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2024年11月24日 (日)

新国立劇場演劇研修所の21期生募集とコクーンアクターズスタジオの2期生募集

新国立劇場の演劇研修所もそんなに長く続いているのかと驚きました。3年間の本格的な研修所で、入所費用は33000円、年額授業料は242000円と決して安くありませんが、奨学金が2年目から出ますからこの手の研修所では負担は少ない方です。応募締切は年内ですが、その前に「ロミオとジュリエット」の試演会がありますから、応募したい人は雰囲気を確かめてから応募できます。

そしてコクーンアクターズスタジオは1年だけの活動だと考えていましたが、2期生募集の案内を見かけました。1年間の研修で入学金160000円と授業料260000円です。1期生の公演が3月に行なわれますが、応募締切が年内なので、こちらは雰囲気を確かめることができません。が、講師陣の顔ぶれとコメントを読めば何となく伝わります。

研修所としては真逆にあるだろう2つで、3年かけて役者の地力を鍛えようとする新国立劇場は台詞に重きを置いています。コクーンアクターズスタジオは笑いを外せない要素の1つに据えています。新劇出身の芸術監督が多く、そこから所長にスライドする新国立劇場と、松尾スズキが芸術監督と主任を務めるコクーンとでは、それは性格も違うだろうというものです。

ただまあ、どちらの研修所がいいとか悪いとかではなく、1人の人間として物事の捉え方というものがありますよね。結局そこがしっかりしているかどうかが続く役者になれるかどうかの分かれ道ではないかと近頃は考えるようになりました。別の言い方をすると、演出家が務まるような能力も役者には必要ではないかということです。これには脚本の世界をどう捉えてどう立上げるかを考えられる能力という意味と、役者から制作まで集団を考えながら芝居に足並みを揃えられるかどうかという意味とがあります。ちなみに売れるかどうかは実力+色気+運です。

大変な時代ですが、その道を選んで入った人たちにはぜひとも活躍してほしいと願っております。

世田谷パブリックシアター企画制作「ロボット」シアタートラム

<2024年11月23日(土)夜>

生物を作り出すことを発明した博士とその甥から幾年、とある島では生物的には人間と同じ器官を持ち、ただし感情や痛覚を持たない生き物を作って売っている工場があった。この生物はロボットと呼ばれ、世界中で引っ張りだこであった。この会社の社長令嬢がロボットの人権向上を目指して島に見学に訪れるが、島で働く数少ない人間である工場長に求婚されて島に残る。それから10年、社長令嬢の誕生日、1週間前から島に船がやって来ていなかった。

古典小説らしいですが、役者を信用して脚本演出したなという印象。出だしはさておき、それから10年で話を飛ばすところは字幕か何かを出しそうなものですが、舞台替えだけでそのまま押しました。向こうに大勢のロボットがいる場面で役者の演技が実に揃っていて、腕のある役者が集まっていました。何でもない場面を面白くやって盛上げる渡辺いっけいはさすがで、対照的に突然ネタを挟んでうけを狙ってくる菅原永二は、うん、この日は滑っていました。小劇場的演出の生理としてここでひと笑いほしいというのはわかるのですが、そこはもう少し別のところでやるように演出で整理してほしい。ただし役者全員、テンションを維持していたのはさすがです。話に出ていたレンガを模したであろう板で舞台美術を変えていくところは面白い。

物語はやっぱり古典らしいというか、三幕目に相当するところが蛇足といえば蛇足だし、今となっては終わり方も楽観的すぎる。けど、それも含めて古典じゃないですかね、という感想。「来てけつかるべき新世界」とこの「ロボット」との間を埋めるような芝居が望まれます。それが何というか、人類の未来への希望になるのではないかと。

新国立劇場主催「テーバイ」新国立劇場小劇場(ネタバレあり)

<2024年11月23日(土)昼>

古代ギリシャ、疫病の蔓延するテーバイの国を救うために悩んでいるオイディプス王は、先王を殺した犯人を追放するようにとの神託を得る。だがそれを調べるうちに他ならぬ自分がその犯人だと知ることになったオイディプスは、己の目を潰し、子供たちを妻の弟であるクレオンに託して自らに追放の命令を下す(「オイディプス王」)。その命令は叶えられずに幽閉されていたが、あるとき市民による追放の決定を受けて追放されることになる。従ったのは長女のアンティゴネただ一人。長年の放浪の末にやがてたどり着いたのはアテナイにある復讐の女神に呪われた森。若い日に受けた神託の場所だとオイディプスは死に場所をそこに定め、アテナイを収めるテセウスに後始末を頼む。そのころテーバイではクレオンから1年交代で王を務めるように託されていたオイディプスの息子のポリュネイケスとエテオクレスが王権を争っていた。オイディプスの身柄を得たものが勝つとの神託が出て、クレオンと長男ポリュネイケスと次女イスメネがオイディプスの元にやってくるが、オイディプスは全員を拒否する(「コロノスのオイディプス」)。やがてテーバイの戦は終わったが、ポリュネイケスとエテオクレスはともに亡くなる。自らも長男メノイケウスを亡くしたクレオンは再び王座に就き、テーバイの国をまとめるために他国の軍勢を率いてテーバイを攻めたポリュネイケスの埋葬を禁ずる。だがポリュネイケスと仲のよかったアンティゴネは放置された亡骸に砂と花を撒いて捕まる。クレオンたちの前に連れてこられたアンティゴネは亡くなった兄弟を悼むことの何がいけないのだと謝らない。国を治めるために一度はアンティゴネの幽閉を決めたクレオンだが、信頼する預言者テイレシアスに諭されて撤回するが、時すでに遅かった(「アンティゴネ」)。

