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2022年8月20日 (土)

ラノベは現代の時代小説

このエントリーは全部思い込みで書いていますから、証拠をよこせと言われてもそんなものはありませんし、こんな反例があると言われたら知りませんでしたごめんなさい、と最初に言い訳をしておきます。

20年くらい前までは本屋にたくさん新刊の娯楽時代小説がありました。今にして思えばあれは昭和から書いて名を知られた作家の晩年の仕事でした。池波正太郎とか藤沢周平とか、井上ひさしも一部そういう小説を書いています。だいたい戦国時代から明治初期くらいを舞台にした小説です。

その人たちが亡くなって、今でも時代小説の新刊は細々と出版されていますが、明らかに種類が違います。たぶん資料収集の多寡によります。実際にあった町や家や藩を調べたうえで、それをディテールに生かした話をつくるのと、設定だけその当時にしているけど現代小説でも違和感のない話をつくるのとの差です。あとは作家本人が幼少のころに街並みや着物など江戸時代の延長の文化に接していたかにもよるでしょう。作家の祖父母世代なら江戸時代の人ですし。

ただ、どれだけディテールを書きこんでも、世話物だったり、職人や武士の修行だったり、捕物帖だったり、武家のお家騒動だったりで、話自体にそこまでパターンはありません。娯楽フィクションに徹しても忍者かチャンバラか魔物退治です。山田風太郎みたいな。社会の仕組みを問うような話よりは、パターンの中で登場人物の機微をいかに描くかが主流だった気がします。

これをひねくれた眼で見ると、娯楽小説が多かったとも言えます。趣味で読書したい人が大半ですし、それなら肩ひじ張った物語より娯楽を読みたい人のほうが多いでしょう。でも、一定数いたんですよね。娯楽小説として時代小説を読む人たちが。

その人たちは年を取って亡くなったのでしょうが、同じ国の人間の、全体的な性格が10年や20年で変わることはないです。娯楽小説を読む人たちは今も一定数いるはずで、その需要はどこで満たされているか。

新型コロナウィルスが流行って、固い物語以外にライトノベル略してラノベを紙の本でもWebでもある程度読んで、ようやく気がつきました。娯楽小説を読みたい人たちの需要のかなりの部分はラノベが満たしていました。ここに現代の作家が集まっている。集まった人数が一定の閾値を超えて、量が質を産んでいます。裾野が広いほど山は高いというやつですね。

ラノベは経済圏が出来ていて、Webで公開、人気が出たら小説出版、向いていたら漫画化またはアニメ化です。漫画やアニメは一発当たると大きいこと、脚本ひいては原作の需要が高いのと、またWebで実物が公開されて反応も読めれば人気も予測しやすいこととがあいまって、活況を呈しているのが勝手な推測です。Webで人気を博した人がプロになって最初から小説出版になることもあります。

小説が一番当たりにくいように見えますが、底堅い需要があります。そもそも新刊を出さないと出版社が困るのが一番の理由でしょうが、それでも本屋で「何万部突破」の帯を眺めた感触では、まともな質のラノベだと1巻5万冊くらい売れています。出版されるに当たってWebで公開していた小説を削除するケースもありますが、宣伝を兼ねているのかたいていはそのまま公開されています。それを見比べると、ほぼそのまま本になるケースと、本になる過程で編集して洗練されるケースと両方ありますが、Webで無料で読めるものが多いです。なのに本の小説に金を払う熱心な読者層が、全国に5万人います。

たぶんここが重要で、目利きの役割を果たすとともに、実際の金の動きを読む指標にもなっています。小説ならアマチュアからプロまで裾野の広い作家と、この5万人の熱心な読者層とがあいまって、ラノベ界が形成されています。漫画化アニメ化で原作に興味を持った層が流れ込むと、この5万が上振れします。

ついでに書くと漫画やアニメまで含めて、大げさに言うと今の娯楽フィクションの業界はルネッサンスと呼べるくらいの花盛りです。日本の人口と過去のコンテンツの集積に支えられた今がおそらくピークで、この後は人口減とともに勢いが落ちます。芝居と違って文字のコンテンツは後に残りますが、時代の雰囲気も含めて今のうちに親しんでおくのがよいです。

話はラノベに戻ります。ラノベもテンプレートと言われるような展開はいろいろありますが、舞台設定として時代小説の扱う時代は抜けています。あるのかもしれませんが、読み始めた程度では見つけられません。

「なーろっぱ」と呼ばれるドラクエ風西洋中世で剣と魔法の世界で活躍、または王族との恋愛もの。中華皇帝またはその後宮で人助けと謎解き、または皇族との恋愛もの。日本だと平安時代までさかのぼって(あやかしが出たり出なかったりして)人助けと謎解き、または有能な貴族との恋愛もの。近代日本なら大正、現代日本だと必ずあやかしが出て人助けと謎解きに加えて有能な手助けとの恋愛もの。だいたいこんな舞台設定です。日本の戦国時代から明治初期くらいまでがありません。

あれだけたくさん出ていた時代小説がなんでないのか。身近すぎて吹っ飛んだ展開が書きづらいのか、すでに散々書かれて今さら書くネタが見つからないのか、生活習慣が近代化しすぎてなーろっぱのほうがむしろ書きやすいのか。

いろいろ理由は考えられますが、おそらく一番の理由は、女性主人公またはそれに準ずる女性キャラクターを出しづらいからです。活躍させるにしても恋愛させるにしても、戦国時代や江戸時代では動かしづらい。武家だと守られる姫みたいになる。チャンバラだとくの一になる。池波正太郎の「剣客商売」には田沼意次の隠し子で剣の腕前が一流の三冬というキャラクターが出てきますが、作中(後半)では主人公の息子の嫁です。活躍する回ももちろんありますが、読者がスカッとするにはちょっと遠いポジションです。

