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2022年6月26日 (日)

National Theatre Live 2021「リーマン・トリロジー」(2回目)

<2022年6月26日(日)昼>

おかわり

1日1回上映ということもあってか、土曜日は前売完売でした。この日も最前列端以外は埋まっていました。この映画館は2スクリーンしかないのに、4時間コースの上映を突っ込んでくれたわけですが、この週末の興行については報われたかと。

前回は字幕を追って台詞がほとんど耳に入っていなかったので、今回はなるべく英語の台詞を、調子だけでもと聴いてみました。やっぱり普通の英語じゃないですね。英語素人が聴いてもわかるくらい、口語でなく文章っぽい、それも凝った文章っぽい英語でした。つまり詩ですね。

そしてツイストからのラスト、2度目だけど前回よりも諸行無常を感じざるを得ない。こういう感覚は西洋にもあるんだなと今さら思いました。

見直せたので悔いはない。すっきりしました。

新劇交流プロジェクト「美しきものの伝説」俳優座劇場

<2022年6月25日(土)夜>

国として活発だった大正時代。西洋に刺激された政治活動、女性解放運動、小劇場運動で、それぞれ活躍していた当事者たちの活動と交流の日々を描く。

有名なので観たいと願っては見逃し続けて、ようやく初見。追加公演で◇の配役(モナリザ=安藤みどり、サロメ=畑田麻衣子、尾行=星野真広)の日程。ものすごくよくできた脚本を、この上なく丁寧に仕上げて、これが初見でよかったと言える1本です。そしてそれだけに、芝居ではなく当時の実在の登場人物たちの意見に物申したくなる1本でした。

先に芝居の感想です。最近では昭和大正の再現なんて困難なところ、その雰囲気が受継がれている新劇の劇団が公演することで、非常に統一された仕上がりでした。劇場にもポスターが合った通り初演は文学座だし、登場人物のうちの小劇場運動関係者はさかのぼれば今回上演した各劇団のルーツです。いい悪いを超えてこれが本家による公演だというある種の正解感がありました。

それを実現した役者陣は新劇系の役者が並んで、普段新劇の劇団をあまり観ない自分には新鮮でした。その印象は「探せば名手はいるものだけど、こんなに名手が大勢いるとは知らなかった」。堺俊彦役の能登剛が出版社内で相手を軽くいなしつつ何となく腹で別のことを考えていそうな調子とか、久保栄役の古谷陸が劇団活動を批判する台詞の圧を島村抱月役の鍛治直人が少ない相槌で受けるくだりとか、今どきの芝居ではなかなか観られない場面です。

やっぱりですね、小劇場活動の元がスタニスラフスキーだメイエルホリドだと言っても、長年のうちに独自の演技メソッドが育ったのが日本の新劇劇団だと思います。たとえて言うなら楷書の演技。真面目な台詞はもちろん軽い台詞にも、いい意味で重さがあります。今回の脚本にもあった通り新しい演劇を志向するところから始まって、やがて日本人による日本を描いた脚本を上演しつつ、シェイクスピアその他の海外名作の翻訳も並演した歴史。これを言い換えると、今どきの目線では不自然な台詞でも成立させられるよう意味を込めて発声できるようにと格闘した歴史の成果です。さらに脱線すると、現代の小劇場出身の役者は、これもいい意味でもっと軽く自然に台詞を言う技術が磨かれた人が多いです。そういう脚本が増えたのが主な理由とみます。

話は戻って、観ていて安心できたもうひとつの理由がビジュアル面です。特に衣装や大道具小道具などに抜かりがないのは、開演してまもなくわかりました。着物がもはや時代劇の衣装になっている昨今、きっちり仕上げてくれたのは新劇の歴史あってのことです。

