新型コロナウィルス騒動で日本の芸術団体は団結していないし演劇業界はぶっちぎりで団結していないことがわかったという話
このエントリーをむきになって書いて、頭に血が上ったから一晩置いてから直してアップロードするか、と思ったら似たような内容でもっと落着いてコンパクトにまとまった大人のエントリーが見つかったので、みなさんそちらを読んでください。
で投げてしまうのももったいないので、載せます。以下本文。
「新型コロナウィルスに対する海外の支援状況」を調べた時に思ったのですけど、海外は「芸術家」とか「芸術セクター」に支援する形が多いですね。そこから先は拠点単位だったり、プロジェクト単位だったり、実績ある個人だったりといろいろありますが、演劇はあくまでも芸術の一部門として扱う、と読めます。
日本で演劇に支援を、と訴えている人たちをいろいろ見かけますし、クラウドファンディングも乱立していますが、なんか演劇関係者は自分を助けろ、演劇を助けろ、と訴えているように見えます。芸術を助けろ、と訴える人はほとんどいません。
実際には、芝居で音楽を使ったり、舞台美術や衣装を作ったり、関係は深いです。当然、演劇と映像と両方に関係する関係者も多いです。なのに、芸術に支援を、と訴える演劇関係者が、訴えの数に対して少ないように思います。
演劇関係者の認識はどうなんだというと、劇団四季は、経済の問題が重要と認識しつつ、でも芸術ととらえています。前にも引用した劇団四季社長のインタビューですが、前回引用しなかった前半を引用します(フランス語の個所のアクセント記号は省略)。
私は、浅利の次のような口癖を憶えている。「フランスの演劇人に『あなたの仕事は?』と問うと、“Je travaille au theatre.(劇場で働いている)”と、誇らしさを伴った返事が返ってくるんだ。日本の演劇界にはアマチュアが多いが、ここではプロフェッショナルが生きている。羨ましいと思ったし、日本でもこう言えるようになりたいと心から願った」
また浅利は、敬愛したジャン・ジロドゥのパートナーだった演出家のルイ・ジュヴェの言葉、「恥ずべき崇高さ、偉大なる屈辱」を座右の銘としていた。それは次のような内容だ。
演劇ほど色々な問題に溢れているものはない。芸術的なことから、経済面までありとあらゆる問題を抱えている。それにもかかわらず、本質的な問題はたった一つしかない。それは「当たり」の問題だ。今日の劇場の賑わいがなければ、我々芝居者は主演俳優から裏方の一人まで生きていくことはできない。したがって、当たりを取るためには、時に時代の流行に身を屈さねばならないこともある。「恥ずべき崇高さ、偉大なる屈辱」―ここに我々の職業の秘密を解く全ての鍵がある―。
崇高な思いだけでは観客は集まらない。演劇には、恥に塗れるような観客獲得の努力が必要になる。或いはその時に屈辱を感じることがあるかもしれないが、これも偉大な芸術家の行為なのだということか。健全な社会の良識と民力を信じ、真摯に向き合い、寄り添いながら芸術を営む決意ともいえる。
だから我々はこれまで、「プロの演劇人として生きる」という浅利の祈りを受け継ぎ、何度も恥に塗れながら、「当たり」を求めて全力で走ってきた。映像産業やタレント業など周辺の仕事には脇目も振らず、もちろん資産で財テクすることも考えなかった。どうしたら劇場でのお客様の感動を最大化出来るかを考え、そこに全ての資産とマンパワーをつぎ込んできたのだ。演劇に注力した経営を続けてきた背景には、劇団創立者の思想がある。
これがホリプロの社長のインタビューになると、エンターテインメントになる。劇団四季のように全文寄稿型ではありませんが、心配しているのはスタッフなので自分たちの行なっているライブやイベントの関係者で、美術や出版といった広く芸術と呼べる分野を視野にいれた発言ではありません。鍵カッコで個人はアーティストと呼び、業界をエンタメと呼ぶので混乱していますが、ホリプロ社長は演劇を含むライブイベントはエンターテインメントと認識している、で間違っていないと思います。