テーバイを巡る3本のギリシャ悲劇をつなげて1つの物語にすることで、オイディプス王の悲劇と、クレオンとアンティゴネの悲劇が一層深まる脚本は見事で、それでいて一連の出来事の関連がよくわかるように整理されている。その点は、長年を掛けて戯曲に取組む新国立劇場のこつこつプロジェクトとしてはまず成功の部類と言ってもいいのでは。

ただし演出では好き嫌いが分かれるところ。服装や小道具の一部を現代風にしたところは今更気にならない。ただ、本筋としてクレオンに焦点を当てたのはいいけど、それがよく言えば現代の身近な造形、悪く言えば小さく描きすぎたうらみがある。やはりギリシャ悲劇の登場人物、それも国の運営に携わった人間として、神々の神託という形で示される運命に振回されるためには、もっと大きく構えたほうが個人的には好みだった。

クレオンを小さく描くなら、対にするべきは久保酎吉演ずるテセウスだったはずで、こちらは埋葬の問題にかこつけてテーバイを攻めるぞと後半パートで使者を出すやり手です。市民代表とかどうとかはおまけで、そこはクレオンの「市民が代表を選ぶ制度がいいのではなく、そこにテセウスがいたのだろう」という台詞が掘り甲斐のあるところだったはずですが、「コロノスのオイディプス」に出てきたテセウスは無茶苦茶話の分かるおじさんでした。そこはもう少し、強かな面を混ぜてほしかった。そうすると話が混乱するかもしれませんが、そこに解決の糸口を見つけるようなこともできるのがこつこつプロジェクトのはずであって。

全体に、初めて観た「コロノスのオイディプス」のパートが、役者の自由度が高いというか、熱量が一番込められているように見えたのが、いいのか悪いのかわからない。あのパートでクレオンがアンティゴネに詰られて「あのときはああするしかなかった!」と声を張る魂の叫び、オイディプスが息子のポリュネイケスに双方が殺しあって亡くなると呪いをかける声、あれはよかった。

なので主要3人の寸評ですが、散々書いたクレオンの植本純米は、実力はわかっていても演出と折合いを付けすぎでした。オイディプスの今井朋彦も実力派で好きな役者の一人ですが、一番初めのオイディプス王はさらに大きく演じてほしかった。アンティゴネの加藤理恵は脚本の被害者というか、「コロノスのオイディプス」でオイディプスに付添った苦労や舐めた辛酸の数々があってなお兄弟の埋葬に拘るアンティゴネを演じるためにはネックレス以上の大きさがほしかった。全体にほしかったのは大きさです。前に観て比べているのが蜷川幸雄演出野村萬斎主演の「オイディプス王」と栗山民也演出生瀬勝久蒼井優の「アンチゴーヌ」なので比べるなという話なんですが。

ただ、発声がいい感じで、あれは1音1音ごとにはっきり話すような台詞術を意識していたのでしょうか。非常に合っていました。古典芝居にはこの方が似合いますね。それに気が付いたのは高川裕也演ずるテイレシアスの台詞に妙な説得力を感じたからです。いい感じと思って調べたら無名塾出身で、納得でした。

あとは簡素な舞台美術や範囲を絞った照明、あまり明るくない音響にすっきりさせた衣装、すべて芝居の雰囲気に合っていて、スタッフワークは安心と信頼の新国立劇場芝居。ただ、近頃は音響で芝居を盛上げる演出が減っていて、なくて成立つものならない方がいいと考えるのはわからないでもないけど、音響含めてもう少し盛上げてもよかった。これは別の座組みと別の演出家でも観てみたい。

2024年11月17日 (日)

