新劇交流プロジェクト「美しきものの伝説」俳優座劇場
<2022年6月25日(土)夜>
国として活発だった大正時代。西洋に刺激された政治活動、女性解放運動、小劇場運動で、それぞれ活躍していた当事者たちの活動と交流の日々を描く。
有名なので観たいと願っては見逃し続けて、ようやく初見。追加公演で◇の配役(モナリザ=安藤みどり、サロメ=畑田麻衣子、尾行=星野真広)の日程。ものすごくよくできた脚本を、この上なく丁寧に仕上げて、これが初見でよかったと言える1本です。そしてそれだけに、芝居ではなく当時の実在の登場人物たちの意見に物申したくなる1本でした。
先に芝居の感想です。最近では昭和大正の再現なんて困難なところ、その雰囲気が受継がれている新劇の劇団が公演することで、非常に統一された仕上がりでした。劇場にもポスターがあった通り初演は文学座だし、登場人物のうちの小劇場運動関係者はさかのぼれば今回上演した各劇団のルーツです。いい悪いを超えてこれが本家による公演だというある種の正解感がありました。
それを実現した役者陣は新劇系の役者が並んで、普段新劇の劇団をあまり観ない自分には新鮮でした。その印象は「探せば名手はいるものだけど、こんなに名手が大勢いるとは知らなかった」。堺俊彦役の能登剛が出版社内で相手を軽くいなしつつ何となく腹で別のことを考えていそうな調子とか、久保栄役の古谷陸が劇団活動を批判する台詞の圧を島村抱月役の鍛治直人が少ない相槌で受けるくだりとか、今どきの芝居ではなかなか観られない場面です。
やっぱりですね、小劇場活動の元がスタニスラフスキーだメイエルホリドだと言っても、長年のうちに独自の演技メソッドが育ったのが日本の新劇劇団だと思います。たとえて言うなら楷書の演技。真面目な台詞はもちろん軽い台詞にも、いい意味で重さがあります。今回の脚本にもあった通り新しい演劇を志向するところから始まって、やがて日本人による日本を描いた脚本を上演しつつ、シェイクスピアその他の海外名作の翻訳も並演した歴史。これを言い換えると、今どきの目線では不自然な台詞でも成立させられるよう意味を込めて発声できるようにと格闘した歴史の成果です。さらに脱線すると、現代の小劇場出身の役者は、これもいい意味でもっと軽く自然に台詞を言う技術が磨かれた人が多いです。そういう脚本が増えたのが主な理由とみます。
話は戻って、観ていて安心できたもうひとつの理由がビジュアル面です。特に衣装や大道具小道具などに抜かりがないのは、開演してまもなくわかりました。着物がもはや時代劇の衣装になっている昨今、きっちり仕上げてくれたのは新劇の歴史あってのことです。
これらをまとめた演出は鵜山仁。見る人が見れば演出の癖があったのかもしれませんけど、もともと脚本を丁寧に演出する人です。観た感想では変にいじらずにきっちり立ち上げました。それでいて、必ずしも登場人物を全面肯定した雰囲気に流れず、落着きも感じられました。1968年の初演から半世紀、ここで書かれた大正時代からだと1世紀。脚本に希望として描かれた内容がその後どうなったかの回答はある程度出ています。座組の中でこの脚本の内容に目を輝かせる人ばかりではないのでしょう。演出が目指したところは不明ですが、結果として過剰な時代賛歌にならず、登場人物とその持論を立ち上げるところにつながっていました。
新劇合同プロジェクトとして取上げられるのにふさわしい脚本であり、またそれに見合った仕上がりに満足しました。
とここまでが芝居の感想。ここから先が芝居に出ていた登場人物の持論について。
芝居の出来がよく、登場人物とその持論が立ち上がったからこそ、その持論の欠点も見えてきました。
たとえば政治活動。社会主義者の多い登場人物ですけど、人によって多少の違いはありながら共通しているのは反政府ということ、そして打倒した後のことについて無責任であることです。大杉栄が「政治はトーキングよりアクション」「無政府主義者は政府を打倒したら野に下れ」という台詞がありますけど、無責任の極みですよね。打倒したからには運営して責任を引受けろよ、倒すところだけ楽しんで食い逃げするなよ、と。台詞をもじるなら政治はトーキングでもアクションでもなくオペレーションです。十二国記を読んだことがある人なら「責難は成事にあらず」で通じるでしょう。