昭和の時代小説の中にはサラリーマンの悲哀に見立てた主人公が云々、なんて書かれたものもありますが、それは昔の話。いろいろ苦労はするにしても、やっぱりラノベは主人公が活躍してナンボです。あと恋愛要素があったほうが収まりがいいし、読者もそれを期待している気配があります。だから日本が舞台の場合、平安貴族の次が大正まで飛ぶ。どれだけ荒唐無稽でも、貴族という設定で女性の活躍の舞台を担保する。現代日本であやかしが出てきたら、それはあやかしと付き合えたり退治できたりする能力で女性の活躍の舞台を担保する。その場合、資料を調べてディテールを知るよりは、フィクションを成立たせる舞台設定のほうが必要度が高いです。ディテールは質の底上げに必要不可欠ではありますが、面白さの上限を引上げるのは舞台設定やプロットやキャラクター造形など別の要素です。

脱線すると、昔の時代小説は主人公の立場に違いはあれど、主人公が自分の人生に責任を負う視点がほとんどでした。ラノベだとこれが、能力のある主人公を、別の能力と権力のある周囲が助けたりかばったりする視点になります。「同じ国の人間の、全体的な性格が10年や20年で変わることはない」と書きましたけど、性格でなく世相で言えば、ここは大幅に変わったところです。

ところで、何でも芝居に関連付けて考えるこのブログでは、ラノベが広がることで舞台の原作としての位置づけがどうなるかを考えました。

漫画アニメが原作の芝居はいろいろ上演されています。元祖はたぶん「ベルサイユのばら」ですが、最近では漫画だと「SPY×FAMILY」とかアニメで宮崎駿だと「千と千尋の神隠し」とか。ここまで大掛かりでなくとも、コアな人気の役者をキャスティングした2.5次元はいろいろ上演されています。

何本かラノベを読んで舞台化できないか考えた感想は、結構面倒です。面白いかどうか以前に、上演しやすいかどうかの壁があるからです。

・空を飛ぶ:魔法はおそらくスタッフワークでなんとかなります。空を飛ぶのも単発ならがんばれます。当たり前のように空を飛ばれると、おそらく観ていてつらい演出になります。
・食事が売り:動きが出せないし、そもそも他人の食事を眺めて面白いことはありません。「孤独のグルメ」が成功したのは無料で観られるテレビだからで、最初から映画や芝居で金を払うメディアだったらあんなに流行りませんでした。
・ものづくりがメイン:これも動きが出せません。
・人間以外の動物や魔物が出てくる:背景的な位置づけならいいですし、台詞なしで戦うなら何とかなりそうですが、大きさの違う生き物と交流があると難しいです。あと盲点なのが馬です。もとがフィクションで成立させようと頑張っている世界に、二人一組で人間が中に入った馬が出てくるとぶち壊しの恐れがあります。馬車なら馬を登場させないで済みますが、乗馬や騎馬が当たり前のように出てくると厳しいです。
・子供から大人に成長する:ずっと子供ならそういう設定だと舞台のお約束である「不振の一時的停止」で通せますが、成長して背丈が大幅に変わる場合は扱いに頭を悩ませることになります。異世界転生もので子供時代が長いとこの条件が悪いほうに効きます。
・東洋貴族設定:これは衣装や美術に金がかかるのが難点です。西洋ドレスと館のほうがまだ手慣れてやりやすいでしょう。

ほしいのは「リアリティーより説得力」なので、なーろっぱでも何でも、原作で舞台設定詰め切れていないのは構いません。が、それを芝居にしたときに最低限のリアリティーを担保するための準備は必要です。上演しやすそうなラノベもたまにありますけど、少数派です。

だから本当は最初から脚本家としても活躍する人が出てくれるのが望ましいです。池波正太郎は芝居脚本が先で小説が後、井上ひさしもストリップ劇場のコントから始まって放送作家になってから芝居脚本を書いて小説が最後です。最近だとイキウメの前川友大が漫画原作をやっていました。三谷幸喜や宮藤官九郎も芝居をやりながら放送作家を経て映像脚本家です。芝居から始めて他に広がる人はいても、他から芝居へは流入が少ないのですよね。ぱっと思いつくのはCM業界から芝居にも手を広げた山内ケンジくらいです。

パソコンとインターネット環境があれば世界のどこでも書いて発表できる小説と、人が集まって上演しないと完結しない芝居との差はあります。でも原作上演ではなくオリジナルを依頼する団体が出てきてもよいはずです。やっぱり脚本形式で上演可能であることを意識しながら2時間なり3時間なりに収めるところにハードルがあるのでしょうか。

あと、時代小説が減ったと書いてきましたが、テレビで時代劇が減ったのは何年も前から言われてきたことです。いま新作で作られている時代劇はスタッフの技を維持する目的も大きいとどこかで読みました。だから歌舞伎と大河ドラマくらいしか時代劇が作れなくなる云々。

これはまったく根拠のない推測ですが、どこかで反動が来ると予想します。あと10年か20年くらいしたら、時代小説の名手と呼ばれる書き手が彗星のように突然現れて、そこから時代劇が作られて、息を吹き返すのではないかと期待しています。本当にただの勘ですが、そんな勘を言葉にするなら、やっぱり日本人の血が根強く時代劇を求める予感があるからです。それをもっと詳しい言葉にするなら、外国でも見かけるような多様化が進むほどに反動としてルーツを求める揺り戻しであったり、科学技術が発展しすぎて理解困難なことから人力と人間関係で理解できる世界が求められたり、です。

時代小説と入替りにラノベ経済圏が花盛りですが、これが芝居にどのくらい影響を与えるのかに注目です。

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