これらをまとめた演出は鵜山仁。見る人が見れば演出の癖があったのかもしれませんけど、もともと脚本を丁寧に演出する人です。観た感想では変にいじらずにきっちり立ち上げました。それでいて、必ずしも登場人物を全面肯定した雰囲気に流れず、落着きも感じられました。1968年の初演から半世紀、ここで書かれた大正時代からだと1世紀。脚本に希望として描かれた内容がその後どうなったかの回答はある程度出ています。座組の中でこの脚本の内容に目を輝かせる人ばかりではないのでしょう。演出が目指したところは不明ですが、結果として過剰な時代賛歌にならず、登場人物とその持論を立ち上げるところにつながっていました。

新劇合同プロジェクトとして取上げられるのにふさわしい脚本であり、またそれに見合った仕上がりに満足しました。

とここまでが芝居の感想。ここから先が芝居に出ていた登場人物の持論について。

芝居の出来がよく、登場人物とその持論が立ち上がったからこそ、その持論の欠点も見えてきました。

たとえば政治活動。社会主義者の多い登場人物ですけど、人によって多少の違いはありながら共通しているのは反政府ということ、そして打倒した後のことについて無責任であることです。大杉栄が「政治はトーキングよりアクション」「無政府主義者は政府を打倒したら野に下れ」という台詞がありますけど、無責任の極みですよね。打倒したからには運営して責任を引受けろよ、倒すところだけ楽しんで食い逃げするなよ、と。台詞をもじるなら政治はトーキングでもアクションでもなくオペレーションです。十二国記を読んだことがある人なら「責難は成事にあらず」で通じるでしょう。

女性解放運動も色恋沙汰の話はちょっと皮肉の入った台詞があちこちにありますがそれは置いておいて、松井須磨子の自殺の話題。その理由のひとつに観客の目になぶられて(大意)というくだり。そもそも江戸時代から役者の不行跡は瓦版のネタなわけで、そういう興味の目で見られる職業に乗込んできたら、初の女優だから芸術だからといってもしょうがないわけです。芸だけを評価してもらってしかも食える道なんて、並大抵の人が到達できるものではありません。昨今でこそ、SNSの発達であまりに直接的な悪口雑言が増えすぎて控えましょうと言われていますが、大勢の賞賛だけを集めて興味や非難は止めてくれなんてそんな美味い話はありません。ふたつよいことさてないものよ、ですね。

で、小劇場運動。新しい演劇を広めたいという意気込みと表裏一体で、どうしても観客を啓蒙するという意識がついて回るのですね。大きなお世話です。観客のひとりひとりに生活があり、時間を割いて木戸銭を払って芝居を観に来る。そこにエンタメを求めて何が悪かろうというものです。これを両立させるために島村抱月は、少人数を相手のサロンでは芸術的な芝居を上演しつつ、大劇場では一般受けする興行で稼ぎ、それを芸術と興行の二元論と言っています。ひとつの方法です。感想に書いた場面では、島村抱月の活動を矛盾していると久保栄が批判していますが、半分あっていて半分間違っています。そもそも趣味に啓蒙すること自体が大きなお世話だからです。

政治と言わず演劇と言わず、あらゆる分野で新しいことを始めたいなら「俺の言うことは楽しい、君たちにはこんないいことがある、だから俺に任せろ」で誘うべきところです。それを、雑に左翼と書きますが、左翼思想が強ければ強いほど、「俺の言うことが正しい、お前らは無知で間違っているから俺を認めて従え、でも後のことは知らん」の3拍子になります。了見が間違っています。こういっちゃ何ですけど、この間違った3拍子の了見は今の左翼に全部残っていますね。

亀戸に引っ越した伊藤野枝の台詞に「下町に引っ越したらみなさん荒っぽいですけど気の置けない人たちですのよ」なんてのがありますけど、こんな人たちの唱える民衆とは何なのか。よく聴くと実に微妙な台詞がそこかしこに散りばめられています。散りばめられているというとちょっと違いますね。そのつもりで読んだら芝居の意味が反転するように、登場人物の典型的な主張を取上げて煮詰めた台詞で脚本を書いたというほうが正しい。演出次第でどちらにでも上演できる点で、おそろしく完成度の高い脚本です。

