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2020年8月25日 (火)

日本文化はフィルタリングシステムという話

11年前の掲載ですけど佐々木俊尚「個人の狂気を見い出すフィルタリングシステム」という記事を見つけました。業界人には知られた話なのでしょうか。読んでとても関心したので、大半ですけど引用します。

 世界を代表する三つの国の映画産業――アメリカ映画とフランス映画、そして日本映画の違いって何だろうか? そういう問題提起がある。

 観点はさまざまにあるから単純化しすぎるのは危険かもしれないが、こういうひとつの切り口がある。「アメリカ映画は物語を描き、フランス映画は人間関係を描き、日本映画は風景を描く」。ハリウッド映画は完璧なプロットの世界で、物語という構造を徹底的に鍛え抜いて作り上げ、導入部からラストシーンまで破綻なく一本道を走り抜けられるように構成されている。

 フランス映画の中心的なテーマは、関係性だ。夫婦、父と子、男と愛人、友人。そこに生まれる愛惜と憎悪をともに描くことによって、人間社会の重層性を浮かび上がらせる。

 日本映画は、風景を描く。自然の風景という意味ではない。目の前に起きているさまざまな社会問題や人間関係の葛藤、他人の苦しみ、さらには自分の痛み。われわれにとってはそれらはすべて「風景」だ。どんなに深く関わろうとしても、しかしどうしてもコミットしきれない所与のものとして、われわれのまわりの事象はそこにある。だから日本映画には、向こう側に突き抜けられないことによる透明な悲しみが漂っていて、それがある種の幽玄的な新鮮な感覚として欧米人に受け入れられている。
(中略)
 しかし日本は違う。日本にも縄文時代に村落をゼロから作った時もあっただろうし、戦国時代や明治維新のような内乱の時代もあった。だがたいていの人々にとって、権力装置は自分でゼロから力を合わせて作り上げるものでなければ、血で血を争う暗闘の果てにつかんだ血塗れた旗でもない。私たちにとって権力というのは、「世間」「空気」のような言葉に代表されるなんだかわからない軟体動物のようなベタベタとした空間で、しかしこの空間はわれわれを絡めとって離してくれない。いったい何が敵なのかということさえ可視化されていない。

 これは言ってみれば、最強の権力構造でもある。この暴力的な権力構造は所与のものとして私たちの前に立ちはだかっていて、私たちは社会に直接向き合うことさえ許されてこなかった。

 人々は決して、その権力構造を作る側には立てない。権力構造はつねにそこに存在しているのであって、民衆はその構造に組み込まれる「お客さん」にすぎない。そういう社会に生きるということは、だからそこにひとつのあきらめ感を抱えながら生きていくということだ。もちろんそういう構造から突き抜けて生きていける一部の人はいるし、そのような人は尊敬されるかもしれないけれど、しかし多くの人にとってはそうではない。
(中略)
 こういう日本という国で生まれる文化は、軟弱だ。軟弱で、冷笑的で、一歩つねに傍観者的に引いている。でも軟弱であるがゆえの洗練はすばらしく、その洗練のゆえに日本文化は世界の中で尊敬され、賞賛されてきた。手先の器用さは、構造というビッグビジネスに立ち向かえないがゆえのチマチマした自己憐憫でしかなかったのかもしれないが、しかしそれが「俺たちが社会を作るぜ」ビッグ構造文化には持ち得ない、極端な洗練を生み出したのだ。だからわれわれは、すぐれて洗練された器用な文化を生み出しながらも、でもつねに冷笑的で傍観者的な立ち位置を保ち続けている。

 もっとぶっちゃけた極論を言えば、こういうことだ――どうせ構造をつくるような雄々しいことはできないんだから、暇つぶしにいろんなことをやってみようよ。

 そうやって日本の世間には権力側には行けないバカと暇人があふれ、枕草子を書いたり源氏物語を書いたり、歌舞伎や浄瑠璃や私小説を生み出してきたのだ。

 もちろんそうやってバカと暇人の膨大な集合体のなから、歴史に名の残るような芸術を生み出せた人はごくわずかである。たいていのバカと暇人は、先駆者の作ったコンテンツをただ消費するだけだったり、すばらしいコンテンツを揶揄して皮肉るだけだったり、バカだ荒らしだと批判されながら、衆愚の道をつねにまっしぐらに進んでいった。日本人が衆愚化しているのなんて別にいまに始まったことではない。江戸の昔から、歌舞伎オタクに身を持ち崩して財産を失い、乞食になって死んじゃうようなバカはいくらでもいたのである。

 しかし日本文化はそういうノイズに塗れた中から、秀逸なひとにぎりのクリエイターを生み出してきた。そういうフィリタリングシステムを作り上げてきたのである。全員が力をそろえてひとつの構造を作り上げるのではなく、バカや暇人が好き勝手なことをやってただコンテンツ消費をしているだけの中から、フィルタリングしてわずかひとにぎりの天才クリエイターを生み出すというただそれだけのことを、日本文化は綿々とやってきたのだ。

 日本の文化は、つねに社会のメインストリームとは外れたところから生み出されてきた。圧倒的な男の漢文社会の中から生まれた枕草子や源氏物語がそうだったし、武家社会の中で生まれた町人文化である歌舞伎や浄瑠璃がそうだったし、明治維新の富国強兵の中から生まれた近代に批判的な目を向けた夏目漱石もそうだった。どうでもいい個人的な話を延々と描き続けた私小説なんて、その最たるものである。

 だから日本では、社会のメインストリームと最も優秀なカルチャーはつねに一体化しないのである。つまりは古代から現代まで一貫して、日本の文化を担う中心軸はサブカルチャーだったのだ。ここに来て急にニコニコ動画やアニメのようなサブカルチャーが「日本の誇るコンテンツで海外に輸出しなければ」と言われて変に気恥ずかしい思いになってしまうのは、そういう歴史的背景がある。しょせんサブカルなんだから、気持ち悪いからそっちから歩み寄って来ないでよ……というわけだ。
(中略)
 前に日本テレビで「電波少年」を作ったプロデューサーの土屋敏男さんとあるシンポジウムで同席していたとき、彼がこう言っていたのを思い出す。「ぼくの仕事は、いかにすごい『個人の狂気』を見つけ出すかということなんです」。バカや暇人と、すぐれたクリエイターの間にある境界は、ある種の「狂気」ということなのだろう。そういう狂気こそがバカと暇人文化における「玉」なのである。

 だから日本の優秀な雑誌編集者やテレビプロデューサーは、大衆文化のプラットフォームを作る側にたっているのにもかかわらず、みんなマーケティングがあまり好きではない。マーケティングではなく、個人の狂気たる自分の生理的直感によって勝負することが最上だと考えているのだ。
(後略)

「だから日本では、社会のメインストリームと最も優秀なカルチャーはつねに一体化しないのである」というのが、とてもしっくりきました。私は「不要不急で無駄だからこそ芝居は文化たりうる」と書きましたがそれは日本の話で、海外だとメインストリームになりうるということ、そしてアメリカとヨーロッパとではまた違うこと(アジアやアフリカや南米の各国でも違うのでしょう)を、はっきりした言葉で読めて少し頭が整理できました。

クラシックやバレエの世界だとがっちり作られた育成システムがありますが、あれはやっぱり欧米風システムですよね。富国強兵以来、日本でもそういうシステムを軍と学校を中心に育ててきましたが、やっぱり日本は一子相伝、盗んで覚えるが基本だと思います。確立された育成システムのない、売れたものが支持されて残っていく日本の演劇界というのは、ある意味もっとも日本らしい業界とも言えます。

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