新国立劇場主催「眠れる森の美女」新国立劇場オペラパレス

<2024年11月3日(日)夜>

幼い姫の洗礼式に王と王妃は森の精たちも呼ぶが、式典長の手違いで呼ばれなかった精霊カラボスが洗礼式に乗りこんできて、姫が針を指に刺して亡くなるだろうと予言する。やがて育った姫は、カラボスの持ちこんだ針を指に刺してしまい亡くなりそうになるところ、森の精が城中の人間を眠らせて城を茨で覆う。100年後に狩りで現地を通りかかった王子は森の精にいざなわれてカラボスを倒し、城の人間は目を覚まして姫と王子は結ばれる。

そういえば一度くらい観ておきたいと思い立ってバレエ観劇。ああこんな話だったんだとあらためて感心。冗談抜きの天井桟敷席で観たけれど、少なくとも正面寄りであれば音楽は遜色なしに聴けるし、上から見下ろすのでダンスのフォーメーションがわかるから、バレエならこれはありだなという発見だった。そのくらいの遠目で観てもおっ上手と思わされたのは姫の池田理沙子で、やっぱりタイトルロールはそれなりの人が張っていました。

こまつ座「太鼓たたいて笛ふいて」紀伊國屋サザンシアター

<2024年11月3日(日)昼>

「放浪記」で売れた林芙美子。二人暮らしで元行商人の母は小説なんていつ書けなくなるかわからないと必死に切詰めた暮らしを送る。やがて出版した本が発禁処分になってしまうが、ここで腐れ縁の音楽業界の男から従軍記者の仕事をもらう。初めは調子よく書いていたのだが・・・。

初演を観ていたけど中身はすっかり忘れてこの再演。今観たらあれで反省した気分にならないでくれという後半だけど、それはそれとしてよく出来ているのはさすが。序盤の台詞にあった、昔の貧乏暮らしの種を全部売ったらもう書くことがなくなるかもしれない(大意)という台詞は当時の井上ひさしの気分もあったかなかったか。

ただし、役者としてメインを張る大竹しのぶが、強かな面は出せているにしても「あれっ」というくらいのパワー不足。この劇場でその程度の声では本当かよと疑ってしまった。それに合せたか、周りの役者も小さく始まったけど、そちらはそのうち解消。母親役があまりに上手で、誰だこれと休憩時間に確かめたら高田聖子でびっくり。新感線からこんな役までなんと幅の広いことよと感心しきり。あとは音楽業界から渡り歩いていく胡散臭いプロデューサーの福井晶一はここぞというところで声を張って盛上げてくれる。だけど主人公の大竹しのぶがあのパワー不足ではちと厳しい。この日限りの出来か今の実力かは不明だけど、まあまあいい歳になっているからマイクなしの芝居は厳しいか。

松竹製作「明治座 十一月花形歌舞伎 夜の部」明治座

<2024年11月2日(土)夜>

敵味方に分かれた夫婦、戦の最中に病床の母を見舞いに訪れたものの母は面会を拒む、そして追手がやって来るが「鎌倉三代記」。刀を紛失してお家取潰しになった息子、その刀を手に入れて折紙を盗み取った番頭、あとあれこれ「お染の七役」。

「鎌倉三代記」は義太夫狂言で苦手なのですが、観たことがあって筋は知っていたので何とか。役者が全員凛々しいのだから義太夫でなしに観たいところ。勘九郎がどんと化ける高綱が見どころの一つ。「お染の七役」は七之助が七役を演じるのがもちろん見どころで、素早く化けてきっちり役も使い分けるのが見事。他の役者も合せてこれがこの日一番の出し物。何となく刀を盗んだ盗まれてお家が取潰しだというのは昔の定番の筋なんでしょうか。

この日1日観た感想では、役者が化けるところを見せる演目を揃えてみたのかなという感じ。勘九郎七之助の腕前を見せつけられました。

松竹製作「明治座 十一月花形歌舞伎 昼の部」明治座

<2024年11月2日(土)昼>

菅丞相を陥れた藤原時平、菅丞相に使える梅王丸と桜丸、時平に使える松王丸、分かれた兄弟がぶつかり合う「車引」。力士を目指したが見所なしと故郷に返されるものの腹が減って取手の宿でふらつく駒形茂兵衛、ごろつきを追払ったところを酌婦のお蔦に銭と簪を恵んでもらってもう一度力士になろうと江戸に戻って十年後、渡世人となって取手の宿にやってきた茂兵衛が出会ったのは「一本刀土俵入」。藤の精が満開の藤の下で踊る「藤娘」。

初日。なのにまさかの大遅刻をやらかして「車引」を丸ごと見逃す大失態。なのでそちらはコメントなし。「一本刀土俵入」はひもじい力士から礼儀正しいと思わせつつ凄みの出せる渡世人を魅せる勘九郎の変わり身。船大工の場面ことによし。ただまあ、今となっては時代にそぐわない1本で、今後これがまた見直される時代までは細々と演じられるくらいでいいのでは。「藤娘」はきれいな舞台できれいな衣装を次々と着替えて踊る中村米吉を眺めて安心

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