新型コロナウィルスに対する横内謙介の覚悟
残念ながら扉座は観たことがないのですが、「初めての公演中止に思う」とブログが公開されています。4月8日時点でここまで言っていたのですね。
劇団を運営する会社、(有)扉座はまったく仕事にならない。一方で家賃などは払い続けなくてはならない。問題は、入金なく、この会社がいつまで保つか。内部留保なんかないから、助成とか借金とか、私財とか、総動員して凌ぐしかないが、自粛や活動制限は年内続くと思った方が良いという専門家の意見が正しいなら、会社は閉じるしかない。巷のお店と同じである。
覚悟を決めなくてはならない。
国なんか、頼りにならない、自分に言い聞かせている。もちろん最大限、公的な助成など受けることを検討する。こんな小さな会社でも、毎年決算して、時に税務署の監査も入られて、税金を搾り取られて来た。文化芸術云々の話の前に、中小企業としてその権利はあると思う。
それも長引けば、やり繰りはつかなくなるだろう。稽古場を手放し、事務所も閉める。
私たちの仕事である演劇が、経済的に成立する環境を取り戻すのは、間違いなく世の中のいろんな営みの中で一番最後だ。
一番先に影響を受けて、一番最後まで影響を受ける営みなんだ。
(中略)
劇団活動で儲かるなんて誰も思っていない。儲かってる劇団は、たとえば四季や宝塚歌劇団だろうけど、あの形態を私たちは一度も目指したことないからな。
これはたぶん金にはならない、そう分かった上でやってるんだ。
(中略)
つまるところ、金じゃないんだよ。
金は必要だから、こうして悩まなきゃならないが、
金が第一の条件だったら、こんなものとっくに消えている。
いろんな形態の公演に私は関わっている。
そのすべてが経済的な契約なしでは、成立しないものだ。
それらが今後、立ち直ってゆくには、時間がかかるだろう。これにて、終了となってゆくものも多々あろう。
そんななかで、唯一、そこに縛りのない可能性を残しているもの。
それが劇団だ。
私たちに契約なんかない。
劇団は、同志として活動してゆくものだから。
実際、劇団扉座は任意団体である。
いつの間にか、集まって、そうなっているだけのものだ。(それだけじゃ、社会的に継続してゆくことが出来ないので、運営する会社を作らなきゃならなかった)
劇団員とか準劇団員とか一応、線引きがあるけれど、そんなもの私でさえ覚えてなくて、たびたび間違いを指摘される。
みんな一緒に芝居作ってるやつら、以上、終わりだ。
それを繋ぐもの、それは、気持ち以外に何があろうか。
今の社会でそれを言うと、虚しい精神論であろうよ。
竹ヤリで闘えみたいな。
だがしかし!
劇団においては、それがリアルなのである。
その考えが当然という、狂気の、或いは奇跡のような集まりなのである。
何度も何度も、もう辞めようと思いながら、
小さな物件は買えるぐらいの私財を投じ続けて、
今まで続けて来たことの真価が、問われる時だと思う。
非常時に強いのは、家族と劇団!(劇団でなくても、同志的集団と思えば、汎用可能)
世界がそれを思い知る、それがこのコロナ禍の時代である。
別に清貧を称えるわけではないし、純粋に、これが本物の覚悟だよなと感嘆します。自分が似たような立場になったとして、ここまで言えるかというと言えません。絶対無理です。でも芸能で売る人たちの、何があってもここは崩れないし崩さないという信念は、なんだろう、今後も活動を続けていくなら表看板として下ろしてはいけない一線だと、客からみて思いました。
そのあとで「飯田橋の事務所を閉鎖します。でも、元気す。」が5月5日に書かれて、先に事務所を閉めて、オンラインの講義を始めたことも書かれています。興味のある人にはものすごく面白いのでぜひ読んでほしいけど、その最後。
私は明らかに否定して、背を向けたけれど、あの頃のアングラの森の修行者たちの姿は、決して醜くも、愚かでもなかったと思うんだな。
理論という言葉を信じて、我が身をそこに追い込んで、真摯に、演劇の真理に向かおうとしていった、その姿勢はむしろ美しいモノだったと、懐かしくも、愛おしくも感じるのだ。
あの頃の面倒くさかった大先輩たちも、今の私から見たら、みんなもう、ただただ愛おしき若者たちだ。
演劇とは何なのか。
それを追求する、純粋な心は大事だよ。
そこに生きようと思うなら、生涯、捨ててはいけない姿勢だと思う。
どう売れるか、食っていくか、そのテーマももちろん大事だけど。
この仕事は、日々の暮らしの消耗品を製造する工場の作業を受け持つことではないわけで、目に見えない価値を、人に認めて貰うという極めて難しい行いなんだ。これを生業とするためには、自分の為すべきことに対して、少しでも自覚的であるべきだし、そこに学びと精進が続けられるべきだ。
私だって理屈が要らないと思った訳ではないのだよ。
今まで整理してこなかっただけだ。
真理には程遠いけど、私が来た道も、これはこれで一つの修行だったからね。
破戒と欲望に塗れた、獣道での修行ではあったけど。
なので今、ちょっとだけ理屈っぽく、若者たちに話し始めている。
特に今さ。
ずっと理屈抜きで、あんまり考えて来なかった我々も、考えるべき時だと思うんだ。
この先当分、演劇は稽古することも、客席に座って観ることも命がけだろう。
新型ウイルスに対する強力な抗体を獲得した人か、芝居を見てウイルスに感染するならそれで良いです、みたいな命知らずしか、劇場に来れないかもしれないわけだ。
そこではもう、お気楽なエンタテイメントです、なんて言ってられないだろう。
やる側だって、ソーシャルディスタンスで座る、スカスカの客席を前にして、当然ギャラなども目減りを覚悟して、感染の危険を冒しつつ、唾飛ばして密着して演技するわけだよ。
ドイツの文化相が、芸術は、私たちの命の維持装置だ、だから守らなきゃいけないという涙が出るような素晴らしいことを言ってくれて、けれど、我が国の政治家たちは、その言葉がまったく理解できていなくて、我々は深く絶望している。
だがね、その言葉は、決して我が国の為政者たちの暗愚を明らかにしただけではなくて、それを担う我々にもしかと突き付けられた剣であると思うんだよな。
すなわち、
私たちが今、取り組んでいることは、人々の生命維持装置となり得ているか?
コロナ後に、新しい生活様式を求めると、お上は言う。
余計なお世話だと思うがね、
否応なくここでまた一つ、我々の演劇界は転換期を迎えるだろう。
原点に立ち返って、真摯に演劇と向き合う。
さもなくば、コロナの後に、芝居を創り、上演する理由をみつけられないじゃないか。
そう思って私は今『エンゲキ虎の穴』に取り組んでいる。
この問いが出せるのが、本当のベテランだなとまた感嘆します。新型コロナウィルス騒動以降に読んだ演劇関係者の文章で、初めて格好いい文章です。いやそんな難しいこと言わずに、ぜひリンク先を読んでほしいです。例えば
いろんな人に会えば会うほど、演劇にスタンダードも正解もないということも思い知った。
だってさ、かの浅利慶太先生に演技を習った俳優がそれを実践すると、かの蜷川幸雄には、クソ死ね!と罵倒されるわけだよ。
蜷川に影響された者が新劇の舞台に立ってニナガワ的に暴れると、舞台の常識も知らないのかと演劇界のレジェンド的なベテラン俳優に注意される。
真面目に考えれば考えるほど、訳が分からなくなり、混乱しかしなかったよ。
とか、一面の真理ではあるけど、やっぱり笑っちゃうじゃないですか。
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