人格より前に能力と魅力が求められる業界の話
宮沢章夫が亡くなりました。ステージナタリーより。
宮沢章夫が、うっ血性心不全のため9月12日に東京都内の病院で死去した。65歳だった。
(中略)
宮沢は1956年生まれの劇作家・演出家・小説家。1980年代半ばに竹中直人、いとうせいこうらと共にラジカル・ガジベリビンバ・システムを立ち上げた。また、シティボーイズの作品を手がけたことでも知られている。1990年に遊園地再生事業団の活動をスタートさせ、1993年に「ヒネミ」で第37回岸田國士戯曲賞を受賞。主な著作に「東京大学『80年代地下文化論』講義 決定版」「時間のかかる読書」「ボブ・ディラン・グレーテスト・ヒット 第3集」「長くなるのでまたにする。」「NHK ニッポン戦後サブカルチャー史 深掘り進化論」などがある。
私が芝居を観始めた時期がその劇場活躍時期より遅かったので、脚本演出両方手がけたもので観たのは2018年の「14歳の国」1本だけです。遊園地再生事業団名義でおそらく最後の公演です。あとは覚えている範囲で「ひょっこりひょうたん島」が共同脚本でした。なのでほとんど接点はありません。
2018年はすでに早稲田大学の教授で、公演のあった早稲田どらま館の芸術監督の肩書もありましたが、翌年に稽古場で役者を殴って事実上のクビになりました。そのころのTwitterのいろいろはこちらでまとまっています。昔から暴れがちな人だったようです。岸田國士戯曲賞の選考委員も辞退して、あとはあまり表だった仕事はしていなかったはずです。
前提として、私は暴力沙汰は苦手です。仕事で殴られたら何はさておき辞めて逃げます。そのうえで。
「14歳の国」はよくできた芝居でした。1998年の初演から20年経っても成立する脚本だったし、あの公演自体もよくできたものでした。前述の引用に載っている通り、脚本に限らず本の執筆もたくさん手がけています。過去の演出でどの程度暴力沙汰を起こしていたのかはわかりませんが、芸能界や出版界で活躍できるだけの能力を持っていたといえるでしょう。
世の中にはいろいろな仕事がありまた業界がありますが、雑に分類すると「赤点を超えれば問題ない仕事や業界」と「満点を超えない成果には意味がない仕事や業界」の2種類に分かれます。芸能界全体でとらえれば後者です。格好いい演技でも上手い歌手でも面白いトークでも、なんなら有名という知名度でも、琴線に触れるだけのピークを出せているから客は金を払います。赤点をはるかに超えていたとしても満点に届かないものに客は金は払いません。少なくともそれが単体で成立するだけの金を引張れません。
また別の雑な分類では「継続的な安定供給が求められる仕事や業界」と「成果が繰返し提供できるので1回の大成功が求められる仕事や業界」があります。芸能界の中には両方あると思いますが、映像や本などコンテンツと呼ばれるようなもの、客が金を払うものはたいてい後者に当たります。客は面白そうと思えばこそ金を払います。
芸能ごと全般が、そういうものです。そして困ったことに、能力だけでは足りません。そこに一定以上の魅力がないと一銭にもなりません。魅力とは琴線に触れるだけのピークを出せる人や持っている人で、いわゆる「客が呼べる」というものです。そして客を呼べる人はつねに不足しています。
そういう業界だからこそ、客が呼べる立場の人が威張る余地があります。威張りすぎて嫌われて干す人もいれば、それが金になるならかばって働かせる人もいます。客を呼べるだけの魅力があればある程度のアウトローには目をつぶってもらえるという点で、そういう人達がより多く流れ込むサイクルになっているとも言えます。
昨今はインターネットが発達したことと世間全般にハラスメントという概念が膾炙したことで、不行跡が伝えられると魅力にダメージが入って謹慎に追込まれるようになりました。が、能力はまた別の話です。場合によっては歪んだ人格が能力や魅力を生みだす面もあります。が、経緯はどうあれ獲得された能力というものはあります。
俗に「作者と作品は別人格」といいますが、これは作品は独立して評価されるべきという話だけではありません。客を呼べるだけの成果を出せる人の人格がまともなわけがないだろうという話も含んでいます。周りにかける迷惑の度合いに濃淡があるだけです。
繰返しますが私は暴力反対です。だからと言ってつまらないものに金を出すつもりもありません。私に限らずたいていの人が同じでしょう。だから昔から世間では、芸能界や出版界は堅気じゃない、まともな人間のつく職業ではないと区別していました。今でもそう考える人は多いでしょう。それは差別と呼ばれるレベルの区別ですが、人格よりも能力や魅力が必要な業界ではそうならざるを得ないからです。
それが最近、堅気と業界との境が曖昧になってきました。またハラスメントのない創作および創作環境の追求を試みる活動も出てきました。宮沢章夫の暴力沙汰からの隠遁は、その過渡期の出来事と言えます。
その活動がどこに落ちつくのか、金を払いたくなるコンテンツが引続き提供されるのかは、芝居なり本なりに金を払ってきた客の一人として興味を持っています。