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2025年3月 1日 (土)

主宰に愛想を尽かして演出家が逃げて公演が中止になるという珍しいケース

2024年の公演中止のいろいろ」などというエントリーを書いた者ですが、また新しい公演中止のケースが1つ増えました。演劇集団アトリエッジという団体の公演中止です。いしだ壱成が出演予定だったということもあったか、記事になっていました。

公式サイトには以下の通りの文章が掲載されています。

【お詫びとお知らせ】
三月に公演を予定しておりました
「PEACE in the Bottle」ですが、
この度、劇団代表である私の劇団員への不適切な指導により、演出の古新舜様が降板されると言う結論を招いてしまい、
関係者の皆様には多大なご迷惑をおかけしてしまいました。
劇団側で協議を重ねた結果、責任をとって、今作品の公演中止を決定いたしました。
諸々の事務処理は弁護士と相談の上、真摯に対応させて頂きます。
尚、既にチケット等、代金を入金されているお客様への返金は速やかに対応させていただきます。
大変申し訳ありませんでした。

演劇集団アトリエッジ主宰・奈美木映里
制作一同

劇団代表が自分が原因だと明言するのは何かかばうようなことがあったのか、それとも認めざるを得ないくらい明らかに原因だったのか、どちらかと考えていたら、当の演出家本人がXで長文説明していました。申し訳ありませんが全文引用します。

【ご報告:古新舜の舞台『PEACE in the Bottle』演出・監督降板と舞台中止のお知らせ】
こんにちは。古新です。
日頃より温かい応援を賜り、心より感謝いたします。
この度、私、古新舜は舞台『PEACE in the Bottle』の演出・監督を降板することを決断いたしました。
この舞台を愉しみにしてくださっていた皆様には、
このような形でのご報告となることを、心よりお詫び申し上げます。
公演に向けて連日、準備を進めてまいりましたが、
関係者のケアや事実確認、弁護士との協議を重ねた結果、
演出家としての責任を果たすことが難しいと判断しました。
その理由について、簡潔にお伝えいたします。
1. 劇団代表が、劇団員に手を上げる行為を容認できないため:
稽古の一環として、劇団代表が遅刻して来た劇団員に対しての指導行為として、
他の演者の前で手を上げる行為がありました。
たとえ厳しさの一環であったとしても、演劇において暴力が許容されるべきではないと私は考えています。
演劇とは「人と人とが表現を通じて心を伝え合うもの」であり、
その手段として身体的な力が用いられることに強い違和感を覚えました。
私は、すべての出演者が安心して創作に打ち込める環境でなければ、良い作品は生まれないと信じています。
そのため、この環境で演出を続けることはできないと判断しました。
2. 運営体制に問題を感じたため:
商業公演として皆様に作品をお届けする以上、運営の在り方には慎重であるべきと考えています。
しかし、準備や進行の面で改善の必要性を強く感じる点があり、演出に専念できる状況ではありませんでした。
公演を愉しみにしてくださっているお客様に誠実な作品を提供するためには、より良い体制が必要であると判断しました。
3. 主宰者の創作への接し方で疑問を感じたため:
作品を創り上げていく中で、舞台の主宰者との価値観の違いを感じる場面がありました。
舞台は多くの人が関わる共同作業です。信頼関係を築き、互いに尊重し合うことが作品の完成度を高めると考えています。
しかしながら、今回の制作過程において、そのような環境を作ることが難しいと感じました。
演出家として、共に作品を創る方々と良好な関係を築くことができなければ、作品をより良いものにすることはできません。
そのため、この舞台を離れることを決断しました。
このような結果となり、作品を愉しみにしてくださっていた出演者皆様には、
大変申し訳なく思っております。
私自身も、この公演に向けてこの数ヶ月、全身全霊で取り組んできただけに、残念な思いでいっぱいです。
この決断に至るまでのこの三日間、古新は大変苦しみました。
作家として、人間として、さまざまな想いが交錯しました。
ですが、私の次回作が困窮家庭の子どもたちを題材としている上で、
現状、このような状況下で、この舞台を手がけることはけっしてできないという判断に至りました。
最後に、日頃より温かい応援を寄せていただいている全国の皆様に、心より感謝申し上げます。
そして、この舞台にご尽力くださいました出演者、スタッフ、応援者皆様に厚く御礼申し上げます。
このようなことがありましたが、今回の経験を十全に活かして、
来月の「夢AWARD15」のファイナリスト登壇、そして
次回作「ギブ・ミー・マイライフ!」に
全身全霊で臨んでいきたいと考えております。
引き続き、研鑽を重ねてまいりますので、
これからも温かい応援のほど、よろしくお願い申し上げます。
古新 舜拝

午後8:09 ・ 2025年2月28日

公式サイトに載っていた「劇団員への不適切な指導」として、少なくとも「稽古の一環として、劇団代表が遅刻して来た劇団員に対しての指導行為として、他の演者の前で手を上げる行為」があったと断定しています。弁護士とも協議したと書いているくらいですし、演出家から辞退するからには相応の理由がないと演出家自身の将来の仕事に差障ります。だから事実でしょうし、劇団公式サイトも載せざるを得なかったのでしょう。

このツイートの前にもいくつかツイートがあります。「この決断に至るまでのこの三日間」のツイートです。

外の世界を知らないと、自分たちの慣習だけで事業を成り立たせている組織が多々あるが、風の時代は、組織の隠蔽や支配の構図は露呈されていると感じる。起業の前に、経営者免許のようなモラルや理念経営を学ぶことが必須ではないか。ホットハートだけではなくクールマインドが経営者には必要だ。 #コニーのまなざし
午前6:54 ・ 2025年2月26日