今、最も心配しているのが、エンタメの作り手が倒れていくこと。裾野が広い業界で「見えないところで支えている人の方が圧倒的に多い」。例えば、スタッフ用の弁当業者や音響機材業者などだ。「末端の人からどんどん苦しくなっている。五月に入り、“決断”する会社もあると思う」との認識を示した。
ぴあ総研の調べでは、ライブイベントの中止や延期が五月末まで続けば、約三千三百億円の損失が見込まれるという。こうした状況に政府は、購入者がチケットの払い戻しを求めなかった場合、寄付とみなして税負担を軽減する措置や、終息後にイベントチケットの補助クーポンを出す案などを打ち出している。しかし、「両方とも事業者には何の得もない。政府には今、業者が倒れないようにしないとV字回復なんてありえないことを理解してほしい」と訴えた。
公的支援では海外との差を感じているという。「ドイツや米国では、外国人アーティストでも早い段階でまとまった金額が国から入金されたと聞いている。エンタメが国の財産だと思っているから手厚いのだろう」。一方で日本については「『クールジャパン』というが、これでは『冷たい日本』だ。海外で稼いでくれと言うのに、死にかかっている時は手を差し伸べない」と批判する。
「エンタメは日本経済にさしたる影響力がないと思っているのではないか。政策を作る側の人は舞台を見に来ないし、テレビドラマもアニメも何十年も見ていないのでは。どれくらいすごいのか分かっていない」
そもそも演劇分野の巨頭ですら認識があっていない。なぜこうなるか。日本の芸能は民間で発達してきたからですね。なので、実演者ではなく興行主の意向が強い。
こういうのはどの本で読んだか忘れたので、細かいところが間違っていたらご容赦を。少なくとも歌舞伎と能狂言の話は渡辺保の本で読んだはず。
歌舞伎は国立劇場で伝統芸能のふりをしていますが、あれは役者の引抜合戦を経て松竹が確保しているものです。今の松本白鸚と中村吉右衛門が、父の引抜について帝国劇場だか日生劇場だかのオープニングに合せて東宝に移籍する、とかやっていたくらい最近のことなので、歴史の古い団体ほど、興行、エンタメの認識が強くなります。その分だけ実演者の地位が低い、というか、実演者の人気と興行主との駆引きになる。芸術云々で連携するのではなく、個人事業主の色が濃いです。
能狂言がそうならなかったのは、初期はともかく、途中から武士のたしなみになったこと、そのあと明治時代に一度瀕死になって、皇室の御前舞台上演から皇室や政府の後援を受けられた、という経緯だからでしょう。逆に後援されて、他から切離されたとも言えます。
新劇は、大正時代の築地小劇場以来、もっと現代に即した海外の戯曲紹介を、から始まって、もともと政府に批判的な立場だったのが業界を守るという名目で岸田國士が大政翼賛会文化部長に就任したけど結局うまくいかなかったり、とかいろいろな経緯があって、伝統的に独立志向が強いです。他にも劇団分裂騒動があったりするので、他の劇団に出演するなんてもってのほか、という時代は、今の60歳以上くらいの人たちだと若いころに体験しているはずです。仕事で映像分野との縁は深いはずですが、映像で稼いで公演を打つ、というくらいだったので、今はいざ知らず、一昔前の演劇関係者では映像より演劇が一段上、との認識が一般的だったのでしょう。
で、その後にアングラがあって、夢の遊眠社や第三舞台があって学生上がりの劇団、いわゆる小劇場がさかんになりますが、成功すれば興行に近づき、表現を追求すれば少ない客を相手にマニアックな上演を行なうことになります。どちらにしても、演劇の道を進んで、そこから他分野との連携は少ない。上演のために映像を引張ってくるとか、音楽を引張ってくるとかはありますけど、そこから外への進出はあまり聞きません。
職業別団体を見ると、スタッフは一般社団法人舞台技術者連合があって、その先に舞台監督、音響、照明などの団体が見えますけど、衣装や映像はありません。
