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« 2021年1月2月のメモ | トップページ | 新型コロナウィルスで想像以上に真面目に上演対策と公演中止に対応していたけど当事者としての言葉を期待してはいけない日本の芝居関係者 »

2020年12月27日 (日)

新型コロナウィルスで今年一年考えさせられた日本文化の中での芝居の位置づけについて

来年からは直接関係ない人たちにかみつくようなエントリーを書かないように、年の瀬を前に禊を済ませて、穏やかで成熟した大人に生まれ変わるためのまとめです。知らんけど。

禊は2つ考えていて、前編は文化とは何ぞやという話です。後編を書くかどうかは未定です。なんでこんな大それた話を書くかというと、「生命維持に必要不可欠」の言葉に端を発したもやもやをすっきりさせるためです。

『生命維持に必要不可欠』の出所探し」に書きましたが、見つけた範囲でオリジナルの記事だと必要不可欠なのは「アーティスト」でした。だから「ヨーロッパ全体にロックダウン傾向でもちろん劇場も対象に」に書きましたが、ドイツを含めてこれだけ疫病が蔓延したら、劇場閉鎖の方針に遠慮がないってことは確認しておきたいです。優先度が全然違う。

そしてアーティストへの対応は「新型コロナウィルスに対する海外の支援状況」と「新型コロナウィルスの補償問題で本当にドイツがよかったのか疑問になる記事から転じて文化芸術復興基金の話まで」の2本でまとめました。日本は金額も見劣りしない、ドイツがむしろ用途が決まっていて生活費に使えないので厳しい、という実態でした。文化芸術支援という名前が付いているかどうか、見た目の問題ですね。

これはどこかに書いたか、見かけて流してしまったのか、それすら忘れたので改めて書きますが、重要な考え方だったので書きます。補償政策を考えるときには、特定の法人や個人を対象にするのはものすごい難しい、原則日本全体を対象にする必要があるということです。特定の法人や個人を対象にしたらそれは例えば不正会計と同じになります。なぜあの法人(個人)を補償してこっちは補償しないんだ、という説明は非常に複雑な議論が必要になるからです。だからGoToキャンペーンも、観光業界や飲食業界向けですが、活用しようと思えば日本人全員が対象になるような建付けになっています。少なくとも私はそう理解しています。

ならば芸術分野も似たような仕組みを、と思ったら、そこで引っかかるのが芸術分野の団体がそもそもあるのかというとないんじゃね、という話です。「新型コロナウィルス騒動で日本の芸術団体は団結していないし演劇業界はぶっちぎりで団結していないことがわかったという話」に書きました。誰がどれだけ従事しているのかも定かではない、「業界」が存在しない混沌とした分野を支援する補償金は出しようがない。それなら個人を一律に対象にしたほうがいいでしょう。

ここまでが今年起きた「文化芸術」に対する出来事の、私に見えた大きいレベルでのまとめです。

ここでこのエントリーを書こうと思った気づきをひとつ。新型コロナウィルスとは無関係に、今あって普通に運営されている文化政策と補助金も、過去に誰かが理由付けから財源目途から何から、建付けを考えて成立にこぎつけた立役者がいるはずです。そんなに昔の話ではないはずなので、本気で探せば今なら関係者が存命で話を聞けるはずです。少なくとも行政の話なので公文書が残っている。その歴史を掘る元気まではありませんが、本来なら「業界」が感謝してしかるべき。

では補償の形はひとまずおいておいて、建付けとか難しいこともさておいて、芝居は補償金を求めて世間一般に認められる立場なのかどうか。私自身は今のところ認められないという考えです。それを「不要不急で無駄だからこそ芝居は文化たりうる」に書きました。そしてそのあとで見つけた「日本文化はフィルタリングシステムという話」で、その考え方自体が日本風なのだなと気が付かされました。

そこから発展させて、補償されるべき考える人たちは2種類います。ひとつは芸術はいいものだから保護されて当然という素朴派。この派についてはあまり言うことはありません。もうひとつは時の権力層は文化芸術を保護するべき派です。今回はこちらについてさらに考えます。