 

家庭でも芸能界でも、躾や愛情と称して子どもや俳優に手を出す親や経営者が多々いるが、看過できない。歪んだ支配は、風の時代にはそぐわない。古新も姫も、暴力なしで相手を成長させられると強く説いている。教育とは支配ではない。安心と信頼によって、人格を尊重する環境をしっかり広げたい。 #コニーのまなざし
午前6:38 ・ 2025年2月27日

 

半年間全身全霊をかけて向き合ってきたことが、とある一人の身勝手な営為で全てがパーになった。古新にとって不可抗力ではあるが、関係者が泣いていて心が痛い。日中報告します。物作りは得てして想いばかりが先行するが、運営体制、人間性、倫理観、社会性それらを学ばずして事業は行えない。 #コニーのまなざし
午前6:40 ・ 2025年2月28日

泣いている関係者が誰なのかはわかりませんが、「とある一人の身勝手な営為」と書いてあるので、他にもいろいろあったのを主宰が引っ被ったわけではなく、本当に主宰がひどかったのだと思われます。

となると、手を上げた話が一番目立つ話ですが、それだけにわからない。

まず、演出家が役者を殴るならたまに聞く事件なのですが、今回は演出をしない主宰が手を上げたというのが珍しいところです。

遅刻してきた劇団員を叱るだけでなく殴ったというなら、まだわかります。「時間厳守」「挨拶」「年齢よりも芸歴優先で相手を立てる」のが芸能界の掟で、何しろ色々な人がいる業界ですから、そんな中でも仕事を回していくために最低限かつ必ず守るべきとされたのがその3つの掟だと素人のこちらは理解しています。そこから先は売れている者が正義。

なのですが、稽古の一環として手を上げるというのがさっぱりわからない。殴るのが稽古になるわけがない。それなら虫の居所が悪かったから八つ当たりで殴ったというほうがまだ納得がいきます。検索して見つけましたが、今回の主宰は1957年生まれだそうなので、遅刻したら手を上げられても文句を言えない古き芸能界を生き延びてきた人なのでしょう。去年観た別の芝居のアフタートークで「非常に雰囲気のいい現場」という話が強調されていたので、その裏返しの極端な例が今回なのかなと考えます。

ちなみに有名な話では、芝居の本番に遅刻した阿部サダヲを松尾スズキが殴った話があります。だから稽古でよほど何度も遅刻している前科があるなら主宰に多少同情の余地があるかもしれませんが、それなら降板するのは演出家ではなく役者でしょうから、そういうわけでもないと考えられます。

他の2つの理由も併せて考えると、演出家が仕事を引受けてはみたものの、3番目の「主宰者の創作への接し方で疑問を感じ」ることが何度かあり、それもある程度は致し方なしと進めていた。その過程で演出以外にも公演を手伝わされるような状況になって2番目の「運営体制に問題」を感じることが多々あった。とは言え、逃げるに逃げられないところ、1番目の問題があって、さすがにこれはあかんとケツをまくった、といった経緯ではないかと推測します。

仮に、本当に仮にですが、病気でもないのに手を上げないとわからないような劇団員なら、昔はいざ知らず今なら手を上げるよりクビにするほうが当世流です。暴力は、暴力を受けた本人だけでなく、周りも嫌な雰囲気になって、全体のパフォーマンスが落ちると言われています。

それは反対に言えば、理不尽に一発二発殴る殴られるくらいは当たり前、それよりは一芸で何とか身を立てることを優先したいような人はお呼びではないということです。宮沢章夫が亡くなった2022年に私はこんなエントリーを書きました。

昨今はインターネットが発達したことと世間全般にハラスメントという概念が膾炙したことで、不行跡が伝えられると魅力にダメージが入って謹慎に追込まれるようになりました。が、能力はまた別の話です。場合によっては歪んだ人格が能力や魅力を生みだす面もあります。が、経緯はどうあれ獲得された能力というものはあります。

俗に「作者と作品は別人格」といいますが、これは作品は独立して評価されるべきという話だけではありません。客を呼べるだけの成果を出せる人の人格がまともなわけがないだろうという話も含んでいます。周りにかける迷惑の度合いに濃淡があるだけです。

繰返しますが私は暴力反対です。だからと言ってつまらないものに金を出すつもりもありません。私に限らずたいていの人が同じでしょう。だから昔から世間では、芸能界や出版界は堅気じゃない、まともな人間のつく職業ではないと区別していました。今でもそう考える人は多いでしょう。それは差別と呼ばれるレベルの区別ですが、人格よりも能力や魅力が必要な業界ではそうならざるを得ないからです。

それが最近、堅気と業界との境が曖昧になってきました。またハラスメントのない創作および創作環境の追求を試みる活動も出てきました。宮沢章夫の暴力沙汰からの隠遁は、その過渡期の出来事と言えます。

その活動がどこに落ちつくのか、金を払いたくなるコンテンツが引続き提供されるのかは、芝居なり本なりに金を払ってきた客の一人として興味を持っています。

世間の潮流は、芸能界の行き過ぎた面を正す方向に向かっています。それはそれで一理あって、うっすらと考えていることもあるのですが、本件とは話がずれますのでまずはここまで。

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