役者は、今回の騒動で西田敏行が支援を訴えたのは協同組合日本俳優連合ですが、ほかにも検索したらいろいろ出てきて、団体すら乱立しています。アメリカとかイギリスだと、特定の団体に所属しないとメジャーな公演には参加できない、所属の資格がいる、所属したからにはストライキとかに協力しないといけない、とかいろいろあったはずで、統一団体も良し悪しです。ついでに書くと、最近は複数の劇団に所属する人がいるので、劇団も所属元には使えません。
脚本家は日本劇作家協会がありますが
劇作家協会は、井上ひさし初代会長の、「子どものためにクリスマスの劇を書いたお父さんも入会できるように」という理想そのままに、プロとアマチュアの分け隔てなく、劇作に携わるすべての人に参加する資格のある協会です。
という、この手の騒動のときには向かない団体です。演出家は日本演出者協会がありますが、
〈演出家〉ではなく〈演出者〉とした理由は、初代理事長である村山知義の「演出は単なる職能であり、またプロもアマチュアも参加できる」という理念からでした。
と、劇作家協会と同じような位置づけのようです。
とにかく、業界内ですら団結していません。代表団体もわからないし、資格者もわからない。何ならプロとアマの区別すらわからない。それにメリットもあるのですよ。上演の敷居が低いので様々な人たちが参加して裾野が広がり経験を積む機会を得て、そこからプロとして通用する人たちが業界として手をかけずに育つこと。
でもこのような騒動で、支援しろと言ったとき、何をもって支援しろというのでしょうか。法人にもなっていない芝居の団体だとして、数えられますか。関係者だとして、何をもってプロとアマを区別しますか。組合所属者だとして、支援対象の組合を挙げられますか。劇場だとして、それは劇場勤務者と上演団体とどちらの支援ですか。
だから興行単位、上演単位で補償を、となるのは、興行主としての言い分以外に、他に支援団体を定義する方法がないという現実的な理由もあるのでしょう。でもそれを言う人たちがうらやましがる外国で、興行に補償したケースがどれだけあるのでしょうか。私が見つけていない補償ケースがあるかもしれませんが、だとしても、各国のベストをつまみ食いするような補償を訴えるのはやめて、演劇の支援だけでなく、その国の支援全体見て論じてほしいです。日本の、プロアマどころか国民全員に10万円、失業相当の収入源の個人事業主には100万円、家賃3か月という支援。助成金なら日本でも執行は進めているはずです。これに加えて上演中止になった興行を補償をしている国があるのでしょうか。
そして演劇業界は他の芸術業界と連携する気配がありません。個人レベルの交流はいざ知らず、芸術家、芸術団体として交流している気配です。仕方がないですね。そもそも代表団体がないので交流しようがありません。
観測範囲が狭いのでわかりませんが、作家や音楽分野や美術の分野でも、芸術全般に支援を訴えているのでしょうか。あまりそういう話は聞きません。作家は江戸以来の出版業界管轄ですね。また外出自粛は既存出版物には有利に働くはずです。音楽は音楽業界で、やはり興行の強い業界で、補償を求める話は2月3月ごろはしきりに出ていましたが、まあ難しいでしょう。大御所はすでに稼いで困らないでしょうし、配信やサブスクリプションがうまくいっているなら実演者レベルでは大丈夫というのもあると思います。美術はよくわかりませんが、美術館や博物館は、文化庁の支援で再開を探っているようです。もともと箱ものとして管轄がはっきりしているので支援しやすいのでしょう。国際的にも再開後の運営ルールを探っているようで、作品の展示環境という前提事項があるので、交流やルール作りに慣れているのでしょう。
そして演劇業界は芸術業界だけでなく、他の一般業界にも言及しません。シアターナタリーが4回に分けて関係者の声を集めています(第1回、第2回、第3回、第4回)。自分たちの業界と客以外のことに触れている人がどのくらいるでしょうか(太字は私が追加しました)。
第1回の野村萬斎。