そんな中で一番直接的な表現が、ロマン・ローランの引用である「民衆が幸福なら、広場の中心に杭を立てて花を飾れば人が集まり祭りが始まる。このような幸福な民衆に芸術は不要である(大意)」です。感想に書いた久保栄が島村抱月の劇団活動を批判する時に出てきます。脚本では「だけどそのような幸福に民衆は永遠に到達できないので、芸術は常に必要である(大意)」とも続きます。私にはこの場面が「誰も民衆の幸福を実現できなかった」と聴こえました。

初演の1968年は第二次世界大戦後です。戦前の理想論も敗戦後には空論にみえたでしょう。だけど新劇の歴史は紡がれたし、敗戦してなお自分たちの生活もここにある。だからここに取上げたような活動が、そういう理想論を本気で信じて活動していた人達が美しく見える。なんならこのうちの何人かは処刑されたからこそ、より美しく見えた。初演の時点で美しく見える時代だった。それは関係者には語り継がれる伝説であり、内実は空論の伝説だった。「美しきものの伝説」はそういう両面を含めてつけられた題である。脚本家の意図は知りませんが、私はそのように受取りました。

ここまで感想の射程圏が広がったのは、一にも二にも芝居の出来がよかったからです。ものすごく考えさせられました。登場人物の当時の主張を批判することと、芝居の出来が良くて褒めることは両立します。美しく力強い仕上がりだったことは、あらためて記載しておきます。

<2022年6月27日(月)追記>

全面改訂。

日本総合悲劇協会「ドライブイン カリフォルニア」下北沢本多劇場(2回目)

<2022年6月25日(土)昼>

おかわり

もう一度観ておきたいなと願っていたら都合のいい日程で良席が確保でき、公演初日直後と東京千秋楽直前の1か月で何か変わるかも興味があって、珍しい二度見です。

ネタの場面に多少アレンジというかアドリブがあったみたいだけど、驚くことにほとんど変わっていなかった。この変わっていなかったというのは、初日直後で観た時点でほぼ完成したクオリティで提供されて、それが1か月後もダレていなかったことを指します。構成のしっかりした脚本だからやりやすいだろうし、プロならそれができて当たり前と言えなくもないけど、やっぱりすごいです。

麻生久美子が学生から現在まで声色を変えて幅広く演じているのにも今さら感心しましたけど、阿部サダヲがあのテンションをきちんと出し続けていたのはもっと感心しましたた。

他の役者も含めて、脂の乗りきった仕事ですね。いい時期にいい再々々演が巡り合った公演でした。

2022年6月16日 (木)

緊急口コミプッシュ:National Theatre Live 2021「リーマン・トリロジー」追加上映決定

ステージナタリーより。

本日6月16日まで東京・大阪で特別上映されているNTLive「『リーマン・トリロジー』(原題:THE LEHMAN TRILOGY)」の、追加上映が決定した。

追加上映は、6月24日から7月7日まで東京のシネ・リーブル池袋で行われる。上映時間は、後日映画館の公式サイトで発表される。

感想はこちら。まさか舞台の映像化に口コミプッシュを出す日が来るとは思わなかった。

円盤を出す予定がないとか、日本語字幕付きの上映権が今年7月の下旬で切れるとか、本当かどうかわからないけど噂を見かけた。これが最後のチャンスと思って関東近辺の芝居好きの人は駆けつけてほしい。本当の本当にお勧めする。

2022年6月13日 (月)