保護するべき派にもおそらく2種類あります。ひとつは日本発祥の流れです。秀吉が千利休を取りたてて茶の湯を盛んにしたとか、武家や皇族が能を教養にしたとか、アーティストと作品やパフォーマンスをひっくるめて保護した歴史は日本にもあります。ただ、日本発祥の文化を伝統文化や伝統芸能として保護する流れとは別に、舶来上等的に芸術を発展させるために保護しようという文化芸術振興策の流れもあり、新型コロナウィルスの騒動で目立った保護するべき派ではこちらが主流だと思います。単に対象をアーティストに限って保護してほしいならまだわかりやすかったのですが、文化政策面の話が入って、ややこしくなりました。

海外の文化や技術を輸入するのは日本の歴史で、古くは遣唐使遣隋使、もう少し近代ならお雇い外国人といえば通じるでしょう。遣唐使遣隋使は政治制度面での見聞も求められていたでしょうから、制度政策を輸入することに日本は慣れていて抵抗が少ない。

現代の文化芸術振興策には、伝統芸能の保護とは別に、例えば芝居の分野だと補助金を出す考え方もありますが、これはおそらく欧州由来の考え方です。そしておそらく、今の芝居の世界で保護するべき派の人たちは、欧州流の芸術の接し方に大なり小なり影響を受けている派、です。文化庁の派遣でイギリス留学する人が多かったことが影響しているのかもしれません。ここら辺は推測の推測なので、今あって普通に運営されている文化政策と補助金の歴史を本当は掘らないといけませんが、時間がないのでやめておきます。

ただ、ここで言いたいのは、輸入した政策を根付かせるのは難しいということです。ましてや趣味の世界をや。天皇や将軍のような権力者が自分の趣味に入れこむならまだしも、民主主義下の社会で政策として保護するという発想自体が、日本では歴史的に新しい。なんなら民主主義自体がまだ新しい。欧州の「アーツ・カウンシル」だって第二次世界大戦後の話です。文化政策を輸入して運用することはできても、その運用に国民が納得するかどうかは別の話です。

ここまでは文化政策の位置づけの話です。ここからはもっと芝居に寄った話をします。演劇分野に日本文化のフィルタリングシステムが歴史的にどう作用していたか。

そもそも日本の小劇場自体が、古い日本の芝居では駄目だと海外の芝居を輸入して始まった築地小劇場に端を発していますから、温故知新とは縁遠い、既存の文化を否定する土壌の上に成立ってきた分野です。それは今も続いていて、アングラを否定して夢の遊眠社をヒットさせた野田秀樹も、歌舞伎調でも築地小劇場以来の翻訳調でもない現代口語演劇を打ちたてた平田オリザも、この系譜の末裔です。ただしこれは、こういっちゃ何ですけど、エリートの系譜ですね。新しいものを突きつけるので、ハマるひとにはハマる半面、万人受けは難しい。観る人を選びます。

それを「日本では、社会のメインストリームと最も優秀なカルチャーはつねに一体化しない」「日本の文化を担う中心軸はサブカルチャー」から当然と考えるかどうか。野田秀樹や平田オリザの創る芝居は私にとって面白いですが、2020年現在で考えると、両者の芝居は中心軸のサブカルチャーとは思いません。野田秀樹も平田オリザも創作意欲の衰えない人たちですが、バブル時代の恩恵で生き延びられなかったらもっとローカルな存在にとどまっていた可能性があります。

新しいものを突き付ける系譜とは別に、もっと一般庶民が楽しんで残ってきたフィルタリングシステムの系譜があるはずで、それはおそらく軽演劇やお笑いからつながるはずです。生き残っている有名人だと伊東四朗くらいしか思いつきませんが、演劇分野だと、おそらく三谷幸喜や宮藤官九郎はこちらの系譜です。この系譜は舞台もさることながら海外映画の影響も大きいはずです。益田喜頓がバスター・キートンをもじった芸名をつけたのは一例ですが、今の演劇業界にもその系譜は確実にあります。古い良質な映画(コメディーに限らず、映画産業に勢いがあり資金も才能も集まっていた時代の映画)から大いに影響を受けて、エッセンスを吸収して、それを今の仕事に生かしているように思われます。こちらは、観客に楽しんでもらうのは大前提、楽しんでもらうための手練手管を熟知したうえで、創りたいものとの整合性を取っていくスタイルです。整合性が取れるようなリズムが映画その他で自然と養われている、と言ったほうが近いかもしれません。今は芝居ならこちらのほうが支持が大きいでしょう。でもこれも中心軸のサブカルチャーとは思いません。