1つには春の選抜高校野球が中止になったのが大きかったです。裕基と同じような若者に我慢をさせないといけない状況にハッとしました。また、気合の乗った晴れの舞台を、周囲に疑心暗鬼しながらではなく、集中して楽しんでいただくために、時期を改めたほうが良いという結論に至りました。
第3回の那須佐代子。
民間の小劇場としては、借主である主催者の意思ある限り公演を続行するというスタンスでした。中止する団体と続行する団体は半々で、劇場としてできる限りの衛生対策は施しましたが、日に日に増える感染者数に気が気ではない毎日でした。当時はクラスター発生源として「ライブハウス」がやり玉に上がっていた頃で、このタイミングでどこかの「小劇場」がクラスターを出したら最後、すべての小劇場が世間から総攻撃にあってしまうだろうという危機感でした。
第3回の畑澤聖悟。
劇団員は一様に悔しさを述べたが、同時に自分の職場のことを語った。飲食店店員、保育士、小学校教員、市役所職員、看護師である彼らは、自分の職場を、お客様を、子供たちを、患者を守るためには仕方がない、と口をそろえた。我々は東京でなく青森で生活することを選び、同時に演劇を生活の中心に置くことを選んだ。そのためには自立した社会人となり、仕事を持たなければならない。そして青森だけでなく東京やいろんな街で公演を打ち、作品のクオリティを証明し続けなければならない。どちらも地域の力となり、地域を守る仕事である。今回、1つを諦めたが、1つを貫くことはできた。そう考えている。
野村萬斎と那須佐代子はぎりぎりな感じですが、そこまで入れないと畑澤聖悟だけになってしまうので入れました。それでもこの3人だけです。芝居のサイトへの投稿なのもありますが、自分たちの狭い業界だけでなく他の業界も危機、という前提を認識して発言できる人が少ないです。むしろ渡辺源四郎商店のように他の仕事を持ちながら演劇をやっているアマ(セミプロ)のほうが視野が広いという逆転現象が起きています。
演劇関係者の訴えが聞き苦しいと思っていた理由がわかってきたのはいいのですが、結論はずいぶんさみしい話です。狭いなら狭いなりに突詰められた発言だといいのですが、ステージナタリーに限らずなかなかそういう発言は見かけません。横内謙介の覚悟が例外に見えてしまうのは残念です。
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コメント
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いつも読ませていただいている一読者です。
拝読して、まったくそうだなとため息しか出ませんでした。
伝統演劇はまた話が違うでしょうが、演劇は「体制に与しない」ところに
価値を置いてきた(とくに戦後以降はますます)と思うので、「自分たちが
協力して体制を作って発言する」ことが必要な状況に全然慣れてないと
思います。そういうのがすごく得意そうな方でも炎上しているところを見ると、
困難ですね……
「演劇はなぜいつも迫害されるのか」というつぶやきも見かけましたが、
それは関係者が結局自分の周りしか見ないからというのも、そのとおりだと
思います。
しかしそうすると、結局芝居を開けるのは、世の中の状況をよく見ながら、
急な中断・中止にも耐えられるようにする対策をととのえてからしか無理な
ことで、一般的な経済活動の見通しが立たないではどうにもならないことか、
とも。先が見えないです。
投稿: | 2020年5月10日 (日) 16時48分
匿名さん:
こんなマイナーなブログをいつもご覧いただきありがとうございます。ご指摘の
>「体制に与しない」ところに価値を置いてきた
という表現、非常に正確かつ的確な表現だと思います。私が思いつきたかった(笑)。それはそれで、アウトローな雰囲気が多い芸能界には合っていて筋が通っています。ただ最近はそうでもないので矛盾が出てきたというか。
そして芝居を再開したとして、そんなにすぐに客側が観に行けるか、という問題もあります。これはそのうち別途書きます。
投稿: 六角形(管理人) | 2020年5月10日 (日) 19時01分