題でも、その点に触れないわけにはいかないと思っています。本来であれば趣旨を理解した人だけが観るはずの展覧会を、その文脈から外れた(アウト・オブ・コンテクスト)かたちで、悪意はなかったにしても、情報が広く流れたことによって、多くの人たちが本来の意図や経緯を理解する以前に感情的、もしくは、条件反射的に反応してしまったように見受けられます。これは極めて現代的な問題なので、これからの公共的な物、公共空間、あるいは自治体が主体となって行うイベントについて、その公共性をどうとらえるかきちんと議論する必要があると思っております。一番強く感じたのが、このことでした。

もうひとつは上山信一の発言。

 なぜ中止になったのか、中止になってしまうことの良し悪しを考えることが主体であって、作品そのものはそれとセットで鑑賞すべきものではなかったのか。しかしながら、キュレーションというか展示方法が不十分ではなかったのかと考える。
 その結果、一般の方が、トリエンナーレを楽しもうと思って準備なく見に来られると、一部にはこれは政治プロパガンダだと感じてしまわれることは否定出来ないと思う。それも、特定の考え方に偏ったものじゃないかと思われてしまうことがありうる。
 それに対して、あれはアートの表現の自由だという主張をしても議論が噛み合わない。批判する人は政治プロパガンダと思い、美術館側は特殊な空間のアートだと言っていても議論が噛み合わない。これには対話が必要であるし、対話に対話を重ねないと、なかなかアートと政治というものは、お互い分かり合えない。そしてそれ自体が、津田監督が言っている、斬新なテーマそのものに突き刺さる難しい状況なんだろうと思う。
 具体的には、例えばあの展示を見せる前に、「表現の自由」とは何か、という基本的な勉強セッションをする。あるいは、表現の自由については、各国でいろいろな議論があり、絶対的な結論がなかなか出ていないとか、時代によって表現の自由の範囲というものが、ヨーロッパでもアメリカでも少しずつ変わっているんだとか、とても悩ましいテーマだということを予告した上で、表現の自由について勉強した人を前提に作品を見せるなど。そうしたいろんな工夫をしないと、表現の自由を訴えるという目的はなかなか達成出来なかったのではないかと思う。
 これはキュレーションなのか、アートを越えた工夫なのか分からないが、何か工夫や努力をしないと、作品を持ち込んだところまではよかったが、受け手にちゃんとしたメッセージが伝わらなかったのだと思う。

今回の話は、もともと難しい話だったものが、現代になってますます難しくなって、でも日本ではおおっぴらになっていなかったところ、今回は「地雷」を壮大に踏んだ結果、日本でも世界と同じような難しい問題をはらんでいることがはっきりして、詳しい人たちがそれぞれの立場でいろいろ説明する機会になった、というのがここまでの理解です。好意的に表現すれば、日本に閉じたローカルな騒動と思っていたら、世界各国で起きているグローバルな騒動と同じ構造で、それを身近に体験できたといえなくもありませんが、少なくともトリエンナーレに閉じたレベルの問題ではなく、ましてや一個人がどうこうまとめられるレベルの問題ではありません。なので個人としては、せいぜいこれをいろいろ考える契機にするくらいしか思いつきません。

「『あいトリ』騒動は『芸術は自由に見ていい』教育の末路かもしれない」には以下の一文があって、今後芝居を観るとき、感想を書くときに、せっかくなので意識するように努めます。努力目標。

芸術作品は自然物とは違って、何らかの意図をもって提示される。だからこそ芸術は「楽しい」「美しい」といった評価軸だけでなく、「成功」「失敗」といった評価軸でも見られるのだ。「これは何をやろうとしている作品なのか」という観点は、作品を正当に評価しようとするのであれば、切っても切り離せないのである。

« 野田地図「Q」@東京芸術劇場プレイハウス(若干ネタばれあり) | トップページ | 2019年11月12月のメモ »

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 野田地図「Q」@東京芸術劇場プレイハウス(若干ネタばれあり) | トップページ | 2019年11月12月のメモ »