女性解放運動も色恋沙汰の話はちょっと皮肉の入った台詞があちこちにありますがそれは置いておいて、松井須磨子の自殺の話題。その理由のひとつに観客の目になぶられて(大意)というくだり。そもそも江戸時代から役者の不行跡は瓦版のネタなわけで、そういう興味の目で見られる職業に乗込んできたら、初の女優だから芸術だからといってもしょうがないわけです。芸だけを評価してもらってしかも食える道なんて、並大抵の人が到達できるものではありません。昨今でこそ、SNSの発達であまりに直接的な悪口雑言が増えすぎて控えましょうと言われていますが、大勢の賞賛だけを集めて興味や非難は止めてくれなんてそんな美味い話はありません。ふたつよいことさてないものよ、ですね。
で、小劇場運動。新しい演劇を広めたいという意気込みと表裏一体で、どうしても観客を啓蒙するという意識がついて回るのですね。大きなお世話です。観客のひとりひとりに生活があり、時間を割いて木戸銭を払って芝居を観に来る。そこにエンタメを求めて何が悪かろうというものです。これを両立させるために島村抱月は、少人数を相手のサロンでは芸術的な芝居を上演しつつ、大劇場では一般受けする興行で稼ぎ、それを芸術と興行の二元論と言っています。ひとつの方法です。感想に書いた場面では、島村抱月の活動を矛盾していると久保栄が批判していますが、半分あっていて半分間違っています。そもそも趣味に啓蒙すること自体が大きなお世話だからです。
政治と言わず演劇と言わず、あらゆる分野で新しいことを始めたいなら「俺の言うことは楽しい、君たちにはこんないいことがある、だから俺に任せろ」で誘うべきところです。それを、雑に左翼と書きますが、左翼思想が強ければ強いほど、「俺の言うことが正しい、お前らは無知で間違っているから俺を認めて従え、でも後のことは知らん」の3拍子になります。了見が間違っています。こういっちゃ何ですけど、この間違った3拍子の了見は今の左翼に全部残っていますね。
亀戸に引っ越した伊藤野枝の台詞に「下町に引っ越したらみなさん荒っぽいですけど気の置けない人たちですのよ」なんてのがありますけど、こんな人たちの唱える民衆とは何なのか。よく聴くと実に微妙な台詞がそこかしこに散りばめられています。散りばめられているというとちょっと違いますね。そのつもりで読んだら芝居の意味が反転するように、登場人物の典型的な主張を取上げて煮詰めた台詞で脚本を書いたというほうが正しい。演出次第でどちらにでも上演できる点で、おそろしく完成度の高い脚本です。
そんな中で一番直接的な表現が、ロマン・ローランの引用である「民衆が幸福なら、広場の中心に杭を立てて花を飾れば人が集まり祭りが始まる。このような幸福な民衆に芸術は不要である(大意)」です。感想に書いた久保栄が島村抱月の劇団活動を批判する時に出てきます。脚本では「だけどそのような幸福に民衆は永遠に到達できないので、芸術は常に必要である(大意)」とも続きます。私にはこの場面が「誰も民衆の幸福を実現できなかった」と聴こえました。
初演の1968年は第二次世界大戦後です。戦前の理想論も敗戦後には空論にみえたでしょう。だけど新劇の歴史は紡がれたし、敗戦してなお自分たちの生活もここにある。だからここに取上げたような活動が、そういう理想論を本気で信じて活動していた人達が美しく見える。なんならこのうちの何人かは処刑されたからこそ、より美しく見えた。初演の時点で美しく見える時代だった。それは関係者には語り継がれる伝説であり、内実は空論の伝説だった。「美しきものの伝説」はそういう両面を含めてつけられた題である。脚本家の意図は知りませんが、私はそのように受取りました。
ここまで感想の射程圏が広がったのは、一にも二にも芝居の出来がよかったからです。ものすごく考えさせられました。登場人物の当時の主張を批判することと、芝居の出来が良くて褒めることは両立します。美しく力強い仕上がりだったことは、あらためて記載しておきます。
<2022年6月27日(月)追記>
全面改訂。
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