National Theatre Live 2021「リーマン・トリロジー」

<2022年6月11日(土)夜>

19世紀半ば、ドイツからアメリカに移民してきたヘンリー・リーマンと、後を追ってやってきた2人の弟。南部に店を構えて、生地を扱う店から綿を農場から工場に売る卸に、さらにニューヨークに進出して綿取引を手がけたところから商売を広げて金融機関になり、21世紀に破綻するまでのリーマン一族とリーマン・ブラザーズの経営を描く。

舞台収録を映画館の鑑賞に堪えるように映像化したNational Theatre Live。知っていたけど観たのは初めて。2019年にロンドンで上演されたものだけど、芝居の面白さと映像化の上手さと、両方にびっくりした。

そもそも書籍が日本語翻訳されて、面白いらしいと評判を見かけたのが「リーマン・トリロジー」を知った最初。本屋で手に取ったら2段組みで辞書みたいな分厚さ、しかも全部3行ずつ書いてあって、トリロジーだからそういう形式なのか、さすがに無理だとその時は手を引いた。そのあとでNational Theatre Liveがあるのを知ったけど、観に行ける範囲の上映は終わったあと。さらに評判を見かけてうわーもったいないと思っていたら今回リバイバル上演ということでようやく観られた。「トニー賞ノミネート記念」らしい。

今回の特別上映は、ブロードウェイ版「リーマン・トリロジー」に出演したアダム・ゴドリー、サイモン・ラッセル・ビール、エイドリアン・レスターの3人が今年、それぞれにトニー賞の主演男優賞にノミネートされたことを記念して行われるもの。なおこのたび上映されるのはロンドンで上演されたオリジナル版となり、レスター役をベン・マイルズが演じている。

それで知ったのは、原作はイタリアのラジオドラマで9時間あったということ。そりゃ2段組みで辞書みたいな分厚さになる。そこから芝居用に再構築しても、1幕1時間強、2回休憩を挟んで3時間40分の超大作になるのはしょうがない。

で、舞台美術があって役者がいて、芝居っぽい場面も当然あるけど、どちらかというと動きながら詩を朗読していると表現したほうが近い。創業者である3人兄弟がアメリカに移民してきたところから始まる3世代を3幕で描く壮大な物語で、そういうところもトリロジーなんだろうけど、これをおっさん3人だけで演じるのがまたすごい。

ひとり複数役が特別に珍しいというわけでもないけど、とにかく常に誰かがしゃべっている。しかも一度台詞担当になると長い。なのに普通に見えて、こちらも普通に観ていられる。途中でようやく、これはハイレベルすぎて普通に見えるんだと気が付く始末。芝居っ気が混じっても朗読要素が多いので、よほど台詞をしっかり言えないとこの長時間は持たない。日本だと橋爪功クラス。それが3人。

これで描かれる話が、やっぱり面白い。生地から日用品に取扱いを増やす、火事になった農園を助ける代わりに収穫される綿で支払を求める、綿のまま取引するのが儲かるなら他の農園にも取引を広げる、と機を見るに敏な商売人の魂。なのに、というかだからこそ、耳元を冷たい風が吹いて自分の時代が終わったことを悟ってしまい次世代に席を譲る時。その代替わりを経て堅実な現物商売から金融取引に移行する過程。「我々にとっての小麦は金です」とかしびれる台詞。物語の強度に役者のレベルがつりあって、それを生かす最低限の美術と音楽。字幕も字数短く抑えて読みやすかったけど、英語がわかる人が観たらもっと楽しかったんだろうなと思うとちょっと悔しい。

映像化の違和感が全然ないところもすごかった。テレビで舞台映像を観るときにいつも残念なのが音声で、ホールの遠くから録音している感じが劇場とは違いすぎるところ。これが今回、劇場で生の役者を観ているのと同じくらい違和感がなかった。実際には劇場よりもクリアで、音声の録音がクリアなのは理由のひとつ。だけど、おそらく役者ごとに録音した音声を、場面ごとに役者のいる位置から聴こえるように音声の位置を合せていたんじゃないかな。テレビよりも映画館だから合せやすいだろうとは思うけど、そこまでやったらその分の手間は当然かかっているわけで、どうだったんだろう。少なくとも臨場感のある音声だった。ほとんど意識しないで聴ける音声はすごい。

