新国立劇場主催「デカローグ5・6」新国立劇場小劇場(ネタバレあり)
<2024年5月25日(土)昼>
タクシーの運転手を殺して金を奪った青年。弁護人は研修の間に死刑の廃止を願うようになってから雇われた新人弁護士だった「デカローグ5」。友人の母の家に寄宿して郵便局で働く青年は、毎晩向かいの部屋に暮らす女性を覗くのが趣味だったが、それが高じてやりすぎてしまい「デカローグ6」。
デカローグ5は投げっぱなしの印象。一応、初めと終わりを妄想も駆使してつなげることで、青年がどうしてタクシー運転手を殺そうと思うようになったのかは想像が付きますけれど、だからといって青年に同情が湧きません。
これはタクシー運転手を演じた寺十吾が非常に上手に演じたのに理由のひとつがあります。これ、ネット情報だと違いますが、チラシだと「傲慢で好色な中年の運転手」と書かれています。ただ、客を選ぶのはその通りですが、客の方もせかすというか行儀が悪いというか、乗車拒否したくなる理由があって、そこに殺されてもしょうがないなという理由は見えませんでした。むしろよくいるおっさんです。
それに対して、青年役の福崎那由他がただの挙動不審以上の演技が出せなかった。終盤の面会で客を掴んで一理あると思わせないといけないのに成功していません。
それと新米弁護士の渋谷謙人も、死刑廃止を願う台詞がいかにも弱い。ここは面接官の斉藤直樹や裁判長の名越志保も相手役として助けていたのですが、乗りきれなかった。最後の死刑の瞬間に皆が顔をそむける演出があったから、別に死刑廃止を願う意見に距離を置いた演出を目指したとも思えないのですが。
結局、タクシー運転手が一番まともそうな客を選んだら一番まともじゃない客に当たって殺されてしまう不運に当たった、犯人を捕まえてみたらこれまでの人生に不運はあったにしてもいきずりのタクシー運転手を殺してもしょうがないとはとても言えない動機だった、それを弁護した弁護士は若いなりの理想は持っていたかもしれないけれどいきずりの強盗殺人を弁護できるだけの理屈は持合わせていなかった、という仕上がりです。十戒の「殺してはならない」を犯した人間を死刑で殺すのは是か非か、みたいなところを狙いたかったのかもしれませんが、あるいは人が人を殺すようになるまでには1つの失敗からどんどん取返しのつかないところに転がっていってしまうのだと示したかったのかもしれませんが、役者が追いついておらず投げっぱなしで終わってしまいました。
デカローグ6は団地の向こうの部屋を覗くという、ようやく団地らしい美術の必然が出てきた1本。そこから転がって転がって転がる展開は芝居らしい進みです。
ただ、設定にいかにも古さを感じてしまったのがつらい。現代日本はストーカーに刺すか刺されるかの時代なので、覗いた相手に覗かれた側が興味を持つという展開にはできません。そのあたりが、もちろん芝居だから作り話なのですが、ファンタジーに思えてしまったのがつらいです。そのファンタジー感を、天使役の亀田佳明が真っ白い服装でさらに進めることになっていました(あとでひっくり返りますけど)。
それでも、大勢を相手にすることに疲れて変わった青年に興味を持つ女性に、自分の子供が家に寄りつかなくてその友人が暮らすことで安堵を覚える婦人が、独り暮らしはつらいと話すあたりは今様というか、普遍的です。だからやりようによってはもっと上手くできた。
それがいまいちになったのは、一に脚本。もう少し登場人物の情報整理をすっきりさせてほしかった。覗かれる女性が画家であるとは代理人が出てきて早めにわかるけれど、絵を描く、つまり働いている感じは皆無。青年の仕事ぶりと比べて情報量が落ちすぎです。青年も、友人の母の家に寄宿する青年という関係がわかるのは少し後になってからだし、外国語の勉強に熱心な青年という情報もかなり後に唐突に出てくる。
その不十分な脚本を元に役作りするのが、青年役の田中亨も、覗かれる画家役の仙名彩世も追いついていなかった。不十分なりに何とか持ってきてくれとも思いますが、あの脚本でさてどうするかと聞かれると迷うところです。小劇場出身役者ならもっと何とかしたかもしれませんが、他の4人がチョイ役含めていい出来だったのがまた、もったいないというかなんというか。
この5と6は、脚本の不親切さを演出と役者でどうにもしきれなかった、という感想です。映像だともう少し情報が多かったのかもしれませんが、舞台にするならもう少し工夫してほしいです。
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