そして第三極として、フィルタリングシステムで不支持の烙印を押されて、だけどコアなファンを支えに生き残っている系譜があります。ある日とつぜん化けるかもしれない可能性がありますけど、とりあえず世間一般からは不支持の括りです。

そのうえで、大半の演劇はどちらの系譜でもフィルタリングシステムの支持を受けていない、第三極に位置づけるのが正しい、と言います。一言で言えば、世間一般では今の芝居は文化とも芸術ともカルチャーともサブカルチャーとも認識されていません。観客数が少なすぎて、エリートにも一般庶民にも縁が薄すぎて、認識されるためのエントリーの資格が足りません。あえて呼び方を探すならマイナー芸能です。例外として能や歌舞伎は伝統芸能枠です。それが今回の新型コロナウィルス騒動で、はからずも見えました。もし三谷幸喜や宮藤官九郎がフィルタリングシステムの支持を受けているとしたら、芝居活動ではなく、テレビドラマ、映画、文章などの活動の総和です。

関係者は濃淡はあれど真摯に取組んでいる人たちが大半でしょうが、観客数(複数本を観るマニアやリピーターではなく、年に1-2本観る程度まで含めたユニーク数)が増えたとは寡聞にして知りません。まずは認識されるためのエントリーができるところまで観客を増やすのが最初です。

根本には、芝居に接する機会の多い東京で、生活に要する費用が高く、チケット代の高額な芝居まで回らないという問題があるでしょう。それは「東京で額面年収650万円の4人家族では芝居を観る余裕はない」に書きました。親の代から東京に住んで持ち家があるならいいですが、そうでない場合はいろいろ厳しい。それでも年に1回、8000円のチケットの芝居を4人で観に行くよりは、ディズニーランドに行くでしょう。家族向けで観られるような芝居も、小劇場だとぱっと思いつきません。劇団四季くらいですか、詳しくない人がたどり着いて観られるのは。

少しはフォローすると、おそらくどの国も芝居の位置づけは似たようなものだと思うのですよね。イギリスやアメリカは英語圏なのがアドバンテージで例外です。逆にそのアドバンテージを生かすために、世界から観客を集められるよう当たった芝居を継続上演するロングランシステムがあり、ロングランシステムに耐えられるような上演体制を組まないといけないという制約もあるはずです。でも過ぎたロングランというのは、日本の観客には向きません。フィルタリングシステムは新しいものを要求します。そういうフィルタリングシステムのある国で長年トップを張るディズニーランドは偉大です。

まとめます。
・伝統文化や伝統芸能の保護とは別に、文化芸術振興策という考え方があり、その是非を論ずる根拠を辿ればおそらく欧州由来の考え方に行き着く。ただしその政策は日本に根付いて支持を受けていない。少なくとも一般的に理解されていない。
・日本の文化は面白い個人の才能を発掘するフィルタリングシステムである。やりたいことをやる個人がいて、それを発掘して一攫千金を狙うプロデューサー(それが時の権力者だったりすることもある)がいて、面白ければ楽しむ観客との関係で、その時々で面白いものを楽しんできた。
・ただし、それが面白ければ面白いほど、位置づけがサブカルチャーに寄ってしまう。つまり、不要不急で無駄なものになってしまう。
・面白さが足りず、あるいは伝わらず、あるいは接する観客が少なすぎて、サブカルチャーに寄れなかったものがメインストリームになるかというと、そうはならない。観客からすれば、単なるつまらない人たちと認識される。
・文化芸術を保護する政策ですら明確な支持を受けていない状態で、サブカルチャーを保護することすら議論百出になって反対されるような現状、ましてそこから漏れたマイナー芸能を特別に補償するというのは、一般庶民からしたら理解できない。
・そんな芝居の世界への補償金の話を持ち出しても、世間一般から補償金の支持を受けられるはずがない。今回は説明が下手で炎上したけど、説明が上手でも拒否反応が大半を占めたに違いない。

実際には補助金の執行継続とか、行政もいろいろサポートする方向で振舞ってくれたはずです。ただ、日本の小劇場は世間一般には支持されておらず、それは日本の文化芸術の流れを考えれば不思議でないという話です。異論反論はあるかと思いますが、そういう結論になりました。

ここまで書いて実感したのは、文化だ芸術だと大上段に構えて論ずると、反論の材料が歴史も範囲も広くなりすぎることです。そこまで根拠を追うこともできない。つまり大変で面倒くさい。せめて日本の歴史に基づいた話に絞りこめるようになりたいです。

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