上映時間が普通の映画の倍のせいか、入場券が3000円だったけど、惜しくない。やればここまでできるんだぜとハイレベルな仕事ぶりを見せられて堪能した1本。大満足。

<2022年6月14日(火)追記>

全面改訂。

鵺的「バロック」ザ・スズナリ

<2022年6月11日(土)昼>

娘が放火して屋敷が火事になり行方不明になった名家。ひとりだけ生き残った妹は屋敷を再建し家庭を持つも、怪しい雰囲気の消えない屋敷を敬遠した家族は結局別の家に暮らして屋敷は空き家となる。やがて病気になり余命いくばくもない妹は、屋敷の解体を了承し、子供たちと一晩を屋敷で過ごす計画を立てる。集まった夫も子供たちも不満や不安を抱えて一家団欒とは程遠く、悪天候で外出もままならない中で、屋敷の不思議な現象に巻きこまれる。

新型コロナウィルスの初期に上演された芝居の再演で、その前に上演された「悪魔を汚せ」に近いテイスト。その数十年後の続編に見えるけど、姉妹関係や屋敷の場所が違うみたいだから別設定で、これ単発で観ても楽しめる。

前回は「金田一耕助も警部も出てこない金田一耕助モノ」という酷い話だったけど、今回はホラー要素のある酷い話ベースにしつつ、救いのある描写に落着いた。そうは言っても酷い話なので勢いが重要なところ、テンションの高さで最初から最後まで押切ることに今回も成功して、楽しめた。ただ、脚本でラストがちょっと長くて間延びしたところも前回と同じで、あれはもったいなかった。

スズナリだから場面転換で美術を動かすなんてことはできなくて、屋敷のロビーだけで展開される。だけど場面数のやたら多い脚本。これを実現するのが、決して広いとは言えないスズナリに目いっぱい建込んで奥行きも出した2階建ての舞台と、それを生かしていろいろな場面を切りかえるための照明と音響。ホラーなんてうっかりするとギャグになるところ、今回成功した理由の半分くらいは劇場の限界まで挑戦したスタッフワークで、前回以上に感心しきり。

<2022年6月14日(火)追記>

全面改訂。

2022年6月 6日 (月)

松竹製作「六月大歌舞伎 第二部」歌舞伎座

<2022年6月4日(土)昼>

妻と母の不仲に悩まされるも戦の才と忠誠心あふれる家臣に恵まれた信康が織田信長の勘気を受けて謹慎を命じられる「信康」。山王祭の江戸で芸者や鳶たちが踊りや芸を披露する「勢獅子」。

時間の都合で第三部が観られず、ならばと第二部に挑戦。

「信康」は染五郎が歴代最年少の17歳で信康を演じるのが目玉だったけど、「役者は声」派の自分には残念な出来。どれだけ見た目に凛々しく大声が通っても正直な声が出ていないのは駄目。役作りをどれだけ頑張っても声で結果が出せないのは駄目。贔屓のアイドルの初舞台なら温かい目で見守っても高麗屋でこれは駄目。信康、信長双方の家臣役や徳姫など正直な声の出せる役者が揃っているので、この公演の最中に吸収してほしい。家康の白鸚の活舌が衰えすぎなのも厳しかった。去年の弁慶では体力はまだしも活舌が悪いとは思わなかったけど。晩年の家康ならしっくり来たけど、40歳になるかならないかくらいの時代なので、貫禄は十分でも活舌で年齢が狂うのは困る。

「勢獅子」はにぎやかな踊り多数。獅子舞が出ているから正月の演目かと思って調べたら山王祭が舞台でちょうどこの時期の話題。我ながら祭りの季節感に鈍い。

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